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世界にたいして意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思とをそなえた文化人

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……「文化」とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である。人間が、ある具体的な文化を仇敵と見て対峙し、「自然への回帰」を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化であることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に達するのも、もっぱら当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、「軽佻浮薄にすぎる」と判断するからである。ここで、すべての歴史的個体が論理必然的に「価値理念」に根ざしている、というばあい、こうした純理論的-形式的事態が考えられているのである。いかなる文化科学の先験的前提も、われわれが特定の、あるいは、およそなんらかの「文化」を価値があると見ることにではなく、われわれが、世界にたいして意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思とをそなえた文化人である、ということにある。この意味がいかなるものであろうとも、それによってわれわれは、人生において、人間協働生活の特定の現証を、この意味から評価し、そうした現象を意義あるものとして、それにたいして(積極的ないしは消極的に)態度を決めるのである。
    --マックス・ヴェーバー(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫、1998年。

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客観的事実の探求は可能なのでしょうか。
マックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)はその消息を然りと否と両面から答えてくれました。

ひとがどのように「客観的」なるものを理想として探求しようとしてもかならずぬぐい去れない事実が存在します。対象として目指すものが恣意的ではない「客観的」という、いわば公共性をもったものであろうとしても、それを探求する探求者の主観的価値評価を拭い去ることは不可能です。

その意味では「否」なのでしょう。

しかし同時に、その主観的価値評価を探求者が抱いていることを、探求者自身が把握・自覚して探求することは可能です。

その自覚のあるかなしかによって、「否」は「然り」へと転ずることは可能です。いうなれば、自らの拠って立つ価値を自覚し、をれを踏まえた上で認識を遂行し、記述する……それが学問で言うところの「客観」ということなのでしょう。

社会学の還元主義的アプローチには、どうしても違和感を感じてしまう宇治家参去ですが、ヴェーバーに関しては、こと別で、いつもその議論に「納得」させられてしまうところに、ヴェーバーの「凄み」を感じてしまう昨今です。

さて……。
例の如く、夕焼けウォッチャー&フォトグラファーと化す宇治家参去ですが、ここ数日、見事な夕焼けに圧倒されております。

おそらく……、

雀は夕焼けに「感動」することはないのでしょう。
そして狸も狐もライオンも夕焼けに「意味」を見出すことはないのでしょう。

その意味で、夕焼けに感動したり、夕焼けに感動の対極の構造を抱いたりする人間とは、「世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義」を与えたりする生き物なんだなぁ~と実感する次第です。

それが「文化」の出発点かもしれません。

世界とは原初の状態では無色透明なのでしょう。
それを自然界で表現するならば「弱肉強食」というわけですが、人間はなぜだか、そこに意味を見出す不思議な生き物です。

だから人間とは……これは人間観の全体ではなくその一分野ということですが……、「世界にたいして意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思とをそなえた文化人」というヴェーバーの文化と価値をめぐる議論がストンと頭のなかにおちてくるわけですけれども、人を優しく包み込んでくれる夕焼けには敬意を表しなければなりません。

ということで、やはり夕焼け色のエビス(琥珀)で乾杯というのが王道でしょうか。

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