« 何も引用しない・・・不真面目な一日 | トップページ | Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne. »

なにしろ「自我は、担うことの受動性のうちで<善>と関わります」から。

01_img_1261

-----

 他の人間の重みに耐えることで、自我は責任によって唯一性たるよう呼び求められる。自我の超-個体化の本義は、みずからの皮膚のうちにあること、これです。ただしその際、自己のうちにあるようなすべての存在における「存在しようとする努力」が共有されることはありません。私は存在するものすべてに対して(à l'égard de)あるのですが、それは私が存在するすべてのもののことを斟酌し、それらに敬意を払っている(par égard)からです。すべての存在を贖う私は、すべての他人を贖うことのできる一個の存在者ではありません。私の即自性が根源的な贖いなのであり、それは意志にもとづく発意に先立っているのです。自我に及ぼされる他人の支配力の重みが自我の唯一性であるかのようです。
 こうした筋立てのなかで結ばれるものを、善意ないし善性(bonté)と呼ぶことができます。一切の所有を、一切の対自を放棄せよという要請にさらされながら、私は他人の身代わりになるのです。善性とは、一者のうちに多様性をもちこむことない唯一の属性です。かりに善性が一者とは別物であるとするなら、善性はもはや善性ではないでしょう。善性をつうじて有責な者たること、それは自由の手前で、自由の埒外で有責な者たることです。倫理は私のうちに自由に先立って滑り込んできます。<善>と<悪>の二極性に先立って、自我は、担うことの受動性のうちで<善>と関わります。善を選ぶよりも先に、自我は<善>との係わりをもたされるのです。それはとりもなおざす、自由なものと自由でないものとの区別が人間的なものと非人間的なものとの究極の区別ではなく、また、意味と無意味との究極的な区別でもない、ということでありましょう。
    --エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)「自由と責任」、『神・人・時間』法政大学出版局、1994年。

-----

ひさしぶりに市井の職場のクレームの処理で、1時間ほどかかっちゃいました。

話をきくとクレームとも異議申し立てともご意見の申告とは、全く関係ない話であったようで……表現がどぎつくなりますが、要するに突発的に切れたオジサンでした。

ただ、「そうですか。お引き取り下さい」とスルーすることもできず、えんえんとループする話を聞かざるを得ず……それでもときどき激昂するので少々恐かったですが……、「はぁ、そうですか。申し訳御座いません」と寄り添う次第です。

ただ、最後に「オレは10億の財産があるんだからナ、こんな店で買い物なんかしなくてもいいだ」とか「先祖は旧○○藩の家老職なんだ」とか、演説も始まってしまい、、、ちょうどその事案に呼ばれるまでレヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の「自由と責任」の抄を読んでおりました者ですから、「人間とは何か」とフト考えさせられた次第です。

「他の人間の重みに耐えること」を学生時代とか、そうした無・責任時代には、あまり意識することがなかったのですが、学問の世界を離れ、こうしたなまなましい世界へ不可避的に取り込まれてしまう中で、逃げられないような状況を外堀からうめられるようになって、その「他の人間の重みに耐えること」というところを心と頭で考えさせられることが多々あるようになり、まあ、それはそれで、ありがたくそこで学ばせて頂いているんだよな……と理解するようにしております。

ちなみの蛇足ですが、財産は兎も角、「旧○○藩」は外様になりますので、直参の出からすれば「将軍のお目見え叶わぬ陪臣やんけ」とボソッと思わざるも得ず、応対しながら、そんなことがフト頭をよぎるあたりには、自分の中には、まだまだ余裕があるのかな……などとも思ったりした次第です。

さて……。
24時に仕事が済んでから、さあ帰るかと、職場を後にしようとしたところ、気になる後輩と偶然にも遭遇です!

数ヶ月くらい合っておらず、近況を心配していた後輩です。
先週の大阪出張の際にも、市井の職場……といいましてもGMSの店舗ということになりますが……に宇治家参去の顔を探しに来ていた、ようなことをバイトくんから聞いていたので、電話をかけてはみたのですが、「お客様の都合により……」というパターンにて、家までいってみるか、と思っていた矢先でしたので、

「最近、どうよ!」

……と声をかけ、時間も時間ですので、近所の飲み屋で軽く一献です。
近況を確認したところ、おもった以上に元気だったのでひとまず安心するとともに、夢を目指して四苦八苦している状況は同じでしたので、もう一度がんばろうとお互いに決意し直すひとときを過ごすことができました。

偶然に遭遇しましたが、人間と人間が向き合うということは、偶然以上の必然性、それを有責性といってもよいのかもしれませんが、そうしたものがあるのかもしれません。
※この西洋の文脈での有責性というものは、東洋思想でいう眷属というものかもしれませんが。

さて、赤提灯をあとにすると27時前。

う~ん、かるくの筈が、重くとまではいかないもののいい感じです。

帰宅した爆睡した次第です。

さて本日は、「愛妻家の日」。
日本愛妻家協会……そんな組織があるんだ!……が、英語のI(アイ)と31(サイ)にかけ毎年1月31日を「愛妻家の日」と認定しております。

「妻にありがとう」と声をかけると世界が平和になるかも知れない……というわけですが、とりあえず「ボケの鉢植え」で許してもらいましょう。

なにしろ「こうした筋立てのなかで結ばれるものを、善意ないし善性(bonté)と呼ぶことができます」からね。

世の殿方、31日が終わるまでには数時間ありますので、「各員一層奮励努力セヨ」!

そこに倫理が立ち上がります。

なにしろ「自我は、担うことの受動性のうちで<善>と関わります」から。

02_img_1259 03_img_1209

神・死・時間 (叢書ウニベルシタス) Book 神・死・時間 (叢書ウニベルシタス)

著者:エマニュエル レヴィナス
販売元:法政大学出版局
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 何も引用しない・・・不真面目な一日 | トップページ | Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne. »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/33192521

この記事へのトラックバック一覧です: なにしろ「自我は、担うことの受動性のうちで<善>と関わります」から。:

« 何も引用しない・・・不真面目な一日 | トップページ | Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne. »