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「めのまえにいる生きている人間と向き合うこと」

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 真理を探究し発見するには二つの道があり、またありうる。一つは、感覚および個々的なものから最も普遍的な一般命題に飛躍し、それら原理と不動の真理性から、中間命題を判定し発見する、この道がいま行われている。他の一つの道は、感覚および個々的なものから一般命題を引き出し、絶えず漸次的に上昇して、最後に最も普遍的なものに到達する、この道は真の道ではあるが未だ試みられてはいない。
    --ベーコン(桂寿一訳)『ノヴム・オルガヌム 新機関』岩波文庫、1978年。

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16世紀イギリスの思想家・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans,1561-1626)が語るとおり、真理を探究し発見するには二つの道があるそうですが、自分自身が真理を探究し発見するためには、それ以外の選択肢があるようです。

すなわち、感覚および個々的なものから出発し普遍的な原理を探求するという方向性ではなく、めのまえにいる生きている人間と向き合うことから出発し、普遍的な原理を探求するという方法です。

金曜から大阪に入り、土日は日中『倫理学』を全力で講義してきました。
よるは夜で、『倫理学』に関するメタ・倫理学に関して全力で講義してきました。

両者に共通しているのは、「めのまえにいる生きている人間と向き合うこと」に他なりません。

そうしたひとびとと向き合うことで、理念と現実を両手でがっちりと携え、思索しつつ行動できたような気がします。

まずは、シャイでナイーヴなチキン野郎の講義に参加してくださった受講生のみなさまありがとうございます。学んだのはこちらのほうかもしれません。

そして、深夜まで議論が続いたメタ・倫理学に関する宴席に参加してくださったみなさま、ありがとうございます。

学んだのはこちらのほうかもしれません。

……ということで、東京へ戻ります。

先ほど名古屋を通過したところです。

ありがとうございましたっ!!

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コメント

【因果の壊れと中道のみち】

【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。

原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。

ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。

即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。


《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》


【知・法の根本】

如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。

宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。

投稿: アルバラン | 2010年1月24日 (日) 23時26分

【点と線と面】

私は疑問だ。面に点は無限にとれると言うが, それはどうだろうか。

そもそも点は可視的でないし, 分けることも出来ない。にも拘わらず, 面から無限に捉えられると言うのはおかしくないか。いや, おかしい。何故, 分けることが可能なのか。

それは紛れもなく, 0(点)を偽装した1(存在)だからである。

【0∞1】

0は質であり事だ。つまり存在の1とて切り離すことの出来ない事であり, 1ですら質的な変化の前には絶対に保存出来ない。

ならば, 面から捉えられる疑惑つきの点とは, 質的な変化の中に絶対に保存できない粒(物)のことではなかろうか。

因果とは, 粒と無数の軌道を表す法則性。中道とは, 因果の破綻に伴う己意志の解放と, 俯瞰者としての自我の確立, 物に対する執着の終焉と柔軟な捉え方(認識), そして, これらを機軸とする物事の確立である。

結局, 私は点が膨張した不可分の面を観ているのだ。


投稿: アルバラン | 2010年1月24日 (日) 23時26分

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