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学問の道は、いったん開かれると決して雑草に埋もれることのない、また行人を迷わすことのない唯一の道である

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哲学は、一切のものを智慧に関係せしめるが、しかしそれは学という道を通じてことである。学問の道は、いったん開かれると決して雑草に埋もれることのない、また行人を迷わすことのない唯一の道である。数学、自然科学はもとより、人間の経験的知識すら大方は偶然的な目的に対する手段として--とは言え、結局は人類の必然的、本質的目的を達成するための手段として、それぞれ高い価値を持っている。しかしこのことは純粋な概念による理性認識を介してのみ可能である、そしてこの理性認識が--これをどんな名前で呼ぶかは諸人の自由であるが、--即ち本来の形而上学にほかならないのである。
 こういうわけ形而上学はまた人間理性のあらゆる開発の完成でもある。たとえ形而上学が学として或る一定の目的に及ぼす影響を度外視するにしても、この学は人間理性にとって欠くべからざるものである。形而上学は、理性をその諸要素と最高の格律とに従って考察するものだからである、そしてこれらの要素と格律とは、若干の学を可能ならしめる根拠であり、兼ねてまた一切の学の使用の根底におかれねばならない。形而上学が純然たる思弁として、認識を拡張するよりもむしろ誤謬を防ぐに役立つということは、この学の価値を損なうものではなくて、却って検問官としての職権によってこの学に威厳と権威を付与するのである。この職掌の本分は、学という公共物の一般的秩序および調和、それどころか福祉をすら確保し、また豊かな成果をもたらす進取的な学的努力を、人類一般の幸福という主要目的に背反しないように規制するにある。
    --カント(篠田英雄訳)『純粋理性批判 下』岩波文庫、1962年。

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年始からカント(Immanuel Kant,1724-1804)の『純粋理性批判』(Kritik der reinen Vernunft,1781,1787)を再読しようと決意して、先ほどなんとか読了したところです。

哲学、倫理学を志す学徒は必ずカントと勝負しなければならない……そういわれたものですが、今やごく僅かな「狭義」の専門研究者をのぞき、カントそのものを読むというよりも、カントに関する解説書で済まそうとしてしまう風潮が顕著なもので、マア、それは……

「いかがなものか」

……などと思うわけですが、再読する中で、「いかがなものか」と思うだけでなく、それと同時に、原典……邦訳含め……と対峙しないことは実に「もったいない」事態ではないのだろうか……そう思われて他ならない宇治家参去です。

いうまでもありませんが、カントの大まかな議論の骨子……そしてそれはカントだけに限定されざる問題ですが……に関しては、「程度のよい」“解説書”なるものをひもとけば、ある程度の議論を遡及することは容易です。

しかし、それだけですませてしまうと、些細な事案かもしれませんが、「議論の骨子」とか「主要な思想・論点」というものから“あふれ出してしまう”、いうなればカントの肉声のようなものを“聞きそびれてしまう”のではないだろうか……そう思われて他なりません。

もちろん、邦訳ないしドイツ語の原典に挑戦するということは骨の折れる労作業ですし、そうした老作業を経ずとも、まさに「程度のよい」“解説書”でアンチョコをつくっておけば、

「カントの哲学は、サア……」

……ってうそぶくことは不可能ではありません。

もちろん、できるだけ、労作業のような「手間」を経ずに、ダイレクトに骨子だけ掴みたいという人情もわからなくもありません。

しかぁ~し!

しかしながら、それだけで……すませてしまうのには、抵抗があるのも人情というものです。

……ということで、カントの“純理”……『純粋理性批判』の略語……を何度目かわかりませんが、再読する中で、実感するのがひとつ。

もちろん、実感ですので、それは印象批判にすぎないとの誹りをまぬがれないことも承知ですが、ひとつ実感するのは、カントは学問することを決して人間世界における机上の議論と考えていない事実です。

貧しい馬具職人の息子と生まれたカントですが、幼い頃から両親の愛情にはぐくまれましたが、学問で食べていけるようになるのは50手前という人物です。

カントは個別の存在者としての人間の正負の両側面をがっちりとみつめたのでしょう。

だから、こそカントにおいては、学問=哲学するということは、タツキにあってタツキにあらざるのかもしれません。日本を代表する哲学者・鶴見俊輔(1922-)の言葉を借りれば学問が「生きるしるべ」になっていたのだろうと思います。

学問と生活を、そして様々な矛盾と真理の間を往復するなかで、カントは、一人の人間の幸福……これは実践理性のカテゴリーになりますが……と、総和としての人類の問題、そしてのその環境形成と学問、そして真理との関係を議論したのだろうと思います。

たえず、一個の人間の問題、そしてその人間の共同体の問題、そしてそれを真理とつなぎとめていく学問の問題……これを「形而上学」の課題といってようでしょうが……、それを自分自身の問題として考え抜いた、悩み抜いた、そうした息吹を、行間から感じ取ってしまう次第です。

東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれ、その町から生涯、一歩もでることがでなかったといわれますが、それにもかかわらず、その大地に深く内在しながらも、世界への連帯を模索し、理性の問題を切り口に徹底的に一個の存在者の人間を普遍の問題として議論したその言葉遣いには、人間の可能性、世界市民の要件等々といった諸問題を論じた肉声の迫力に実に驚かされてしまう訳ですが……。

再読しつつ、、、

学問のすばらしさを、銘酒とともにかみしめる宇治家参去です。

ということで、本日は正月用に用意した近江の銘酒『純米吟醸 喜楽長 三方良し 』(喜多酒造、滋賀県)をやっておりますが、

いただきますと、香りもとても心地よく、舌触りも申し分のない味わいです。

酒といえば、どうしても北陸・東北に目がいきがちですが、なかなかどうして、兜を脱いだ宇治家参去です。

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