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2010年2月

「その当り前のことを、人という生きものは、なかなかに、のみこめぬものなのさ、このおれもそうだが……」

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 「もとはといえば、稲垣信濃守様の家中で起きた喧嘩沙汰から、佐々木典十郎が敵討ちの旅へ出たのが、はじまりなのだ。それがために滝野川村の小娘がひどい目に会い、ひいては盗賊の神取一味へまで波紋がひろがり、このため、長崎屋と釜屋の二つの商家が難をまぬがれた……となると佐々木典十郎の愚かな所業が、二つの商家の人びとのいのちを兇賊どもの手から救ったことにもなる。なんとおもしろいではないか、左馬之助」
 「なるほどなあ……」
 腕をこまぬいた岸井左馬之助が、深刻な顔つきとなって、すっかり考えこんでしまったのをながめやりつつ、宇治家参去は煙管に煙草をつめた。
 「どうした、左馬……」
 「いや、その……妙に、胸が重くなってきて……」
 「うふ、ふふ……」
 「可笑しいですかな?」
 「いや、別に……なあ、左馬之助。これが浮世の仕組みというものなのだよ」
 「浮世の仕組み、ね……」
 「人が何かを仕出かすことは、必ず、何らかの結果をまねくことなのだ。当り前のことだがね」
 「ははあ……」
 「その当り前のことを、人という生きものは、なかなかに、のみこめぬものなのさ、このおれもそうだが……」
 いいさして平蔵は、さも、うまそうに煙草のけむりを吐き出し、
 「のみこめていりゃあ、人の世の苦労もねえわけだが……」
 わだと伝法な口調で、こう、つけ足した。
 「そのかわり、つまらねえ世の中になってしまうだろうよ」
 雨足が、強くなってきている。
    --池波正太郎「浮世の顔」、『鬼平犯科帳 新装版(十四)』文春文庫、2000年。

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ちょいと昨日のこと。

まず起きると細君からお説教。

昨日が誕生日だったので、日付変更線と同時に、「誠醸辛口 出羽櫻」(出羽桜酒造株式会社/山形県)の四合瓶と体を張った格闘戦を展開していたので、朝起きるとチト辛かったのですが、痛り目に祟り目というのはこういうことをいうのでしょうか。

チト辛い状況の指摘ではありませんが、別件にて細君にずっぽりと絞られた宇治家参去です。

ちょうど、自分が通信教育部で教鞭を執った学生さんからの進物が配達されたようで……、

「教師として何しとんじゃ、ボケ」

とのことで……絞られた次第です。

昨年の3月にも同じような進物があり、ずっぽりと絞られたわけなのですが、要するに、「教師が学生からもらってどうする! 教師こそ何か学生におくるべきだろう、ボケっ」って怒鳴られる始末です。

その言説には、それはそれで100%納得するので、

「学問と愛をおくった」

……などと口にすることを察したのでしょうか。

「愛とか学問を送られたのは、アンタでしょ! これもをもって本末転倒という」

……だはぁ~って、うなだれつつ、十三階段を登るまえに、教誨師の説教を粛々と聞いた次第です。

しかしながら、浅はかさを〝売り〟とする宇治家参去ですから、脳内において問題に対する思想的な知的格闘戦を取り組みつつも、やはりそれはそれで、嬉しいと感ずる次第ですので、「人間とは何か」……まさにひとつに定義することは不可能である、その状況だけは深く噛みしめた次第です。

カラマーゾフの血が色濃く体内で臭っているのかもしれません。

さて銘酒は「梵 日本の翼 純米大吟醸」(加藤吉平商店/福井県)

福井県の純米吟醸は恐るべしです。
〝日本の翼〟との銘のごとく、政府専用機の機内酒に採用された一品で、国賓をもてなす日本を代表する銘酒とのこと!

セレクトの感謝しつつ……、以下が大事!

「何か目をむくお返しをいたしますので、お楽しみに」

……ということでお許し下さいませ。

さて……。
2月の最終週ぐらいになると、勤務している大学の卒業式の案内がぼちぼち来るのですが、今年はなかなか到着せず。

ひょとして、学生さんと一緒に学生気分で酒飲んでひっくり返っている行状からして、この人間は、世紀の殿堂に招待するのは憚られているのか……!

……がっくしorz、と凹みつつ、

「たぶん、そうだろう、この背教者!」

……と細君の冷ややかな罵声を浴びつつ、

「いや、オレは背教者ではなく、単なる愚か者であって、背教者はユリアヌス(Flavius Claudius Julianus,331/332-363)だろう、、、しかもユリアヌスは背教者というよりも、宗教的多元主義のひとつの事例として見ることも出来る……」

……などと頭を悩ませつつ、ポストを見ると、

嬉しいことに本日卒業式の出欠連絡が到着しておりました!

ふぅ、よかったです。

まずはそれまでにひとつの学問の仕事を終わらせて参加しようかと思います。

……と心穏やかならぬ一日でしたが、38歳の初日とはこんなものでしょうか。

夕刻から、用事があったのひさしぶりに豊島区巣鴨へ。
ま、要件は、とげ抜き地蔵ではアリマセンし、毒蝮三太夫(1936-)の辛口ツッコミ観察でもありません。

「途中に何があろうと最後に勝て。最後に勝てばそれが勝利だ! 」

とりあえず、これでいきましょう!

何かあった方が絶対に面白いんです。

まさに、何もなく、すとんと理解したりとか、目的を達してしまったりすると、長谷川平蔵が伝法な口調で言ったとおり「そのかわり、つまらねえ世の中になってしまうだろうよ」という状況になるんでしょうねぇ。

「浮世の仕組み」を自分で組み立てながら、銘酒によいつつ、難局と優雅に対峙しつつ、歴史を積み重ねていこうと思う宇治家参去でしたっ!

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心にかなう道を、目に映るところに従って行け。

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 倫理(éthique)とはもともとギリシャ語です。けれども私はそれ以上のことを考えます。その言葉で私が考えるのは、聖性です。他者の顔の聖性です。あるいはかかるものとしての私の責務の聖性です。そうです! 顔のうちにはある種の聖性が存在するのです。というか、顔としての顔に接近してゆくときの身振りのうちには、ある聖性、あるいは自己自身に対するある倫理性が存在するのです。というのも、他者に対する責務がそこではすべてに優先するからです。つまり、こういうことです。他者を尊重するとは、他者に一歩を譲るということです。お先にどうぞ、と道を譲ることなのです。つまり、紳士の礼節(coutoisie)なのです! ああ、この表現はとてもぴたりとしています。自分よりも先に人を行かせること。このちょっとした紳士的礼節のきらめきが顔への接近の一つの仕方なのです。けれどもどうして譲るのは私であって、あなたではないのでしょうか? これは難しい問題です。というのも、あなたもまた私の顔に向かって近づいてきているはずだからです。けれども、紳士の礼節あるいは倫理の本義とは、そのような相互性については考えないというところに存するのです。
    --エマニュエル.レヴィナス・フランソワ.ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性 --レヴィナスは語る--』国文社、1991年。

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朝の5時頃まで、自宅でですけども鯨飲しておりましたので、今日はチトきつかった宇治家参去です。

細君も息子殿も午前中は不在……前者は無冠の集金、後者は幼稚園……でしたが、大学からの宅急便の配達で起こされ、げふげふしながらも、休憩を挟みつつ、学問の仕事をしておりましたが、昼過ぎに細君が帰宅して……、

「休みの日ぐらい、きちんと学問の仕事をしなさい」

……などとどやされつつ、机で開いていたのが旧約聖書だったのがよくなかったのかもしれませんが、

「また、意味不明なものを読んで、時間を潰している」

……などと言われる始末です。

意味不明ということは決してないのですが、アングロサクソン的正邪論の衒いで反論して議論の筋道を正すという〝正義の競争〟をしても不毛であることは、承知ですので、肩で受け流しながら、レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)先生の言うとおり、「お先にどうぞ」との精神、すなわち、「紳士の礼節(coutoisie)」にて甘受する晩冬です。

きりのいいところで書物を閉じ、来週返却締め切りのレポートに目を通しておりますと、息子殿が帰宅されましたが、本日は三日に一度の耳鼻科検診と英語教室のため、そそくさと細君と外出。お陰様で、レポートのすべてを添削することができました。ただ、今朝ひとやま配達されておりますので、また苛酷な孤独な戦いは終わらない……というところでしょうか。

まあ代わり映えも彩りもなにもない日常生活ですが、まあ、元気に生きているということはありがたいものです。

気が付きますと、38歳になっておりました。

自分自身としましてはまだまだ若いという自覚ですが……ただし飲む酒の量は十年前より確実にダウンしていることも承知……、家人から至極「オッサン、オッサン」と言われると、

果たして……、「自分はオッサンか?」

などと自問せざるを得ませんが、自分自身としては、

「生涯、一ナイスミドル」との自覚ですので、精確には「オッサン」ではなく、「ナイスミドル」と呼んで頂きたいものです。

一年を振り返ってみますと、(誕生日からという意味ですが)昨年は、法戦とか学問の挑戦において自分自身でもかつてない戦い?に挑戦できた一年であったことは、これはまずもって否定することはできません。

ただ、しかし、結果としてみるならば、現状としては、「負けた」〝足跡〟であったことも否定することができない事実です。

業績の少ない若い衆が次々と階段を上っていくのに対して、専門の問題もありますが、専任公募につぎつぎと敗退し最終面接でもぽしゃったり、息子殿が……これは自分の所為になのですが……受験に失敗するとか、、、あげくには「廃業しろ」っていう横やりも入ってくるという状況で、、、まあ、泣きませんけど、泣きっ面に蜂というのが、とくにその後半部分であったかと思います。

ただここで、「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」(立正大学宗学研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文』総本山身延久遠寺、1954年)との言葉もありますので、4月から始まる新年度では、〝最後の聖戦〟?を繰り広げていきたいものだと思うところです。

……などとナイーヴに考えていると、帰宅した細君が、

「27日は誕生日だから、どこかへいく?」

……などと誰何するものですから、チト近所のステーキハウスまで出かけてしまいました。

誘ってくれるなどとは思っておりませんでしたので……27日はお互いに所用のため……、ちょいと嬉しかった宇治家参去です。

しかし今になって考えてみれば、先に旧約聖書を読んでいるときどやされたあげく、「お先にどうぞ」との精神で譲ったわけですが、細君のこのサプライズも、ある意味でこちらの予期しない「お先にどうぞ」の精神のようでした。

ありがたいものです。

なお蛇足ながら、またついでのおまけのように言及するならば、誕生日基準の昨年度のすべての「今回はご縁がありませんでした」系の問題も、私淑するレヴィナス先生のお言葉に耳を深く傾けるならば、「紳士の礼節」として、まあ、まあ「お先にどうぞ」と捉えようかと思うのですが(カント(Immanuel Kant,1724-1804)大先生もなかなか専任になれなかったのですが)、そのことを細君にいうと火に油を注ぐことになりますので、ネットにおける活字での独白だけにとどめておきましょう。

ま、いずれにしましても……。

かかわってくださった皆様方、ありがとうございます。

……ということで???

がっつりとお肉を頂戴し、五日ぶりのお米まで食べてしまいました。

ただしかし!
この細君の心遣い……ありがたいのはありがたいのですが、これから十日ぐらい寝ると、次は細君のご生誕の砌という奴です。

何かこちらもサプライズを計画しないと・・・

……これはマズイですなァ・・・。

気が早いので、すでにプレゼントは購入済みですが、宴席もつくらないと……ですねぇ。。。

しょうがないので、時計かカメラでもまたオークションにかけざるを得ません。

ただ、それによって、お互いにいい気持ちを感じることができるのであるとすれば、〝相対〟を〝排した〟〝絶対律〟という意味での「紳士の礼節あるいは倫理の本義とは、そのような相互性については考えないというところに存する」ものの一分にでも与ることができれば、それでよし!……とも思えるので、甘受……否、喜んで、「お先にどうぞ」の精神で向き合っていきたいと思う次第です。

いずれにしましても、これから20年が経過するとすでに、親父はなくなった時代(享年56)になってしまいます。

(語弊を生むような表現で恐縮ですが)生き〝続ける〟ことに執着はあんまりないのです。
しかしながら、責任と使命の自覚を考えると、まだまだ元気で頑張る〝不可避的な〟問題も山積しておりますので、まずはひとつ健康で、ふんぞり返る態度を排しつつ、生涯一兵卒の気概でがんばっていこうかとは思う次第です。

またまた誤解を生むような表現で恐縮ですが、偉大な人生の師匠をいただき、偉大な超一流の学問の師匠の膝下で学ばさせて頂き、ほんとうにありがたいと思う毎日です。

現状では〝カタチ〟には全くなっておりませんが、どんな連中と渡り合っても、不思議なことに〝負ける〟という感覚・気概がまったくないんですよね、そんで、これはふんぞり返りの態度とは違う感覚なんですよね。

おまえら、どこからでもかかってこいって……ってでもいえばいいのでしょうか。

まあ、まだまだ、一学兵として戦いますヨ!

……ってことで四合瓶が1本そこをつきつつあるので、このへんで沈没しようかと思います。

例の如く支離滅裂な書き殴りでスイマセン。

……ということで、大好きな旧約聖書の一節を最後に紹介しておきます。
※こんなことをするから誤解されるのですが、マア、それもシャイでナイーヴなチキン野郎のウンコ垂れの宇治家参去の人柄と思ってくださいマシ。

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若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。
青年時代を楽しく過ごせ。
心にかなう道を、目に映るところに従って行け。
知っておくがよい。
神はそれらすべてについて
お前を裁きの座に連れて行かれると。
心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。
若さも青春も空しい。
--「コレヘトへの言葉」(11:9)、共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳』日本聖書協会,1987年。

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【覚え書】「『本州に核持ち込み』 米軍、沖縄から 元当局者が語る 1966年」、『毎日新聞』2010年2月25日(木)付。

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「本州に核持ち込み」 米軍、沖縄から 元当局者が語る 1966年
 【ワシントン共同】ライシャワー元駐日米大使(在任1961~66年)の特別補佐官を努めたジョージ・パッカード氏が、米外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」最新号で、米軍が1966年に沖縄から本州へ核兵器をひそかに持ち込んでいたと明らかにした。
 パッカード氏は60年の日米安全保障条約改定時、米軍の艦船や航空機が日本に立ち寄る際に核を搭載することを可能にする「密約」が結ばれたと指摘。66年の例については、具体的に本州のどこに、どれだけの量が持ち込まれたかなどには言及していない。
 日本は67年12月に当時の佐藤栄作首相が国会で、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」とする非核三原則を公式表明している。日米両政府は安保改定の際に交わした交換公文で、米軍の核持ち込みについて「事前協議」の対象となるとした。日本側に事実上の拒否権を付与した形となっているが、米側から事前協議開催の申し入れが行われたことはなく、日本政府は「事前協議がない限り、寄港も含め持ち込みはない」との見解を堅持してきた。
 ライシャワー大使は63年、「核を積んだ艦船と飛行機の立ち寄りは『持ち込み』ではない」との解釈の確認を当時の大平正芳外相と行っている。
    --「『本州に核持ち込み』 米軍、沖縄から 元当局者が語る 1966年」、『毎日新聞』2010年2月25日(木)付。

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まあ、だいたいそんなことだろうなあと想像はできているといいますか、是非は問わないにしても、そうはいわれていなけれども、まちがいなくそういうことはあるんだよなあってことってよくあるんです。

ですけど、それに対して「そうなんだよな」って、断定ではなくとも、確証するような言葉が出てくると、う~んとうなってしまう宇治家参去です。

ことがことだけにだからでしょうか。

ブッシュ政権以降、核の問題が耳目から払拭され、目の前の火の消しあいにばかり注目させてしまうようなメディアの利益誘導の傾向が顕著に見られるわけですけど、その存在の問題としてはまったく時代はかわっていないということは認識する必要があるのでしょうねぇ。

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「日々眼前に行われる平凡なる現象を分析し解釈することによって、最も具体的なる人生の相を理解」しようとした一事例???

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繊細の心は明らかにひとつの直観である。しかしながらその故をもって直ちにこの概念において何か神秘的なるものを想像するのは誤解である。この誤解を避けるためにはまず最初に、パスカルの挙げた幾何学の心と繊細の心との区別がメレに暗示されたものであることを想い起すのが好い。メレはこの世のあらゆる事情に通じ、快く寛いだ生活に関するすべての事柄に秀いでていた。彼は社交を好み、そして最も勝れた座談家であった。彼はほとんど見分けのつかぬひとの様子によって感情と思想とを知る本能力をもち、この洞察によって彼は彼の交る人達に対して最も適わしいものごとを見出すことを知っていた。このメレがいう、「エスプリは一種の光である。それはあたかも閃光の如く一瞬においてすべての側に拡がる。」「エスプリは事物を理解することにおいて、それをすべての方面から考察するに熟していることにおいて、それが何であるかについての正しい値打ちについてきっぱりと判断することにおいて、それが他のものとの如何なる共通点をもち、また如何なる点で相違しているかを識別することにおいて成立している。」ここにいわれ直観的なるエスプリが神秘的な何物をも意味しないことは疑われない。メレとの会話はながくパスカルの記憶にとどまり、繊細の心を論ずるにあたって彼はその典型としてメレを念頭においたのである。第二に、パスカルが人間と生とを語るに際して、彼の好んで取扱ったものは賭事や猟や恋愛であった。彼は日々眼前に行われる平凡なる現象を分析し解釈することによって、最も具体的なる人生の相を理解しようとする。人間に関する知識において彼の重んじたのは、「生の日常の対話によって生まれた思想」(penesées neées sur les entretiens ordinaires de la view,18)であった。繊細の心は何よりも人生の日常の現象、平凡なる事実を正しく理解する方法である。「繊細の心にあっては、原理は普通の慣用のうちに、すべての人の目の前に(dans l'usage commun et devant les yeux de tout le monde)ある」(1)とパスカルは明らかに述べている。繊細の心が神秘的なる直観を意味し得ないのはもとよりである。かくいうとき、今の時代の人々は生の哲学をもって「常識の哲学」に過ぎぬとして嘲笑うかも知れない。しかしながら人間の存在を具体的に理解しようとする者は、常識に対して最も真面目になるべきである。これを怠るとき哲学は地盤なきものとなる。なぜなら哲学もまた生の現われでり、人間の特殊なる存在の仕方に外ならないからである。自己の在るがままの状態を正しく理解することは、深遠なる理論、高遠なる理想を論議するにも増して大切である。
    −−三木清『パスカルにおける人間の研究』岩波文庫、1980年。

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再度、戦前日本を代表する三木清(1897-1945)のパスカル論を繙きながらひと宇治家参去です。パスカルの人生〝描写〟にはいつも目をハッとさせられることが多いのですが、そのパスカルの姿勢をうまく表現したのが、三木の手によるこの『パスカルにおける人間の研究』なのかもしれません。

倫理学のアプローチとは、哲学のアプローチと全くことなります。
ラファエロ(Raffaello Santi,1483-1520)の『アテナイの学堂』(Scuola di Atene)を想起して頂けるとその特徴が一目瞭然です。

アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)が、大地を指差し真理は現実に内在すると説き、師のプラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)は、天空を指差し真理は現実とはかけ離れたイデア界(真理の世界)に存在すると説きましたが、ラファエロの『アテナイの学堂』ではこの両者が画面の中央に描かれております。

現実世界を丹念に開拓することで真理へ到達しようとするアリストテレスの手法が倫理学の観点であるとすれば、ぐだぐだな現実を、真理自体の眼から批判・照射しようとするのがプラトンの手法であり、哲学……狭義の「形而上学」……の観点でしょう。

そして現実から真理を仰ぎ見ようとする倫理学的な好事例が「人間は考える葦である」(『パンセ』)との言葉で有名なモラリスト・パスカル(Blaise Pascal,1623-1662)ななのだと思います。信仰に関しては厳格なジャンセニストとして知られており、一種、真理と現実の二分論を唱えているかのようなフシも否定はできませんが、彼の真骨頂はそこにはないのでしょう。

真理は啓示されているとしても、現実との係わりが必ずあるはず……そこがパスカルの出発点かも知れません。その痕跡を探究することで真理を開示できるという方向性といえばいいでしょうか。真理の側から一足飛びに現実を一挙にみてしまうと、カント的な批判哲学の視座としては成立するのでしょうが、真理の保持が、これまたカント的な認識における「物自体」の議論を思い起こすとハナから真理の保持は不可能ですので、真理の側から現実を見るという行為は、まさにジャンセニストが批判してやまない人間の「思い上がり」になってしまいますので、慎ましく現実から見ていこう……それがパスカルのものの見方かもしれません。

それが三木の指摘する「繊細の心」なのでしょう。

現実を離れて真理は存在しませんけども、真理自体も現実を離れては存在しない。だからこそ日常生活に注目し、発見し、自分で考え、独り善がりにならないように探究する……そうした心が必要なのかも知れません。

ですけど、それは限られた知的エリートとか卓越した宗教者にしかできないわけではない……パスカルの言葉や三木の言葉に耳を傾けると、そういうところをなにがしか実感してしまいます。

三木が語る次の言葉、すなわち「彼は日々眼前に行われる平凡なる現象を分析し解釈することによって、最も具体的なる人生の相を理解しようとする。人間に関する知識において彼の重んじたのは、「生の日常の対話によって生まれた思想」(penesées neées sur les entretiens ordinaires de la view,18)であった。繊細の心は何よりも人生の日常の現象、平凡なる事実を正しく理解する方法である」との一文はどこかに心がけておきたいものです。

……ということで、「日々眼前に行われる平凡なる現象を分析し解釈することによって、最も具体的なる人生の相を理解」しようと試みたわけですが……。

ハイ、旦那!

本日は2月25日は、現SAPPOROのヱビスビールが、パリ万博で「金賞」を受賞した日に当たります。キャンペーン的には「生誕120年」というフレコミになりますが、その時代に発売から10年……惠比壽麦酒@日本麦酒醸造會社の販売は1890年……ですでに世界的な名声を獲得するとは驚くばかりです。

……ということで初春から晩春にかけて限定醸造されるのが「シルクヱビス」でございます。昨年より発売が開始されましたが、女性向けにやわからな味わいに醸造されたプレミアムビールというものになりますが、これがこの季節、めっぽううまいというものです。
早速ゲット……実は勤務している市井の職場にはすでに一週間以上前に到着しておりましたが、解禁は昨日で……しましたので、まあ、いっぺえやっている次第です。

ヱビスの120歳の誕生日……精確には130歳……にはヱビスビールで乾杯!

変わらぬこだわりのうまさに脱帽です。

……ということで

「日々眼前に行われる平凡なる現象を分析し解釈することによって、最も具体的なる人生の相を理解」しようとした一事例!!!

日常生活だけでなく、物に対しても、そして人に対しても、そして自分自身に対しても、常に「繊細の心」をもって接して参りたいものです。

まあ、日常とは豊かな世界ですワ。

ブログネタ: ヱビスはうまさで120年!ヱビスへお祝いコメント大募集!参加数拍手

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I hope that you will start off by helping yourself in better ways.

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 幸福は、きわめてまれな場合を除いて、幸運な事情が働いただけで、熟した果実のようにぽとりと口の中に落ちてくるようなものではない。だからこそ、私は本書を「幸福の獲得」と呼んだのだ。というのも、避けられる不幸や避けられない不幸、病気や心理的なもつれ、闘争や貧困や悪意にこれほど満ちあふれている世界にあっては、幸福であろうとする男女は、一人ひとりの人間が襲われるおびただしい不幸の原因をうまく処理する方法を見つけなければならないからである。二、三のまれな場合、別にたいした努力を要しないこともある。おおらかで気立てがよく、十分な財産を受け継ぎ、健康に恵まれ、さらに単純な趣味を持っている人は、一生をすいすいと安楽に暮らしていき、いったい何を騒ぎ立てるのか、と不思議がるかもしれない。器量のいい、なまけ者の女性も、もし妻の努力を少しも求めない金持ちの夫とたまたま結婚し、また、もしも結婚後太ることを気にしないのであれば、子供に関して幸運であるかぎり、同様に、のうのうと安楽に暮らしていけるかもしれない。しかし、そういう場合は例外的である。大半の人は、金持ちではないし、多くの人は、気立てよく生まれついてはいない。多くの人は、騒ぎやまぬ情熱を持っているので、平穏で規則正しい生活はたまらなく退屈に思われる。健康は、神の恵みであるが、だれもそれを保持しうる自信は持てない。結婚は必ずしも至福の源ではない以上のような理由で、幸福は、たいていの男女にとって、神の贈り物であるよりも、むしろ、達成されるものでなければならない。そして、これを達成する際には、内的ならびに外的な努力が大きな役割を演じなくてはならない。
    −−ラッセル(安藤貞雄訳)「努力とあきらめ」、『ラッセル 幸福論』岩波文庫、1991年。
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古代ギリシアの歴史家ヘロドトス(Herodotus,c.484 BC – c. 425 BC)は、アテナイの賢者ソロン(Solonc,638 BC–558 BC)の『歴史』(村川堅太郎編、松平千秋訳『世界の名著 ヘロドトス トゥキュディデス』、中央公論新社、1980年)のなかで「人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも、幸福な人と呼ぶことは控えなければなりません」という言葉を記録しております。

賢者ソロンは、サルディスのクロイソス王のもとを訪問したおり、うえの言葉を残したそうですが、今をときめくクロイソス王はその言葉に不服であったそうな。

ヘロドトスの記すところでは、そのクロイソス王は後年戦いに敗れ火あぶりにされそうになっとき、ソロンの言葉を思い出したそうですが、このエピソードが物語るところは、まさにluckyとhappyは全く違うということなのでしょう。

さて……
宇治家参去は、ネットオークションでよく出品をします。
このところ多いのが……いちどは下火になったのですが、eBay、ヤフオクなんかでも最近増発?傾向……出品物の「質問欄」関係での次のような質問です。

正直、ウザって思うことがしばしばです。

業界ではいわゆる「Nigerian money transfer fraud, Nigerian 419scam(ナイジェリア詐欺)」といわれる直接取引のオーダーなのですが、要するに、かなり良い条件……通常の落札価格の十倍程度!……で直接取引しましょう! すぐに振り込むから……っていう手合いです。すこしエレガントで、ワールドワイドになった「振込詐欺」の手合いでしょう。

めんどうなので、以下の文面をコピペしてスルーするわけですが

Dear Mr. ××

I was going to play along with your implausible offer,
but now I changed my mind as I realized that it serves no point.

What you are doing may get you few items for free.
It may even make you feel good temporary.
Alas, you will sooner or later realize that such pleasure through wrongdoings come at great cost.
I am sure in your heart you KNOW that you can never feel well, knowing someone was sacrificed for it.
What is lost through Victims' sorrow is far bigger than what you gain. You know that.

On the other hand, the opposite is also true.
If you could make someone feel good, bright, and then empathize with their happiness,
you will gain all the reward you could possibly ask for - to see smiles from those around you would mean everything to you.
Perhaps this, you may not have known.

Mr.××, I feel that maybe you are going through difficult times.
Relationships, financial situations, working conditions, illness, etc. We all face numerous problems in our everyday lives.
Here is my advice to you; There is no need to feel anxious about the situation in which you are put into.
You have the power to change. You can break away from who you are, at any given time. To grow, make change, or to advance, is simple.
I hope that you will start off by helping yourself in better ways.

Good Luck.

スパムな書き込みですが、本来は「Good Luck」ではなく「All the people know your Nigerian frauds! Die, idiot !」と締めたいところですが、嫌がらせでもされるといやなので、うえのような文章でお茶を濁してしまうわけなのですが……。

入力しつつ、まさにはあ~って深い溜息が出てしまいます。

先ほどのヘロドトスの記したソロンの言葉ではありませんが、洋の東西を問わず、HappyとLuckyをきちんと立て分けるところにそもそも幸福論とは成立するものです。

論理哲学者として名高いバートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell,OM,FRS 1872-1970)が「幸福は、きわめてまれな場合を除いて、幸運な事情が働いただけで、熟した果実のようにぽとりと口の中に落ちてくるようなものではない」と指摘したはずなんですが……。

メッセージを読み、定型文を入力する作業が15秒としても、仮にそれが1日1件あったとするならばおよそ1時間30分はゆうにかかります。

まさに、はあ~って深い溜息が出るわけですが・・・、

「I hope that you will start off by helping yourself in better ways.」とも同時に思わざるを得ません。

こっちからこっちが「まともな」人間で、こっちからあっちが「まともでない」人間=非人間(乃至は「人間以下」の事物)とあんまり、立て分けたくないんです。

ですからねぇ~。

「幸福は、たいていの男女にとって、神の贈り物であるよりも、むしろ、達成されるものでなければならない。そして、これを達成する際には、内的ならびに外的な努力が大きな役割を演じなくてはならない」との言葉を噛みしめて頂きたいものです。

ま、いずれにしても、誰が見ていなくても神は見ているでしょうし(キリスト教の文脈)、「還著於本人」(仏教の文脈、法華経観世音菩薩普門品第二十五)なわけですから……ねぇ~。

……って善処を促しても、プロはプロですから無駄なのかしら……って悩みつつ、本日は自家用の日本酒が切れてしまったので、新しい日本酒をと思ったのですが、「健康は、神の恵みであるが、だれもそれを保持しうる自信は持てない」わけですので、健康を考え久し振りに本格焼酎にした次第です。

「黒糖焼酎 里の曙」(町田酒造株式会社、鹿児島県)!

しっくりと確かに残る黒糖の甘みがなんともいえません。

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進歩。--だまされてはいけない!

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 進歩。--だまされてはいけない! 時間は前方へと経過する、--だから私たちは、時間のうちにあるすべてのものが前方へと経過すると、信じたがる、--発展とは前方への発展であると・・・これは、最も思慮深い者もまどわされる見かけだおしである。しかし一九世紀は一六世紀にくらべて進歩ではなく、また、一八八八年のドイツ精神は一七八八年のドイツ精神にくらべて退歩である・・・「人類」は前進せず、それは現存してすらいない。相対的様相は、巨大な実験工房のそれであり、そこでは、或るものは成功するが、それも全時代をつうじて散乱しており、言いようなく多くのものは失敗し、そこには、秩序、論理、結合、拘束力が、まったくみられない。キリスト教の到来は一つのデカダンス運動であるということを、どうして私たちが見誤ってよかろうか? ・・・ドイツの宗教改革はキリスト教的野蛮の再発であるということを? ・・・革命は社会の大衆組織化への本能を破壊してしまったということを? ・・・人間は動物にくらべて進歩ではない。文化に甘やかされた者はアラビア人やコルシカ島人にくらべれば畸形児である。シナ人は、ヨーロッパ人よりも出来のよい典型である。すなわち、長持ちのする典型である。
--ニーチェ(原祐訳)「権力への意志 上」、『ニーチェ全集』13巻、筑摩書房、1993年。

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産業革命以降、人間の歩みを決定づけたのが、(啓蒙思想ではなく)啓蒙〝主義〟に基礎づけられた「進歩」史観ではないかと思います。

科学技術の進展を目の当たりにした人間は、科学が魔術からひとびとを解放し、快適な楽園を演出すると夢想したわけですけれども、実際にはどうでしょうか。

科学無用論を説くわけではありません……いうまでもなく必要不可欠です……が、進歩の思い描く「人間像」に対して「人間」そのものが付いていけなかったのは否定できない事実であることは間違いないでしょう。

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の箴言は、そうした楽天的進歩史観に苦渋する世紀末の呻吟のようなものが感じられます。

さて……。
iPhoneネタで恐縮ですが……先週から使い始めたiPhoneだいぶ慣れてきたところです。
たしかに、クラウドコンピューティングを先取りする、ネットワーク端末して現時点でよくできていることとその使いやすさは体感したわけですけれども、問題も実感です。

バッテリーのもちが悪い!

……そのことです。

通話とメールはひとまず措きますが、なにをするにも、ネットワーク接続が開始されるますので、バッテリーの消費がおどろくほどはやいということです。

満充電で省電力設定をせずに、他になにもやらずにインターネットの接続(閲覧)がだいたい5時間いくかいかないかくらいですので、バッテリーのもちということに関しては、これまで使っていたNokiaのX01Nkのほうがトータルではよかったのではないか……そう思う次第です。

クラウドコンピューティング端末としては確かに、Nokiaの端末よりiPhoneの方がよくできていることは否定できませんし、数々の魅力的なアプリケーションの前ではiPhoneに軍配を挙げざるを得ませんが、バッテリーのもちに関しては、iPhoneVSnokiaだけでなく、ちょいと以前の携帯端末の方がよかったのかもしれません。

もちろん、ちょいと以前の端末では、iPhoneでできるようなことができなかったわけですので、「もちがよい」のは最もなんですが、ファーストインプレッションとしてはそうしたところを抱かざるを得ません。

その意味で、まさに進歩とは、完膚無きまでの「前方への発展」とイコールではなく、「巨大な実験工房のそれ」に〝すぎない〟ところを自覚しておきませんと、〝なんでやねん〟となってしまうのかもしれません。

しかし、とやかくいいながら、新しいガジェットに満足しつつ、面白く楽しんでいるのが、内蔵カメラ+アプリの構成です。

トイカメラ風、70年代のフィルムカメラ風(しかも一眼とかではなくチープなAEカメラ)に撮影できるアプリケーションがいくつかあるのですが、LOMO風に撮影できるアプリケーションでこのところ楽しんでおります。

LOMOとはロシアのAEコンパクト・フィルムカメラのことですが、90年代後半からその画風でブレイクしたトイカメラのことですが、「MORE LOMO」という無料のアプリケーションをつかうと、そうした雰囲気で撮影することが可能です。

LOMOはチープなカメラのため、周辺光量が極端におちてしまう画風になってしまうのですが、それがなんだかノスタルジアを誘うというわけで、今でも愛用者の多いカメラです。

最新のiPhoneで前世紀のフィルムカメラ風に撮影する。

ここにもひとつの「進歩」と「退歩」を痛感させる一コマが潜んでそうですね。

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ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

著者:フリードリッヒ ニーチェ
販売元:筑摩書房
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言葉に目がしみる

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 火がおこされ、槌が打たれ、日夜、埃と騒音にみまれてたゆまず仕事が続けられてゆくうちに、楽器が作り出されたのである。この過程を一つの客観的な事実として考え、その進化の跡をたどることもできよう。しかし、音楽が奏でられるときには、それぞれが互いに矛盾する性質をおびているにもかかわらず、全体として、それぞれが音楽表現のための仕事の一部であったことを、われわれは知るのである。長い歳月の後に人間にまで到達した進化の過程は、人間との一体化(ユニティー)において理解されなければならない--もちろんそれには、人間において新しい価値をおび、それまでとは違った道を歩み始みはじめたのではあるが。それは、人間のうちに自らの意味を見出す、たゆみない過程なのである。そしてわれわれは、科学が語るところの進化も、人間の世界の進化であることを認めなければならない。背革も扉も、書物そのものの部分である。同様に、われわれが感覚や知性や生活経験をとおして認めるこの世界は、われわれ自身と完全に一体化している。

 この神聖なユニティーの原理は、つねに、内面的な相互関係の原理であった。このことは、地球上の多細胞の生物の進化における、初期のある段階に啓示されている。その最も完全な内的表現が、人間の肉体のなかで成就されたのである。しかし、なによりも重要なことは、人間はまた、みずからの肉体組織の外の、いっそう微妙な組織体のなかでもそれを実現したいという事実である。人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである。無数の細胞から成る人間の肉体は、生まれては死んでゆく。しかし、無数の個人から成る人間性〔人類〕は不滅である。人間は、このユニティーの理想において、自らの生命のうちにやどる永遠性と、自らの愛のうちにやどる無限性を実感するのである。ここにおいてユニティーは、たんなる主観的な観念にとどまらず、活動源的な真理となる。それにどのような名称を与えようと、またそれをどのような形で表わそうと、このユニティーの意識は精神的なものであり、そのユニティーにたいして真実であろうとするわれわれの努力が、すなわち、われわれの宗教である。そのユニティーは、たえずわれわれの歴史において、ますます完全な姿で啓示されることを待ち受けている。
    --R.タゴール(森本達雄訳)『人間の宗教』第三文明社、1996年。

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2月になって大学の仕事もほぼほぼ終わり……ただレポートの添削だけは季節にかかわりなく無限に進行していきますが……自分自身の研究と教育の仕込作業に集中できるようになったわけですけども、マア、この作業というのが作業としては確かにひとりでコツコツやる作業です。

しかし、決してひとりで、他者から孤立してやっているわけでもない……そんなことを一人で「作業」しながら感じることが多々あります。

そしてこれは研究とか教育の孤独な一人の仕込作業にだけ限定された問題ではなく、市井の仕事にいってもそうですし、家庭人として振る舞うときもそう感じることが多々あります。つまり、物理的・時間的には確かに〝閉塞〟された、他者から〝切り離された〟環境であったとしても、なんからの関係世界のなかでの自分を意識しながら、そして意識するだけでなく、なるべく自己から世界や事物、人間に対して「孤絶」し、「引きこもっていく」ことを、本能的に避けようとしている……とでもいえばいいのでしょうか。

たえず、全体のなかでの自己自身。
そして自己自身のなかでの全体。

その関係を分断することなく、相即的に取り組むなかで、人間は人間へと成長していくでしょう。

さて……。
この他者というのは厄介です。
他者という人間の存在は確かに頭に来たり、悩みの種になったり、苛ついたり、自己自身を当惑させる「異邦人」として出現します。そして面前に存在しなくても、不在の「異邦人」が当惑させる存在として機能することもまた然りです。

しかしながら、言う前もありませんが、それだけが「異邦人」のすべてではないのだろうと思います。

頭に来たり、悩みの種になったり、苛ついたり、当惑させるように、そしてその反対のあり方であったりしても、そうさせるということ自体が、「それぞれが互いに矛盾する性質をおびている」という自然なんです。

同じでないからこそ、そうなるのが当然の通りなんです。

ですけど、違うからこそ、「音楽が奏でられるとき」のようなハーモニーにもなるはずなんです。

この他者との関係性のなかで、マア、凹むこと頭に来ることのほうが多いわけですが、決して「孤絶」し、「引きこもること」なく、全体の音色を奏でていく自己自身へ、勇気をもって選択していきたい……そう思うある日の宇治家参去です。

文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)は「人間はひとりでは偉くなれない」と喝破し、コツコツひとりでやることも大切だけれども、他のひととやっていくことの大切さも指摘しております。

コツコツやりながらも、他者との豊かな関係性のなかで、たえず全体へかかわっていく……そういう選択をしたいものだと思うわけですけれども……。

さて……。
本日は休みでしたので、レポート添削で終日がおわりました。
26日が返却締め切りでしたので、「なんとか無事終わった」という実感です。

書かれた皆さんはたしかに「原稿用紙」の「マス目」を埋める「孤独な作業」に徹してこられたことだと思いますが、それは決して孤立した孤独な作業ではありません。

ぜんたいのなかでいる自分自身の作業として受け止めることで、すこし違った趣がでてくるはず、踏み込んで言うならば、タスク消化の学習ではなく、生きる希望、喜びとしての学習に転換するのでは……と、そう思う次第です。

ただしかしながら……。
一日中、家の中におりますと気が滅入ってしまいますので、花粉をものともせず、大学への返送のために宅急便センターへとぽつぽつと散歩です。

今日は手袋が入らないほどの陽気です。

……ということで???

帰宅しますと、早速次のレポートの山の登場です。

嬉しいですね。

ともあれ、詩聖・タゴール(Sir Rabindranath Tagore,1861-1941)の言葉「人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである」はしみますね。花粉以上です。
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【覚え書】丸山眞男〝雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靱な自己統御力を具した主体なしには生まれない〟、『日本の思想』

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 ここでもう一度、この詳論の出発点をふりかえって見よう。私達の伝統的宗教がいずれも、新たな時代に流入したイデオロギーに思想的に対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想はつぎつぎと無秩序に堆積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的「機軸」としてこの事態に対処しようとしたが、國體が雑居性の「伝統」自体を自らの実体としたために、それは私達の思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけで強力に働き、人格的主体--自由な認識主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でも--の確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた。戦後の変革はこのエセ「精神的機軸」を一挙に顛落させた。ここに日本人の精神状況に本来内在していた雑居的無秩序性は、第二の「開国」によってほとんど極限にまであらわらになったように見える。思想界の混迷という言葉は明治以来、支配層や道学的保守主義者の合言葉であった。しかし思想が現実との自由な往復交通をする条件は戦前には著しく阻まれていたことを思えば、今にして私達ははじめて本当の思想的混迷を迎えたわけである。そこから何がでて来るかは何とも分からない。ただ確実にいえるのはもはやこと地点から引きかえすことはできないし、また引きかえす必要もないということである。
 加藤周一は日本文化を本質的に雑種文化と規定し、これを国粋的にあるいは西欧的に純粋化しようという過去の試みがいずれも失敗したことを説いて、むしろ雑種性から積極的な意味をひきだすよう提言されている。傾聴すべき意見であり、大方の趣旨は三世であるが、こと思想に関しては若干の補いを要するようである。第一に、雑種性を悪い意味で「積極的」に肯定した東西融合論あるいは弁証法的統一論も「伝統」もあり、それはもう沢山だということ、第二には、私がこの文でしばしば精神的雑居という表現を用いたように、問題はむしろ異質的な思想が本当に「交」わらずにただ空間的に同時存在している点にある。多様な思想が内面的に交わるならばそこから文字通り雑種という新たな個性が生まれることも期待できるが、ただ、いちゃついたり喧嘩したりしているのでは、せいぜい前述した不毛な論争が繰り返されるだけだろう。
 私はさきごろ「タコ壺文化」と「ササラ文化」という比喩でもって、基底に共通した伝統的カルチュアのある社会と、そうでなく、最初から専門的に分化した知的集団あるいはイデオロギー集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壺」をなし、仲間言葉をしゃべって「共通の広場」が容易に形成されない社会とを累計的に区別し、日本を後者の典型に見立てたことがある。(本書III「思想のあり方について」参照。むろんこういう類型化は一つの特徴をきわ立たせるためのもので、何も普遍的な社会形態論として言ったつもりはない。)戦前ではともかく「機軸」としての天皇制が一種の公用語となって、「タコ壺」間をつないでいたが、戦後はそれも通用しなくなり、しかも国際的な交流が激増したので、国内の各集団やグループ相互よりも、むしろそれぞれのルートで国際的コミュニケーションの方が話しが通ずるといった現象がうまれている。むろんその反面、戦後の社会的流動性の増大とジャーナリズムの発展は異なったグループ間の接触機会を著しく増大したこともたしかである。
 例の昭和史論争なども、歴史学者の中ではああいう方向での太平洋戦争史の研究はかなり前から行われ著書も出ていたのであるが、たまたま新書というカタチで出て普及したことがきっかけになったわけである。あの論争は社会科学者の歴史観と文学者のそれとのギャップがいかに甚だしいかをはしなくも露呈したが、それは逆にいえば両者のコミュニケーションがこれまでいかになかったかを物語っている。その意味で従来全く異なった価値基準でものを考えていた知的サークルが交通し会話することは--ジャーナリズムの悪い側面に毒されなければ--、多様な経験からの抽象化がそれぞれの領域で錬磨される一つの条件にはなりうるであろう。さらにヨリ大衆的規模で考えるならば、多様な争点をもった、多様な次元(階級別、性別、世代別、地域別等々)での組織かが縦横に交錯することも、価値関心の単純な集中による思惟の懶惰(福沢諭吉のいわゆる惑溺)を防ぎ、自主的思考を高めるうえに役立つかもしれない。けれどもそうした社会的条件は、他面において同時にますます認識の整序を困難にするばかりか断片的「実感」に固着し、あるいはそれをあたらな思想形態と錯覚する傾向を甚だしくする条件でもある。雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靱な自己統御力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である。
    丸山眞男「日本の思想」、『日本の思想』岩波新書、1961年。

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ま、なにか社会や人間に違和感を感じるときに、再び手にするのが丸山眞男(1914-1996)か福澤諭吉(1835-1901)の言葉なのですが、今回は丸山の言葉をひとつ覚え書として抜き書きしておきます。

なにかを頼ろうとする心根を避けつつ、〝雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靱な自己統御力を具した主体なしには生まれない〟という言葉を心と頭で理解する必要がやはりあるものだ……そう思う昨今です。

……ということで以上。

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自然と人間そのものに拘束されてしまう人間

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 天候はたしかに完全にそれ自身で変化し、私は、その自立的な変化というしかたにおいて、それだけ拘束を受けないかたちで天候に出会うことになる。とはいえ、人間がまったく別種の存在であったなら、人間が天候に「依存する」こともおよそありえなかっただろう。なるほど天候はその自然なありかたにおいて、人間のことばで或る者に語りかけることはできない。だが天候にはそれでも、或る者をじぶんに依存させることが可能であるが、その根拠は「自然」--人間の自然のうちにある。人間が同時に自然的な生物でなかったなら、天候が人間にかかわることはそもそもありえなかたことだろう。人間がじしん自然を有するからこそ、人間は自然的なものをその自立性において経験し、理解することができる。人間はじぶん自身のうちで、二重の自立性、自然的なものの自動的な自立性と、人格的なものの自立的なそれとを統一している。このことが、人間外的な自然が人間に対して威力をもちうることに対して、存在論的な根拠を与える。人間との関係における自然の自立性が人間にかかわることになるのは、したがって、人間が人間以下的なしかたで存在しているからでもなければ、自然が人間を超えるしかたで存在しているからでもない。人間もまた自然によって現に存在することをつうじてであり、それが人間的な自然であるとはいえ、人間もそれじしん一箇の自然を有することをつうじてなのである。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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このところ天候不順の連続でしたが、本日は朝早くから晴天です。

レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)が「人間の二重の自立性」を説く一分を味わいながら、季節の恵に感謝する宇治家参去です。

「人間が同時に自然的な生物でなかったなら、天候が人間にかかわることはそもそもありえなかたことだろう。人間がじしん自然を有するからこそ、人間は自然的なものをその自立性において経験し、理解することができる」というわけです。

さて天候がよいと、飛ぶんですよ、アレが。

……ということで、本日は早速『小青竜湯』を一服する次第です。

本日は、カードのポイントを貯めて手に入れたギフトカード(福澤先生1枚分)が配達されてきたのですが、細君に取られてしまいました……。

ま、それも自然と人間そのものに拘束されてしまう人間というところでしょうか。

そろそろ外出します。
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今更ながら……iPhone~

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こんばんわ。宇治家参去です。

今更ながらですが、iPhone3G〔S〕に機種変更しました。

これまではnokiaのQWERTYキーボードのついたスマートフォンを使用していたのですが、機種変更のタイミングがきましたので、今更ながらですが、iPhoneにした次第です。

なかなかよいですな。

ついでに……。

明日、カメラマンとなる必要があるんですが……。
実は、実は……
12月に購入したばかりのCanonのハイエンドデジカメPowershot S90を先々週、紛失してしまったので、予備のLumixで撮影しようかと思ってはいたのですが、ええぃ~ままよってことで、S90には劣るのですが、SonyのDSC-WX1という、解放値F2.4、広角24mmの中堅機を用意しました。

ちょいとふたつをこれからいじって頑張ります。

……ということで、

以上。

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【覚え書】「社説 『個所付け』資料」、『毎日新聞』2010年2月17日(水)付。

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社説 「個所付け」資料
これこそ利益誘導では

 これでは政治の刷新とほど遠い。政府は10年度予算案の公共事業の実施場所である「個所付け」を示す資料を国会に提出した。道路事業593路線のなかで民主党見連や知事の要望があったのは321路線で、そのうち190路線は概算要求時よりも事業費が増加していた。
 こうした資料は政府からすでに民主党の地方組織を経由し自治体に通知され、情報も独占されていた。個所付けは自民党政権時代も族議員を通じた地元への利益誘導の有力な道具だったが、今回の手法は党ぐるみで地元の陳情を口利きし、与党の権勢を示したと取られかねない。政府は個所付けの手続きを是正し、透明化を確約すべきである。
 道路や河川工事など公共事業について実施場所や予算配分を決める個所付けは、自治体や業界団体からの関心が高い。例年は予算成立後に公表されるが、自民党政権当時も族議員らは内々に決定や情報収集に政治力を発揮してきた。
 ところが今回、国土交通省から資料を得た民主党は1月末、その情報を党の各見連に通知し、これが一部の自治体に伝えられた。政府はこの資料を「仮配分」であり個所付けとは異なる、として同一資料の公開を拒み続けた。だが、野党側から批判を浴び、やっと提出した。
 まず問題なのは、情報管理の不透明さだ。政府は予算成立前に党の地方組織にまで情報が流出したのは想定外とする。だが、公共事業のパイがしぼむ中、結果的に個所付けと目される資料を身内の民主党が独占し、それを地方に伝えることで与党の権勢を認識させた格好である。自民党が敏感に反応したのも、こうした効果を熟知しているからだろう。そもそも予算編成時点で個所付けを全面的に情報公開し、その内容を国会で堂々と議論すべきなのだ。
 事業評価をベースに個所付けを進めたとし、利益誘導を否定する政府側の説明もにわかに信じがたい。概算要求を上回る事業費が計上されたケースを見る限り、民主党見連や地元の要望に影響されたことは否定できまい。しかも、さきの衆院選で民主党が優勢だった地域に手厚い傾向があり、次期参院選の重点選挙区を意識したような印象も与えている。
 鳩山内閣も当初は予算編成段階で個所付けの内容やその評価基準を示す透明化を打ち出す予定だったという。それが民主党側による地元陳情の集約に伴い手続きが閉ざされ、党をあげての利益誘導と言われかねない状況に変質してしまったことは異常である。古色蒼然とした政治に陥りつつある疑念をぬぐえない。これでは「コンクリートから人へ」という、政権のスローガンが泣く。
    --「社説 『個所付け』資料」、『毎日新聞』2010年2月17日(水)付。

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結局おなじかよっ一人ボケ・ツッコミをして一人バックドロップをする宇治家参去です。
諄いようですが〝為にする〟批判をしようとは思いません。
ですけども、マア、ねぇ……当事者の心根が同じであるとすれば、なんだかなと思わざるを得ません。

利益の追求は必要ですし、公金というかたちの税金の運用に関するならば、なおさら一層、無駄を省くべきですし、公共のためになって欲しいというのが人情です。

しかしなんといえばいいのでしょうかねぇ、。

「利益」という言葉における〝利〟をはき違えているとでも言えばいいのでしょうか……。

日本の、そして東洋世界における思想史のなかでは、この「利益の追求」という発想は、公定イデオロギーと化してしまった朱子学的発想を背景にして、その正当な思想的価値というものはマア、あまり積極的には認められておりません。

どちらかといえば、個人の……特に我利我利亡者のような……利益の追求というものは〝うさんくさい〟ものとして受けとられるカルチャーがあることは否定できません。

ですからでしょうか。

その対極にある、これまた問題のあるカルチャーとしての「滅私奉公」へとも傾きやすいんです。要するにはじゃア、自分の利益を捨てることこそ立派なんだよってやつですよね。

はあ、うんざりです。

さて、価値観における極端の一方から一方への転換ってすごく起こり易いんですよね。
通俗的な事例になりますが、民主主義の飽和状態が全体主義を招くというやつです。

公と私というものは本来、両極に分断された固定的な価値ではないなのでしょう。お互いに緊張的な相即的な関係にあるのがその実情ではないかと思います(それは個と社会の関係に関しても然りです)。

その利に関わる部分がうまく整理できていないし、なんとなく固定化された価値として、しかいも、あんまり「考えるに値しない」価値とされているところにそもそも問題があるのでしょう。

さて……公と個ですが、公共性に関しても私的な利益の確立をその原点におかないと抽象化した立場にすり替えられてしまいます。個人の存在と切り離された危険なかたちで、「国家」や「全体」の利益という形で、個人の利益が全体を代表してしまいますし、その逆お然りです。

公共の利益とは本来、そこに属するひとりひとりの個人の利益の一つのあり方なんです。その意味では、個人的な利益の特定の状況が公共の利益といってもいいのでしょうが、その場合の公共性とは、功利主義的加害原理を勘案するならば、他人の私的な利益や権利を侵さない限りにおいて、個人の利益や権利は自由に主張できるというスタートになるのでしょう。

これが公共性のミニマムなところだと思います。

近代のデモクラシーは「個人の利益」と「公共の利益」の尊重・調和・基礎があるはずなんです。

しかし、個と公共、そして利益の問題を真剣に考えないまま、ずるずるべったりきたのがここ百数十年の近代日本の歩みかもしれません。

戦前はいわば、問答無用の抽象化された立場としての「公共」の優先です。
そして戦後は、弱に教職として抽象化された立場としての「個人」の優先、つまるところの〝物取り合戦〟という奴です。

そして両者に共通しているのは、生きた個人も、生きた社会も存在しない抽象化された立場であり、そして「利益」はうさんくさい、だから抽象化してしまいしょう……というスルーな態度ではないかと思います。

利益はうさんくさくない筈なんです。
価値論的にもういっぺん、議論を整理して、真面目に考えるべきなんです。

議論を整理しておりませんが、もひとついえば、戦前・戦後に共通する正義論が、公共性とも個人の生活世界とも乖離した、作業仮説の〝普遍的〟正義論にしばられつづけているということです。正義と結びつかないと公共性にはならないわけですが、何処かに存在する普遍的正義そのものが〝公共性〟を規定するわけでもありませんし、個人の存在を根拠づけるわけでもありません。ですから、普遍的志向とされる「正義」論の立場から滅私奉公が強要されると同時に、戦後は、公共性の強要は見えるかたちでは否定され、個人の利潤追求が解放され、ケ・セラ、セラの到来となりましたけれども、結局は正義を勘案していないため、利益は「うさんくさい」だけで済まされてきた……そんなところなんでしょう。

個人の利益とその総和としての公共性、そして個と公共の関係にきちんと道筋をつけるべきなんです。

ゆえあって、吉野作造(1878-1933)を研究しておりますが、吉野自身もそれを深く悩むなかで独自のデモクラシー論を練り上げました。

吉野の発想は、足元の一人一人の利益をつなぎ合わせたら公共性になる、そして、それを横に拡大していくと正義論にもつながる……そういった発想です。その具体的構築が彼自身の知的格闘であったように思われます。

ですから、当時は左右両者から、「普遍性」がないと弾嘩されると同時に、利的な方便論とも揶揄されたものなんです。

しかし抽象化された発想をさけつつ、何が大切なのか、それを追求した生涯のように思えて他ならないのですけど……。

ぐだぐだ書き連ねてすいません、【覚え書】なんですけどね。

ただ吉野の発想が照射するならば、

「政治家になにかをしてもらう」から利益誘導主義になることだけは否定できません。
民主主義のプロセスをその原点にかえって発想するならば、「政治家を使いこなす」ことが必要なのでしょう。

そしてその足下から、一人一人の利益をつなぎ合わせる形での公共性を立ち上げていく……それが本来の仕切作業なんでしょ!……、そして公共を「話し合い」のなかで立ち上げていく、そこに公共と個の利益を考えていく、その辺が大事なはずなんです……が。

整理せずに書き殴りすいません、ぐだぐだです。

ともあれ、いっぺえやって寝ます。

しかぁ~し!

幼稚園児の息子を抱えるワーキングプアのお父さんは怒っているんです。
※、例の仕切作業ってやつで、か細い人文科学系への財政投融資は皆無のようになってしまったことに対するルサンチマンがないといえば否定できませんヨ。こんにゃろー。

まあ、冷静になって霊性?の立場から、要点だけ整理するばらば……

①利益について「うさんくさい」って退けるのではなく、もういっぺん、価値論的に議論を整理して正当に捉え直すことの必要性。
※これがないから全部うさんくさくなり、人間からかけ離れた利益とか、利益誘導てきな利益しか出てこない

②公共と個人の相即的関係をみなおすべき
※お互いに離れて存在しない。正義論の再構築。

③、①、②がよく分かっていないから、本来、公共と個人を本来はつなぎとめ、お互いを代表=レプリゼントすべき政治家さんが、結局は同じ事を繰り返す
※結局は、原理探究における知的格闘も皆無で数合わせの論理、十年二十年先を見通して動くこともできず、所詮次の選挙までの時間しか発想できないところにどうしようもないところがあるわけですが。

④おまえら、いいかげんにしろよ。

⑤というわけで放置も出来ません。
吉野作造が常々語りましたが、「政治家に頼るな」。「政治家を使いこなせ」。
ここに、ひとつのヒントがあるかもしれません。

……ということでしょうか???

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〝信〟を〝通〟わせ合う

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 カントが友情について語りうることがらは、アリストテレスにおける古代の古典的分析とくらべて、まったく見劣りしない。カントの哲学は人間的であり厳密なものでもあるが、そのようなカントの哲学にとって友情は、「考えること」とは、相互に訂正しあいながら伝達することであるととらえる、その把握にいたるまで、基礎を与えるものであったからである。それは友情が、西洋哲学の起源にあって、ソクラテスの思考方法すべての原型にとってそうであったのと同様である。

 「愛と尊敬のもっとも内的な合一」〔VI469〕は、しかし友情である。友情とは、他者の福祉に与り、それを分かちあうという理想でり、かくてまたそれじしん一箇の義務である。友情のうちで、接近することの原理と、距離をたもつことの原理が合一される。友情とは、相互の利益を目的とした結合ではない。友情は純粋に道徳的に、すなわち直接に心情そのもののうちで基礎づけられている--友情とはつまり、目的から自由に互いに対して(フュール・アイン・アンダー)存在することなのである。そこでは、だれも他の或るもののために存在するのではなく、両者は直接に互いのために(フュール・アイン・アンダー)存在している。友情は、それが外的に取りまとめるなにものも結合することがない。だからこそしかし友情には、内的な支えが必要となる。友情にそうした支えを与えるものが相互的な尊敬であって、相互的な尊敬により、友情における相互的な愛が制限され、じぶんを-卑俗に-することが防止される。この純粋な友情は、たんなる理想ではない。この「黒い白鳥」〔VI472〕は、じっさいいたるところ、完全なかたちで現実に存在しているのである。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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まあ、いきているといろいろあって、「なんで」とか「どうして」ってことが多々あるんです。

だからこそ人間のあり方はどうあるべきか、そしてその一個の人間と一個の人間の関係はどうあるべきか、って議論が起こってくるんです。

そうした問題に関して孟子(Mencius,372-289.BCE)は、「仁は人の安宅なり。義は人の正路なり。安宅を曠しくして居らず。正路を舎てて由らず」(『孟子』離婁章句)と語り、仁こそ人間がいきていくうえで最も根源的・本源的価値であると語ったそうです。

仁とはひらたくいうならば、「他者を思いやる心」とでもいえばいいでしょうか。
この精神が体得されるならば、ひとは社会においても、わが家でくつろぐように安心して生活を行うことが出来る……そうした概念です。

西洋風に言えば、フィリア(φιλια,友愛)という概念でしょうか。もっと馴染んだ日本語で言えばば「友情」ということでしょうか。

「友情」とは決して対面の実物として存在する他者にのみ向けられた感情・概念ではありません。

物理的に隔てていようとも、通い合わせることのできる精神的態度です。

まあ、いきているといろいろあって、いろいろ思うことがあることは否定できません。

しかしそれと同じように否定できないのが「友情」のもつ力です。

〝信〟を〝通〟わせ合うのは教育だけに限定された問題ではなく、人間として広く捉えることの出来る概念です。

嗚呼、別に何を書きたいわけでもありませんが、そんなところを少し考えた宇治家参去です。

他者を信じることは人間にしかできません。
宇治家参去は「友情」こそすべての基盤と思われて他なりません。

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共同存在の現象学 (岩波文庫) Book 共同存在の現象学 (岩波文庫)

著者:レーヴィット
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容赦ねがいたい、わが友よ、あえて私が自分の幸福を壁にえがいたことを

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 苦悩を求める欲望。--みながみな退屈に耐えられず自分自身に我慢できなくなっている行く百万という若いヨーロッパ人を、たえずくすぐったり刺戟したりするところの、何かをしたいというあの欲望のことに考えおよぶとき、--自分たちの苦悩から行動や行為のためのもっともらしい理由を取って来ようとして、何かに悩もうとする欲望が、彼らの内にあるに相違ないと、私は思う。困窮が必要なのだ! だから政治家たちはわめき立てるし、だからまた多数の偽った架空の誇張された、ありとあらゆる階級の「困窮状態」といったものと、それを喜んで信じようとする盲目的な気構えとが、つくりだされるのだ。こうした若者たちは、外から--幸福なんかではなく--むしろ不幸が訪れるか出現するようにと、熱望する。そして、彼らの空想力は、そこから一個の怪物をつくりだす--後ほど怪物と闘うことができるためにとて--ことに、前まえから精を出している。こうした困窮渇望者たちが、自分の心の中に、内奥から自分自身を悦ばし、自分自身に何かを与えてくれる力を感ずるならば、そのときには彼らはまた、内奥から独特の、自己独自の困窮を創造するすべをも会得するであろう。そのときには、彼らの創作物は一そう精妙なものとなりうるだろうし、彼らの満足は素晴らしい音楽のようなひびきを立てることもできるだろう。それなのに、彼らは現に世界を彼らの困窮の叫びで一杯にし、したがってあまりにもしばしばただもう困窮感情で一杯にしてしまう! 彼らは自分が何をしているのか皆目わからない--そこで彼らは他人の不幸を壁にえがく。彼らはいつも他人を必要とする! そしてくりかえしまたぞろ別の他人をだ! --容赦ねがいたい、わが友よ、あえて私が自分の幸福を壁にえがいたことを。
    --ニーチェ(信太正三訳)『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』筑摩書房、1993年。

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ある日の細君との会話。

「○○さんのご主人はクリスチャンなのだそうよ」

「ふ~ん」

「でも、真剣にやっているというよりは、とりあえず所属がそれで、教会にきちんと通っているとか、そういうタイプではない見たい」

「ふ~ん」

「よくある二世代目、三世代目の、意識はそんなにないという感じみたい」

「……ということは、私のキリスト教理解がそのご主人よりも卓越しているということになるな」

「……」

「その~、聖書理解・解釈、教会史・神学思想への熟知という意味ですが・・・」

「……の割には金にならないとすれば、そのご主人の方が生活者としては成立している」
「……」

……といことで、早々に居間を退散して、仕事をしましょう。

たしかにクリスチャン(欧米人)の仏教学者はゴマンといるのですが、仏教徒の神学者というのはほとんど聞いたことがありません。ただこうしたポストモダンな思想状況ですので、そうしたあり方もアリかな……とは思うわけですが、仕事の前に、チト、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)を読書です。

ニーチェの言うとおり、作業仮説として構築された困窮、自分の外にある架空の苦悩からは真の幸福は導き出せないのかも知れません。

……ということで、「多数の偽った架空の誇張された」困窮状態を夢想することなく、自分の仕事にきちんと着手していこうと思います。

……ということで、、、学問の仕事中。。。。

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ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫) Book ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

著者:フリードリッヒ ニーチェ
販売元:筑摩書房
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人間を見よ、そうすれば諸君は、世界についてどう考えるべきであるかを、知るであろう

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 世界がどれほど価値あるものなのかということを、世界の最小の小部分でさえも、顕示してくれるに違いない、--人間を見よ、そうすれば諸君は、世界についてどう考えるべきであるかを、知るであろう。
    --ニーチェ(渡辺二郎訳)『哲学者の書 ニーチェ全集3』筑摩書房、1994年。

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昨日は、市井の職場で2年間仕事を頑張ってくれたバイト君が最後の勤務でした。

夢を抱いて岩手から東京の専門学校への進学のため上京し、環境が落ち着き始めた4月にバイトをはじめて、まる2年間、真面目に愚直に仕事をしてくれました。

ありがとうございます。

……ということで、ここは最後にいっぺえつれていかないと、宇治家参去の〝漢(おとこ)が廃る〟というわけで、仕事が済んでから軽く一ぺえ行ってきた次第です。

正直、財布がきつく、スルーしようかという心がなくもなかったのですが、やはり最後の一日を一緒に汗をながしておりますと、まあ、そんなことどうでもいいや、まずは目の前に存在する人間と世界を分かち合う必要の方が先決だ、と思い直し、終業後、一服しているときに、急遽声をかけ、二人でくり出してきました。

かるく1時間程度のささやかな最後の晩餐です。

要領もよくなく、才知に長けたというわけでもないのですが、きちんとひとつひとつ仕事を覚え、仕事が終わると「もっと、今日はがんばれたはずなんですけどネ、すんません」という若者です。

「これとこれをやって……」って指示をだしても最初はなかなか自分で組み立てることができず、〝指示待ち〟の若者だったのですが、2年間も積み上げていきますと、「これとこれ」が時間内に済むと、全体を見渡して、自分で仕事を組み立てるようになりました。
最初は正直「大丈夫かな」と思ったこともありましたが、何事も「素直」に「取り組む」姿勢には、こちらが自分自身を見直さなければと襟を正させて頂いたものです。

ほんと凄いことです。

このご時世ですので、就職活動も厳しくなかなか決まらなかったのですが先月末にようやく内定が決まりました。

鬱になりそうなほど凹みながらも、夢に向かって諦めずに挑戦し続けた姿には感動したものです。

そうした姿こそ、要領や才知で「処理」する処世術をひっくりかえす、そして(時間はかかるかもしれませんが)着実な仕事で成果をのこしていく挑戦者なのかもしれません。

これからは、バイトの世界以上にきつく大変な世界なのは承知でしょうが、ぜひ、我が道をがんばってほしいものだと思います。

……ということで、軽くしか飲まなかったのですが、さすがに連勤中で疲労度マックスでしたので、帰宅後、ソファーでまどろんだのがいけませんでした。

熱は出ておりませんが、例の如く風邪をひいてしまいました。

しかしながら、風邪を引こうが雨が降ろうが槍が降ろうぜんぜん大丈夫です。
酒の量もやっておりませんでしたが、いい宴席となりました。

まだまだ始まったばかりの人生行路かもしれませんが、勝利を祈るのみです。

世界を価値あるものにするのは「人間」においてほかならない……そうしたところを彼から学ばせて頂いたように思います。

ありがとう!

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「対応」〔相互応答〕(コレスポンデンツ)

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 文字によっては、しかし、《私》と《きみ》はもはや互いに-共に語りあうことはできない。それでも互いに-宛てて書くことができるだけである。或る-他者-に宛てて-書くことは、他方やはり、互いに共に語ることとおなじように形式的に理解されるべき、通-信という意味においてなお規定されている。手紙の宛て名書きはその意味からして、口頭で語りかけることと同様に、語りかけが私に-もどって-くるというしかたで、他方の者が関与してくることを要求している。つまり返答を要請しているのであって、返答によって両者それぞれの手紙ははじめて「対応」〔相互応答〕(コレスポンデンツ)となる。ことばのやりとり(ヴォルトヴェクゼル)とはことなり、一者と他者の手紙のやり取り(ビリーフヴェルゼク)は、すでに相対的には自立化した表現である。たしかに手紙はなお、文学作品のように意図をもって独立させられた表現ではない。それでもやはり、手紙が宛てられた通信相手に対しても、手紙のなかでじぶんをあらわす手紙の書き手に対しても、手紙はすでに相対的には自立しているのである。手紙が相対的に自立しているのは、一者の手紙が他者の手紙に応えるものであり、さらに他者の回答を意図しているかぎりにおいてである。相対的に自立しているのは、手紙が、文字による表現として--他者が現前していないことにおいて、また現前していないがゆえに--、他者には依存せず、ひたすら手紙を書く者自身によってかたちづくられるものだからなのである。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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午前中におきて、本当は、息子殿の工作の発表会に鑑賞のために幼稚園に行く予定だったんです。

ですけど、不覚ながら、起床することあたわず……。

学師・レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)老師が「哲学とは醒めていることである」と指摘したことは承知だったのですが、あいにく市井の職場が勤怠調整都合上、怒濤の連勤になっているという状況でして……、まさに不覚ながら、起床することがあたわず……という次第です。

……ということで工作の発表会といいますか、作品展の鑑賞はできず、デジカメの画像にて確認したというウンコ野郎になってしまいました。

マア、これも、疲れたお父さんをいたわる家族の思いやりと解することにいたしましょう。

さて……。
息子殿の個人作品のテーマは、「将来の夢」でした。
粘土細工でその模様を作品化したようでしたが、息子殿の「将来の夢」は「だいがくのせんせい」とのこと。

これを喜ぶべきか、悲しむべきか、判断には迷うところですが、言えることがふたつ。
①文系……とくに人文科学に進むべきではないということ。
※なにしろポストが殆どなく、親の宇治家参去自身が苦労しておりますのでそう思うのですが、その反面、やはり、根本学としての人文科学こそ学問の王道との誇りはありますが……、悩みますねぇ。
②金がかかる!
※大学院までやって、タツキを得るまでのフォローをしなければならないのかっ!って思う反面、そこまでしてくれた自分自身の親にも感謝というところでしょうか。

……ということで、教室での様子を再現した稚拙な粘土細工でしたが、最大限に褒め讃えたことはいうまでもありません、親ばかでスイマセン。

ちなみに、細君に詳細を聞くと、息子殿のなかでの最近の学的関心としては「深海魚」とのことで、誕生日にかってもらった「深海魚図鑑」もほとんど暗記してしまうという状況でして、まあ、それはそれで、ウルトラマンとかポケモンに知的リソースを注ぐよりはマシか、という部分と、形式的構造論ですが、人文科学でなくてチトよかったと思う宇治家参去です。

ただ、その深海系の「ダイオウグソクムシ」だったけ?……あたりを現物を鑑賞できる新・江ノ島水族館にもう一度行きたいというオフォーも提示されており、頭を悩ませるところもあります、なにしろ遠いんです、疲れるんです。

……という話を聴きながら、微睡んでおりますと、クロネコヤマトさんがぴんぽ~ん。

オークションで何も落札していないし……と思うと大学からでした。

通信教育部のレポートの「山」が登場しました。
ぴんぽ~んをもらう前に、来週締め切りのレポートの束の添削を済ませたところでしたので入れかわりというわけですが、ひさしぶりに「山」です。

真剣に対応させて頂きます。

なにしろ通信教育の生命線となりますのは、なんといってもレポートになります。レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)が言うとおり「(広義における文書のやりとりとは)通-信という意味においてなお規定されている。手紙の宛て名書きはその意味からして、口頭で語りかけることと同様に、語りかけが私に-もどって-くるというしかたで、他方の者が関与してくることを要求している。つまり返答を要請しているのであって、返答によって両者それぞれの手紙ははじめて「対応」〔相互応答〕(コレスポンデンツ)となる」わけですから……。

ただ、季節はずれに量が多く、嬉しい悲鳴ということでよろしいでしょう。
自分も教壇に立ちながら口を酸っぱくしながら「レポート書けよ」ってあおりつづけたひとつの成果です。

……ということでぱらぱらめくってから、今度は、師匠へお出しする自分の手紙の執筆という段階です。

とりあえず、箇条書きにて、書かなきゃ行けないことを羅列したわけですが……。

「薄っぺらい!」

こころはナイーヴですが、貴族の不幸も貧乏人の憂鬱も知りません。

……まさに、

「薄っぺらい!」

そのことを細君に話すと、

「今頃、気付いたの?」

……って言われる始末です。

「そんなハズはないと思っていたのだけど・・・、ねぇ~、一体なんなんだろう」

「ウンコでしょう」

「はあ」

「ただ……」

「ただ……、何?」

「ウンコではなく、ウンコをつくる〝糞造機〟だな」

……って汚い話ですいません。

……というわけで???

もう少し練り込んで完成させようかと思いますが、チト疲れたのでとりあえず、飲んで沈没します。

締め切りまでには……間に合う筈。

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共同存在の現象学 (岩波文庫) Book 共同存在の現象学 (岩波文庫)

著者:レーヴィット
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空想より科学へ そして人間そのものへ

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 三 プロレタリア革命。矛盾の解決、すなわち、プロレタリアートは公共的権力を掌握し、この権力によってブルジョアジーの手からはなれ落ちつつある社会的生産手段を公共所有物に転化する。この行動によって、プロレタリアートは、これまで生産手段がもっていた資本という性質から生産手段を解放し、生産手段の社会的特質に自己を貫徹すべき完全な自由を与える。かくして今やあらかじめ立てた計画に従った社会的生産が可能tなる。生産の発展は、種々の社会階級がこれ以上存続することを時代錯誤にする。社会的生産の無政府状態が消滅するにつれて国家の政治権力も衰える。人間はついに人間に特有の社会的組織の主人となったわけであって、これにより、また自然の主人となり、自分自身の主人となる。--要するに自由となる。
 この解放事業をなしとげること、これが近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的条件とその性質そのものとを探究し、以てこれを遂行する使命をもつ今日の被抑圧階級に、彼ら自身の行動の条件および性質を意識させること、これがプロレタリア運動の理論的表現である科学的社会主義の任務である。
    --エンゲルス(大内兵衛訳)『空想より科学へ 社会主義の発展』岩波文庫、1966年。

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市井の職場へ出勤すると、ちょうど時間帯が入れかわりの担当者から、

「帰る前に、バレンのプロモを補充しといてね!」

……と引継を受けた次第ですが、

言うまでもありませんが、バレンのプロモとは、馬連のプロモーションではありません。

要するに、2.14のバレンタインデーのプロモーション(sales promotion)のコーナーを最後に補充しておいてくれという意味です。

バレンタインデーのセールス・モチベーションが爆発するのが、基本的には前日です。
ですから、その一角をきちんと補充してから帰ってね!というお願いです。
※ちなみにいえば、最終駆け込みがありますので、前日とほぼ同レベルで推移するのが、当日というわけですが。

まあ、言われたとおりであり、そしてレジに入っていて実感しますが、世のご令嬢・御婦人方の皆様、本日もかなり、購入されているようでした。

マア、専門店ではありませんので、義理とか人情といった類の需要がほとんどですけど、それでも、本命用?の自作キットとでもいえばいいでしょうか……、生チョコの類も飛ぶようにうれるものですから驚く次第です。
※ちなみに宇治家参去は細君から自作されたことはありませんが、彼女が自作した場合、田辺整調剤ないしは太田胃散が不可欠になりますので、トント遠慮申し上げております。
で……。
そうした光景は、ほとんど社会慣習化した年中行事の一コマにすぎませんが、仕事を終える直前になりますと、それでもプロモーションの一角は滑らかな大地になるものですから、最後に補充して帰宅した次第です。

さて……。
宇治家参去の場合、一応、本業が学問というわけですが、それでも喰べていくことが不可能ですので、市井の職場……要するに学問と一切係わりのない一般企業……で働かざるを得ないというお寒い状況です。

現在の職場は、もう4-5年になりますが、結婚したのが博士課程在学時でしたので、人材派遣を含めるとそのころから、マア、丸十年ちかく、アカデミズムとはほど遠いサラリーマンの真似事のようなことをしております。

まあ、それは自分自身の問題ですし、どうのこうのということはないのですが、それでも不思議なもので、そこから学び、いうなればアカデミズムの肥やしになるようなところは日々発見することがあります。

その一つを端的に指摘すると、経済・仕事・ビジネス……という部分に置いて結局その雌雄を決するのは「人間」そのものである、という点です。

経済学(ミクロ・マクロ含む)、経営学……といった専門知識に関しては全く門外漢です。ですから理論や学理に根拠をもつ発想ではありません。ただそれでも哲学の社会思想史における展開との関連から、そういうジャンルの古典ぐらいは目を通しておりますが、ヘッポコ理解にしかしぎません。

それでもなお、拙いサラリーマン生活?のなかで、最終的に行き着いたのは、「人間」そのものなのではないか……その一点です。

職人さんとか匠の世界でいくとそれが〝常識〟です。
しかし、その射程におさまりきらないのがじつは現状なのかも知れません。

まつ持論ですが、理念と現実状態の乖離に関しては、現実を批判的に弁証する理念の視座が必要不可欠である点も承知です、それと同時に理念先行で現実を抽象化する態度は生きている現実を分断してしまうからこそ、そうした学問と現実との相関的(弁証法的ではなくですよ)な対話が必要なわけですが、そうした極端を排しながら、相関的対話を目指取り組みとして、つたない経験とつたない学理を相即させると、どうしてもそのようにしか思わざるをを得ません。

……ということでもどります。

現在の職場は職種としてはGMSです。
要するに販売小売の最前線とでもいえばいいのでしょうか。
かなりな部分が正直なところ機械化されておりますし、先人たちが苦労したような部分は苦労しなくても済むようなシステムへと転換されております。

例えば、商品の発注なんかもその一つです。
これまでは手動発注でしたが、現在の勤務先の場合、POSレジを通った商品に関しては、基本的にはマイナス在庫になったアイテムが自動的に納品される仕組みになっておりますので、微調整だけで済みますし、季節行事に左右される商品に関しては、例年の需要を踏まえた上で、これまた本部供給として自動的に納品されるようになっております。もちろん客注のようなイレギュラーのものは別途対応ですが、それでも、紙の伝票を起こして、どうのこうの~というご時世ではなく、携帯電話のようなハンドヘルドPCでバーコードをスキャンしてそのまま数値を入力すれば発注できるわけですから、かなりな部分で、「人間」そのものに対する負荷は軽減されていることは否定できません。

しかし、雌雄を決するのは「人間」なんです。

極端な例ですが、先に述べた「帰る前に、バレンのプロモを補充しといてね!」は、人間がやりませんと、補充は不可能です。

……と書きますと、それでも、

「人間不要のオートメーション化は進んでいるだろう」

……などと言われそうですが、

それでも、

雌雄を決するのは「人間」なんです。

例えば、これもマア極端な例ですが、自動販売機とかフードサーバーなんかはオートメーション化のひとつの極地です。

しかし、人間がかかわって「なんぼ」というシロモノであることには変わりません。

週に一度ほど、煙草の自動販売機の「補充」をしますが、このタスクを欠いてしまうと大きな問題にもなりかねません。

「○○って奴がほしいんだけど、どうしてぇねぇぇぇんだァ、こりゃァァァ」

……って胸ぐらを掴まれない自身は宇治家参去にはありません。

まさに、人間がかかわってナンボなんです。

「バレンのプロモ」を補充するには「人間」なんです。
たしかにその在庫調整・発注に関しては、(半)自動かもしれません。

それでも、それを最終的に手に取る人間に対して用意する……この場合、売り場に補充陳列するということですが……人間なんですよね。

現在の職場へ移る前は、カスタマーサポート系のコールセンターで長く勤務しておりました。

基本的には、オートメーション化と人間不在の極地のような職場です。
PCを前にヘッドセットを付けて対面する、そして情報管理の観点から私物のみならず私情までも持ち込めない職場です。

ルームに入る前に身体検査をうけてから入り、PC前に着座してから、ログインする。
情報と技術に関しては、先端の環境です(物体的な、イノベーション的なクリエィティヴィティという意味での先端ではありませんがね)。

ですが、そこでも長く仕事をしていると、結局は雌雄を決するのは「人間」そのものなんだよな……などと思った次第です。

クレームなんかもそうなんです。
こうした職場の場合、面と向かってやりとりしているわけではありません。
音声とかせいぜいモニター越しの映像付きぐらいのものでしょう。
でも「人間」そのものなんです。

人間と人間の間に介在するシステム・テクノロジーは一昔前とは天文学的な飛躍を遂げていることは間違い在りません。

しかし、そのターミナルにいるのはやはり「人間」なんです。

大クレームを収めるのも応対した「人間」であれば、ささいな問題を、大クレームに発展させてしまうのも「人間」なんです。

商品を品だし陳列するのも人間な訳ですが、媒介応対による場合も同じなんでしょう。

たしかに、仕事をするなかで、人間不在のようなかたちで、数値やデータ、過去の記録や応対を参照しながら「処理」することはたぶんにあります。

しかし、結局はそれでもなお、「出してなんぼ」(品だし)、「聞いてなんぼ」(カスタマーサポート)という事実は否定できませんから、テクノロジーとかそのあたりがどのように進展しようとも、最終的にはやはり「人間」そのものへ行き着きざるを得ない……そんなことを、ぼんやり考えながら、目玉となる「バレンのプロモ」を構築した次第です。
結局、いかに技術や人間の周辺環境が激変しようとも、そこに生きている「人間」そのものへと視座を転換しない限り、「人間」に即した環境も状況も時代も創れることは不可能かもしれません。

だからでしょうかねぇ。
マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818-1883)にしろ、エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)にしろ、目指す心根がわからなくはないんです。

ですけど、「人間」そのものをマスとして扱う態度にはどうしても首肯することができず、「人間」不在にその胡散臭さを観じざるを得ないんです。

これは彼らのなんとかしようとする革命的なモチベーションを否定しようと言うことでは全くないんです。しかし、そのスケッチにはなんとなく、

「おれは、遠慮します」

……ってなってしまうんです。

これがサラリーマン生活での経験則というやつでしょうか。

……ということで???

「バレンのプロモ」を準備したり、補充したりしているとお客様からよく聞かれます。

すなわち……、

「これ旨いの???」

……っていうトンデモナイ質問です。

ですから、遅まきながら予習を少々。

この季節のために、SAPPOROがROYCEとジョイント・ベンチャーした……って書くとゼネコンみたいですが……、チョコーレと風味の発泡酒「サッポロ ショコラ ブルワリー Bitter」で一献です。

コピーによると、「“大人な”チョコレートのお酒」ということです。

要するに、チョコレート麦芽を一部使用しカカオを加えた、芳しい香りとほろ苦い味わい加えたビール系飲料です。

さて……。

ゴキュゴキュってやりますと、

雰囲気は、濃厚な黒ビール……って思いきや、後味が「チョコレートっ!」って叫んでしまいました。

ですけど、甘ったるくはありません。

“大人な”チョコレートのお酒です。

二度と飲むことはないかもしれませんが、季節の風物詩を彩る一品ではありますね。

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空想より科学へ―社会主義の発展 (岩波文庫 白 128-7) Book 空想より科学へ―社会主義の発展 (岩波文庫 白 128-7)

著者:フリードリッヒ・エンゲルス
販売元:岩波書店
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【覚え書】「論説ノート 少数者か弱者か 伊藤正志」、『毎日新聞』2010年2月11日(木)付。

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論説ノート 少数者か弱者か

 民主党の小沢一郎氏は幹事長を「辞任すべきだ」との回答が、毎日新聞の世論調査で69%に上った。新聞各社の結果もほぼ足並みがそろう。
 民主党議員に調査をしたろうだろう。ほとんど「辞めろ」の声が聞こえないから、「辞任派」は少数か。いや、案外多数で、何らかの理由で声が出せないのかも。目に見えぬ圧力に縮こまる弱者の姿をそこに見る。
 考えてみれば、少数者や弱者の権利を保障するというのが民主主義社会というものだ。ふと思いつき民主党の政策集をながめると、少数者や弱者にやさしい政党だということに改めて気づかされた。
 子供や外国人、高齢者、障害者への政策が並ぶ。さて実現度は? かねて注目していた政策に目がとまった。
 「個人通報制度」の導入である。たとえば、女性を不平等に扱ってはならないという権利が侵害された時、国内で裁判を起こせる。だが、負けて救済されないとき、個人が国連の機関に通報し、勧告してもらえる制度だ。
 政府の対応や裁判官の意識改革が期待できる。先進国のほとんどが制度を取り入れている。民主党は政策集で「政権獲得後速やかに関係条約の選択議定書の批准等の措置をとる」と書いた。
 政権発足後5カ月がたつ。批准はどうなっているのだろう。聞いてみると、関係省庁の勉強会で問題点を整理しているというが進展の様子はない。これでは「速やかに」が泣く。
 さて、小沢氏の進退問題である。民主党議員は少数者や弱者の衣を脱いだらいかがだろうか。既に判断材料はそろっていると思うのだが。「速やかに」自分の考えを表明してほしいものだ。
    「論説ノート 少数者か弱者か 伊藤正志」、『毎日新聞』2010年2月11日(木)付。

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考えたり、日常生活を反芻したりする時間の余裕がちょいとないので、【覚え書】にてお茶を濁しておきます。

ただ、新聞の「論説ノート」を読みつつ、枝葉の議論はともかく、要するに半年たって、野⇒与へ移行したにもかかわらず、その責任と自覚がまったくないというところに頷いてしまった次第です。

自民党政権がどうのとか、民主党政権がどうのとか、「為にする」批判をしようとは思いません。

ただ、ポストについたのであれば、やはり責任と自覚をもって「行動」するほかないわけなのですが、依然として「昔」の「ポジション」の心根しかない……そこに、何だかな……と思う深夜です。

結局のところ、人間に対して盲目であるならば、自分自身に対しても盲目になってしまうということでしょうか。

はあ、ホンマ、頼みますよ。

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私自身の経験から概括すれば、たいてい煩悶や決心の結果起きるのではない。突然起きてしまっているのである

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 われわれは寒い朝寝床から火のない室におきて出るとどんなであるか、またいかに、われわれの内なる生活原理が起きよとの命令に反対するかを知っている。おそらく多くの人は、いつかの朝決心を敢行することができなくて一時間も寝ていたことがあるであろう。遅くなることも考え、その日の仕事に差し支えることも考える。「起きなければならぬ、これは恥ずかしいことだ」とも思う。しかるに温かい寝床は心地がよすぎて外の寒さは酷すぎる。そして抵抗を打破って決行せんとする瀬戸際までいっては、繰り返し繰り返し決心が消えては延期する。さて、かくの如き場合どうして遂に起きるのであろうか。私自身の経験から概括すれば、たいてい煩悶や決心の結果起きるのではない。突然起きてしまっているのである。幸いに意識の脱失が起こる。温さをも寒さをも忘れてしまう。日常生活に関連のある何かの想像に陥り、その間に「さあ、もう寝てはおられぬ」との観念が閃く。その観念は折よくも、なんら反対や麻痺的な暗示を喚起しないので、これがために直ちにその本来の運動結果を生ずる。われわれの動作を麻痺せしめ寝床の観念を単なる願望の状態において意志の状態におかなかったのは、温かさと寒さとの鋭い観念であったのである。
    --ウィリアム・ジェームズ(今田寛訳)『心理学 下』岩波文庫、1992年。

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意志は万能ではないかもしれません。
身体は意志の力によって統御可能なことは承知ですが、それで総てをうまく説明することは不可能かもしれません。

身体の運動は基本的に意志とは無関係に運動の観念だけで起こりうるのかもしれません。
……ということで、最近、朝勝できていないので、早く起きないと、まさにプラグマティズムの哲学者ジェームズ(William James,1842-1910)の指摘する通り、「『起きなければならぬ、これは恥ずかしいことだ』とも思う」わけですが、同時に、この季節でございます。

「寒い朝寝床から火のない室におきて出るとどんなであるか」ということも知っておりますから、理念とか決意とか意志とか観念以上に、「抵抗を打破って決行せんとする瀬戸際までいっては、繰り返し繰り返し決心が消えては延期」してしまうのが人情なのでしょう。

ですから、そのためには、「早く寝るべき」なのですが、なかなかうまくいきません。

……ですが、今日からは、新しい朝の出発をすべし!

……ととりあえず決意する宇治家参去でした。

ただしかぁ~し!

ジェームズのようなエライ哲学者も、寒い朝の朝寝坊は、わかっちゃいるけど「私自身の経験から概括すれば、たいてい煩悶や決心の結果起きるのではない。突然起きてしまっているのである」というあたりは、どうも人間くさくてよい話です。

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「YEBISU うすはり硝子器揃 玻璃蔵 庄太郎 謹製」タンブラー

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 世界そのものは、世界の内部にある存在者のひとつではない。けれども世界はこれらの存在者を規定していて、それらが、出会ったり、発見された存在者としてその存在において現われてきたりすることができるのも、実はひとえに世界が「与えられている」からなのである。それにしても、世界はどのように「与えられている」のか。現存在が存在的に世界=内=存在によって構成されていて、その存在には現存在の自己についての存在了解も本質的にそなわっているのだとすれば、この存在了解がどれほど無規定なものであるにしても、現存在は世界の了解を--まだ明確な存在論的知見を欠いており、かつ欠きうる前=存在論的な了解ではあるが--もっているということになるのではあるまいか。配慮的な世界=内=存在に内世界的存在者が出会い、したがってそれの内世界性が現われてくるとともに、それと同時になにか世界というようなものも現れてくるのではあるまいか。この世界の現象は、なんらかの前=現象学的視向に映ずることがあるのではないか。それはすでにして、かような視向のうちに映っているのではないか--、まだそれとして主題的に存在論的な解釈を請求してはいないけれども。手もとにある道具に配慮的に融けこんでいる境涯のなかでも、配慮されている内世界的存在者とともに、あるありさまでそれの世界性が閃いてくるというようなことがあるのではないか。現存在自身が、かような存在可能性をもっているのではあるまいか。
    --マルティン・ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間 上』ちくま学芸文庫、1994年。

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イライラが募ってはおりましたが、済ませるだけ済ませる仕事を片づけますと、お楽しみタイムです。

実はですね、

実はですね、

YEBISUの特製グラス……しかもなかなか手に入らない奴……をもらってしまいましたです。

はい。

「YEBISU うすはり硝子器揃 玻璃蔵 庄太郎 謹製」タンブラーです。

東京は江東区の松徳硝子株式会社の製造の限定グラスです。同社はもともと電球用ガラスを製造していたのですが、そのノウハウを活かして「うすはりグラス」を世に送りだしたことで有名です。

バカラほど高騰しているアイテムではありませんが、その逆の発想で、繊細なグラスを造っていることで知られているわけですけども、そのエビスグラスですよ、旦那!

もともと電球をつくっていただけあり、めちゃくちゃ硝子が薄いんです。薄いから軽いわけで、同サイズの紙コップよりも軽いのではないかと見まがうほどの繊細な硝子です。

ですから壊れやすいのですが……「小さなお子様」には触らせること勿れと注意書きあり。

……ということで、早速YEBISUの瓶ビールを購入しやりはじめましたが……。

グラスによって酒が旨くなるというのは事実ですね。

脱帽しました。

ドイツの哲学者ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)は、主著『存在と時間』で、現存在(Da-sein)としての人の存在様態を探求する予備的考察のなかで、存在者としての道具の問題を論じておりますが、人間も、そして道具に代表される用具的存在者に関しても、その出会いが幸福であればあるだけ、人間の世界は彩り豊かなもになるものだ……などと思う夕べです。

ありがたし!

〝世界はどのように「与えられている」のか〟

「そりゃア、ハイデッガーの旦那。幸福になるために存在しているわけですよ。例えばこういう至福のひとときのようにね」

……とでも答えましょうか。

ただ、本日は、初秋、晩春の陽気です。

ビールが旨い!

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「わしゃア 木石じゃないぞっっ!」

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日露戦争(1904-05)における地上戦の推移を決定的に印象づけた戦闘が、第三軍による旅順攻囲戦ではないかと思います。

乃木希典(1849-1912)大将の第三軍の正面攻撃は、東洋一と呼ばれるロシア軍の旅順要塞の前にたびたびと敗退を重ねるわけですが……このことで作家・司馬遼太郎(1923-1996)の描く乃木=愚将観というのも大きな影響を持つことになりますが……、そのへんの消息を生々しく描いたのが、映画『二百三高地』(東映、1980)でしょう。

戦線が激化するなかで、長男、次男を次々と亡くす乃木。
しかし戦線は有利には推移しているわけでもなく、日本側不利の状況で、そうした窮地を見かねた莫逆の友・児玉源太郎(1852-1906)満州軍総参謀長が乃木のもとを訪れます。

その頃、死に場所を求めていた乃木は、自ら最前線に陣頭指揮をして乗り出すつもりでしたが、児玉の訪問は、乃木にとって是幸いはこれ幸いと映ったのでしょう。後のことを児玉に託そうとしますが、児玉が許すわけはありません。

そのなかで、寡黙に描かれつづけた仲代達矢(1932-)演じる乃木は、次の言葉を吐くわけですが……。

「児玉っ!わしゃア 木石じゃないぞっっ!」

……ということで、声ではなく文字にて「わしゃア 木石じゃないぞ」って宇治家参去も叫びます。

ひさしぶりに、イライラ具合がマックスに達してしまった休日でした。

市井の職場が休みですので、かなり溜まっている学問の仕事をやっているわけですが、やはり「休み」ということになりますと、家人からすると「やはり」「休み」というわけですので、次々と、玉が振られるという状況といえばいいのでしょうか。

なかなか前に進むことができない……というわけで、爆発して「わしゃア 木石じゃないぞ」って叫んで、ちゃぶ台でもひっくり返してしまいそうになりましたが、とりあえず我慢した次第です。

木石のような宇治家参去ですので、終始だまって対応していたわけですが、やはり木石ではありませんので、溜まるイライラはいっこうに減らず……というところでしょうか。

でも、わかっているんです。

相手に対してイライラしている様に見えておりますが、決してそうではないということです。

要するに、そうしたところに、またイライラする自分自身の存在に対して一番イライラしているのかもしれません。

家人ではなく、そうした人間のちっせえ自分自身に一番イライラするということなんです。

さて……。
デカルト(René Descartes,1596-1650)は、『情念論』(Les passions de l'ame,1649)のなかで、能動としての「精神」と受動としての「身体」との相互作用を論じ、そのなかで、受動のまま生きるのか、それとも能動として生きるのか、どちらかが価値的な生き方なのかを問うております。

情念とは、「怒り」や「悲しみ」、「恐怖」といったつよい感情です。つよい感情に特徴的なことは、対象による反応に主体が支配される状況ということです。これをデカルトは情念の「受動性」と呼びますが、受動された状態ですと、「我思う故に我有り」であるべき自己の主が主として振る舞うことが不可能な、他律な状況となってしまいます。

言わずもがなデカルトは、受動「のまま生きる」ことよりも、能動「として生きる」ことに采配を挙げておりますが、受動に特徴的なことは不可避的に状況が襲ってくるということですから、受動は避けようがないようにも見えます。

それでは受動を能動へと転換することはハナから無理では無かろうか……そう思われるフシもありますが、デカルトによればそうではないようです。

不可避的な事故のように情念は引き起こされることは否定できませんし、人間から情念を取り去ることも不可能です。ですけれど、正しい価値判断によって正し、情念の受動性をそいで、そこに能動的な心のはたらきをうえつけることで可能になるとデカルトは道筋をつけました。

平たく言えば、自分自身が自分自身をきちんと支配(コントロール)するということでしょうか。

ただしそのためには、「真理の認識とそれにもとづく確かな判断とをもって感覚や想像の迷いを消し、かつ習慣をつくりかえる工夫」が必要です。そしてその訓練の場は、この日常生活世界にしかないのですが、その訓練はなかなか大変です。

ですから、たいしたことでもないことに苛立ち、イライラが募る訳なのですが……、もう少し修練が必要ではないか……そのように思われた一日です。

ともあれ、すこし正座をし、このように文章を書くと、気持ちは整理されますので、すこし心が平静になるものですから、これを繰り返すなかで、対象に引き起こされたイライラに振り回される自分自身ではなく、対象に引き起こされたイライラ(情念の受動)を能動へ転じて心の内的な動きの感受へと高めて参りたいものです。

ともあれ、はぁ~。

……ということで、不幸にも手元からデカルトの『情念論』がないので、不朽の名著とされる野田又夫(1910-2004)京都大学名誉教授の『デカルト』の一節を最後に紹介しておきます。

蛇足ですが、最近の『岩波新書』のなかには、5年、10年と読み継がれない〝急ぎばたらき〟が多いのですが、昔の『岩波新書』には、やはり、軸となる一冊というのが豊富にあるものだよな……などと思いつつ、、、

黙らずに、、、

「わしゃア 木石じゃないぞっっ!」

……などと叫んだ方がよかったのかしら???

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 デカルトは、われわれが真理の認識とそれにもとづく確かな判断とをもって感覚や想像の迷いを消し、かつ習慣をつくりかえる工夫を加えれば、情念の絶対的な支配に達しうる、と考えました。それは特に欲望にもとづく種々の情念を、正しい価値判断によって正し、情念の受動性をそいで、そこに能動的な心のはたらきをうえつけることだ、と言えます。
 ところで情念を抑えることは、心の動きをなくすことではなく、心の動きを身体からの受動の状態から能動の状態に変えることであります。情念に含まれる心の動きの知覚はなくなるのではなく、心の能動的な動きの知覚として存続する。このように身体からの受動性を脱した心の働きの感受を、デカルトは「内的な感動」とか「知的な感情」とか呼んでいる。たとえば「喜び」と「悲しみ」にも、受動的な情念としての「喜び」や「悲しみ」とともに、自己の働きの感受である「知的な喜び」「知的な悲しみ」がある。すなわちたとえば舞台の上で演ぜられる悲劇を見る場合、われわれは「悲しみ」の受動的感情をもち涙を流したりもするが、同時に、心の奥に「知的な喜び」を感じている。悲劇は情念の浄化、能動化、の装置を与えていると言ってよい。この例でみとめられるように、受動的な「悲しみ」は能動的な「喜び」に変えられることがあり、受動的情念と能動的感情とでは内容が反対になることもある。けれどもともかくも、情念の受動が能動に転じて心の内的な動きの感受となったものが、自由人の感情であります。
 さてよく言われることですが、一つの情念を支配するには、それをただ抑えるだけでなく、その反対の情念をもって対抗させるのがよい、ということがある。モンテーニュの例の悠々たる調子で、心の憂さ晴らしの法として、心の転換(ディヴェルション)を説いていた。スピノザも--これはデカルトの情念論をうけついだ人ですが--同じ様な、情念の退治法をのべています。デカルトもエリザベト王女に、憂鬱になったら眼を緑の山や林に遊ばせよ、と言ったりしている。けれどもかれの場合、情念に対抗する方法の本筋は、知性と意志をはげまして進む「強い心」をもつことになる。かれは言う、「みずからの心の強さをためすことのできぬ人もあるが、それはかれらが、自分の意志を固有の武器をもって戦わしめず、或る情念に対抗するために他の情念が提供する武器をもってするからである」と。意志自身の武器とは善と悪との認識に関する確乎たる判断であります。
 ところでこういう「確乎たる判断」をする「われ」、つまり自由意志をもつわれそのものもまた、内的に感知される。そういう内的感情をデカルトは「高邁の心」(「けだかさ」générosité)と言っている。それは一種の「驚き」であって、みずからの心の大きさに対する「驚き」である。自尊の心である。「驚き」の情念は、知的真理にも意志的善にも感覚的欲望にもひとしく開かれた価値意識の基底であると前に言いましたが、デカルトはそこに自己の大きさとけだかさの感受を見出すのであります。
    --野田又夫『デカルト』岩波新書、1966年。

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http://www.youtube.com/watch?v=uXvDC8LdZ6E

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学問に対する信頼と自分自身に対する信頼とをもつこと

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 時世の騒がしさの中に人となった我々年輩の者は、青年時代を煩わされずに真理と学問とに献げうるこの日に青年時代をもつ諸君の幸運をよろこぶものである。私は自分の生涯を学問に献げて来た。そうして私がヨリ高い水準と、ヨリ広い範囲において、ヨリ高い学問的関心の普及と鼓吹とに協力することができ、しかもまず第一に諸君をこの関心に導き入れることに与りうる地位にいま自分を見出すことは、私の満足に思うところである。首尾よく諸君の信頼を得、またそれに添いうれば幸である。しかし、それにはまず第一に、諸君が何よりも学問に対する信頼と自分自身に対する信頼とをもつことを切望してやまない。真理の勇気、精神の力に対する信念が哲学の第一条件である。人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである。人間の精神の偉大さと力とについては、いくら大きく考えても、すぎるということはないのである。またこの信念をもってすれば、人間に自分を開かないほどに冷淡なもの、頑固なものはないだろう。最初は隠され、閉されている宇宙の本質も、認識の勇気に抗しうる何らの力ももたない。この勇気の前には、その宇宙の本質は必ず自らを開き、その富と深底とを、その人の眼前に現わして、享受に委ねるにちがいない。
    --ヘーゲル(武市健人訳)『哲学史序論 哲学と哲学史』岩波文庫、1967年。

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なんども読んでいるヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770-1831)の「哲学史」の講義録ですが、その冒頭の就任演説の末尾に釘付けになってしまいました。

ハイデルベルク大学で1816年10月28日に、若き学徒を前にヘーゲルが語った言葉なのですが、この言葉は老若男女に関わりなく、何かを学ぶといううえでは、必要不可欠の構えなのかもしれません。

たしかに、先達から何かを学ぶということに関しては、畢竟、総てを受け入れるという意味での謙虚さは大切なのですが、それがすべてではないのかもしれませんし、卑屈と謙虚さは似て非なるものであります。

ヘーゲルが語る通り、「それにはまず第一に、諸君が何よりも学問に対する信頼と自分自身に対する信頼とをもつこと」が必要なのでしょう。

要するに学生としての自覚と誇りといってもよいかもしれません。
その自覚と誇りなくしては、学ぶ人間としての学生として成立しないのかもしれません。
その立脚点があってこそ、人間は「自分自身を尊敬してよいし」、対面する人々はその人間を「尊敬すべき」なのだと思います。

しかし、学ぶ者も教える者も、真理に対してはおなくじく謙虚でありつつ、それに向かってアプローチする勇気は同じく必要で上下の差はありません。

このあたりが、なんだか固定化した関係として捉えられがちなところに居心地の悪さを感じてしまうひとは多いでしょう。

なにしろ、そのことにより、学ぶということが何かできあがった関係として置かれるようになってしまい、結局、真理そのものへ至ることが誰も出来なくなってしまっている……そんな状況ではないでしょうか。

教鞭を執りつつ、探求者として学びつつ、生活者として生活しつつ、同じような感慨を抱いてしまう宇治家参去です。

だからこそ、ま、もういちど、ヘーゲルの言葉に耳を傾け、もういちど学ぶという原点を確認する必要があるのかもしれません。

たしかに「人間の精神の偉大さと力とについては、いくら大きく考えても、すぎるということはない」からこそ、教師が一方的に開示するわけではなく、謙虚に対峙し、真理に接近ができるはずなんです。

その勇気ある選択を行使したとき、ヘーゲルの末尾の言葉がリアルなものになってくるのかも知れません。

「人間に自分を開かないほどに冷淡なもの、頑固なものはないだろう。最初は隠され、閉されている宇宙の本質も、認識の勇気に抗しうる何らの力ももたない。この勇気の前には、その宇宙の本質は必ず自らを開き、その富と深底とを、その人の眼前に現わして、享受に委ねるにちがいない。」

さ、勉強しよ、勉強!

勉強とは、単なる刻苦勉励ではなく、自分自身を尊敬することのできる謙虚な知の勇者の創造的な取り組みの筈なんです。

その取り組みの前に、宇宙の本質は必ず自らを開くものであり、その富と深底とを、その人の眼前に現わしてみせるものなんです。

だからこそ、作業ではないんです。

そこに学ぶ醍醐味があるはず……。

などと久し振りに遠望できた富士山の勇姿に、そうおもうある日の宇治家参去です。

……ということで???

勉強の合間には、息抜きも必要です。ということで、、、昨夜は久し振りに、黒ビールをやりましたが、これもなかなかさっぱりとしていいですね。残念ながら量はいけませんが。

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「仁は人の心なり、義は人の路なり」

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 義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲りたる振舞いほど忌むべきものはない。義の観念は誤謬であるかも知れない--狭隘であるかも知れない。或る著名の武士〔林子平〕はこれを定義して決断力となした、曰く、「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」と。また或る者〔真木和泉〕は次のごとく述べている、「節義は例えていわば人の体に骨あるがごとし。骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手も動くを得ず、足も立つを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり」と。孟子は「仁は人の心なり、義は人の路なり」と言い、かつ嘆じて曰く「その路を舎てて由らず、その心を放って求むるを知らず、哀しい哉。人雞犬(けいけん)の放つあらば則ちこれを求むるを知る、心を放つあるも求むるを知らず」と。彼に後るること三百年、国を異にしていでたる一人の大教師〔キリスト〕が、我は失せし者の見いださるべき義の道なりと言いし比喩の面影を、「鏡をもて見るごとく朧」ながらここに認めうるではないか。私は論点から脱線したが、要するに孟子によれば、義は人が喪われたる楽園を回復するために歩むべき直くかつ狭き路である。
    --新渡戸稲造(矢内原忠雄訳)『武士道』岩波文庫、1974年。

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土曜日は仕事を終え24時に帰宅してから、27時頃寝たのですが、7時前には起こされてしまい、寝不足に頭を悩ます宇治家参去です。

日曜は朝から千駄ヶ谷の国立競技場となりの霞ヶ丘体育館にて、息子殿が通う剣道教室の試合がありまして、……たった二分の勝負なのですが、同行させられた次第です。

これまでにも何度か言及したとおり、本人がやりたいということで一昨年からはじめた剣道です。宇治家参去自身も十数年「やらされた」わけなのですが、そのなかでやはり「やらされた」感が強く、剣道そのものにあまり悦ばしい思い出はありません。

ただ、競技スポーツの剣道という意味合いではなく、綜合人間学としての「剣〝道〟」をやったこと自体には、一切無駄がなかった事実を思い出によって否定することができません。否むしろ、人間の骨格を形成するうえで、やってよかったという側面が厳然としてありますので、息子殿本人が「やりたい」ということで口火を切ったときには驚いた次第です。

さて……。
1年目は、剣術に親しむということで、竹刀のみにて練習のようでしたが昨年より道衣・防具を揃え、練習が始まり、いよいよ本格的!って思って、つい先だって様子をみたわけですが、とてもとても、お話にならないような状態ですけども……経験者からみるとまだまだ足下が覚束ないという状態でしょうか……、それでも、本人はハアハアいいながらも嬉々として取り組み、きちんと正座をし、礼を弁え、卑怯な戦いをせずやっているところを見ますと、やはり、或意味でやったことは正解だったのだと思わざるを得ません。

前述したとおり、確かに競技スポーツとしては、剣道に限らず武道の総てがその側面を有していることは否定できませんし、戦うならば勝ちたいというのが人情です。しかし、それだけでもないのが武道のもつ豊穣な歴史かもしれません。

相手に対する尊敬と同時に自分自身を卑下をしない独立の気風……そうしたものを毛穴から学ぶことができるのが、「スポーツ」という概念に収まりきらないその魅力かもしれません。
※ただし、その精神論に傾きすぎると、戦時下日本の武力運用における過度の精神主義へとなりますので自戒が必要なことは言うを待たないわけですが。

で……。
本来は11月の試合に出る予定だったのですが、私的な都合でその折りは参戦できなかったのですが、教室の先生の配慮で、その11月の試合で勝ち上がってきたメンバーによる試合があるということで、そこに今回参加させて頂いた次第です。

ただ、論点を先取りすれば、試合前の一斉稽古をみたときにも、「こりゃあレベルが違うわ」と思った通り、速攻で敗退するわけになるのですが、ただそれでも参加したのは良かったのかも知れません。

しかし、その「おつき合い」といいますか保護同伴という形で早朝よりたたき起こされ、細君と一緒に息子殿の試合に強制連行されてしまったのは、チトきつかった次第です。

試合自体は中盤の取り組みでした。

息子殿本人は、「絶対、勝ってくる」

などと意気込んでおりましたが、おそらくかなり緊張もしたことかと思います。

次々に試合が消化されていく様子を見ていると、痛くて泣き出すお子様や、負けて悔しくて涙を流すお子様、そしてかなり上手な剣捌きを身につけた猛者の様子を見ていると、……本人自体も、「うぅぅ~む」となっていたのではないかと思います。

ただ、憶病にならず、それでも挑戦したその心意気は勝ってやりたいものだと思います。

林子平(1738-1793)は「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」と述べたと新渡戸稲造(1862-1933)の『武士道』で紹介されておりますが、挑戦する武士の心とは、「道理に任せて決心して猶予せざる心」なのでしょう。

結果は、秒殺といってよい状態でした。
こうした場合、なにかあると必ず涙+大音声で「泣く」息子殿でしたが、その状況を粛々と受け入れ、今回は「泣かなかった」ところは高く評価し、剣術を学んだことの間違いのなさを実感したひとときでした。
※もちろん、武士の子供として成長する様子を大いに誉めたわけですがね(苦笑)。

ま、こうした喜怒哀楽、鍛錬と成果の対峙のなかで、人間としての骨格を形成し、「節義ある士」へと成長して欲しいものです。

……ということで、午前中で試合自体は終わりましたので、帰宅途中に昼食を「釜飯/やきとり 藩」にて頂きましたが、本日は仕事を全日休みにしておりましたので、軽く「昼ビール」をやらせて頂きました。

ふぅ~う、昼ビールはしみこみ具合がなかなかよろしいものでございます。

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「我らは知る、欠点いかに大であるともそれから徳が起こる」と。

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 戦闘におけるフェア・プレイ! 野蛮と小児らしさのこの原始的なる感覚のうちに、甚だ豊かなる道徳の萌芽が存在している。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか? 「小さい子をいじめず、大きな子に背を向けなかった者、という名を残したい」と言った、小イギリス人トム・ブラウンの子供らしい願いを聞いて我々はほほえむ(あたかも我々がそんな願いをいだく年輩を通り過ぎてしまったかのよう!)。けれでもこの願いこそ、その上に偉大なる規模の道徳的建築を建てうべき隅の首石(おやいし)であることを、誰か知らないであろうか。最も柔和でありかつ最も平和を愛する宗教でさえこの願求を裏書きすると私が言えば、それは言い過ぎであろうか。トムの願いの基礎の上に、イギリスの偉大は大半打ち建てられたのである。しかしして武士道の礎石もこれより小なるものでなきことを、我々はやがて発見するであろう。友教徒(クェイカーズ)の正しく証明するごとく、戦闘そのものは攻撃的にせよ防禦的にせよ蛮的であり不正であるとしても、我々はなおレッシングと共に言いうる、「我らは知る、欠点いかに大であるともそれから徳が起こる」と。
    --新渡戸稲造(矢内原忠雄訳)『武士道』岩波文庫、1974年。

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金曜はどうやら飲み過ぎたようです。
ひさしぶりに鯨飲しましたので、カラダのあちこちが悲鳴をあげております。

またそのおまけの所為でしょうか、チト風邪までひいちまったようです。

金輪際、鯨飲はしないと堅く誓うある日の宇治家参去です。

しかし、「我らは知る、欠点いかに大であるともそれから徳が起こる」のであるとすれば、そうした失敗も徳への扉を開くひとつのきっかけであるととらえるべきなのでしょう。

さて、調子が悪いにも関わらず、不思議なもので腹が減る。

……ということで、これまた久しぶりにカップヌードル(日清食品)を頂戴しておりますが、なかなかこれが五臓六腑にしみこんできます。

たまにはいいものです。

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「等価物を絶対に許さないものは尊厳を具有する」から悩むんです

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目的の国では、いっさいのものは価格をもつか、さもなければ尊厳をもつか、二つのうちのいずれかである。価格をもつものは、何かほかの等価物で置き換えられ得るが、これに反しあらゆる価格を超えているもの、すなわち価(あた)いのないもの、従ってまた等価物を絶対に許さないものは尊厳を具有する。
 傾向と欲望とは人間に通有であるが、これらに関係するところのものは市場価値をもつ、また欲望を前提しないで、或る種の趣味に適うもの——換言すれば、我々の心情の諸力によるまったく無目的な遊びにおいて生じる適意は、感情価をもつ。しかし或るものが目的自体であり得るための唯一の条件をなすものは、単なる相対的価値すなわち価格をもつのではなくて、内的価値すなわち尊敬を具えているのである。
    カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』岩波文庫、1976年。

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本日は勤務する短大の一般入試の日でした。
さきほどいっさい無事故で終了しました。

本年は四十七都道府県すべての地域から応募があり、この大学淘汰の時代において、短期大学であるにもかかわらず、実質倍率6倍という驚異的な大学であることに驚くとともに、そこに関わっているという責任の重さに押しつぶされそうになってしまう宇治家参去です。

イマヌエル・カント(Immanuel Kant,1724-1804)は、人間の「等価」不可能性に、その尊厳の根拠を見いだしたわけですが、それと対局にあるのが試験という判断基準・制度かもしれません。

もちろん、すべての受験者を受け入れることができませんので、試験というような判断基準をもって対応せざるを得ないのですが、それが「人間の尊厳」を思索するナイーヴな倫理学徒、チンケな神学者の宇治家参去としては、忸怩たるとでもいえばいいでしょうか、何か居心地が悪く……という始末です。

もちろん異を唱えるわけではありませんし、そうした制度が必要不可欠であることは、2歳や3歳のネンネではありませんので、承知は承知なのですけれども、胃の腑がぎゅっとしめつけられるような感覚を抱かざるを得ません。

ただ、こうした感覚が抱けるということに、それでよしとしない精神構造を維持できているのであるとすれば甘受せざるを得ません。

なにしろ人間とは「あらゆる価格を超えているもの」「価(あた)いのないもの」「等価物を絶対に許さないもの」、すなわち「尊厳を具有する」ものですから。だからこそ、その「尊厳を具有」という事実を忘れてはならないのでしょう。

いずれにしましても、新学期に教室で対面された際は、よろしくお願いします。

また、すべての受験者のみなさまへ。
本学を受験してくださいまして、ほんとうにありがとうございます。
公私ともにいろいろと悩むことが多い自分自身もはちまきを締め直して、向かい合っていきたいと思うばかりです。

ありがたくも本学創立者より受験生の皆様にメッセージがありました。

「(受験された皆様すべては)生命の次元でとらえるならば、皆短大生であります」。

最後に、

「風邪を引かないように」

……とのことです。

ありがたいことです。

ともあれ、いっさい無事故で終了できました。

後期の成績もつけ終え、一般入試もすみましたので、あとは卒業式を待つばかりです。

……ということで、朝から一日中はりつめておりましたので、これからちょとゆっくりさせて頂きます。

ちょいと「ツキノシズク」の住人にでもなってこようかしら・・・?

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「微笑もて正義を為せ!」

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……智慧の実を食べると、人間は、笑いを失うものらしい。以前は、お茶目で、わざと間抜けた失敗なんかして見せて家中の人たちを笑わせて得意だったのだが、このごろ、そんな、とぼけたお道化が、ひどく馬鹿らしくなって来た。お道化なんてのは、卑屈な男子のする事だ。お道化を演じて、人に可愛がられる、あの淋しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目に生きなければならぬものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりしては、いけない。男子は、人に「尊敬」されるように、努力すべきものである。このごろ、僕の表情は、異様に深刻らしい。深刻すぎて、とうとう昨夜、兄さんから忠告を受けた。
 「進は、ばかに重厚になったじゃないか。急に老けたね。」と晩ごはんのあとで、兄さんが笑いながら言った。僕は、深く考えてから、答えた。
 「むずかしい人生問題が、たくさんあるんだ。僕は、これから戦って行くんです。たとえば、学校の試験制度などに就いて、--」
 と言いかけたら、兄さんは噴き出した。
 「わかったよ。でも、そんなに怖い顔をして力んでいなくてもいいじゃないか。このごろ少し痩せたようだぜ。あとで、マタイの六章を読んであげよう。」
 いい兄さんなのだ。帝大の英文科に、四年前にはいったのだけれども、まだ卒業しない。いちど落第したわけなんだが、兄さんは平気だ。頭が悪くて落第したんじゃないから、決して兄さんの恥辱ではないと僕も思う。兄さんは、正義の心から落第したのだ。きっとそうだ。兄さんには、学校なんか、つまらなくて仕様が無いのだろう。毎晩、徹夜で小説を書いている。
 ゆうべ兄さんから、マタイ六章の十六節以下を読んでもらった。それは、重大な思想だった。僕は自分の現在の未熟が恥ずかしくて、頬が赤くなった。忘れぬように、その教えをここに大きく書き写して置こう。
 「なんじら断食するとき、偽善者のごとく、悲しき面容(おももち)をすな。彼らは断食することを人に顕さんとて、その顔色を害(そこな)うなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。なんじは断食するとき、頭(かしら)に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在(いま)す汝の父にあらわれん為なり。されば隠れたるに見たまう汝の父は報い給わん。」
 微妙な思想だ。これに較べると、僕は、話にも何もならぬくらいに単純だった。おっちょこちょいの、出しゃばりだった。反省、反省。
 「微笑もて正義を為せ!」
 いいモットオが出来た。紙に書いて、壁に張って置こうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。「人に顕さんとて、」壁に張ろうとしています。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん。よくよく気をつけなければならぬ。
--太宰治「正義と微笑」、『パンドラの匣』新潮文庫、昭和四十八年。

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ちょと時間もないので、コメンタリーできませんが、太宰治(1909-1948)を読んでいてちょいとばかり染みたので一節書き残しておきます。

「いいモットオが出来た。紙に書いて、壁に張って置こうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。「人に顕さんとて、」壁に張ろうとしています。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん。よくよく気をつけなければならぬ」というこの辺が他人事ではなく……。

ただ……。

「微笑もて正義を為せ!」

いい言葉です。

こんなのを読んで独り染みているから、うだつが上がらぬのでしょうかねぇ。

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「のらくらと日を送る」ようにみせながら……

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 日常性とは、現存在が「のらくらと日を送る」有様(ヴィー)を言うのであって、それが現存在のすべての態度であろうと、ただ一定の、相互存在によって素描された態度であろうとも、構わないのです。このような有様にはさらに、たとえ重荷になるもの(ダス・レスティゲ)や「厄介なもの(ヴィーダーヴェルティゲ)」を強いるにせよ、なお習慣のなかでの快適さが属しています。日常の配慮が予期している明日のもの(ダス・モルギゲ)は、「永遠に昨日のもの(エーヴィゲ・ゲシュトリゲ)」です。日常性の単調さは、そのつどまさにその日がもたらすものを〔気分の〕転換〔気晴らし〕(アプヴェクセルング)と受けとります。日常性は、現存在が<ひと>を〔小説などの〕「主人公」と選ばなかったばあいでも、現存在を規定します。
    --ハイデガー(桑木務訳)『存在と時間(下)』岩波文庫、1990年。

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ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)は、人が日常生活のなかにのみこまれてしまう有様を、「頹落」として批判したことで有名です。
しかしながら、つまるところは、どうしようもない……顧みる必要がないと切り捨てられてしまうという意味ですが……と顧慮に値しないとされる日常生活に「頹落」されてしまうのか、それとも「頹落」されたように見せつけながらも……要するに日常生活のルールに従うという意味では「頹落」のレールを歩みながらという意味……そこで価値を創造していけるかどうかの分岐点は、そのひとの自覚のあるなしによってしまうのかもしれません。

現代的日常生活が誕生するのは19世紀後期のヨーロッパです。
工場、会社、学校が成立する時間の到来です。
要するに時間に人間がおわれるようになる生活スタイルの登場です。

ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)が先駆的に批判し、その営みを思想的思索へと高めたのがハイデッガーかも知れません。

チャップリン(Charles Spencer Chaplin, Jr,1889-1977)の『モダン・タイムズ』(Modern Times/1936)をパラレルするわけではありませんが、何か得体の知れない「できあがった」ディシプリンとしての「日常性」に支配されるのが現代社会の特徴でしょう。

そこで何を自覚していきていくのか。
構造に絡め取られる時代だからこそ、自覚が必要なのかも知れません。
そして大切なのは構造自体を革命家式に廃棄ができないからこそ、構造に籠絡されていることを「承知」のうえで、脱構築していく価値創造の努力が必要なのかも知れません。

……ということで?
火曜日は休みでしたのでまるまる一日、短大の『哲学入門』の定期試験とレポートの採点に一日を追われておりました。
一昨日がっつりと飲んでいたので、昼から起きてまずは、ペーパー試験の採点をしておりました。

その日は、息子殿が剣道教室の日でしたが、細君が生憎の所用とのことで、サルベージを仰せつかっておりましたので、それまでにまずは試験の採点を終わらせ、それからお迎えの時間です。

久し振りに、息子殿の剣道教室の様子を見ましたが、楽しく、かつ、真剣に、剣道をしていることに、少し驚いた次第です。

思想的思索からいえば、顧みるに足らないと断じた日常の一コマを覚醒させる局面との遭遇ということになります。

そして、自己自身の先入見の打破という意味でも一役かった一瞬でした。
宇治家参去も都合10年以上剣道をやっておりましたが、まるっきり楽しい思い出がありません。
マア、親が代々やっているものですからやらされていたという念が強くて、「剣道は辛い」という認識だったがそれだったのですけど、息子殿が真剣に嬉々として竹刀を振っている様を見ておりますと、本人がやりたいといって始めたわけですが、自分自身の憶見とは裏腹な事態になったことに、マア、剣道をやってもらってよかったのかな~などと思った夕べです。

週末に東京都の大会があるようで、本人も本日の練習には熱がはいってい、勝ち抜き稽古でタイトルを6回も防衛している奮戦ぶりには、本人も意識して自覚してがんばっているんだな……などと思った始末です。

しかぁ~し!
本人は、道具の仕舞いと、道衣の畳みができません。

……ということで、宇治家参去の出番となるわけですが、十数年ぶりのしまい込みですから少し、ぎごちなかったというおまけがついてしまいました。

さて……。
防具を片づけてから帰宅しようとすると、幼稚園……剣道教室が幼稚園にあるわけですが……近くの植木やさんの敷地で息子殿が止まれというわけで、しばし自転車をストップ!

敷地に植えられていた梅の花びらが大輪を咲かせているではありませんか!

昨日の東京は雪模様の肌寒い一日でしたが、薄桃色の花びらに、日常生活など顧みるに値しないとその想念を打破する自覚の「心意気」を頂戴した次第です。

息子殿よ、ありがとう!

帰宅してから、今度は70通のレポートとの思想的格闘戦のスタートです。
一昨年より、レポートの提出がすべてオンライン決済?でやることも可能になったので、それでうけましたが、紙ではなく、モニターでみる……wordとかの文書画面ですが……レポートは、目が疲れますね。

なんとかすませて、すべての採点を終わると、23時です。

一月中に終わらせようと思っていたのですが、マア、それでも締め切りにはかなり余裕のある段階で済ませてちょいとホッとしました。

……ということで、これから、アルコール的にちょいとホッとしようかと思います。

常々思うのが、現存在としての自分を「〔小説などの〕『主人公』」と規定して夢想しなくてよかったという点です。

「事実は小説よりも奇なり」との言葉がありますが、日常生活にちょいと目を向けてみますと、小説よりも彩り豊かな側面があるわけです。

ハイデッガーのように鋭敏に日常生活を批判的に断嘩はしませんが、そこを開拓する価値創造の歩みだけは心がけたいものです。そのことで、「小説」などよりも「面白い」発見があるわけですから……ねぇ。

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雪の内に 春はきにけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ

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二条后
雪の内に 春はきにけり うぐひすの こほれる涙 今やとくらむ
    --「巻第一  春歌上 004」、佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫、1981年。

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朝から新聞を配達される方とか、早朝から仕事がはじまったり・帰宅される方が迷惑されることは承知なんです。

ですけど、承知の上で、大変申し訳ないことも承知の上で、なのですが……、嬉しいのです。

浅はかだから嬉しいのでお許し下さいませ。

何が嬉しいかと申しますと、雪がふったことでございます。

東京では二年ぶりの積雪3-5センチというところでしょうか。

雪なんです。

雪ですよ、雪。

浅はかだからというだけでなく嬉しいんです。

風流なんです。

夕方はみぞれだったのですが、徐々に雪へとかわり、24時すぎに市井の職場を辞すと、あたりは銀世界でございました。

ちょいと近所の公園に立ち寄り、情景と一体になってしまいました。

「うぐひすの こほれる涙」はさすがに聞こえません。

ですけど……表現ができないといいますか語彙の貧弱さ所以なのですが……、雪の降ると音が規定をつくり、ときどき、樹木や電柱から、「バサッ」って落ちる音が和音のように木霊するんです。

季節は春へと準備しつつある中での、冬の最後の抵抗の調べとでもいえばいいのでしょうか。

季語の類で、「ゆく秋」「ゆく春」を「惜しむ」という表現は存在します。しかし「ゆく夏」「ゆく冬」を「惜しむ」という表現はほとんどありません。

ですけど、「ゆく冬」の清潔感は「惜しまれます」。

……というわけで、これからちょいと「雪見酒」としゃれ込みます。

大阪の知人から頂いた「呉春」(呉春株式会社/大阪府)の封を切らせて頂きます。
※先月末の大阪スクーリングの折り、宇治家参去の肝臓を心配された学生さんから「センセ、それは飲まずにお供えしなさい」と忠言をいただいておりましたので、1週間はお供えしましたです。

小さな、やんちゃな雪だるまを眺めながら頂いておりますが、滑らかな味わいなのですが、ほのかに口中の広がる旨味と余韻が、まるで「雪の音」のような銘酒です。

ありがとうございました。

大切に頂きます。

で……。
最後に一つ蛇足ですが、「呉春」は「クレシュン」と読むのだと思っておりましたが、精確には「ゴシュン」でした。

潔の良い音の響きが、雪空にぴったりです。

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Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.

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あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ
    --カント(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳)『実践理性批判』岩波文庫、1979年。

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声をかけた方がよいのか、それともかけない方がいいのか……迷うことが日常生活の中でたびたびあります。

本来的には声をかけた方がいいのですが、相手をみてすごんだり、まあ、どうでもいいやってスルーすることの方が多々あるのですけれども、

それでもなお、声をかけた方がいいことってあるんです。

今回は逆でした。

声を「かけられて」助かりました。

善意の人物のカント(Immanuel Kant,1727-1804)的理念の発動によって〝救われた〟ある日の宇治家参去です。

市井の職場で、最初にするのが売り場の巡回といいますか、確認です。

その折り、初老の御婦人から・・・

「おにいさん、ちょっと……」

……と声をかけられた次第ですが、

「社会の窓が開放ですヨ」

……とのことだそうです。

実にありがとうございました。

全開のようでした。

仕事を、サア、はじめようとした矢先で助かりました。

御婦人の「意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」との一言が、シャイでナイーヴなチキンボーイを救って下さいました。

ありがたいことです。

世の中、まだまだ捨てたものではありません。

……ということで、さきほど焼いたししゃもで労をねぎらおうと思います。

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