「対応」〔相互応答〕(コレスポンデンツ)
文字によっては、しかし、《私》と《きみ》はもはや互いに-共に語りあうことはできない。それでも互いに-宛てて書くことができるだけである。或る-他者-に宛てて-書くことは、他方やはり、互いに共に語ることとおなじように形式的に理解されるべき、通-信という意味においてなお規定されている。手紙の宛て名書きはその意味からして、口頭で語りかけることと同様に、語りかけが私に-もどって-くるというしかたで、他方の者が関与してくることを要求している。つまり返答を要請しているのであって、返答によって両者それぞれの手紙ははじめて「対応」〔相互応答〕(コレスポンデンツ)となる。ことばのやりとり(ヴォルトヴェクゼル)とはことなり、一者と他者の手紙のやり取り(ビリーフヴェルゼク)は、すでに相対的には自立化した表現である。たしかに手紙はなお、文学作品のように意図をもって独立させられた表現ではない。それでもやはり、手紙が宛てられた通信相手に対しても、手紙のなかでじぶんをあらわす手紙の書き手に対しても、手紙はすでに相対的には自立しているのである。手紙が相対的に自立しているのは、一者の手紙が他者の手紙に応えるものであり、さらに他者の回答を意図しているかぎりにおいてである。相対的に自立しているのは、手紙が、文字による表現として--他者が現前していないことにおいて、また現前していないがゆえに--、他者には依存せず、ひたすら手紙を書く者自身によってかたちづくられるものだからなのである。
--レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。
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午前中におきて、本当は、息子殿の工作の発表会に鑑賞のために幼稚園に行く予定だったんです。
ですけど、不覚ながら、起床することあたわず……。
学師・レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)老師が「哲学とは醒めていることである」と指摘したことは承知だったのですが、あいにく市井の職場が勤怠調整都合上、怒濤の連勤になっているという状況でして……、まさに不覚ながら、起床することがあたわず……という次第です。
……ということで工作の発表会といいますか、作品展の鑑賞はできず、デジカメの画像にて確認したというウンコ野郎になってしまいました。
マア、これも、疲れたお父さんをいたわる家族の思いやりと解することにいたしましょう。
さて……。
息子殿の個人作品のテーマは、「将来の夢」でした。
粘土細工でその模様を作品化したようでしたが、息子殿の「将来の夢」は「だいがくのせんせい」とのこと。
これを喜ぶべきか、悲しむべきか、判断には迷うところですが、言えることがふたつ。
①文系……とくに人文科学に進むべきではないということ。
※なにしろポストが殆どなく、親の宇治家参去自身が苦労しておりますのでそう思うのですが、その反面、やはり、根本学としての人文科学こそ学問の王道との誇りはありますが……、悩みますねぇ。
②金がかかる!
※大学院までやって、タツキを得るまでのフォローをしなければならないのかっ!って思う反面、そこまでしてくれた自分自身の親にも感謝というところでしょうか。
……ということで、教室での様子を再現した稚拙な粘土細工でしたが、最大限に褒め讃えたことはいうまでもありません、親ばかでスイマセン。
ちなみに、細君に詳細を聞くと、息子殿のなかでの最近の学的関心としては「深海魚」とのことで、誕生日にかってもらった「深海魚図鑑」もほとんど暗記してしまうという状況でして、まあ、それはそれで、ウルトラマンとかポケモンに知的リソースを注ぐよりはマシか、という部分と、形式的構造論ですが、人文科学でなくてチトよかったと思う宇治家参去です。
ただ、その深海系の「ダイオウグソクムシ」だったけ?……あたりを現物を鑑賞できる新・江ノ島水族館にもう一度行きたいというオフォーも提示されており、頭を悩ませるところもあります、なにしろ遠いんです、疲れるんです。
……という話を聴きながら、微睡んでおりますと、クロネコヤマトさんがぴんぽ~ん。
オークションで何も落札していないし……と思うと大学からでした。
通信教育部のレポートの「山」が登場しました。
ぴんぽ~んをもらう前に、来週締め切りのレポートの束の添削を済ませたところでしたので入れかわりというわけですが、ひさしぶりに「山」です。
真剣に対応させて頂きます。
なにしろ通信教育の生命線となりますのは、なんといってもレポートになります。レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)が言うとおり「(広義における文書のやりとりとは)通-信という意味においてなお規定されている。手紙の宛て名書きはその意味からして、口頭で語りかけることと同様に、語りかけが私に-もどって-くるというしかたで、他方の者が関与してくることを要求している。つまり返答を要請しているのであって、返答によって両者それぞれの手紙ははじめて「対応」〔相互応答〕(コレスポンデンツ)となる」わけですから……。
ただ、季節はずれに量が多く、嬉しい悲鳴ということでよろしいでしょう。
自分も教壇に立ちながら口を酸っぱくしながら「レポート書けよ」ってあおりつづけたひとつの成果です。
……ということでぱらぱらめくってから、今度は、師匠へお出しする自分の手紙の執筆という段階です。
とりあえず、箇条書きにて、書かなきゃ行けないことを羅列したわけですが……。
「薄っぺらい!」
こころはナイーヴですが、貴族の不幸も貧乏人の憂鬱も知りません。
……まさに、
「薄っぺらい!」
そのことを細君に話すと、
「今頃、気付いたの?」
……って言われる始末です。
「そんなハズはないと思っていたのだけど・・・、ねぇ~、一体なんなんだろう」
「ウンコでしょう」
「はあ」
「ただ……」
「ただ……、何?」
「ウンコではなく、ウンコをつくる〝糞造機〟だな」
……って汚い話ですいません。
……というわけで???
もう少し練り込んで完成させようかと思いますが、チト疲れたのでとりあえず、飲んで沈没します。
締め切りまでには……間に合う筈。
共同存在の現象学 (岩波文庫) 著者:レーヴィット |
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