自然と人間そのものに拘束されてしまう人間
天候はたしかに完全にそれ自身で変化し、私は、その自立的な変化というしかたにおいて、それだけ拘束を受けないかたちで天候に出会うことになる。とはいえ、人間がまったく別種の存在であったなら、人間が天候に「依存する」こともおよそありえなかっただろう。なるほど天候はその自然なありかたにおいて、人間のことばで或る者に語りかけることはできない。だが天候にはそれでも、或る者をじぶんに依存させることが可能であるが、その根拠は「自然」--人間の自然のうちにある。人間が同時に自然的な生物でなかったなら、天候が人間にかかわることはそもそもありえなかたことだろう。人間がじしん自然を有するからこそ、人間は自然的なものをその自立性において経験し、理解することができる。人間はじぶん自身のうちで、二重の自立性、自然的なものの自動的な自立性と、人格的なものの自立的なそれとを統一している。このことが、人間外的な自然が人間に対して威力をもちうることに対して、存在論的な根拠を与える。人間との関係における自然の自立性が人間にかかわることになるのは、したがって、人間が人間以下的なしかたで存在しているからでもなければ、自然が人間を超えるしかたで存在しているからでもない。人間もまた自然によって現に存在することをつうじてであり、それが人間的な自然であるとはいえ、人間もそれじしん一箇の自然を有することをつうじてなのである。
--レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。
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このところ天候不順の連続でしたが、本日は朝早くから晴天です。
レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)が「人間の二重の自立性」を説く一分を味わいながら、季節の恵に感謝する宇治家参去です。
「人間が同時に自然的な生物でなかったなら、天候が人間にかかわることはそもそもありえなかたことだろう。人間がじしん自然を有するからこそ、人間は自然的なものをその自立性において経験し、理解することができる」というわけです。
さて天候がよいと、飛ぶんですよ、アレが。
……ということで、本日は早速『小青竜湯』を一服する次第です。
本日は、カードのポイントを貯めて手に入れたギフトカード(福澤先生1枚分)が配達されてきたのですが、細君に取られてしまいました……。
ま、それも自然と人間そのものに拘束されてしまう人間というところでしょうか。
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