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〝信〟を〝通〟わせ合う

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 カントが友情について語りうることがらは、アリストテレスにおける古代の古典的分析とくらべて、まったく見劣りしない。カントの哲学は人間的であり厳密なものでもあるが、そのようなカントの哲学にとって友情は、「考えること」とは、相互に訂正しあいながら伝達することであるととらえる、その把握にいたるまで、基礎を与えるものであったからである。それは友情が、西洋哲学の起源にあって、ソクラテスの思考方法すべての原型にとってそうであったのと同様である。

 「愛と尊敬のもっとも内的な合一」〔VI469〕は、しかし友情である。友情とは、他者の福祉に与り、それを分かちあうという理想でり、かくてまたそれじしん一箇の義務である。友情のうちで、接近することの原理と、距離をたもつことの原理が合一される。友情とは、相互の利益を目的とした結合ではない。友情は純粋に道徳的に、すなわち直接に心情そのもののうちで基礎づけられている--友情とはつまり、目的から自由に互いに対して(フュール・アイン・アンダー)存在することなのである。そこでは、だれも他の或るもののために存在するのではなく、両者は直接に互いのために(フュール・アイン・アンダー)存在している。友情は、それが外的に取りまとめるなにものも結合することがない。だからこそしかし友情には、内的な支えが必要となる。友情にそうした支えを与えるものが相互的な尊敬であって、相互的な尊敬により、友情における相互的な愛が制限され、じぶんを-卑俗に-することが防止される。この純粋な友情は、たんなる理想ではない。この「黒い白鳥」〔VI472〕は、じっさいいたるところ、完全なかたちで現実に存在しているのである。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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まあ、いきているといろいろあって、「なんで」とか「どうして」ってことが多々あるんです。

だからこそ人間のあり方はどうあるべきか、そしてその一個の人間と一個の人間の関係はどうあるべきか、って議論が起こってくるんです。

そうした問題に関して孟子(Mencius,372-289.BCE)は、「仁は人の安宅なり。義は人の正路なり。安宅を曠しくして居らず。正路を舎てて由らず」(『孟子』離婁章句)と語り、仁こそ人間がいきていくうえで最も根源的・本源的価値であると語ったそうです。

仁とはひらたくいうならば、「他者を思いやる心」とでもいえばいいでしょうか。
この精神が体得されるならば、ひとは社会においても、わが家でくつろぐように安心して生活を行うことが出来る……そうした概念です。

西洋風に言えば、フィリア(φιλια,友愛)という概念でしょうか。もっと馴染んだ日本語で言えばば「友情」ということでしょうか。

「友情」とは決して対面の実物として存在する他者にのみ向けられた感情・概念ではありません。

物理的に隔てていようとも、通い合わせることのできる精神的態度です。

まあ、いきているといろいろあって、いろいろ思うことがあることは否定できません。

しかしそれと同じように否定できないのが「友情」のもつ力です。

〝信〟を〝通〟わせ合うのは教育だけに限定された問題ではなく、人間として広く捉えることの出来る概念です。

嗚呼、別に何を書きたいわけでもありませんが、そんなところを少し考えた宇治家参去です。

他者を信じることは人間にしかできません。
宇治家参去は「友情」こそすべての基盤と思われて他なりません。

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