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「わしゃア 木石じゃないぞっっ!」

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日露戦争(1904-05)における地上戦の推移を決定的に印象づけた戦闘が、第三軍による旅順攻囲戦ではないかと思います。

乃木希典(1849-1912)大将の第三軍の正面攻撃は、東洋一と呼ばれるロシア軍の旅順要塞の前にたびたびと敗退を重ねるわけですが……このことで作家・司馬遼太郎(1923-1996)の描く乃木=愚将観というのも大きな影響を持つことになりますが……、そのへんの消息を生々しく描いたのが、映画『二百三高地』(東映、1980)でしょう。

戦線が激化するなかで、長男、次男を次々と亡くす乃木。
しかし戦線は有利には推移しているわけでもなく、日本側不利の状況で、そうした窮地を見かねた莫逆の友・児玉源太郎(1852-1906)満州軍総参謀長が乃木のもとを訪れます。

その頃、死に場所を求めていた乃木は、自ら最前線に陣頭指揮をして乗り出すつもりでしたが、児玉の訪問は、乃木にとって是幸いはこれ幸いと映ったのでしょう。後のことを児玉に託そうとしますが、児玉が許すわけはありません。

そのなかで、寡黙に描かれつづけた仲代達矢(1932-)演じる乃木は、次の言葉を吐くわけですが……。

「児玉っ!わしゃア 木石じゃないぞっっ!」

……ということで、声ではなく文字にて「わしゃア 木石じゃないぞ」って宇治家参去も叫びます。

ひさしぶりに、イライラ具合がマックスに達してしまった休日でした。

市井の職場が休みですので、かなり溜まっている学問の仕事をやっているわけですが、やはり「休み」ということになりますと、家人からすると「やはり」「休み」というわけですので、次々と、玉が振られるという状況といえばいいのでしょうか。

なかなか前に進むことができない……というわけで、爆発して「わしゃア 木石じゃないぞ」って叫んで、ちゃぶ台でもひっくり返してしまいそうになりましたが、とりあえず我慢した次第です。

木石のような宇治家参去ですので、終始だまって対応していたわけですが、やはり木石ではありませんので、溜まるイライラはいっこうに減らず……というところでしょうか。

でも、わかっているんです。

相手に対してイライラしている様に見えておりますが、決してそうではないということです。

要するに、そうしたところに、またイライラする自分自身の存在に対して一番イライラしているのかもしれません。

家人ではなく、そうした人間のちっせえ自分自身に一番イライラするということなんです。

さて……。
デカルト(René Descartes,1596-1650)は、『情念論』(Les passions de l'ame,1649)のなかで、能動としての「精神」と受動としての「身体」との相互作用を論じ、そのなかで、受動のまま生きるのか、それとも能動として生きるのか、どちらかが価値的な生き方なのかを問うております。

情念とは、「怒り」や「悲しみ」、「恐怖」といったつよい感情です。つよい感情に特徴的なことは、対象による反応に主体が支配される状況ということです。これをデカルトは情念の「受動性」と呼びますが、受動された状態ですと、「我思う故に我有り」であるべき自己の主が主として振る舞うことが不可能な、他律な状況となってしまいます。

言わずもがなデカルトは、受動「のまま生きる」ことよりも、能動「として生きる」ことに采配を挙げておりますが、受動に特徴的なことは不可避的に状況が襲ってくるということですから、受動は避けようがないようにも見えます。

それでは受動を能動へと転換することはハナから無理では無かろうか……そう思われるフシもありますが、デカルトによればそうではないようです。

不可避的な事故のように情念は引き起こされることは否定できませんし、人間から情念を取り去ることも不可能です。ですけれど、正しい価値判断によって正し、情念の受動性をそいで、そこに能動的な心のはたらきをうえつけることで可能になるとデカルトは道筋をつけました。

平たく言えば、自分自身が自分自身をきちんと支配(コントロール)するということでしょうか。

ただしそのためには、「真理の認識とそれにもとづく確かな判断とをもって感覚や想像の迷いを消し、かつ習慣をつくりかえる工夫」が必要です。そしてその訓練の場は、この日常生活世界にしかないのですが、その訓練はなかなか大変です。

ですから、たいしたことでもないことに苛立ち、イライラが募る訳なのですが……、もう少し修練が必要ではないか……そのように思われた一日です。

ともあれ、すこし正座をし、このように文章を書くと、気持ちは整理されますので、すこし心が平静になるものですから、これを繰り返すなかで、対象に引き起こされたイライラに振り回される自分自身ではなく、対象に引き起こされたイライラ(情念の受動)を能動へ転じて心の内的な動きの感受へと高めて参りたいものです。

ともあれ、はぁ~。

……ということで、不幸にも手元からデカルトの『情念論』がないので、不朽の名著とされる野田又夫(1910-2004)京都大学名誉教授の『デカルト』の一節を最後に紹介しておきます。

蛇足ですが、最近の『岩波新書』のなかには、5年、10年と読み継がれない〝急ぎばたらき〟が多いのですが、昔の『岩波新書』には、やはり、軸となる一冊というのが豊富にあるものだよな……などと思いつつ、、、

黙らずに、、、

「わしゃア 木石じゃないぞっっ!」

……などと叫んだ方がよかったのかしら???

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 デカルトは、われわれが真理の認識とそれにもとづく確かな判断とをもって感覚や想像の迷いを消し、かつ習慣をつくりかえる工夫を加えれば、情念の絶対的な支配に達しうる、と考えました。それは特に欲望にもとづく種々の情念を、正しい価値判断によって正し、情念の受動性をそいで、そこに能動的な心のはたらきをうえつけることだ、と言えます。
 ところで情念を抑えることは、心の動きをなくすことではなく、心の動きを身体からの受動の状態から能動の状態に変えることであります。情念に含まれる心の動きの知覚はなくなるのではなく、心の能動的な動きの知覚として存続する。このように身体からの受動性を脱した心の働きの感受を、デカルトは「内的な感動」とか「知的な感情」とか呼んでいる。たとえば「喜び」と「悲しみ」にも、受動的な情念としての「喜び」や「悲しみ」とともに、自己の働きの感受である「知的な喜び」「知的な悲しみ」がある。すなわちたとえば舞台の上で演ぜられる悲劇を見る場合、われわれは「悲しみ」の受動的感情をもち涙を流したりもするが、同時に、心の奥に「知的な喜び」を感じている。悲劇は情念の浄化、能動化、の装置を与えていると言ってよい。この例でみとめられるように、受動的な「悲しみ」は能動的な「喜び」に変えられることがあり、受動的情念と能動的感情とでは内容が反対になることもある。けれどもともかくも、情念の受動が能動に転じて心の内的な動きの感受となったものが、自由人の感情であります。
 さてよく言われることですが、一つの情念を支配するには、それをただ抑えるだけでなく、その反対の情念をもって対抗させるのがよい、ということがある。モンテーニュの例の悠々たる調子で、心の憂さ晴らしの法として、心の転換(ディヴェルション)を説いていた。スピノザも--これはデカルトの情念論をうけついだ人ですが--同じ様な、情念の退治法をのべています。デカルトもエリザベト王女に、憂鬱になったら眼を緑の山や林に遊ばせよ、と言ったりしている。けれどもかれの場合、情念に対抗する方法の本筋は、知性と意志をはげまして進む「強い心」をもつことになる。かれは言う、「みずからの心の強さをためすことのできぬ人もあるが、それはかれらが、自分の意志を固有の武器をもって戦わしめず、或る情念に対抗するために他の情念が提供する武器をもってするからである」と。意志自身の武器とは善と悪との認識に関する確乎たる判断であります。
 ところでこういう「確乎たる判断」をする「われ」、つまり自由意志をもつわれそのものもまた、内的に感知される。そういう内的感情をデカルトは「高邁の心」(「けだかさ」générosité)と言っている。それは一種の「驚き」であって、みずからの心の大きさに対する「驚き」である。自尊の心である。「驚き」の情念は、知的真理にも意志的善にも感覚的欲望にもひとしく開かれた価値意識の基底であると前に言いましたが、デカルトはそこに自己の大きさとけだかさの感受を見出すのであります。
    --野田又夫『デカルト』岩波新書、1966年。

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http://www.youtube.com/watch?v=uXvDC8LdZ6E

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