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「仁は人の心なり、義は人の路なり」

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 義は武士の掟中最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲りたる振舞いほど忌むべきものはない。義の観念は誤謬であるかも知れない--狭隘であるかも知れない。或る著名の武士〔林子平〕はこれを定義して決断力となした、曰く、「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」と。また或る者〔真木和泉〕は次のごとく述べている、「節義は例えていわば人の体に骨あるがごとし。骨なければ首も正しく上にあることを得ず、手も動くを得ず、足も立つを得ず。されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり」と。孟子は「仁は人の心なり、義は人の路なり」と言い、かつ嘆じて曰く「その路を舎てて由らず、その心を放って求むるを知らず、哀しい哉。人雞犬(けいけん)の放つあらば則ちこれを求むるを知る、心を放つあるも求むるを知らず」と。彼に後るること三百年、国を異にしていでたる一人の大教師〔キリスト〕が、我は失せし者の見いださるべき義の道なりと言いし比喩の面影を、「鏡をもて見るごとく朧」ながらここに認めうるではないか。私は論点から脱線したが、要するに孟子によれば、義は人が喪われたる楽園を回復するために歩むべき直くかつ狭き路である。
    --新渡戸稲造(矢内原忠雄訳)『武士道』岩波文庫、1974年。

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土曜日は仕事を終え24時に帰宅してから、27時頃寝たのですが、7時前には起こされてしまい、寝不足に頭を悩ます宇治家参去です。

日曜は朝から千駄ヶ谷の国立競技場となりの霞ヶ丘体育館にて、息子殿が通う剣道教室の試合がありまして、……たった二分の勝負なのですが、同行させられた次第です。

これまでにも何度か言及したとおり、本人がやりたいということで一昨年からはじめた剣道です。宇治家参去自身も十数年「やらされた」わけなのですが、そのなかでやはり「やらされた」感が強く、剣道そのものにあまり悦ばしい思い出はありません。

ただ、競技スポーツの剣道という意味合いではなく、綜合人間学としての「剣〝道〟」をやったこと自体には、一切無駄がなかった事実を思い出によって否定することができません。否むしろ、人間の骨格を形成するうえで、やってよかったという側面が厳然としてありますので、息子殿本人が「やりたい」ということで口火を切ったときには驚いた次第です。

さて……。
1年目は、剣術に親しむということで、竹刀のみにて練習のようでしたが昨年より道衣・防具を揃え、練習が始まり、いよいよ本格的!って思って、つい先だって様子をみたわけですが、とてもとても、お話にならないような状態ですけども……経験者からみるとまだまだ足下が覚束ないという状態でしょうか……、それでも、本人はハアハアいいながらも嬉々として取り組み、きちんと正座をし、礼を弁え、卑怯な戦いをせずやっているところを見ますと、やはり、或意味でやったことは正解だったのだと思わざるを得ません。

前述したとおり、確かに競技スポーツとしては、剣道に限らず武道の総てがその側面を有していることは否定できませんし、戦うならば勝ちたいというのが人情です。しかし、それだけでもないのが武道のもつ豊穣な歴史かもしれません。

相手に対する尊敬と同時に自分自身を卑下をしない独立の気風……そうしたものを毛穴から学ぶことができるのが、「スポーツ」という概念に収まりきらないその魅力かもしれません。
※ただし、その精神論に傾きすぎると、戦時下日本の武力運用における過度の精神主義へとなりますので自戒が必要なことは言うを待たないわけですが。

で……。
本来は11月の試合に出る予定だったのですが、私的な都合でその折りは参戦できなかったのですが、教室の先生の配慮で、その11月の試合で勝ち上がってきたメンバーによる試合があるということで、そこに今回参加させて頂いた次第です。

ただ、論点を先取りすれば、試合前の一斉稽古をみたときにも、「こりゃあレベルが違うわ」と思った通り、速攻で敗退するわけになるのですが、ただそれでも参加したのは良かったのかも知れません。

しかし、その「おつき合い」といいますか保護同伴という形で早朝よりたたき起こされ、細君と一緒に息子殿の試合に強制連行されてしまったのは、チトきつかった次第です。

試合自体は中盤の取り組みでした。

息子殿本人は、「絶対、勝ってくる」

などと意気込んでおりましたが、おそらくかなり緊張もしたことかと思います。

次々に試合が消化されていく様子を見ていると、痛くて泣き出すお子様や、負けて悔しくて涙を流すお子様、そしてかなり上手な剣捌きを身につけた猛者の様子を見ていると、……本人自体も、「うぅぅ~む」となっていたのではないかと思います。

ただ、憶病にならず、それでも挑戦したその心意気は勝ってやりたいものだと思います。

林子平(1738-1793)は「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心して猶予せざる心をいうなり。死すべき場合に死し、討つべき場合に討つことなり」と述べたと新渡戸稲造(1862-1933)の『武士道』で紹介されておりますが、挑戦する武士の心とは、「道理に任せて決心して猶予せざる心」なのでしょう。

結果は、秒殺といってよい状態でした。
こうした場合、なにかあると必ず涙+大音声で「泣く」息子殿でしたが、その状況を粛々と受け入れ、今回は「泣かなかった」ところは高く評価し、剣術を学んだことの間違いのなさを実感したひとときでした。
※もちろん、武士の子供として成長する様子を大いに誉めたわけですがね(苦笑)。

ま、こうした喜怒哀楽、鍛錬と成果の対峙のなかで、人間としての骨格を形成し、「節義ある士」へと成長して欲しいものです。

……ということで、午前中で試合自体は終わりましたので、帰宅途中に昼食を「釜飯/やきとり 藩」にて頂きましたが、本日は仕事を全日休みにしておりましたので、軽く「昼ビール」をやらせて頂きました。

ふぅ~う、昼ビールはしみこみ具合がなかなかよろしいものでございます。

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