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2010年3月

「ひょっとしたら、いまなら登れるかも!」

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<日本は敗戦復興し、バブル期を迎え、それがはじけて、いま、社会は沈滞感に包まれている>

 子供がみな、勉強する意味を見失っています。試験でいい点を取るなんて意味はなく、人生で何か問題が起きたときに、なぜそれが起きたのかを理解し、どうしたらいいのかを考えるために本を読んだり勉強したりするのですよね。それが完全に見えなくなっている。
(中略)
 わたくしは、もう一度何かになれるとしたら、学生になりたい。自分の周りの知の山に、どんどんどんどん脳細胞は衰えているかもしれないけれど、「ひょっとしたら、いまなら登れるかも!」って思えてくるんです。
    --「時代を駆ける 高村薫(7) 聞き手・滝野隆浩」、『毎日新聞』2010年3月29日(月)付。

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30日に4月から「倫理学」の科目を担当させていただくT短期大学の講師説明会・懇話会に行ってきました。
前回は中央線で乗り継ぎましたが、中央線はストップすることが多いので、今回は地下鉄経由で向かいましたが、時間的にはあまりかわりませんので・・・、出講時は地下鉄を利用しようかなと思った次第です。

電車で大川を超えると、やはり東京から離れたなア~と思いつつ、都心とは違う潮や野のにおいに春の息吹を感じ取った次第です。ただやはり2時間強の通勤時間はかなり堪えます。

さて……。
午前中が学事に関する説明会で、昼からが懇話会。終わると2時過ぎでしたが、オードブルばかりやっておりますと、やはり何か小腹がすくというヤツですので、東京駅で下車して蕎麦やにていっぺえやった次第です。ビールの味わいの余韻を楽しみつつ、サクッとやってから、お茶の水へ。

丸善で注文していた書籍を受け取り、そのまま、

「帰ろうか……」

……とも思ったのですが、

「何か物足りない……」

……ということで、あいている飲み屋があるわけでもありませんので、駅前の「Cafe PRONTO」にて再度昼ビール!

帰ってから少し仕事をしようかとも思っていたのですが、もう今日はいいや!

……ってことで昼ビールを堪能した一日でした。

お陰で電車を乗り過ごしたことは言うまでもありません。

さて……。

連日の報道を耳にしていると〝脱ゆとり〟ということで、教科書が大きく変わるとのこと。現場は大変だろうと思います。国家に教育が振り回されている……そんなことを実感しつつ、早急にはできませんが、教育(権)の独立ということも想定しながら、「勉強する意味」というのをもういっぺん、最初から考えなおす必要があるもんだ……そんなことをビールを飲みながら思った次第です。

教育系の短大で「倫理学」を講ずるわけですが、決して教育に関する専門知を教授するわけではありません。しかしその土台となる「倫理学」を担当するわけですので……恐ろしいことにシラバスでも1ページが拙論の紹介ページでした……、そのへんも勘案しながら、講座をたちあげていかなければならないと決意した夕べです。

……ということで、

細君と話していて、「何かやりたいことがあるか」と垂下されましたので、小説家・髙村薫女史ばりに(1953-)、

「もう一度何かになれるとしたら、学生になりたい」

……と答えたところ、

「やりすぎなので、もうならなくて宜し」

……とアリガタイお言葉をちょうだいしてしまいました。

たしかに「学生」をヤリ過ぎて、今なおその「気分」が抜けませんが、「周りの知の山」をみてしまうと、そう思ってしまうというのが人情です。

そしていまこの年齢だからこそ「ひょっとしたら、いまなら登れるかも!」って思えてくるもんではないでしょうか???


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過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていたい

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……元来「ものの哀れ」なるものは、永遠なるイデアへの思慕であって、単なる感傷的な哀感ではない。それは無限性への感情となって内より湧き、あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感ぜしめる。しかし、この底知れぬ深みに沈潜する意力を欠くものは、安易な満足、あるいは軽易な涙によって、底の深さを遮断する。そこに感傷性が生まれて生活を浅薄化するのである。清少納言は時人とともに軽易な涙に沈溺することを欲しなかった。それをするには彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった。彼女もまた官能的享楽人として時代の子である。ただ彼女は、過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていたいのである。この点で彼女は、紫式部が情熱的であるのに対して、むしろ確固たる冷徹を持する。そうして彼女の全注意を、感覚的なるものに現われた永遠の美の捕捉の方に向ける。彼女の周到にして静かな観察には、右の意味で主観的情熱からの超越がある。
    −−和辻哲郎「『枕草子』について」、『日本精神史研究』岩波文庫、1992年。

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憧憬をもって私淑する女性のひとりが清少納言(966?-1025?)です。
『枕草子』はよく読みましたが、様々な論者から指摘されているとおりその核心とは、「ものの哀れ」なのでしょう。

「ものの哀れ」に関してもこれまた様々な先達がその概要を指摘してやまないものですが、日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)の解釈によれば、それは徹底的な「惑溺」からの回避ということかもしれません。

俗流プラトニズムにみられるような真理への惑溺は真理への奴隷と化し、その対局にある官能的享楽への惑溺というのも、対象を物神化してしまう奴隷志向なのかもしれません。

それをうまく避けながら日常生活のなかで「確固たる冷徹」に徹したのがその生涯であり、その「ふみことば」のひとことひとことが千年を越えてわれわれを魅惑するだと思います。

真理を探究する修道僧のごとく「底知れぬ深みに沈潜」するわけでもなく、明日の風に感傷するケセラ・セラな「軽易な涙」を流すわけでもなく、、、。

そこが清少納言のすがすがしい薫風たるゆえんであり強さなのかも知れません。

こだわっているようで、こだわっていない。

そこが彼女のすばらしさの秘訣なのだと思います。

まさに和辻が指摘するとおりで、「彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった」わけですが、同時にその営みは「享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていた」からこそ、余韻の残る「主観的情熱からの超越」が可能になったのだと思います。

かくありたいものです。

「情熱」よりもすがすがしい「冷徹」さ。

そこに刮目してしまう宇治家参去です。

さて……。

この2-3日、東京は寒波到来で、2月のような極寒です。
フル防寒装備にて市井の職場へ出勤しますと、ひさしく欠品していた「辛そうで辛くない 少し辛いラー油」(株式会社桃屋)が納品されておりました。

〝食べるラー油〟として昨夏より販売されておりましたが、〝桃ラー〟との愛称で口コミでメガヒット!

気になっておりましたのでひとつ買い求め、試したみた次第です。

どえらく寒いので、これまた久しぶりにパック酒を熱燗にセットしてから、、、深夜ですので簡単なことしかできませんが、瀬戸内産のジャコ天を1分ほどチンしてから、九条葱を和え、そこに〝桃ラー〟をひとすくい。

通常ですと、生姜とポン酢でいただくところですが……。

なかなかいけますね……、というより、、、

「かなりいけるやん、コレ!」

……というところです。

「春はあけぼの」と筆を起こした清少納言でしたら、この味わい、どのように表現するのでしょうか?

気になるところです。

タンポポは咲き始めましたが「春はあけぼの」とはまだほど遠い東京でございます。

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日本精神史研究 (岩波文庫) Book 日本精神史研究 (岩波文庫)

著者:和辻 哲郎
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アバターな顔

Avatar

まっとさんに教えてもらってやってみました。

自分の顔で、アバター作れるサイトです。

おもしろいですヨ

ぜひ!

http://www.avatarmovie.com/jp/avatar/avatarizeyourself/index.php?uid=a4dca720041f617dae2f0d344491b073

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やさぶれた浪人風に・・・

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細君の実家に帰省している息子殿と、お世話になっている小学生のおともだちに手紙をかきました。

いゃ~あ、つかれましたが、充実!

昨日は、またまた衝動買いで万年筆用の一本差しを購入。

これをやさぶれた浪人風にすこし「おとし差し」でつるすとちょうどいいかんじでしょうか。

……短いですが、寝ます!

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「現在の不在」として「生気を失った近代人」の隔靴掻痒

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 近代は、それが始まったときから、大胆さと不安との対位的な構造によって特徴づけられてきた。大胆さは、デカルトと彼の後継者が示した数学への熱狂によって最もよく説明され得る。大胆さは、自分自身の影、つまり恐怖を投げかける。パスカルの言葉で言えば、「この無限空間の永遠の静けさが、私をぞっとさせる」のである。近代世界の現世的無限性は、それとともに時間経験という近代的な概念をもたらす。再度パスカルを引用すえば、「われわれは、現在のことに関心がない」。それゆえ、「過去や現在は、われわれの手段である。未来だけが我々の目的なのである。だから、われわれは生きているのではなく、生きることを希望しているのだ」。パスカルはこうして、近代の中心テーマの一つ、すなわち現在の不在を導入する。このテーマは、歴史に関するカント的思弁に固有のものである。後で見るように、カントにとって歴史とは、パスカルの言葉で言えば「絶えず幸福でありたいと願っている」人々、したがって決してその目標に達することがないと言わざるを得ない人々が住まうところ、なのである。
    --スタンレー・ローゼン(石崎嘉彦監訳)『政治学としての解釈学』ナカニシヤ出版、1998年。

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近代の時間感覚とはつまるところ未来へと無限に投企していく垂直向上型の直進的なモデルではないかと思います。

到来せぬ未来を企画していく現在という感覚とでもいえばいいのでしょうか。中世の一元的な宗教的権威の漆喰から解放されたと謳うのが近代なわけですが、そのじつはそう簡単でもないかもしれません。創造から審判へむけての直進的な時間感覚とはキリスト教に由来する時間論のひとつといってよいかと思いますが、そうした宗教的権威からの解放をもたらしたのが近代社会としても、結局のところ、魔術からは解放(ヴェーバー)されたわけではなく、俗流の、そして、しかもゆがんだかたちのそれが新しい社会に招かれただけなのかもしれません。
※ちなみに、対称的なのがインドの円環的時間感覚ではないかと思います。西洋においては年代史の作成が非常に重要な役割とされたのに対してインドでは年代史の作成がほとんど重視されなかったのは著しい人間観、時間感覚の相違だと思います。

そのへんを手厳しく「生気を失った近代人」として批判したのがニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)というわけですが、その先駆をなすのが近代の誕生に立ち会ったフランスのモラリスト・パスカル(Blaise Pascal,1623-1662)なのかもしれません。

現在と切り離された未来というものは、結局のところ未来という概念への惑溺というところでしょうか。

「過去や現在は、われわれの手段である。未来だけが我々の目的なのである。だから、われわれは生きているのではなく、生きることを希望しているのだ」。

近代とは、冒頭で引用した政治学者・スタンレー・ローゼン(Stanley Rosen,1929-)がいう通り、「大胆さと不安との対位的な構造」がその特徴だと思います。あれかこれかの対立構造が強調されるなかで、対象と対象が本来もっている有機的な関係が単純な「構造」に分解されてしまうのがその特徴なのでしょう。

ですから未来への投企は「現在の不在を導入」してしまうのかも知れません。

さて……。
金曜は休みでしたので、午前中に事務仕事をしてから、昼過ぎに市井の職場の健康診断。
済んでから、細君と買い物へ外出という強行軍でしたが、遅めの夕方からかる~くいっぺえやらせて頂き、22時過ぎには「アタマと机が合体」するほど眠くなりましたので、布団へ入ったのですが……、、、、

入ったとたんに眠気が醒めてしまい、、、

1時間は布団のなかで「寝るぞ~」と戦いの烽火をあげたのですが、、、

一向に眠くなく、、、

結局のところ、自室へ戻り、仕事を始めた次第です。

寝たいんです。

ですけど眠れない。

これもやはり、「過去や現在は、われわれの手段である。未来だけが我々の目的なのである。だから、われわれは生きているのではなく、生きることを希望しているのだ」というとおり「眠るのではなく、眠ることを希望しているのだ」という「生気を失った近代人」の隔靴掻痒というところでしょうか。。。

しかし!

眠たい……のではなく、眠りたい!!!

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Book 政治学としての解釈学 (叢書〈フロネーシス〉)

著者:スタンレー ローゼン
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【覚え書】「ひと アフガニスタンの文化復興を担うカブール国立博物館長 オマラ カーン マスーディさん(61)」、『毎日新聞』2010年3月25日(木)付。

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アフガニスタンの文化復興を担うカブール国立博物館長 オマラ カーン マスーディ(Omara Khan Masoudi)さん(61)

 アフガニスタンの大地には地中海やインド、中国などの文明が交流した跡が刻まれている。「これからの人類の道しるべとなる財産が地下に埋もれています。過去から学び、文明の十字路という本来の重要な位置を取り戻すこと。それが私たちの目的です」。アジア西方の仏教遺跡を調査している龍谷大(京都市)の招きで来日し、こう話した。
だが、現実は厳しい。「文化が生き続ければ国も生き続けるだろう」。こう入り口に掲げたカブール国立博物館は過去30年、苦難の連続だった。79年の旧ソ連侵攻以降、政情は混乱し、88年に10万点を超える収蔵品のうち黄金遺宝などをひそかに大統領府の地下金庫に移さざるを得なかった。
 92~94年の内戦で、堅固な構造の博物館は反政府勢力の基地にされ、ロケット砲攻撃を受けて炎上。博物館に残っていた収蔵品の70%が盗まれ、難を免れた彫像も01年、タリバンによってイスラム法に反するとして粉々にされた。
 タリバン政権崩壊後の03年から、美術品の修復に取り組み、海外に流出した文化財の返還を訴えている。設備や専門スタッフは足りない。「文化遺産を次の世代に伝えなければならない。いかに困難でも私たちはあきらめません」
 アフガンの人たちは、日本が教育、医療、文化の面で復興に協力していることを知っていて、感謝している--日本の読者に一番伝えたいことを問うと、そう答えた。(文 佐々木泰造  写真 森園道子)
73年にカブール大文学部歴史地理学科を卒業後、高校教師などを経て79年からはく博物館勤務。02年から館長。
    --「ひと アフガニスタンの文化復興を担うカブール国立博物館長 オマラ カーン マスーディさん(61)」、『毎日新聞』2010年3月25日(木)付。

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大事な記事だと思い、ひとまず【覚え書】。

とりあえず、調子もよくないので、すんませんが沈没船です。

今日は、健康診断もあるので、自愛のため、日本酒はやめておきます。

米焼酎「しろ」(高橋酒造株式会社/熊本県)!

米だからあまり意味がないのかもしれませんが、アフガニスタンの復興を祈るばかりです。

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「われわれの社会は病人を排除する」のでされないように念入りなアルコール消毒を!

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 デュルケームや米国の心理学者たちが、病の本質を<ずれ>や逸脱にみいだしたのは、これらの人々に共通の文化的な錯覚のためだろう。西洋の社会は、病人を追放したり、閉じ込めたりするばかりで、病人のうちに自己を認めたがらないのである。病と診断した瞬間に、われわれの社会は病人を排除する。われわれの心理学者や社会学者は、患者を逸脱者とみなし、病的なものの起源を異常なもののうちにみいだそうとするが、こうした分析はなによりも、社会的なテーマを投影したものである。現実には、その社会の成員が示す精神疾患のうちに、社会は自らをポジティヴに表現するのである。社会がこうした病の形にどのような地位を与えようとも、このことに変わりはない。たとえば未開社会でしばしばみられるように、病が宗教的な生の中心に位置づけられようと、われわれの文化のように、社会的な生の外部に位置づけられようと、これに変わりはないのである。
 ここで二つのことが問題になる。われわれの文化はいかにして病に逸脱という意味を与え、病人に排除される者という地位を与えるようになったのか。そして、われわれの社会は、病の形のうちに自らを認めることを拒みながら、いかにしてそこに自己を表現するようになったのだろうか。
    −−ミシェル・フーコー(中山元訳)『精神疾患とパーソナリティー』ちくま学芸文庫、1997年。

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フランス現代思想の旗手のひとりがミシェル・フーコー(Michel Foucault,1926-1984)です。学生時代はどっぷりとはまり、片っ端から読みあさり、哲学科(倫理学専攻)時代には卒論で論じた思想家でもあり、なつかしい人物です。

初期のフーコーの業績のひとつが『狂気の歴史』(L'Histoire de la folie à l'âge classique,1961)です。この書において、西欧という社会において、もともとは〝神の業〟と分類されていた狂気が、どうして精神病と見なされるようになったのかをフーコーは探求したわけですが、そのなかで、近代西欧社会というものが、伝統的に抑圧してきた狂気の創造的な力というものをマア、ひとつ明らかにしたわけですが、その助走にあたるのが、『精神疾患とパーソナリティー』(Maladie mentale et personnalité,1954/1962)です。短い一冊ですので、フランス語でいっぺん、訳本で数回読んでおりますが、久しぶりに再読した次第です。

狂気(病・精神疾患)を知の対象として実験室へ運び込み分析の対象へと転換していくのが近代西欧の歩みというわけですが、そこででてくるのはものの見方かをかえれば、まともな人間/まともでない人間という永遠に解決不可能な二項対立の問題をもたらしたということなのですが、その暴力性をしなやかに弾嘩したのがフーコーの筆致なのかもしれません。

さて……。
ひどい花粉症です。
昨日から雨なのですが、花粉症が悪化しております。

なにゆえに!

はい。

気がつくと花粉症ではなく、風邪をひいちまったようです。
熱はないのでラクですが、どうやら風邪のようでございます。

……ということで、

西洋の社会に限らず「病人を追放したり、閉じ込めたりするばかりで、病人のうちに自己を認めたがらないのである」のがこの世のならいでございますので、チト念入りにアルコール消毒を外側からではなく、体の内側から行い退治しようかと思います。

仕事の休憩中には、どん兵衛にかき揚げのてんぷらをのせて、すこし豪華?にやってみたのですが、あまり効果がありませんでした。

否、あまりおすすめできるシロモノでもありませんでした。

ですから・・・

チト念入りにアルコール消毒にこれから取り組もうかと思う次第です。

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精神疾患とパーソナリティ (ちくま学芸文庫) Book 精神疾患とパーソナリティ (ちくま学芸文庫)

著者:ミシェル・フーコー,中山 元,Michel Foucault
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嬉しいお知らせ……--かれらこそ聖者である、とわたしは言う

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    八、学生ナンダの質問
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 「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか? 世人は知識を持っている人を世人と呼ぶのですか? あるいは〔簡素な〕生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」
一〇七八
 (ブッダが答えた)、
 「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解をもっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩もなく、望むこともなく行うひとびと、--かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」
    --中村元訳「第五 彼岸に至る道の章」、『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、1984年。

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こんばんわ、宇治家参去です。
とっと寝るべきなのですが、ひとつうれしいことがあり、うれしいことがありますと、どうしても「語りたく」なってしまう生来の性癖がありますので、いたしかたなく、睡魔と戦いつつ入力する深夜です。

で、、、。

ハイ、うれしい知らせでした。

日曜日に勤務する大学の卒業式があったのですが、宇治家参去が初めて「倫理学」の教鞭を執った学生さんが今回卒業されたのですが、そのひとり沖縄のMさんからのメールでした。

前日に連絡をして、当日、キャンパスのどこかで会えるといいですよね~って話はしていたのですが、ご存じの通り、結構お互いに忙しいもので、当日は出会えませんでした。

それで彼からメールを頂いたのですが……。

ハイ。

「(通信教育部)法学部を代表し、主席を頂くことができました」

……とのことです。

いや~ア、嬉しいのを!!!

宇治家参去が初めて通信教育部の対面授業(スクーリング)の教鞭をとったのが2007年五月末の九州(福岡会場)でのそれでした。

ドキドキしながら、スクーリングに望んだわけですが、ハイ、いろいろと問題のあった初回の講義でした。

すでに飲んでいるときとかにその話を宇治家参去から聞いたことのある方が多いかとは思いますが紹介しますと、、、、

ご存じの通り?宇治家参去@倫理学はパワーポイントで授業を進行いたします。ですから機材が必要になるわけです。プロジェクター、スクリーン、RGBケーブル、etc……。
トラブルがあったとき、大学でやる場合でしたら臨機応変の対応が可能です。大学でやったときも一度だけRGBケーブルがない!ってことがありましたが、予備のケーブルを職員に用意していただきしのいだことがありますが、初回の会場、ここ福岡は大学から遠く離れた九州の教室でしたっ!

(会場によっての差異はあるかと思いますが)……当日、

「用意することを聞いていない」

……との返答を頂き、くどいようですが機材申請はしていたにもかかわらず、まあ、こんなこともあるわけヨ!って、〝生〟講義をしたのが忘れがたい思い出です。

さて初日、17時頃に授業を終えると、学生さんから……、、、

「センセ、このあと何か用事はありますか???」

……との言葉をかけられ?

「ハイ???」

「いえ、ですから、何かアポイントとかありますでしょうか・・・」

……って声をかけられました。

それが首席卒業されたMさんです。

ともかく無事に初回の初日の授業を終え安堵していたころでしたので、まさに

「ハイ???」

……って聞き返すぐらい〝ハイ〟ではあったのですが、

「どこか行きませんか=飲みに行きませんか??」

……との提案にて、ご存じの通り、そこで引き下がる宇治家参去ではございません。

いったん宿に帰ってから待ち合わせてから、佐賀県から受講しにきていたS君とも合流し、繰り出したのは懐かしい思い出です。

で、、、。

これだけ書くと、ただ飲むことが好きな学生と教員が飲みに行った……という話ですが、そうではありません。

この主席を獲得したM君も同じく今回卒業されたS君も、実に聡明な学生だったんです。

順位をつけるような表現をするのは恐縮で誤解を招くのでいやなのですが、

授業……せっかく作ったパワーポイント、しかも前日は飲み屋に行ってから、またまた帰ってから最後の仕込みをやるほどの手の入れようであり、宿泊した部屋が手違いで禁煙部屋でしゅくしゅくしながら作った!にもかかわらずそれが使えたなかった……のなかで、、、教員経験の方ならわかるかと思いますが、

「はあぁ~、コイツらすごい学生だ!」

……とコチラが兜を脱いでしまうような〝聡明〟な学生さんたちっているもんなんです。

授業の中でも

「ぶっちゃけ~」

……ってお互いに真剣勝負をしておりましたものですから、

夜の授業???でも、、、

真剣勝負をしてしまった……という次第です。

で、、、要するに、、、

そのとき感じたのが、

「大学の通信教育部とは恐るべし!」

……まさにそのひとことに尽きた次第です。

大学教員としてはそれまでも短大で教鞭をとっておりましたの教員経験というのはあったのですが、いろんな意味で、、、

「カルチャーショック」

……だった次第です。

パワーポイントも使えず、徒手空拳のような授業だったにもかかわらず、これも比べるとは恐縮ですが通学部とはまったくちがう緊張感のみなぎった真剣勝負に、こちらが飲み込まれてしまい、その魅力に虜になってしまったことは嬉しい出発であり、自分自身の原点となってしまいました。

まさに、

「カルチャーショック」というやつです。

その彼から……。

宇治家参去よりも優れた教員とかお世話になったひとびともいるにもかかわらず、嬉しいお知らせを頂き、ほんとーに幸せになって次第です。

宇治家参去自身はウンコ野郎なのですが、学生の成長といいますか勝利が何よりの朗報です。

ホンマ、嬉しい!

そのスクーリング後に一緒にのんだ佐賀のS君も今回一緒に卒業です。前日は祝宴を開くことができ、四年間で卒業できたことを寿ぐとともに、新しい人生の出発の門出の朗報に嬉しく思い、うれしさでいっぱいいっぱいになった次第です。

……ということで、今日は、細君の実家よりおくられてきた懐かしい銘酒『金陵 特別本醸造』(西野金陵酒造(株)/香川県琴平町)でいっぺえやっておりますが、写真をとってから気がつくと四合瓶がからっぽになってしまいつつあるという現状です。四国は基本的には甘口天国といわれる醸造界ですが、少年時代より親しんだ?讃岐・金比羅さんの地酒に懐かしさを味わいつつ……

いや~うれしい!

ほんま、うれしい!!

自分が最初に教室をともにした学生さんがひとつの勝利の結果をのこしたことが、、、

「うれしい!!」

……んです。

飲みながら書いていてすいません。

でもね。

うれしいんぢゃ!

カラッポににして寝ますワ!

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象の卵の殻を打ち破るにはどんな火薬が必要だろうなどという、キーファ・モケーエウィチの考察

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 水車が唯一の生活手段であるような人間を想像してみよう。この男は、父も祖父も粉ひきだったので、粉を上手にひくには、水車をどう扱えばよいのかを、あらゆる部分にわたって、ききおぼえでちゃんと承知している。この男は、機械のことはわからぬながら、製粉が手際よく上手にゆくように、水車のあらゆる部分をできるだけ調整してきたし、生活を立て、口を糊(のり)してきたのである。
 ところが、この男がたまたま水車の構造について考えたり、機械についてのなにやら怪しげな解釈を耳にしたりすることがあって、水車がどうしてまわるのかを観察するようになった。
 そして、心棒のネジからひき臼に、ひき臼から心棒に、心棒から車に、車から水除けに、堤に、水にと観察をすすめ、ついには、問題はすべて堤と川にあることをはっきり理解するにいたった。男はこの発見に喜んだあまり、以前のように、出てくる粉の質をくらべながら臼を下げたり上げたり、鍛えたり、ベルトを張ったりゆるめたりする代りに、川を研究するようになった。そのため、彼の水車はすっかり調子が狂ってしまった。粉ひきは、見当はずれのことをしていると言われるようになった。彼は議論し、なおも川についての考察をつづけた。こうして、永い間ひたすらその研究をつづけ、思考方法の誤りを指摘してくれた人たちとむきになって大いに議論した結果、しまいには当人まで、川がすなわち水車そのものであると確信するにいたった。
 彼の考えを誤りとするすべての論証に対して、このような粉ひきはこう考えるだろう。どんな水車だって水がなければ粉をひけない、したがって、水車を知るには、どうやって水を引くかを知らなければならないし、水流の力や、その力がどこからわくかを知らなければならない、したがって、水車を知るには川を知らなければならないのだ、と。
 論理的には、粉ひきのこの考察には反駁しえない。粉ひきの迷いをさましてやる唯一の方法は、どの考察においても大切なのは、考察そのものよりむしろ、その考察の占める地位であること、つまり、みのり多い考え方をするためには、何を先に考え、何をあとで考えるべきかをわきまえねばならぬということを教えてやることだ。また、理性的な活動が不合理な活動と区別されるのは、もっぱら、理性的な活動は、どの考察が一番目で、二番目、三番目、十番目はどれであるべきかといった具合に、重要さの順に応じていろいろの考察を配置する点であることも、教えてやらねばならない。ところが、不合理な活動は、この順序を持たない考察なのである。さらに、この順序の決定は、偶然ではなく、考察の行われる目的によるものだということも、教えてやる必要がある。
 すべての考察の目的がこの順序をも決定するのであり、ここの考察が理性的なものになるためには、それらがこの順序に従って配置されなければならない。
 そして、すべての考察に共通する目的に結びつかぬ考察は、たとえどんなに論理的なものであろうと、不合理なのである。
 粉ひきの目的は、うまく粉がひけることである。だから、彼がそれを見落さぬかぎり、臼や、車や、堤や、川についての考察の、明白な順序や一貫性は、その目的が決めてくれるであろう。
 考察の目的に対するこうした態度がないので、粉ひきの考察は、たとえどんなに立派であり論理的であろうと、それ自体、誤ったものとなるだろうし、何より、むなしいものとなるだろう。それはちょうど、もし象が鳥みたいに卵からかえるとしたら、象の卵の殻はどれくらいの熱さになるだろうなどと考えた、キーファ・モケーエウィチ(訳注 ゴーゴリ『死せる魂』の中の人物)の考察に類するものになるだろう。そして、わたしに言わせれば、生命に関する現代の学問の考察も、同じようなものである。
 生命とは、あの男が研究しようと望む水車である。水車が必要なのは、ちゃんと粉をひくためであり、生命が必要なのは、それがちゃんとしたものになるためにほかならない。そして、人はこの研究目的をたとえ一瞬たりとも好き勝手に放棄することはできないのである。それを放棄すれば、その考察は否応なしにおのれの地位を失って、象の卵の殻を打ち破るにはどんな火薬が必要だろうなどという、キーファ・モケーエウィチの考察に類したものになるであろう。
 人が生命を研究するのは、生命がよりよいものになるためにほかならない。
    --トルストイ(原卓也訳)『人生論』新潮文庫、平成十年。

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おはようございます。宇治家参去です。
引用がながくなり恐縮ですが、マンマ大切だと思いましたのでチト入力した次第です。
大学の卒業式にでるといつも思うのですが、「自分も卒業した」気分になってしまいます。ですけど、教員ですから「自分も卒業」するわけではありませんので、その意味では「置いていかれたしもうた」という自覚がでてくるものです。

ただ、いずれの立場であろうとも「一生涯」学習という意味では、学生さんも教員さんも、卒業生も在学生も皆等しく同じ立場であると思いますので、さあ、今日も一日、しっかりと勉強しようかと思います。

昨夜はふと、トルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828-1910)の『人生論』を再読したくなり、ページをめくっていたのですが、その序に「学ぶ」ということ意味が議論されておりました。粉ひきの男の例え話ですが……ちなみにトルストイの喩えは非常に妙技です……、トルストイの指摘する「どの考察においても大切なのは、考察そのものよりむしろ、その考察の占める地位であること」が大切なのだろうと思います。

要するに「何のために学ぶのか」というところでしょうか。
アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)が『ニコマコス倫理学』のなかでくどいほど指摘したように、目的と手段の混同ほど不幸なことはないのかも知れません。

ともかく何かに取り組むと、その取り組み自体が目的となってしまい、当初の目的がすっぽりと抜け落ちてしまうことは学習に限らずよくあることです。それが悪いというわけではありませんが、ときおり点検しながら、取り組む必要というのはあるのかもしれません。

そうしないと知らないうちに「象の卵の殻を打ち破るにはどんな火薬が必要だろうなどという、キーファ・モケーエウィチの考察」のようになってしまうのでしょう。

……ということで、うどんでも食べに出かけてきます。

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ご卒業おめでとうございます。

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人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれをおしつぶすとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙の自分よりずっとたちまさっていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから我々のあらゆる尊厳は考えるということにある。我々が立ち上らなければならないのはそこからであって、我々の満たすことのできない空間や時間からではない。だからよく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
    --パスカル(津田穣訳)『パンセ』新潮文庫、昭和二十八年。

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 ご卒業まことにおめでとうございます。
 卒業とは終着点ではなくひとつの出発なのではないかとふかく思った次第です。

 ご卒業まことにおめでとうございます。

 また小生のお祝いまでしていただき、ありがとうございました。

 人間であることよりも人間となることはすばらしいものだと実感した次第です。

 これから仕事ですので、現実との格闘を再開いたします。

 学問は幸福になるために存在し、人間には正義と勇気が必要。
 そしてそれをささえあう友とその協調が必要。
 そんなことを思った次第です。

 でわ!

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語り得ないものを洩らすことも可能となるのだが、

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……「語ること」の自己背信を代償として、すべては現出する。だからこそ、語り得ないものを洩らすことも可能となるのだが、語り得ないものの秘密を漏洩すること、おそらくはそれが哲学の使命にほかならないのだ。
    −−レヴィナス(合田正人訳)『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』朝日出版社、1990年。

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今日は勤務先の大学の卒業式です。

はえある卒業の栄冠を勝ち取られた皆様誠におめでとうございます。

で、、、今卒業式に参加するために向かっているわけですが、晩春のようなあたたかさです。

で、、、問題が一つ。

卒業を祝うために大事をとって宿をとっているのですが、そのことを細君にまだ話ておりません。

どうすっぺ!

語り得ないものに頭を悩ます宇治家参去です。

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「四六時中自分自身を実況中継するわけでしょ」というわけではありませんが、ゆる~くTwitter

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 新聞は諸制度の代役を果たすものではない。新聞はサーチライトのようなもので、休み泣く動き回りながら暗闇のなかに一つまた一つとエピソードを浮かび上がらせる。人間はこの光だけに頼ってこの世の中の仕事をするわけにはいかない。人間はエピソードや出来事や突発事件によって社会を支配することはできない。人びとが自分自身の安定した不動の光に頼って働くときはじめて、機会があれば新聞も国民の意志決定に十分役立つほどはっきりと状況を照らし出すのである。病巣は新聞より深いところに潜んでいる。その治療法も深いところにある。治療法は分析と記録のシステムを基盤とした社会組織とそれに付随するすべてのものに見出せる。そして、市民は万能であるという理論を放棄すること、意志決定を分散すること、比較可能な記録と分析によって決定を調整することにある。経営の中枢部に経常会計検査報告書があれば、そしてそれが仕事をしている人びとや監督している人びとに仕事がどのようなものであるかをあきらかにするようなものであれば、問題が起こったとしてもたんなる群盲の論争に終わることはない。また新聞に対しても情報システムによってニュースが提供されるとともに、そのシステムは新聞に対するチェック機能をも果たす。
    --W.リップマン(掛川トミ子訳)『世論(下)』岩波文庫、1987年。

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こんばんわ、宇治家参去です。
2-3日まえから、ゆる~くTwitterを始めております。

登録自体は先月にしていたのですが、なにのために利用するのかわからず……。

ちょうど総務大臣の原口一博(1959-)氏が、参議院予算委員会に遅刻をしてtwitterとの関係をおもしろオカシクメディアが報道していることもあり、何かがおこるたびにtwitterを真剣に打ち込むほど、大臣は暇ではなく、もっと「ほかにやることがある」のでは……と思ったこともあり、登録後、なかなか手をだすことがありませんでした。
※ちなみに、twitter理由で遅刻したわけでないとしても、予算委員会に遅刻……それを本人はブッキングミスとの理由でいっているわけですが、……いかなる理由であれ、それがブッキングミスであろうとも、自己自身を管理できていないというイミでは公人としていかがなものかとは思います。要は責任と自覚の問題でしょう。

そんでもって、そんなころ、細君がご贔屓にしている(東京では日本テレビ系列の)『情報ライブ ミヤネ屋』というワイドショー……宇治家参去はワイドショーが大嫌いですが……にて、その問題が取り上げられていたわけですが、そのなかで、フランクなトークが売りの〝浪速のみのもんた〟と称される番組の冠司会者・宮根誠司氏(1963-)が要するにtwitterとは基本的には「四六時中自分自身を実況中継するわけでしょ」(趣意)とのわかりやすい構造分析をみせておりましたので、はあ、なるほど、それは面倒ダワ……と思ってしまった宇治家参去です。

で……、
それでも、2-3日まえから、ゆる~くtwitterを初めてしましたが、まあ、これはtwitterにかぎらず、利用と発信とは異なるもので、受信という側面でみてみるならば、ある程度利用価値はあるのかなと思った次第です。

更新情報をこれまではRSSリーダーなんかで利用しておりましたが、結構煩瑣なわけです。ただtwitterの場合、発信情報を制限といいますか、あれもこれもとやらなければ、簡易なRSSリーダーとして利用の価値はあるのかな……などと思ったここ2-3日です。

とりあえず、定番ですが、NewYorkTimesとTheEconomistの〝つぶやき〟を拝聴できるようにはしておりますが、これが割合と便利です。

ともあれ、前評判とか憶測だとか億見でスルーしなくてよかったかなとは思う次第です。

……と表現すると、宇治家参去自体はつぶやいていないのか……というわけですが、それなりにつぶやくようになってしまいました。

これがシステムとか制度の恐ろしいところでしょうか。

というわけで、、、

リップマン(Walter Lippmann,1889-1974)が「新聞はサーチライトのようなもので、休み泣く動き回りながら暗闇のなかに一つまた一つとエピソードを浮かび上がらせる」というとおり、そのキャッチをここちよくできるようになった宇治家参去です。
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夜おそくまで勉強するのはやめて、本気でゆっくり馬鹿寝をすれば、知的にも肉体的にもずっと早く成長することだろう

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 我々の周囲には、この広大で、野蛮な、吠え猛る、われらが母なる「自然」が、ヒョウのように美しく、子供らへの愛情にあふれつつ、いたるところに存在している。ところがわれわれは、あまりにも早く「自然」の乳房を離れ、人間社会のほうへ--もっぱら人間同士のの相互作用にほかならないあの文化のほうへ--さっさと移っていく。けれどもそこは、せいぜいイギリスの貴族階級くらいしか生み出さない同種繁殖の世界であり、たちまちゆき詰まることを運命づけられた文明世界にすぎないのだ。
 人間の社会では、もっともよい制度のなかにも、ある種の早成現象が見つかるものである。われわれはいまなお成長しつつある子供でなくてはならないのに、早くも小さな大人になっている。私が切に求めるのは、牧草地からどっさりと堆肥を運んできて土壌を深く耕すような文化(カルチャー、栽培法)であり、加熱肥料や、改良農具や、さまざまな栽培法などに頼る文化(カルチャー)ではないのだ。
 世間には眼を痛めたあわれな学生がいっぱいいるそうだが、彼らだって、夜おそくまで勉強するのはやめて、本気でゆっくり馬鹿寝をすれば、知的にも肉体的にもずっと早く成長することだろう。
    --H.D.ソロー(飯田実訳)「歩く(ウォーキング)」、『市民の反抗 他五篇』岩波文庫、1997年。

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じつは今日、明日と委嘱研究員をさせて頂いている哲学研究所で年次の学術大会があります。研究所で二日間やるのが例年です。ただ本年度は、初日は研究所で、二日目は都内でというイレギュラーになってい、初日に研究員の発表、二日目にヴァイツゼッカー博士を招き講演および環境シンポジウムという組み立ててです。

明日息子殿が義母のサルベージにて田舎に帰省しますので、帰省するまでに息子殿と時間をとっておくことがこのままではできませんし、なによりも今週いっぱいの仕事もたまっておりますし、疲れがひどく風邪っぽいですので、、、初日はキャンセルさせていただき、自宅で休日を過ごすことにさせていただいた宇治家参去です。

ただ昨夜、しこたまは飲んでいないのですが、飲み始めた時間が遅く、寝たのが明け方だった所為で、起きたのが15時となってしまいました。

ちょいとがっくし!
寝過ぎやねん!!

……というところでしょうか。

本来は寸暇を惜しみ「眼を痛めたあわれな学生」のごとく睡眠を削って仕事をすべきなのですが、あまりまじめな性分でもありませんし、寝てしまった事実を否定することもできませんので、近代アメリカの詩人・思想家として知られるソロー(Henry David Thoreau,1817-1862)の忠言、すなわち「夜おそくまで勉強するのはやめて、本気でゆっくり馬鹿寝をすれば、知的にも肉体的にもずっと早く成長することだろう」というのをしっかりとアタマに刻みつつ、「知的にも肉体的にもずっと早く成長する」ために「馬鹿寝」してしまったということにしておこうかと思います。

さて……。
短大の追試の採点と大学のレポートの仕分けで1時間だけ仕事をしてから、かるくウルトラマンごっこを息子殿としておりますと、もはや夕方です。

タバコが切れかかっていたので、夕方ふたりで出かけましたが、美しい夕日にご対面です。

「我々の周囲には、この広大で、野蛮な、吠え猛る、われらが母なる「自然」が、ヒョウのように美しく、子供らへの愛情にあふれつつ、いたるところに存在している」のかもしれません。

……ということで、今から、ちょいと書類仕事を済ませようかと思います。
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以上の三種類の愛はそれぞれ本質を異にしているが、もし同一の対象に対してこの三種の愛が同時に体験されることがある

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 しかし、このような議論を重ねていくよりも、我々は寧ろ端的に愛の本質を規定し、そこから還って当面の問題を論じた方がいい。
 そこで我々が「愛」と呼んでいるものを詳しく調べて見ると、そこにいくつかの本質的に違ったものが含まれているのに気付くのである。まず第一には、神学者がが一般に認めている自己中心の愛である。凡そ生あるものは、自分自身を愛する。自分を愛するとは、生物の自己の存続を守り、その破滅を防ごうとする本能があるということである。人もまた、この例に洩れない。人は自分の生命の持続を助けるものにたいしては本能的に心を傾け、自分の存在を脅かすものにたいしては自然に嫌悪の情を懐く。一口に言えば人は死を怖れ、死を嫌う。彼は決して死ぬ時の苦しみが怖いから、或は現世で様々な罪を犯した故に死後の罰が怖いから死を嫌うのではない。彼らはたとえ、何の苦痛もなく死ねる、また死後は絶対に罰を受けはしないと保証されても、依然として死を嫌うことを止めはしないであろう。死の恐怖、すなわち自愛(自己の存在のために物を愛すること)こそ、生を受けた人間の自然の本性である。父の子に対する愛もこの種の愛の一種に過ぎない。と言うと次のような反論が起こるかも知れない。すなわち、我々が自分の子供を愛するのは決して、我々自身の存続のため、つまり我々自身の利益のために愛するのではないのだ、親は自分の子供から何の利益も期待できない時でもやはり、子のため、あらゆる苦難を堪え忍んでこれを養育し愛するではないか、と。しかしそれは皮相的な観方である。すなわち親がその子供を愛するのは、自分の身体や健康や財産を愛するのと少しも違いないのである。我々は自分の子供を愛することにおいて、自分自身を愛しているのである。自分が死んだ後、子供が生存することは、いわば自分が生存することの一種である。我々はいくら永久に生きていたいと思っても、その望みは絶対に実現できないということをよく知っているから、自分の「一部」のような、子供を愛するのである。人が自分の親類や友人を愛するのもこれと少しも違うところではない。彼はその親類や友人を、自分の親類であるが故に、自分の友人でえあるが故に愛するのである。また自分を保護し、自分を世話してくれる人を愛するのも同様である。
 然るに我々は、こういう愛とは全然性質を異にする愛のあることを知っている。すなわち、何等かの意味において完全であると認めたものに対する愛である。この愛は対象を、何か他の目的のために手段としてではなく、そのもの自身のために愛する処に特徴がある。たとえば人は美しいものを、そのもの自身の故に愛する。人は何か利益を獲ようと思うことなしに美しいものや、崇高なものを愛する。美しい絵をそれ自身のために愛するとは、決して、それで我々の存在を続ける一助とするために愛することではない。しかもここに注意すべきことは、同一の対象が、我々の心構え如何によって第一の愛の対象ともなり、第二の愛の対象となり得ることである。流れ行く川は、渇を医してくれる水として愛することもできれば、また美しい自然風景として愛することもできる。
 このような愛あるが故に、我々は何千年の昔の優れた有徳の人を愛し、また数千里を隔てた遠国の明君を愛し得るのである。数千里の彼方の国へ我々は一生のうち決して自分で行く当てがないにしても、そこに慈悲深い王様があるのを聞けば、これを愛さずにはいられない。この場合、我々はその王様を自分のためにではなく、その王様自身のために、言い換えれば彼に内在する性質の故に愛するのである。我々が自分で一度も見たこともない古い昔の予言者や詩人を愛するのも、それらの人々の完全さの故でなければならぬ。そして我々はこの愛の故に、自己の命さえ投げ捨てて惜しまないのである。第一の愛に比して、この愛は「真の」愛(hubb haqiqi)とみなされるべきであろう。
 ところが我々は経験によって、この二つの愛とはまた違ったさらにもう一つの愛のあることを知っている。それは愛する者と愛される者との間の理屈では何んとも説明のできない一種不思議な関係(munasabah khafiyah)による愛である。人は、別に何と言って理由が分からないのに、或る人を夢中に好きになってしまうことを経験したことがあるであろう。なぜ相手を愛するのか自分で自分に尋ねて見ても説明できない、相手が自分の存続のためになる訳でもない、さればと言って相手が美しいのでもなく完全な訳でもない、いや客観的に見たら何処が好いのかと問いたくなる程不完全である、にもかかわらず、どうしても自分の魂を挙げてこれを愛さずにはいられない、そういう経験が誰にもあるであろう。この愛に理由を見出そうとするのは無益である。それは人智をもっては絶対に解決されぬ謎である。ただ我々は、この経験の事実を認めるのみで充分である。
 以上の三種類の愛はそれぞれ本質を異にしているが、もし同一の対象に対してこの三種の愛が同時に体験されることがあるならば、それこそ至上の愛と言うべきであることは論をまたないであろう。そして、その事が、正に人間の神に対する関係において成り立つのである。
    --井筒俊彦『イスラーム思想史』中公文庫、1991年。

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イスラーム神秘主義のスーフィーの議論を整理しようと思い、その大成者・アブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=ガザーリー(Abū Hāmid Muhammad ibn Muhammad al-Ghazālī,1058-1111)の井筒俊彦先生(1914-1993)の手による解説書を読みつつ、はあ、なるほどねとひとり悦に入る宇治家参去です。

ただ、運悪く明け方までひもといていたのが失敗です。
今朝は息子殿の幼稚園の卒園式でしたので、寝たかと思うとおこされてしまうという状況です。

愛とは、自愛、完全性への愛、愛する者と愛される者との間の理屈では何んとも説明のできない一種不思議な関係(munasabah khafiyah)による愛に生活世界では区分されるようですが、感動のあまり泣くわけでも、熱心に撮影にいそしむわけでもありませんが、この「以上の三種類の愛はそれぞれ本質を異にしているが、もし同一の対象に対してこの三種の愛が同時に体験されることがある」ことだけは深く確信した宇治家参去でございます。

はあ、つかれた。

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無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの

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 幸福だけの幸福はパンばかりのようなものだ。食えはするがごちそうにはならない。むだなもの、無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それがあたしは好きだ。
    --ヴィクトル・ユーゴー(豊島与志雄訳)『レ・ミゼラブル(四)』岩波文庫、1987年。

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先週自宅用のパソコンがぶっこ割れて、出張用のノートPCで仕事をしているのですが、どうにも仕事にならないので、少し型落ちしたワークステーションを購入(予定)したのですが、明日といいますか本日配達されてきます。

ですので……。

すこし部屋の片づけをした宇治家参去です。

片づけと申しましても、たいしたアレではないのですが、せっかくやるならば、きちんと“道具”をつかってやろう!

……ということで、荒物屋!(こんな表現すら死語かもしれませんが)にて、“金太郎箒”なる一品をゲットです。

これにて……掃除はうまく完了!

……という一日でしたっ!

掃除機でやるのが常道なのでしょうが、なんでもかんでもメカニカルに杓子定規やっているようでは、文豪・ユゴー(Victor-Marie Hugo,1802-1885)が指摘するとおり、「幸福だけの幸福はパンばかりのようなもの」なんですヨ。

ですから、こうした余裕といいますか、存在における過剰な部分が必要なのが人間世界というものです。

まさに……。

“無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの、それがあわしは好きだ”

……を実感する宇治家参去です。

ただ……まさに“無用なもの、よけいなもの、多すぎるもの、何の役にも立たないもの”のようでして、掃除にはあまり役に立たなかった次第です。

ですけど、こうしたものがいいんですよねぇ~。

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『人生のちょっとした煩い』

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 何年か前、秋田の大館へいったとき、このごろはセミの声をさっぱり聞かなくなったということを聞いた。いったいなぜなのだろう?
 東京は昔とくらべたらますます大都市化しているが、声から判断するかぎりではセミの数はそう減っているとも思われない。セミは都市化に耐えてしっかり東京に住みついているいるらしい。
 それは多分、セミたちが子ども時代を土の中ですごすからではないか。ぼくは単純にそう思っていた。都市の空気は汚れているだろうが、土の中に車の排気ガスはそれほどしみこんではいくまい。だからそこで五年も六年もかけて成長するセミの子どもたちは、都市化の影響をあまり受けていないのであろう。他の虫が大幅に減ったりいなくなったりしている大都市東京でセミの数が減らないのは、きっとこういう理由だろうとぼくは思っていた。
 けれど先日聞いたところでは、東京でもセミの数は年々減ってきているという。もしそれが本当なら、どういう理由なのだろう?
    --日高敏隆「セミたちと温暖化」、『セミたちと温暖化』新潮文庫、平成二十二年。

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ここ数年、本屋には喫緊の用事がない限り出向かないように心がけております。
と……いいましても、やはり必要上から、訪問することはしばしばあるのですけど、基本的に「必要な」書籍は、amazonか、「スーパー源氏」という古本・古書の検索販売サイトにて入手するようにしておりますが、それでもやはり、今日中に必要であるとか、たまには気晴らしに……というときには本屋をのぞくことが時折あります。

どうして急な案件がない限り本屋に行かないかともうしますと、要するに必要以上に買い込んでしまう……ということがしばしば以上にあるからです。

1回の訪問でのマックス購入量は20万円という額が最大です。
この20万円という額は、きわめて例外であるにしましても、目的の書籍の価格が1000円であったとしても、まあ、ぶらぶらみていると次から次へと手に取ってしまいますので、だいたい5倍から10倍にはなってしまいますので、“喫緊の用事がない限り出向かない”ように心がける宇治家参去です。

結婚してからこのエンゲル係数ならぬ、ビブリオ係数とでもいえばいいのでしょうか……それがハンパ無く家計を圧迫するものですから、学問上どうしても必要不可欠なものは、「常識の範囲」でならば協議の上、可決。それ以外はamazonで月1万円を超えない程度の利用ということで予算委員会の審議が決しましたので、そのルールに則り、なるべく本屋を意識的に避けるようになってしまった次第です。

しかしながらそれでも行くのは行きますが、大枚をはたくことはだいぶ少なくなった次第です。
※ただ、amazonのカートにはすでに30万円分ほどぶっこんではおりますが、小出しにしか購入できないところが難ではあります、貧乏はつらいっス。

さて……。
昨夕は、昨夏出版された村上春樹(1949-)さんが翻訳したアメリカの作家グレイス・ペイリー(Grace Paley,1922-2007)の短編集『人生のちょっとした煩い』(新潮文庫、2009年)がなかなかブック・オフで手に入らないので……ちなみに節約のため、新刊本は基本的に、本をその価値でプライスしないブック・オフにて利用するよう心がけておりますが、、、嗚呼ビンボー臭い!……、いいかげんに、本屋で買うかということで、細君からちょいとお金をいただき、その他に必要な書籍もまとめてみていたわけですが、……大いなる失敗、しかもよくやる失敗をぶっこいた次第です。

上述の通り、本屋へ行きますと、1冊で済まないのが宇治家参去です。
図書館もむろん利用しますが、母親から「本を買うことにお金を惜しんではいけない」との家訓を年少より耳にタコができるほどきかされて育ったものですから、ある程度、「これとこれ」というのは頭に描きながら、訪問したわけですけど、それでもよくやる失敗をしてしまった次第です。

だいたい数冊から10冊程度はいっぺんに買いますので、いつも本屋に出向いて不便だなとおもうことがひとつあります。

スーパーなんかですと買い物かごがありますが、一部例外をのぞいて基本的にはセキュリティ都合もあり、買い物かごなんておいてある本屋はまれです。

そのおかげで要するに、カバンをもって、何冊も本を抱えながら、中身を確認しながら本を買おうとするのですが、その不自由な状況ゆえに、この本を買うかどうか迷って中身を確認しているとき、すでに購買を決定した本なんかを、その迷った場所の近くなんかに積み重ねてしまうわけなんです。

両手をすっきりさせてから、さあ、この本はどんな内容か、ぱらぱらってめくるわけなのですが、そのために、すでに購買を決めた本を、陳列された本の上にいわば借り置きするわけです。

そこで……。

事故が発生してしまうというやつです。

はい。

ぱらぱらめくっていた本を買うにせよ、まあこれはいいや!って戻すにしても、いったん、売り場に借り置きした購入予定の書籍を再び手に取るわけですが、、、

そこで……。

事故が発生してしまうというやつです。

はい。

売り場に借り置きした購入予定の書籍を再び手に取る際に、その本を置いて置いた売り場の本まで一緒にレジまでもっていくという寸法です。

レジまでいくと……、育ちの所為?でしょうか。
中身までは確認しません。

ですから帰ってから袋をあけると……、

「なんぢゃコリャ???」

……って記憶にない本が混ざっていることがよくあるんです。

だから、本屋は恐ろしいいんです。

だから、、、

「本屋へ行く」

……というと細君が眉をひそめ、

「欲しいのがあるなら、amazonにしておきなさい」

……と言われてしまう宇治家参去です。

さて……。
今回のオナモミ(Xanthium strumarium)のごとき“ひっつき虫”、“くっつき虫”は何でしょうか。

すでに持っている本でも、読んでしまった本でも、そして読むに足らない本でもなかったのが不幸中の幸いでした。

京都大学名誉教授の故・日高敏隆(1930-2009)氏の自然をみつめるエッセイ集『セミたちと温暖化』(新潮文庫、平成二十二年)がそれでございます。

日高氏の著作は数冊読んでおりましたので、今回はまさに“不幸中の幸い”というやつです。

本を選びながら、ある程度合計額は想定しており、とりあえず、本日は福沢先生お一人で100円前後おつりがくるなぁ~って思いつつ、会計をしておりますと、500円程度オーヴァーしており、しかたくカード決済したのですが、そのときに内容を確認しておくべきだったのかもしれませんが、存外にいい本を手に入れることができたという意味では、事故でなかったのかもしれません。

ともあれ、だからなかなか細君は本屋に宇治家参去を行かせてくれません。

ただこれは律儀な社会科学系の研究者ではなく、人間世界に鷹揚なちょいといい加減な人文科学の研究者であるわけですのでイタシカタナイというところなのでしょうが・・・、これほどいい加減という意味では、世の真面目な人文科学の研究者につっこみを入れられてしまうというものですので、イイカゲンな宇治家参去の“いいかげん”というところでしょうか。

ま、これが『人生のちょっとした煩い』というやつでしょうか。

……というところで、毎晩の晩酌に関しては落ち度なく念入りに準備をするという意味ではたんなる“イイカゲン”な宇治家参去というわけではありません。

夜になっても十五度を下回らない、初春らしからぬ初春ですので、湯豆腐よりも冷や奴!というわけでございます。

買い置きアイテムの「寺岡家の豆腐のつゆ」(寺岡有機醸造(株)/広島県)が届いたばかりでしたので、九条葱をきちんと切り、冷や奴をやった次第ですが、十五度をこえると、やはり冷や奴ですね。

さて……。
これも「温暖化」???

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完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で共に歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである

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 いつか伝説的な「幸福な」人間が実際にいたにせよ、ねたましさをもってたたえられた幸運児や、太陽の愛児や、世界支配者も、わずかに時々、はなやかな恵まれた時間、あるいは瞬間には、大きな光に照らされたにせよ、彼らはほかの幸福は体験せず、ほかの世転びにはずかりえなかったのだ。完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で共に歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである。多くの人はそれをただ一度だけ、あるいは数回だけ体験した。しかしそれを体験した者は、一瞬のあいだ幸福であっただけでなく、没時間的な喜びの光輝やひびきのなにがしかを得てきたのである。私たちの世界に、愛するものがもたらした愛、芸術家がもらたした慰めや朗らかさのすべて、そしてしばしば幾世紀ののちも最初の日のように明るく輝いているすべてのものは、そこからくるのである。
    --ヘルマン・ヘッセ(高橋健二訳)「幸福論」、『幸福論』新潮文庫、平成十六年。

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週の初めは真冬のように雪が降り、弥生三月ですが「およよ」と思いつつ、週の終わりになると晩春のような陽気でふたたび「およよ」と思いつつ、何か大切なことを忘れてはいけない……との念だけつよく、その何か大切なことを忘れてしまいそうになった宇治家参去です。

はい、昨日は3月14日でしたっ。

1ヶ月まえに細君からドイツ・ワインを頂戴しておりました。

あやうくその返礼をわすれてしまうところでしたっ。

我が家といいますか宇治家参去夫婦は2月14日から3月14日にかけてお互いの誕生日もはいりますので、この時分なにかと出入りの多いものです。

かつ、年度末でけっこう忙しく……心を忘れる=忙しさというわけで、スルーしてしまうことも可能なのですが、奥歯に何か挟まったような違和感が重苦しく、つたない頭を巻き戻しながら再生すると、机のうえにかざることできるような小さな鉢植えがほしいと細君がいっていたことを思い出し、なんとか用意することができましたっ。

ただし用意した鉢植え……すなわち「オレンジ ジョセフィン」というやつには「頭の良くなる花」というコピーが添えられておりますので、そこがチト難ですね。

「ありがたいのですが、こういう嫌がらせをする「二乗」は成仏不可!」

……などと言われてしまいそうです。

ただ、これは自分としては「確信犯(Überzeugungsverbrechen)」でやったわけではないのですが、ま、花が開けば、そうした疑いははれる……ハズ、そう思うことにいたします。

ま、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse,1877-1962)が「完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で共に歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである」というところでしょうか。

どこかに完全性を求めても詮無いものですから、完全な現在の中で幸福を味わうほかあるまいかと存じます。

世の殿方。
細君は大切にしたほうがようござんす。

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【覚え書】「Viewpoint アリ・ゴマア師 エジプト・大ムフティ(国家イスラム指導者) 相違を認め尊敬の念を」、『毎日新聞』2010年3月13日(土)付。

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 米国や世界の多くの地域は、「イスラム」を名乗る暴力的な過激派の犠牲となってきた。中でも米同時多発テロは言語道断の悲惨な事件だ。多くの人には一部の極端な過激主義だけが目に映り、イスラム世界に平和的な考えを求めるのは無理だと絶望さえしている。
 だが、イスラム世界と(それ以外の)近代世界の和解は必須である。私が議長を務めるエジプト最高の宗教権威「イスラム諮問評議会」はイスラム世界を近代世界にいかに適応させていくかという問題と格闘してきた。
 宗教令を出して、女性の権利や表現の自由などを認め、他宗教と多くの共通点を見いだそうとしてきた。政治は公平さと国民主権に基づく必要があると強調してきた。
 私たちは、何の罪もない人々への暴力を非難してきた。市民の殺りくは人類に対する罪であり、必ず神の罰を受けると訴えたい。
 同時に、ひとびとの価値観や物の見方には相違があるという現実も受け入れねばならない。イスラム教徒と日本人も異なる価値観を持つ。お互いの相違に敬意を払うことは、共存のための根幹部分である。オバマ米大統領もイスラム世界との対話に務めようとしている。ただ、持続的な相互信頼関係を発展させるためにはさらなるステップが必要だ。
 第一にイスラム教徒が穏健になるべきだということは言うまでもない。過激派はイスラム教徒の代表ではない。イスラム聖職者はプロの仕事として声高に「暴力の否定」を訴えるべきである。メディアや学者、非政府組織(NGO)が声をそろえることで、大多数の健全なイスラム教徒は、過激論に執着する少数派を説得することができる。
 第二に、対話は科学や文化、経済、技術といった多面的な分野に拡大させる必要がある。他者への偏見を抱いていない次世代の指導者である若者たちが知識を共有することは、寛容の精神を醸成させていくのに確実な方法だ。
 第三に、バランス感覚のある外交政策が双方の関係を改善させていく基礎となるべきだ。国際法と国連決議の尊重のために協力せねばならない。法の統治に重きを置くことで正義が人々の間に広まり、虚偽の弁解など誰もできなくなる。【訳・隅俊之】
    --「Viewpoint アリ・ゴマア師 エジプト・大ムフティ(国家イスラム指導者) 相違を認め尊敬の念を」、『毎日新聞』2010年3月13日(土)付。

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お互いのことを知らない→知らないから怖い、という短絡的な流れというものが一番怖いんです。そしてその一部を過剰に演出して利益誘導するメディアが問題を加速させるという寸法なのですが、だからこそ“知る”“理解する”ことが大切なんだろうと思います。

お互いのことを知らない→知らないから理解しよう、そしてお互い「相違を認め尊敬の念を」もつようになりたいものです。

この部分の底入れをするのが、義務教育とは異なる、志願して学ぶ大学教育の使命なのではないか……そう思う宇治家参去です。

人間だけでなく、自然や文化、そして社会の動向に至るまで、自分のそとにあるものに対してのチャンネルだけは“意識的”にスイッチ・オンの状態でありたいものです。

えてして、対話のチャンネルというものは、相手が切るよりも先に自分が切るものですからねぇ。

イスラーム世界で交わされる挨拶、「アッ・サラーム アライクム(as-salaamu `alaykum)」という表現なのですが、この言葉は「あなたがたの上に平安がありますように」との元意でありますが、その言葉の意味を深く味わいたいと思う昼下がりです。

ただ、この季節、鼻のチャンネルだけはふさいでおきたいものでございます。

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ニコライ堂をめぐる冒険

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 一九八六年に出た江川卓の『謎とき「罪と罰」』(新潮社)のコンセプトは、「明るく楽しいドストエフスキー」だった。わたしは同書によって、『罪と罰』に出てくるマルメラードフ--娘のソーニャを売春宿に渡した金で酒をのんでしまう下級役人--の名がマーマレイドつまり「甘ちゃん」に由来することを教えられたが、それだけのことだった。
 『謎解き「罪と罰」』は、むろん読んでいて楽しい。しかし、それは江川卓探偵が『罪と罰』の謎をとく、いわば推理小説的手法にすぎず、とどのつまり都市生活を送る現代人の趣味に堕してしまっている。探偵のスリリングな推理には脱帽しなくもないが、読者の心にひびいてくる文学のための導入となっているわけではない。
 それが近代小説の脱構築の手法だ、というひとがいるなら、そんな脱構築とは所詮「お遊び」にすぎない。とはいえ、土俗から切れて都市に浮遊するようになった現代人には、この種の「趣味」が必要なのである。このことは認めなければならない。そして、そのとき、ドストエフスキイ文学の本来的意味は忘れ去られるのである。
 しかし、都市に浮遊する現代人が「趣味」にのみ耽っていると、その「豊かな」社会の底にひろがっているニヒリズムが、オウム真理教のような形で不意に、その「豊かな」社会への憎悪を噴出させないともかぎらない。だが、村上春樹に代表される都市小説は、都市のなかで「気持ちのいいこと」や違和感を巧みに表現すること、つまり都市の感受性を大事にしてきた。そのためには、十年ほどまえの全共闘運動も、“思い出”に化してしまわなければならない。
 都市小説にあっては、登場人物は「都市」のカリスマ的な魔力に囚われつつも、そこで「気持ちよく」、若干の違和感を大切にしつつも生きてゆく感受性を大事にしなければならない。そうだとしたら、ドストエフスキイが描いたような深刻な人間の本性、社会への憎悪、そうしてムイシュキンのような「世界を救おう」とする無垢な魂の問題などは、とりあえず文学の外に置き去りにするしかない。
 そういうとおそらく、村上春樹のドストエフスキイ体験を軽視してはいけない、という意見が、村上ファンから提出されるような気がする。すなわち、二十一世紀に入って世界的な人気作家となった村上春樹を都市小説の文脈から外して、「世界文学」として読もうとする試みが、これである。
    --松本健一『ドストエフスキイと日本人(下) 小林多喜二から村上春樹まで』第三文明社、2008年。

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松本健一氏のドストエフスキイ論を読んでおりましたら、無性に駿河台のニコライ堂(東京復活大聖堂)を見たくなり、朝っぱらお茶の水まで足をのばした宇治家参去です。

1980~90年代の都市小説は、氏が指摘する通り、「都市のなかで「気持ちのいいこと」や違和感を巧みに表現すること、つまり都市の感受性を大事にしてきた」わけですが、時代の空気がそれ一片にだけに終始してしまうと、「その『豊かな』社会への憎悪を噴出させないともかぎらない」というのが、1990年代という壮大な実験・冷や水を浴びせかけるような出来事だったのかもしれません。

ちょうどこの時代、学部の学生をしておりましたが、その頃、よく通ったのがお茶の水・神田界隈かもしれません。

大学が三田で、バイト先が信濃町。

その中間に位置しているのがお茶の水・神田界隈になりますので、よく通った懐かしい地域です。

書籍を買い求め、古本を求めて散策し、「いもや」でてんぷらかトンカツをいただくこともあれば、神田の藪でひるからビールという日もありましたが、「土俗から切れて都市に浮遊する」ひとときを堪能したものです。

しかし「土俗から切れて都市に浮遊するよう」だけが人間でもありませんので、そのひとときの感覚は感覚としながらも、そうではない側面との対峙も大学やバイト先で学んだような気がします。

ただ、そうしたストレスが浮遊によって、また浮遊がストレスやまじめさによってかえってひきたつものなんだよな……とも思われます。

まあ、所詮気晴らしは気晴らしにすぎませんし、そうでない部分もそうでない部分にすぎないのでしょう。そのどちらかだけに真実性を求めるようになると不幸なのかもしれません。

さて、朝っぱらふらふら出かけましたが、すこし二日酔いのため、食事をとるきにはなれず、散策とコーヒーのみで懐かしい都市を後にした次第です。

コーヒーは5年ぶりぐらいに訪れた癒しの「純喫茶ミロ」にトアルコ・トラジャで一服。

そういえば、ニコライ堂で有名なイワン・ドミートリエヴィチ・カサートキン(Ivan Dimitrovich Kasatkin,1836-1912)はドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)と面識がったと聞き及んでおります。

こうした聖堂をながめつつ、思案していた往事のドストエフスキーを忍びつつ、後ろ髪をひかれながら、街を後にした宇治家参去でした。

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何かに打(ぶ)つかる所まで行くより外に仕方がないのです

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もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう。行けないというのは、もし掘り当てる事が出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私はこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味では決してないのです。私のような詰まらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足する積りであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心を有っているからといって、同じ径路が貴方がたの模範になるとは決して思ってはいないのですから、誤解しては不可(いけま)せん。
 それはとにかく、私の経験したような煩悶が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当たるまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう間投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむくと首を擡げて来るのではりませんか。既にその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てる所まで行ったら宜かろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。
 もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。−−もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打(ぶ)つかる所まで行くより外に仕方がないのです。私は忠告がましい事を貴方がたに強いる気はまるでありませんが、それが将来貴方がたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中のの煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠(なまこ)のような精神を抱いてぼんやりしていれば、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないと仰しゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越していると仰しゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのです。
 しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望して已まないのです。もしそこまで行けば、ここにおれの尻を落ち着ける場所があったのだという事実を御発見になって、生涯の安心と自身を握る事が出来るようになると思うから申し上げるのです。
    --夏目漱石「私の個人主義」、『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年。

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こんばんわ、宇治家参去です。
市井の仕事のない一日のいわゆる休日というやつですが、ぎりぎりの原稿を提出したりと苦闘が続き今朝は、8時に寝ましたのですが、13時には起こされ、夕刻からちょいと家族と外食などをしたものですから、まったく日中人間活動時間の生産性の低い宇治家参去です。

さて……。

仕事の……っていいますか大学へ提出する原稿の仕上げ……合間に漱石・夏目金之助(1867-1916)の文明論をひもといておりましたが、「足下を掘る」自己本位こそ大切だと説く漱石の言葉は、訓戒ではなく、むしろ、わたくしたちへの励ましではないか……そう思い、そのことばを抜き書きした次第です。

有名な漱石の講演「私の個人主義」は、今の学習院で語られた講演ですが、漱石が大切にする自己本位を根絶やしにしようとする国家至上主義の跋扈するなかで、それをスライドさせるとでもいえばいいのでしょうか、現代フランス思想の言葉で言えば「脱構築」(déconstruction)させる言い方で、国家至上主義に代表される他人本位の“あきらめ”としての生き方の脱却を促すその言葉には驚く次第です。「足下を掘れ」という自己自身の即した生き方のススメをとく漱石の試みには、、、思うに、それは勇気が必要とされる取り組みではなかったか……そう思われて他なりません。

さて……。
起きると本日が休日でございました。

10日があいにく細君のご生誕の砌でございました。

……ということで、「足下を掘りましょう!」というアリガタイ訓戒をちょうだいしてしまいました。

宇治家参去自分自身の砌にも、思いもかけぬサプライズとしてのステーキハウスへの招待で歓待されておりましたので、、、「“あなた自身”の足下としての家族のためになる取り組みをしてみてはいかが?」と言われてしまうと、土竜(モグラ)のごとく掘らざるを得ないというのが人情ではないでしょうか……。

ということで、ひさしぶりに宇治家参去一家御用達?の「ささ花」にて細君・ご生誕祭を開催した次第です。

……ということで、13時に起きて18時に飲み始めたので、まさに、経済至上主義的にカウントされる生産性の数値はきわめて低い一日です。

ただしかし、そうした数値化に還元できない部分……たとえば、祝宴などがそうですが、そこには基本的には経済的合理主義は機能しませんが……=としての「呪われた部分」(La Part Maudite)を勘案できないようでは、数値化によって計測がそもそも不可能な人間を理解することなんて不可能なんだと喝破したフランスの現代思想家・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille,1897-1962)に怒られてしまうというものです。

タバコが不健康だとわかってぱかぱかすうのが人間なんですよね……って、まあ、理由にはなりませんが、それが人間なんです。

……ということで、種々、理由は随伴しつつも、「“あなた自身”の足下としての家族のためになる取り組みをしてみてはいかが?」という、数値には還元できない、合理的には割り切ることのできない挑戦に対してあえて挑戦する宇治家参去の夕べということで、宇治家参去一家御用達?の「ささ花」にて祝宴をこしらえた次第です。

二ヶ月ほど、寿司やにて月例宴会?のお茶をにごしておりましたが、ひさしぶりに訪れても店長さんは顔を覚えていてくださり、しっぽりと祝宴です。

細君は飲めないので、ひとりで飲むわけですが、手の込んだ料理にまたしても乾杯です。

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さて……
基本的には定番セレクトよりも、季節のメニューをいつも注文するわけですが、まずは、山菜の天ぷらで勝負していただきました。

たけのこ、わらび、ふきのとう。ぜんまい、つくし……という春づくし。

さあ、皆さん、注目したいのは、添え塩です。

メニューには、「桜海老の塩合せ」と紹介されておりましたが、そのまんまです。
桜海老を粉砕してあえた天然塩が薬味にて、これだけでも酒がすすむというやつですが、どうじに春の訪れを感じざるを得ない一品でございました。

そして前菜的にお願いしたタケノコと真鯛のカルパッチョです。
カルパッチョ(Carpaccio)といえば、本邦ではマグロで和えるのが定石ですが、めでたい鯛でやるのもなかなかどうしてという状況です。

生命力を感じさせるタケノコの勢いと、真鯛のみずみずしさ、そしてキャビア風にちりばめられた海苔が、磯の味わいだけでなく、春の訪れを予感させるというものです。

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弥生の一品として紹介されていたのが、里芋とカニのコロッケです。コロッケといえばジャガイモでやるのが定番です。そこにあえて挑戦したのがこの一品ですが、箸を入れ、口にもちこむと……、

もう、クリームコロッケは必要ない。

……そう思って知った次第です。

カニはニガテですが、里芋の泥臭さがかえってカニに生臭さを消すと同時に潮気を引き立たせるわけですが、里芋本来のクリーミィーさのおかげで、クリームコロッケに乳製品は必要ないよ!って怒られてしまった次第です。

鶏卵をとき汁でやるつくねの軟骨も口外でとけるわけですから……。
はい、もうたまりません。

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さて……。
定番アイテムはだいたい毎月チェンジしながら……この月はA、来月はBのように……やるわけですが、毎度頼むのが、黒豚と季節野菜の蒸し料理!

脂はおちてしまっているんです。蒸されていますから。
ですけど、うま味はおちていないんです。
この季節にやるのがやっぱり一番ですね。
寒いから燃料を蓄えるわけですから、夏とは肉のうまみののりがちがいます。
自然の恵み感謝です。

……ということで、飲みつ食われつ……細君と息子殿がセレクトしたのが、桜餅のおしることアイスのデザートセットですが、叮寧にこしらえられていたせいでしょうか。アレ世アレというまになくなった次第です。

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……ということで、はい。
宇治家参去の時間です。

夏目漱石は「足下を掘る」生き方としての自己本位の対局にあるそれを「他人本位」と評しましたが、他人本位とは何でしょうか。

はい。

すなわち、

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他人本位 自分の酒を人に飲んで貰って、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。

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そんな酒の飲み方?だけでなく、生き方なんてやっているとそれは生きている人間ではありません。

「後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだ」なんてできませんよね!

……ってことでなじみの店長さんに、

「メニューにないやつ」

……ってお願いすると出てきたのが、はいこちら!

『十四代「純米吟醸」出羽燦々』(高木酒造/山形県)

「ささ花」は基本的には「黒龍」(黒龍酒造/福井県)につよいお店なのですが、本日はありがたくも『十四代』との対面です。

上立ち香に鼻腔の奥をくすぐられました!

含んで広がるフレッシュさが甘く、口蓋にてピチピチと元気さを主張してくれるではありませんか。

足下を掘るとは大切でございます。

……って、ちょと失敗!

いちおうじぶんのなかでは、ホワイト・デートとカネ合わせていた“つもり”だったのですが、そのことを最初に仕切っておくことを忘れておりました。

帰り際に、、、、

「ホワイト・デーもよろしく!」

……だそうな。。。。

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世界内に存在するとは、諸々の事物に結ばれてあることだ。

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 努力によって瞬間を引き受けることは、自我と世界との関係をうちたてることとは違う。もっとも著しい相違は、世界の内では私たちは対象として事物に関わっているという点に要約される。瞬間を引き受けることによって、私たちは実存するという取り返しのつかない事態へ、いかなる実詞ともいかなる事物とも関係づけられないある純粋な出来事へと踏み込むのに対し、世界の内では、存在するという行動つまり動詞としての存在の有為転変に、形容詞をまとった実詞たち、さまざまな価値を賦与され、私たちの志向に差しだされた存在たちが取って代わる。世界内に存在するとは、諸々の事物に結ばれてあることだ。
    --E.レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』講談社学術文庫、1996年。

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と、と、と、取り急ぎ……。

4月から新しく非常勤講師として担当「予定」の大学にて、本日面接があったのですが、無事終了し、「予定」が「決定」になりました。

みなさまのおかげです。

教育に特化した学舎で、環境も学生もスタッフもすばらしく、その一員に加えていただいたことに、すこしホッとしました。

ホッとすることなく最高の講義を組み立てることができるようにがんばります。

ただ……。
応募の時点でわかっていたのですが、往復5時間は大変ですが、、、わりと座っていることのできる時間も長いので、現実のただ中で、「人間」を深めていくひとときにして参りたいと思います。

ともあれ、応援してくださった皆様方、ありがとうございます。

で、、、。
これからそのまま市井の仕事です。

貧乏暇なしとはこのことです。

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かなり暑いとかそれほどでもないとか、すごく悲しいとかそんなに悲しくないという言い方はよくなされるわけであって、、、

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 感覚、感情、情念、努力といった意識の諸感情は、減ったり増えたりできるものだと通常は認められている。なかには、或る感覚がそれと同じ性質をもつ他の感情より二倍、三倍、四倍も強いと言いうるのだと断言するひとさえいる。もっとも後で検討することにするが、こういうことを言うのは精神物理学者である。しかし、精神物理学者への反対者でさえ、或る感覚が他の感覚より強いとか、或る努力が他の努力より大きいとかいう語り方をすることに何の痛痒も感じないのであって、それどころか彼らは純粋に内的な状態相互のあいだに量的な差異を設けようとしているのだ。その上、この点に関しては、常識というものが何のためらいもなく判断を下してしまっている。かなり暑いとかそれほどでもないとか、すごく悲しいとかそんなに悲しくないという言い方はよくなされるわけであって、こうした量的多寡の区別が、たとえ主観的事実の拡がりのないものの領域にまでもち込まれても、驚くひとはいないのである。けれども、ここにはきわめてあいまいな点が、否、一般に思われているよりはるかに重大な問題が潜んでいる。
    ーーベルクソン(中村文郎訳)『時間と自由』岩波文庫、2001年。

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「生の哲学」の思想家として知られるアンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson,1859-1941)の営みとは、ひょっとすると、唯心論でもなく、唯物論でもない、生活世界と真理をとをつなぎ止める独創的な歩みではなかった……そう実感するところがあり、ひさしぶりにベルクソンをひもとこうと、鞄に入れてはいたのですが、市井の職場へ出勤しますと、これがマア、東京では大雪……ということで、ゆっくりと読書の暇をとることのできない宇治家参去です。

春の淡雪ですから、ほっとけば消えるとは思っていたのですが、それなりには激しく降っておりましたので、店長から、、、

「念のために、融雪剤を撒いておこうか……」

とのことで、二人してあらかたの雪かきをしてから、、、店舗の周囲や納品口などに散布した一日です。

「面倒なのでやめましょうよ」とはいわずに、、、

「風流なのでこのままにしておきませんか」

……とは申し上げたのですが、

「お客様が転倒した方が面倒なので、風流よりも労苦を選ぼう」

……ということで、雪かきデーとなった次第です。

雪とはみている分には「風流」でよいのですが、真正面から向かい合うと、これまた難儀なシロモノです。

ただしかし、雪と縁遠くなった東京ではやはり雪は珍しい季節のおくりものですので、汗をながしつつも、その向かい合いのひとときを、子供のように嬉々として楽しませていただいた次第です。

ただ、作業をやりますので、汗をかくと言いますか、体は熱いのですが、指先などの感覚が麻痺してくるとでもいえばいいのでしょうか。

要するに、寒い!ではなく、冷たい!

……というやつです。

しかしそのなかでも少々違和感が!!!

たしかに指先や足の先は寒いのですが、袖口が熱いといいますか……。

なんちゅうか・ほんちゅうか……という古いネタではスルーできない状況が到来した次第です。

はい、火傷です。

融雪剤とは要するに、「苛性ソーダ」と評される「水酸化ナトリウム(sodium hydroxide,NaOH)という「毒物及び劇物取締法」で規定される「劇物」です。

今日は降雪だけでなく、風も強かったのですが、散布するときに、塗れた袖口にはいったようで、そこで化学反応?がおこったようで、、、

雪で……精確にはNaOHですが……火傷してしまうとは思ってもみなかったものです。

雪国の皆様の苦労がしのばれます。

両腕の袖口が火傷っちゃいましたが、マア、おかげさまで、導線は確保できたのはなによりで、23時ぐらいからは、みぞれになりましたので、先月の大雪?のようなことはなさそうです。

しかし、寒くて!、冷たくて!、熱い!……ひとときでございました。

まあ、これがベルクソンのいうところの「かなり暑いとかそれほどでもないとか、すごく悲しいとかそんなに悲しくないという言い方はよくなされるわけであって、こうした量的多寡の区別が、たとえ主観的事実の拡がりのないものの領域にまでもち込まれても、驚くひとはいないのである」という盲点でしょうか。

ベルクソンのこの著作は旧訳では読んでいたのですが、買ってから放置していた新訳ですが、おかげさまで最初の数ページしか読めなかった次第です。

ともあれ、帰宅時には雪はやんでおりました。

そうそう、帰宅前に思い出したのですが、本日は細君の誕生日でございます。

プレゼントは、ユリのモノグラムで有名な?「パトリックコックス(PATRICK COX)」のショルダーバックを用意して、仕事の都合上、前日には渡しておいたのですが、やっぱり当日にも何かほしいよなア~と思い起こして、ユリつながり?で、安物ですが花束を用意しました。

起きて机のうえの花束をみると喜んでくれることでしょう。

……ってことで、今日は寒くて!、冷たくて!、熱い!一日でしたので、熱燗で締めて沈没です。

ベルクソンはもういちど本日読み直しですね。

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時間と自由 (岩波文庫) Book 時間と自由 (岩波文庫)

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【覚え書】人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義

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 ルネサンス期のユマニストたちが、どのような人間観を持っていたか、どのような人間像を理想としていたか、これを簡単に指示できないのは残念です。しかし、ユマニストたちは、聖書に対して加えられた誤った解釈を、聖書の原典批評によって発見すればするほど、キリストの精神から見れば、歪められた人間としか言いようのない人々の手が働いていることと、その結果、更に多くの人々を歪めさせるような制度や言動が生まれていることを感じたらしく思われます。また、ギリシヤ・ローマの学芸に触れて、中世キリスト教以前の世界に、思いもかけぬ深い思想や、明るい人間感情や、闊達な生活があったことを知ったユマニストは、自分の周囲の人々が、あたかも足枷手枷をはめられて、人間本来の姿勢を失っているばかりか、歪んだ体躯のままで固まってしまいかねないことを感ぜざるを得ませんでした。
 ユマニストの王者と言われるオランダ生まれの神学者デシデリウス・エラスムスは、《キリスト教の復元》ということを申しまして、その生涯の仕事をこれに沿って発展させましたし、その影響は全ヨーロッパのユマニスムの発生と成長とにあずかって力がありました。このエラスムスは中世伝来のキリスト教会の制度および指導法が、人間を著しく歪めていることを感じ、キリスト教本来の面目への復帰を熱望していたのでした。エラスムスは、それまでの聖書解釈の誤謬を指摘したり、容赦なくキリスト教会の制度の欠陥や聖職者たちの行動を批判しましたので、カトリック教会中の頑迷な人々からは白眼視されるようになりました。そして、エラスムスよりもやや遅れてこの世に生れ、公然とカトリック教会に反旗をひるがえしてプロテスタントの教会の礎を築き、ルネサンス時代の最も重要な運動の一つである宗教改革の祖となったマルチン・ルッターの同類と見なされて、「エラスムスが卵を産み、ルッターがこれを孵した」とまで、エラスムスは罵られてしまいました。エラスムスとしては、あくまでもカトリック教徒っとして、カトリックの司祭として、キリスト教会の歪みを匡そうとしただけなのです。しかし、宗教改革運動の初期において、エラスムスを首領とし、その主張に賛成するユマニストたちと、プロテスタント(新教徒)とが、手を握っていたような感じを与えたのも無理ならぬことでした。ともに、それまでのカトリック教会への00批判を行っていたからです。しかし、エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ルッターの出発点には、「エラスムスが生んだ卵を孵した」と言われるくらい、ユマニスムに近いものがあったに違いありませんが、キリストの心に帰るために、同じキリストの名を掲げて、意見の違うキリスト教徒(この場合は旧教徒)と闘争するという行動に出て、ヨーロッパに幾多の非キリスト教徒的な暴状を誘発するような事態を作ってしまいました。そしてカトリック教徒の側には、ルッターから見れば《生ぬるい》エラスムスの批判までを白い眼で見て、新しい時代の息吹を窒息させることをもって唯一の解決法と考えていた人々もいましたから、そういう人々にも、ルネサンス期の血みどろな宗教戦争の責任を負ってもらわねばならぬことは当然です。しかし、もしルッターが、エラスムスと終始一貫手を握り、先輩としてのエラスムスの批判の衣鉢を継ぎ、これを更に世に広く辛抱強く弘めたら、また同じ志の人々の養成に尽したら、あのような悲惨事は起らなかったかもしれません。そして、このように《もし……したら》というようなことは、我々人間が、大して心の痛みも感じないで公言できる便利な言葉であることは、承知していますが……。
 ユマニストは、批判をするだけで、現実を変える力を持ち合わせないし、ユマニスムというものは、所詮無力なものだなどと言われます。しかし、終始一貫批判し通すことは、決して生やさしいことではありませんし、現実を構成する人間の是正、制度の矯正を着実に行うことは、現実を性急に変えようとしてさまざまな利害関係(階級問題・政治問題)と結びつき、現実変革の方法に闘争的暴力を導入して多くの人々を苦しめることよりも、はるかにむつかしいことだと思います。私のいうユマニスムは、一見無力に見えましょうが、決して無力ではないはずです。ルネサンス期にお互いに血を流し合った新旧両教会の対立は、現在でも残っているとは言えますが、それは、単なる教義上での対立であって、現在、新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)とが鉄砲を撃ち合って殺し合うというような対立ではなくなっています。人々は、同じキリストの名のもとで、キリスト教徒がお互いに殺し合うことがいかに愚劣であるかということを知っているからです。そして、こうした愚劣さや非キリスト教的な行為や非人間的な激情をおさえる力に自覚を与えてくれたものは、ユマニスムの隠れた、地味な働きにほかなりますまい。現在、人々は、宗教問題で戦争を起こすことはしない代りに、経済問題・思想問題で戦争を起しかねません。しかし、もしユマニスムが今なお生き続けているとするならば、必ずいつか、人々は、こうした諸問題のために争うことも愚劣だと観ずることでしょう。経済も政治も思想も、人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義を、必ず人々は悟ることでしょう。ユマニスムは無力のように見えてもよいのです。ただ、我々が、この無力なユマニスムが行い続ける批判を常に受け入れ、この無力なユマニスムを圧殺せずに、守り通す努力をしたほうが、殺し合って、力の強い者だけが生き残るというジャングルの掟を守ろうとするよりも、はるかにむつかしいにしても、はるかにとくだということだけは確かなように思います。
    --渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫、1992年。

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細君と話していても、地域のひとびとと話していても、そして小中高大学時代の親友と話していても、そうなることができない自分自身を常々自覚するのですが、やはり、宇治家参去自分自身というものは、なにかをたたきつぶすというあれか・これかという精神的態度がニガテなんです。

断嘩するのではなく説得……これがもっとも必要なのが現代社会なのですが、たたきつぶして〝勝っていく〟……っていう誤った〝勝他の念〟が支配的な空気なようであり、そこに違和感を感じてしまいます。

必要なのは〝勝他〟ではなく〝勝自〟なはずなのですが……。

チト、今晩は、私淑する偉人デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus,1467-1536)の生涯をはせながら沈没しようと思います。

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われわれはまだ統一の幻影を追っているのだ

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 他人の生活に寄せる郷愁。それは外側から眺めると、その生活が一つのまとまった全体をかたちづくっているからだ。一方われわれの生活は、内側から眺めると拡散しているように見える。われわれはまだ統一の幻影を追っているのだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『反抗の論理 カミュの手帖2』新潮文庫、昭和五十年。

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今年は……いや、本年度は結局のところ、一歩も前進できなかった、匍匐渋滞の一年でおわるのか……と思っていたのですが、年度内ぎりぎりでなんとか、非常勤講師の職をひとつ増やすことができましたっ!

まだ、市井の職場とはすっぽりとおさらばできませんが、最後の最後になってひとつ階段をのぼることができたことはよかったかと思います。

隣の芝生は青いってよくいいます。
他人の芝生と比較してもはじまりませんので、自分の芝生の手入れを怠らず精進して参ろうと思います。

人間はともかく、体系とか統一とかといった全体にあこがれ、直視しようとするのですが眩暈を覚えてしまうだけなのかもしれません。

眩暈を通り過ぎてしまうと、そこで、それが幻影であることが理解できるわけなのですが、眩暈で終わってしまうことの方が多いのでしょう。

拡散している自分自身の状態を認めながら、手入れを怠らない……また本日よりそういう一歩一歩でありたいと思います。

以上。

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「人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによる」のだそうです

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 宗教家の要求と哲学 宗教家はおそらく、哲学することによって神と関係するところの個人の高慢な自力性を非難するでしょう。彼らは啓示された神に対する服従を要求します。そこで彼らに対してつぎのように答えられるのであります。すなわち哲学する個人が信仰するのは、神が欲することを客観的な保証によって知るのではなく、むしろたえざる冒険において、神に従うことを心の底から決断する場合なのであります。神は個人の自由な決断によって働くのであります。
 僧侶は神に対する服従と、教会とか聖書とか、直接の啓示と見なされる戒律などのような、この世界の中で現れている審判に対する服従とを、混同しているのであります。
 究極において、この世界における客観的な審判に対する服従と、根源的に経験される神の意志に対する服従との間に真の一致が可能ではありますが、この一致は戦いとらねばならないものなのであります。
 もし個人によって経験される神の意志が、一方的に客観的な審判を無視するならば、一般的なものや共通的なものによる吟味を回避しようとする恣意へ陥りやすいのです。ところがそれと正反対に、もし客観的な審判が一方的に、個人によって経験される神の意志を無視するならば、現実そのもののうちから神の意志を聴くことによって、たとえ客観的な審判に反しようとも、神に服従するという冒険を回避しようという誘惑が生ずるのであります。
 信頼するに足る権威の法令や命令においてさえそれをつかもうとする場合には、それを誰から聴くのかという当惑が存在します。それに反して、現実全体のうちから聴くことのうちには、個人の責任負担の飛躍的なエネルギーが存在するのであります。
 人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによるのであります。
 人間であることは人間となることであります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年。
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世の中のサラリーマンという種族の方々はほんと偉大だと思います。

妻子のためとかいろんな理由はあるのでしょうか、『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)の主人公の父・星一徹のごとく、ちゃぶ台をひっくりかえして、

「おまえらなぁ~」

……って叫びたいのが本音なのですが、そうもいかないところが漫画と違う生きている生活世界ということでしょうか。

ホンマ、考えなくて済むならすませたいのですが、済ませるわけにもいかず……、市井の職場でのことですが、働いている現場と、制度との乖離にアタマを悩ませる宇治家参去です。

アタマを悩ませるほど給料はいただいておりませんし、割り切ってやってもよいのだろうでしょうが、そうは問屋がおろしません。

ここでも生きた社会を学んでいるのであれば、悩んでも解決を目指すのが本道だろうということで、制度やシステムとその現場での運用に関して、種々そのすり合わせをきちんと上司とするようにしております。

今日も久しぶりに切れそうになり、以前は壁にパンチしておりましたが、壁にパンチを繰り出しますと手が痛いものですから、このところ、空段ボールに鉄拳を食らわせる次第ですが、翌日は……

「昨日、宇治家参去さん、だいぶ頭にきていたようね」

……などとウワサされるのも難ですが、繰り出さざるを得ず……というところでしょうか。

ただ、宇治家参去の場合、そこで自分のストレスとして終わらせてしまっても、学習にはならないし、まあ、別に切られてもいいやって感覚がどこかにありますので、そのすり合わせだけはきちんとやるようにしております。

ですから、システムとか制度の運用、体制の指示に関しては、現場の声を報告することはできているのかもしれません。

店長もいっておりましたが、

「まあ、宇治家参去さんのいうとおり、最低の会社で、環境だということはわかるけど、まだ“マシ”なほうなんだよ。サービス残業を強制するわけでもないし、○○でも、××でもないしねぇ~。従業員を守るということではこの会社は同業他社にくらべるとまだ“マシ”なんだよ。だからといって、それでアナタのいう報告も理解できるけど、ただちにはフィードバックもできないけどね。できるできないは別にしても耳を貸すシステムとか制度であるという点では“マシ”な方なんだよ」

……そのことも承知しているのですが、「マシ」といわれると、その「マシ」にかちんとしつつも、それでも「マシ」という文脈で省察するならば、「聞く耳」があるという意味では、そして小難しい議論をしつつ正攻法でせめていく、宇治家参去のような“学問やくざ”ときちんと向かい合ってくれるという意味では、「現実全体のうちから聴くこと」をオープンポリシーとして掲げているだけ「マシ」なのでしょう。

ただ、この「マシ」というヤツがやっかいでして……。

上述の店長の言葉にもあるとおり、「マシ」というのは当該状況より“以下”との対比でしかありませんから、その心根には、納得することができず、まさに“青臭い”自分自身に辟易としつつも、「まあ、そんなもんだよな」と嘯くよりも、“以下”との比較に嫌悪を覚るほうがまだ「マシ」とも思う次第です。

ただ、いい加減パンチを繰り出すのも、思想的格闘としてガチンコをするのも、結構疲れますので、そうならないように、自分のいるうちには、少しでも善い方向にスライドさせていきたいものでございます。

ただ「言い過ぎたかぁ~」ってところも一方には歴然としてあり、同苦する店長に少し、申し訳なかったかな……とも思う次第ですが、やはり、自分が抱える手下(テカ)もいますので、それはそれで致し方なしか~などとも思うのですが、そこにも違和感があり……、、、

まったく物事を割り切って考えることができない“おこちゃま”の宇治家参去です。

とりあえず、“おこちゃま”なのですが、飲んで寝るほかあるまい。

……というわけですけども、そうした苦闘?を学問に還元していくのが、働き学ぶ自分自身のアドヴァンテージだとは思うのですが、いい加減、卒業したいというのも実感です。

はぁぁあ。

とりあえず、飲んで寝よ、寝よ。

なんどもいいますが、「○○より“マシ”」……って言い方が大嫌いなんです。

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反省とは後ろめたさではなく……

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 一括して言ってしまうならば、ギリシャ、ロオマの文学には後めたさというものがない。それはギリシャ人やロオマ人が反省するなどということがなかったということではないが、その反省する自分というものの正体が解らなくなったり、自分と呼ぶに堪えない忌しいものになったりするというのは彼らの間で見られないことだった。彼らの精神の透徹した働きが自分というものを隈なく点検することがって人間というものがそこに確かに生きている感じがしても、それは彼らにはその通りに生きていて忌まわしいものでも疑わしいものでもなくて、そこにそれがあることは地中海の日光を浴びた白い大理石の柱が土に真っ黒な影を投げているのと同じだった。いつも自分がいて嘆き、悲み、あるいは喜び、愛し、憎しみ、それで自分の眼の前にある景色もそこにあるからペロップスの土地の全部もお前の愛には換えられないとテオクリトスとともに言い、ルキアノスが冥土で見るヘレナの白い頭蓋骨は自分もいずれそうなるから死は恐しいものなので、ルクレチウスの哲学での神々は人間のことになど無関心に存在しているのであっても神々とこうして縁を絶たれてのた打ち廻る人間でなくなるのではなかった。
    --吉田健一『ヨオロッパの世紀末』岩波文庫、1994年。

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2-3日、まったく本を読むことができておりません。
基本的には活字中毒のような状況なのですが、ちょいと諸事もたちこんでい、その隙間でもよむことはできるのですが、どうも本を手に取ることが億劫で、2-3日読むことができておりません。

反省する次第です。

悩む<自我>としての近代的個人はこの「反省」の行為がとても大好きです。
しかしその反省を契機に次にどのようにしていくのかという展開よりも、反省そのものに惑溺してしまいことの方が多いような気がします。

ですから、その惑溺する自己に対して反省をして……ってやりはじめますと、反省が無限遡上していくものですので、ここはひとつ、ギリシャ人、ロオマ人の反省として転換していこうかと思います。

すなわち……

「その反省する自分というものの正体が解らなくなったり、自分と呼ぶに堪えない忌しいものになったりするというのは彼らの間で見られないことだった。彼らの精神の透徹した働きが自分というものを隈なく点検することがって人間というものがそこに確かに生きている感じがしても、それは彼らにはその通りに生きていて忌まわしいものでも疑わしいものでもなくて、そこにそれがあることは地中海の日光を浴びた白い大理石の柱が土に真っ黒な影を投げているのと同じだった」……というこれで行きましょう!

ただしかし、晩冬の日本は地中海の陽光とまったく逆の陰鬱した陰影空間なのですが、はやいもので、春の草花は咲き始めております。

その生命力でいきましょう!

……ということで、はやいもので、大学の入学式の案内がとどいておりました。

3月は恐ろしくはやく過ぎ去っていく月です。

では、本を抱えて仕事へ行って参ります。

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「もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである」

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   三一五
 放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、--もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。
    --F.ニーチェ(茅野良男訳)『ニーチェ全集7 曙光』筑摩書房、1993年。

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とうとう壊れてしまいました。
使い続けることを“放棄”せざるを得ません。
いつも自宅ではデスクトップのPCを利用しております。
ちょと前の型ですがHpのワークステーションなのですが、これにVistaをぶち込んで使ってい、そのうち、windows7に入れ替えればまだまだ使えるかな……と思っていたのですが・・・。

朝、PCの画面に電源をいれると、固まったまんまにて、再起動させようとリセットをしたのですが、それっきりたちあがらず……。

Bios画面を調べると、マザーボードの不具合のようでした。

幸いハードディスクに異常はありませんでしたので、データなどには問題はないのですが……、ちょいとふうう~ってところでしょうか。

ちょうど3年ぐらい使っていたのですが、基本的には電源を入れっぱなしで、使わないときはモニターだけ切って利用するというスタイルでしたが……、これになれてしまうと、電源を切ったりつけけたりする生活へもどるのが少しおっくうというやつです。

自宅には息子殿用のDELLのデスクトップと、細君のノートブック、自分の出張用のネットブックしかありませんので、いまはネットブックで作業をしているところです。

ちょうど夏に液晶もフルHD対応の21インチのモニターに切り替えたところですので、出張ぐらいでしか使わないミニノートの液晶で作業をすると、まあ、これが“机が狭い”……というところでしょうか。

先月末に、自分へのプレゼントとして、SharpのLinuxのネット端末を購入したのですが、そんなものを買わずに、デスクトップを買い換えた方が良かったかもしれません。

ただ、あまりそのことにひっぱられると、前進できませんので、また仕事をがんばって自宅の不眠不休PCを購入できるようにがんばることにいたします。

権利の断念は、まさに、「もしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである」というニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉に背中を押されつつ……、3年間不眠不休でがんばってくださいましたぶっ壊れたPC殿、ありがとうございます。

ゆっくりお休みくださいまし!

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【覚え書】「ひと カンボジア地雷被害者を支援するNPO設立 石井 麻木さん(28)」、『毎日新聞』2010年3月3日付(水)。

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 両手に乗せられた摘みたてのホワホワした白い綿花。「綿の妖精を手にしているような、言葉にならない幸せな気持ちになった」
 カンボジア北西部の「地雷原」に綿畑をひらき、貧困にあえぐ地雷被害者に綿の有機栽培と手紡ぎ技術を指導、製品を販売することによってNPO「地雷原を綿畑に!」の代表を務める。NPOの認証を受けた今年1月、現地で収穫された綿花を手にした。
 1年前、カンボジアの地雷被害者を初めて訪ねた。足を失い、絶望的な状況であるはずの人々が振りまく、はみ出さんばかりの笑顔に衝撃を受けた。「何も飾らず、あるがままに全力で生きようとする姿が脳裏に焼きついた。知ったからには何もしないわけにはいかない、と奮い立った」
 高校生のとき、父から一眼レフカメラを贈られ、写真の魅力を知った。「うそのもないものを撮りたい」とシャッターを押してきたが、カンボジアの人々と接し、自分も幾重にも「よろい」をまとい、本当の自分を見失いかけていることに気づいた。「私が学ぶことの方が多い」と話す。
 現地を4度訪ね、そのたびに人々の笑顔の輝きが増していた。彼らの「生きる希望が持てた」との言葉に責任の重さを感じる。「始めたからには一生続けなければならない。彼らのためにも、自分のためにも」。手紡ぎの糸で織ったストールを羽織る背筋がピンと伸びた。文・永山悦子 写真・馬場理沙
 東京都出身。高校卒業後、写真家として活動。4月7~13日、東京・丸善丸の内店でカンボジア写真展開催。
    −−「ひと カンボジア地雷被害者を支援するNPO設立 石井 麻木さん(28)」、『毎日新聞』2010年3月3日付(水)。

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すいません。

ちょいとハードに忙しく、あんまり考える暇がないので、【覚え書】にてお茶を濁す宇治家参去ですが……まあ、あんまり「考えていない」と攻めないでくださいマシ。

ちょいと新聞を読んでいると……なんで『毎日新聞』を購読するのかって聞かれると、日本では一番早く「署名記事」を始めたからだけですが、ちなみに邦字紙だけ読んでいると偏りますので、NYTとLe mondeは購読しておりますが……、はあ、ええ話しや!と思ったのがひとつあったので紹介しておきます。

動き出した企画で、党派性とか何もわかりませんが、気が付いて動くということはやはり大切だと思います。

それは国際的なことであろうとも国内的な地域に根ざしたことであろうとも同じでしょう。

アンテナをびんびんはりながら、自分できちんと動く。
これが大切でしょうね。

今の社会がぐだぐだなんてことは百も承知なんです。
はっきりいえば、すべて「大人の責任」なんです。
ですけど、それを批判するだけで済ませてしまうとMOTTAINAIわけなんです。

そう思うなら「これからは違う仕組みを自分でつくっていくんだ」……これが大切なのでしょう。

このところ、「秘書がやった」「自分は知らなかった」とシラを切る腐れ外道が跋扈するなかで、「やっぱり変わらない」……ってムードが濃厚ですが、シカタガナイと嘯くのではなく、そいう腐れ外道が跋扈できない仕組みを自分で自分の身の回りから、そしてかかわるひとびととつくっていく……そこが大切なのでしょうねえ。

……ってことひさしぶりに勇気をもらいました。

NPO「地雷畑を綿畑に!」のサイトは以下の通りです。

http://naturesavescambodia.org/main_ja.html

……ということで、春らしい金麦@サントリーでも飲んで沈没しましょう。

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「酒呑童子」……、いやもとい、「酒呑ミドル」のゆうべ

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花の香にころもはふかくなりにけり木の下かげの風のまにまに
    --「巻第二 春下 111」、佐佐木信綱校訂『新訂 新古今和歌集』岩波文庫、1959年。

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『古今和歌集』をこよなく繙きますが、古今集以上に愛韻するのが八代集の掉尾を飾る『新古今和歌集』です。こころの古今、技巧の新古今といわれますが、勅撰和歌集にもかかわらず何十年にもわたって改訂が試みられた新古今には技巧に留まらない深遠さが感じられ、どうしても古今集のうえをいく座右の一書となってしまいます。

さて……。
冒頭の一種は、古今集の編纂に携わった三十六歌仙のひとり紀貫之(866/872?-945?)の春の歌ですが、紀貫之は〝匂い〟を言葉に転換する稀有なる天才ではないか……などといつも唸らされてしまいます。

ヘンなエピソードですが、紀貫之の幼名は「阿古屎(あこくそ)」というそうな。悪鬼の類ですら、くそは不浄ゆえにこれを避けるということから、この時代によくつけられた名前と聞きますが
くそは不浄であり、悪鬼の類ですらこれを嫌うものであるため、鬼魔の害を避ける方法としてこの時代によくなづけられた言葉だそうですが、そうした幼名故でしょうか……。

匂いを描写されると紀貫之の右に出るものはまずいない……そう思われて他なりません。

……ということで???
春を忍ばせる二月の月末とはうってかわり東京ではここ数日、寒い毎日です。
二年前に購入した花桃も蕾もようやくひらきはじめたかとおもうと、まだまだのようです。購入時は室内育てでしたので、二月の半ばにその花びらを解き放っていたものですが、そとでやりますと、これからひらくというところでしょうか。

ただしかし!
阿古屎と幼名した紀貫之ではありませんが、なんともいえぬ春の香りだけは湛えず醸し出してくれております。

あと数日すると大輪を咲かしてくれることなのでしょう。

……ということで???

桃の節句ですから、本日はおこちゃま用の白酒なんて無粋なまねはせず、「越乃景虎 にごり酒」(諸橋酒造株式会社/新潟県)にてその時節の到来を祝おうではありませんか!
このにごり酒は〝季節限定〟という、猛者を刺激する〝限定〟アイテムになるわけですが十一月から二月までのおよそ四ヶ月という冬場にしか出回りません。

ですから定価以上に時季によっては高等するわけですが、それでもやっぱりやるのは今が一番です。

醸造が活性清酒になりますので、蓋にはガス抜き穴がついています。

細君がおよそ一ヶ月前に買ってきてくれたのですが、酒屋さんいわく

「このお酒は〝生きている〟からね。注意してね!」

……などとと進言されたそうでございます。

……ということで???

息子殿も桃の節句を祝う自作アイテムを幼稚園にて拵えてきたようですので、まずはそれを肴に、いっぺえやって沈没しようかと思います。

まさに〝生きている〟その力が無尽蔵に発揮していくその原点になるのが桃の節句の三月かもしれません。

さあ、いっぺえやって、寝ましたら、ちょいと今月も学問を頑張ります。

……しかし、自分も紀貫之と同じかもしれません。

この酒の〝におい〟がたまりません。

……その意味では、 「阿古屎」ならぬ「酒呑童子」……、いやもとい、「酒呑ミドル」というところでしょうか???

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「ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ」

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……僕は、去年わかれた黒田先生が、やたら無性に恋いしくなった。焦げつくように、したわしくなった。あの先生には、たしかになにかあった。だいいち、利巧だった。男らしく、きびきびしていた。中学校全体の尊敬の的だったと言ってもいいだろう。或る英語の時間に、先生は、リア王の章を静かに訳し終えて、それから、だし抜けに言い出した。がらりと語調も変っていた。噛んで吐き出すような語調とは、あんなのを言うのだろうか。とに角、ぶっきら棒な口調だった。それも、急に、なんの予告もなしに言い出したのだから僕たちは、どきんとした。
「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ばっかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺はもう、我慢が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっとも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。
 僕は先生に飛びついて泣きたかった。
「礼!」級長の矢村が、半分泣き声で号令をかけた。六十人、静粛に起立して心からの礼をした。
    --太宰治「正義と微笑」、『パンドラの匣』新潮文庫、昭和四十八年。

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どうも宇治家参去です。

今週は変則で市井の職場が月曜休みだったのですが、日曜日に重~い蓋をあけた影響で腰がぴしぴしと悲鳴をあげていたわけですけども、自宅に配達できない荷物を市井の職場宛に送付していたものですから、休みにもかかわらず、職場へと足を向けた次第です。

ネットオークション、Amazon、楽天はじめ種々取引をしておりますので、発送・受けとり含め週に3-4回は宅配業者とのやりとりがあるのですが、宇治家参去宛であったとしても細君が結構、あけてしまうものでして……文句を言われそうなもので、職場で受けとっても大丈夫な奴は職場宛で受けとるようにしております。

今回の物件は、例のiPhone用の、Gizmon製のマクロ・ワイド撮影用のレンズとそのアダプター……iPhoneは基本画角が35mmなのですがこれをつけると28mmワイド撮影がOKで、接写も1cmぐらいまで近寄れるという便利なシロモノ!……なのですが、こういう〝遊び〟の部分を購入したことがバレると、

マア、それが

ウザイ

……というわけで、お互いに気持ちがよくありませんので、職場へ送ってもらった次第ですが、それを引き取りに行ったという寸法です。

さて……。
夕方に事務所で荷物を受けとってから、ちょいと深夜用のつまみをみつくろって、レジに並んでいたところ……何しろ市井の職場とはGMSですのでそのあたりは便利なのですが……、同僚に声をかけられ、列から離れたわけですが……、、、

「宇治家参去さん、英語わかります???」

……ふたつ向こうのレジでちょいとトラブルがあったようで、、、

「いや、ワタクシ、英語を〝聴いて〟理解はできますが、発信はできませんぞよ、オヨヨ」

……って思いつつ、緊迫していた状況のようにて、、、

「英語以前に、あちきは、今日は非番ですがなもし~」

……って漱石・夏目金之助(1867-1916)の『坊ちゃん』の登場人物的風のバッタもん愛媛言葉でスルーしようかとも思ったのですが、

……そうもいかないようで、

「ゴルァァ、何年も大学に居たんだろう、ボケェ」って眼差しに打ち抜かれ、〝現場〟へ急行した次第です。

……ってこれが10秒足らずのやりとりなわけですが……。

で……。

要するに、お客様がカゴに入れた商品がオレンジなのか、いよかんなのか、はたまたデコポンなのか……。

そこに翠点があったようです。

お恥ずかしながら、小生・宇治家参去、上述したとおり、英語を流暢に〝話す〟ことが苦手です。

読み書きはぶっちゃけ達者です。
※ですから勤務中の案件であればレトロに〝筆談〟を選択するわけですが、今回はそういう余裕もなく……ってところです。

また、読み書きでも順位をつければ……、

フランス、ドイツ、英語、ラテン(古典ラテン語なので中世ラテン語はままなりません)、ギリシアという劣位になっていきますし、フランス語以外は、大抵似たような水準ですから、、、

Parlez-Vous Français ?

……などと念のために聴きましたが、案の定NGのようにて……、ほんぢゃあ〝片言イングリッシュ〟かぁぁ~って!

……ってことなのですが、「オレンジ」は分かるにしても、「いよかん」「デコポン」は英語でなんというのぢゃあああ、と心の中で叫びつつ、目の前の黄色い物体が、「オレンジ」か「いよかん」か「デコポン」か判読できないところに底の低さを噛みしめつつ、これがまた10秒の脳内スパークです。

一応ね……!、念のために「Iyokan?」とか「Deko-Ponn?」とは聴いたのですが、

「???」

……という状況で、そんなこんなことでレジを中断してはマズイ! 
非番にもかかわらず、列が流れない!という職業倫理がマックス発動するわけですのでモノはわからないけれども、価格で聴けばなんとかなる!

……ってことで、伺うと、例のすんごくあやしい英語……しかもキングスイングリッシュではりませんが……で価格を伺うと、

……どうやら「いよかん」で正解のようでした。

レジ担当者は、「オレンジ」で打刻しておりましたので、訂正してことなきを得ましたが……、、、

綺麗な銀髪のオジサンが、最後に一言!

Ich kann Deutsch sprechen!

ぶっきらぼうに言うわけですから、、、

Kann Deutsch reden ?

……っておまけでも聴いた方がよかったです。

……ってことで、細君に隠れて、謎の物件をうけとるために冷や汗をかいたわけですが、それにくわえて、非番にもかかわらず、職場でつかまり……二度冷や汗をかいた次第です。

う~む。

やはり、あやしい取引?をする以前に、きちんと英語は勉強しておくべきだった!
※くどい、しかもくどいようですが読み書きは問題ありません!!!!

……と思うある日の夕べで御座いました。

しかし、デコポンにしろ、いよかんにしろ、英語とかフランス語とかドイツ語では何というのでしょうか~ねぇ・・・???

ま、いずれにしましても〝アヤシイ〟ことをしにいったわけですので(自分の中ではその自覚はありませんが)、〝アヤシイ〟案件に巻き込まれた???ということでしょうか。

以前、教員の先輩に伺ったことがありますが、

「この現代世界では、ドイツ語とかフランス語は、あんまり受容がないんだよ~ねぇ。読み・書き・発信のどれかひとつでもいいけどやっていると非常勤の職はなんとかあるんだよう、独仏はきつい~よぉ、中国語やっとき!!」

……その言葉を思い返した次第です。

ラテン、ギリシアの需要の低さはいうまでもないでしょう。

……ってことで十数年も英語の文章は毎日読んでおりますが、それを生活世界で展開できるだけの力へカルティべートしゆく努力も必要だワイな……と思った次第です。

ゲーテ・インスティチュートにも、アテネ・フランスにも4年ほど通いましたが、やっぱり英語なんですね。

ちょいとがっくしとしつつも、こんなところでも、太宰治(1909-1948)が「カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ」と語る金言を思い来させてくれるという出来事として受け止めれば、有難い夕刻だっかもしれません。

……というわけで、気分を入れ直して早速、Gizmonレンズを装着したところですが、

なかなかよろしゅうございます。

ま、いずれにしましても

「ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ」

……ってことでいいですかね???
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「明日は非番である」「下城をいそぐことはない」などとおもったときに起こるもの

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 --下城をいそぐことはない。
 と重兵衛は思っていた。明日は非番である。重兵衛は濡れたたわしをつかんだまま、腰をのばしてあたりの景色に眼をやった。
 厩のある一帯は三ノ丸の濠ぎわの杉の陰に入り、わずかに馬場の馬柵のあたりに日があたっていた。三ノ丸の裏門に近いそのあたりは、通る者も稀な場所で、いまも歩いている人の姿は一人も見えなかった。
 そして夕日はまともに二ノ丸の松の梢を照らしていた。そのために梢の葉は光りかがやいて見える。少しはなれた空に、秋の雲が一片、軽やかに浮いている。そのあたりから目をもどすと、厩と馬場がある一帯はひどく暗く見えた。
 「そろそろ、終わりにするか」
 沼崎に声をかけて、重兵衛は襷を解こうと手を上げた。
 その手がとまったのは、そのときどこかで重くるしくどよめくような物音がするのを聞いたからである。大風がうなるようでもあり、大勢が叫ぶようでもある異様などよめきだった。その物音は二ノ丸の方角から聞こえてくるようで、そのまま消えずにつづいている。
 「何だ」
 重兵衛が耳を傾けていると、沼崎も手をやすめて、火事ではないでしょうかと言った。
 沼崎はそう言いながら、不安そうに二ノ丸の松の巨木がならぶあたりを見ている。
 どよめきが聞こえて来るのは、ちょうどその松の陰、こちらからは見えないが大手門や広場をへだてて会所、郡代屋敷と三ノ丸の役所がならぶ方角である。沼崎の意見は故のないことではなかった。
 異様な物音はみんなの耳にとどいたらしい。詰所に残って将棋をさしていた同僚の御馬役、厩で仕事をしていた足軽、下男も残らずにとび出している。とても不安そうに二ノ丸の空の方を見上げていた、
 そのとき重兵衛は、三ノ丸の隅に遠く見えている普請組の建物から、刀をつかんだ男たちがつぎつぎに走り出て、大手門の方にむかうのを見た。厩から見える三ノ丸の建物は、普請組の詰所と道具置場があるそこだけである。
 異変が起きた、と重兵衛は悟った。
 「後をたのんだぞ」
 ひと声残すと、詰所に走りこんで刀をつかんだ。そのまま跣で外に走り出た。残っていた同僚もあわてて重兵衛に倣った。
    −−藤沢周平「三ノ丸広場下城どき」、『麦屋町昼下がり』文春文庫、1992年。

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池波正太郎(1923-1990)先生の作品をこよなく愛する宇治家参去ですが、負けず劣らずに私淑の念をもって読ませて頂いているのが藤沢周平(1927-1997)先生の作品ではないかと思います。

時代小説にしては〝地味〟との評価が多いのですが、〝地味〟であるがゆえに人肌のように温かく、またそのリアリズムに惹き付けられてしまう宇治家参去です。

「三ノ丸広場下城どき」もなかなかようござんす。
何度も読んだ作品ですが、藤沢先生の描く〝救い〟の美学には脱帽するばかりです。
往時は剣の名手と呼ばれた粒来重兵衛ですが、左遷や妻との別離で酒に溺れ、したたかにその腕を落としてしまうのですが、ある事件を機会にもう一度剣を取り、そして最後に因縁の相手と剣を交える……そういう話です。

そのクライマックスにいたる夕暮れの一節を読み始めたところで・・・

内線用のPHSが鳴り響き、市井の職場での優雅な休憩は終わりを告げるという始末です。

電話を取ると、粒来重兵衛ではありませんが、

「異変が起きた、と重兵衛は悟った。」

……という次第です。

市井の仕事は、何度も書きましたがGMSの店舗勤務になりますので、ある意味では十年一律のような基本作業の反復ということになるのですが、それでもサービス業だからでしょうか、マア生きている人間と向き合う仕事になりますので、ときどきこれまで経験もしたことがなかったような事態にも遭遇します。

この仕事をしてなかったならば経験しなかったような難事とでも言えばいいのでしょうか。クレームとかそのへんの類です。

ルーティンな部分でも正直、かなりきつい部分がほんとんど、レジ4時間打ちっ放しの〝レジ番長〟とか〝ありえねぇ~〟って叫びたくなる部分があるのですけど、それはまだ序の口なんです。

まあ、生きている人間と向き合う〝事件〟のほうが、〝ありえねぇ~〟って叫びたく状況が多く、まさに「無事是名馬」との名言がいうように、きつい一日だったけど、「何事もなかった」という一日の終わりの安堵のアリガタサは、実に何モノにも代え難い千金の重みをもっている、何もないことほど素晴らしいことはない……そのことをよく仕事をしながら痛感します。

さて本日の案件も初めてです。

土下座をしたり、胸ぐらを掴まれたり、はたまた「ヤ」のつく自由業の事務所に連れて行かれたり等々……波瀾万丈の日々ですが、それをある意味では上回る大事件の到来です。

まさに……、

「異変が起きた、と重兵衛は悟った。」

……という次第です。

この手の問題で面白いのは粒来重兵衛が「明日は非番である」「下城をいそぐことはない」などとおもったときに起こるものなんです、不思議なものです。

さて、、、一報を受けてから、正直、、、

「マジっスか??」

……と聞き直した宇治家参去です。

要するに、駐車場にお客様が車を止められるわけですが、その側溝に、車のキーを落としたとかで、、、

「助けてくれ」

……ということです。

まさに

「マジっスか??」

サービス業でもあり、管理上の責任もありますので、対応せざるを得ませんが、そこまでやんなきゃいけないの???……などと頭を悩ませる次第ですけども、それでもなお、人間は、そこまで対応しなければ人間として成立しないものかもしれない……倫理の無限責任の要求@レヴィナスなんだよな……と思い直して現場へ急行した次第です。

ただしかし、学問の狭い世界だけで堂々巡りをやっていると、決して関係することのなかった世界と不可避的に対応させて〝頂いている〟という意味では、生きた学問の教室で学ばせて頂いているのかもしれませんが……、

それでもなお、ひさしぶりに、まさに

「マジっスか??」

……でございましたですワ。

側溝と聞きますと、要するに雨水などの排水を受ける直径30センチ前後の溝ということになりますが、今回の現場は、側溝は側溝なのですが、そんな甘っちょろい側溝ではございません。

ハイ、側溝が集約していく合流点とでもいえばいいのでしょうか。

2メートルの正方形の網蓋の奧でございました。
深さもこれまた2メートル。

ただしそれだけの大きなマンホールのようなところですので、フタが重いこと重いこと!

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「後をたのんだぞ」
 ひと声残すと、詰所に走りこんで刀をつかんだ

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も一度、詰所?へ走り込んで、「刀」をつかんだわけではありませんが、バールなんぞをもってきて、えっちらおっちら、大人三人でこじ開けますと(開けっ放しで事故が起こるとまずいので、かんたんには開閉できないようにとの配慮で、たぶん100kgオーヴァーのシロモノ)、

今度はだれが降りて、拾ってくるの???

……という段階です。

お客様をおろすわけにもいかず、こころのなかで、

「ハイ、私でしょ」

……とひとりごちてから、靴と靴下をぬぎ、ズボンを膝までまくし上げて、降りていった次第です。

幸い下水は40センチ程度で、おりてから5分ぐらいで車のキーを発見することができましたので、ともあれ、なによりです。

のぼってから、お客様へ渡してから、もいちどフタを締め、駐車場を辞した次第です。

まあ、これが洟垂れ小僧の少年時代なら、井上陽水(1948-)の「少年時代」を口ずさみつつ、、

「今日は冒険してきた!」

……って親にお馬鹿な報告をニンマリとするところですが、、、

水浸しで泥だらけの足でコソコソと詰め所へもどってから、石鹸で足を洗いながら、「まじで何が起こるか分からない職場だ!」と思いつつも、陽水の少年時代が壊れたラジオのようにループする所為だからでしょうか、なにやらひとつの達成感も覚えつつ、サービス業の醍醐味とは実はここにあるのか!

……などとひとり納得した次第ですが、ともあれ寒ぶかったっス。

ま、しかしなんですなあ~。

異変とは突然おきるものです。

粒来重兵衛は、警護の失態で己のふがいなさを自覚し、再び体を鍛え直す修行に再度挑戦するなかで、最後の決闘が〝突然〟降って湧いてくるわけですが、突然起こる異変に対応しつつ、「人間とは何か」この哲学的探究に飽くなき挑戦をして参りたいものです。

……ってことで、汚水が冷たかったことよりも、100kgオーヴァーのフタをあけたときに、腰に電撃が走った方が、ちょと響いております。

日頃の鍛錬が足りません。

http://www.youtube.com/watch?v=SqUA_UQsKE4&feature=related

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麦屋町昼下がり
配信元:電子書店パピレス
提供:@niftyコンテンツ

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