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何かに打(ぶ)つかる所まで行くより外に仕方がないのです

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もし貴方がたのうちで既に自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他の後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとは決して申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てる所まで進んで行かなくっては行けないでしょう。行けないというのは、もし掘り当てる事が出来なかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私はこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味では決してないのです。私のような詰まらないものでも、自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それは貴方がたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足する積りであります。しかし私自身がそれがため、自信と安心を有っているからといって、同じ径路が貴方がたの模範になるとは決して思ってはいないのですから、誤解しては不可(いけま)せん。
 それはとにかく、私の経験したような煩悶が貴方がたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当たるまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう間投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむくと首を擡げて来るのではりませんか。既にその域に達している方も多数のうちにはあるかも知れませんが、もし途中で霧か靄のために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲を払っても、ああここだという掘当てる所まで行ったら宜かろうと思うのです。必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。
 もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。−−もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かに打(ぶ)つかる所まで行くより外に仕方がないのです。私は忠告がましい事を貴方がたに強いる気はまるでありませんが、それが将来貴方がたの幸福の一つになるかも知れないと思うと黙っていられなくなるのです。腹の中のの煮え切らない、徹底しない、ああでもありこうでもあるというような海鼠(なまこ)のような精神を抱いてぼんやりしていれば、自分が不愉快ではないか知らんと思うからいうのです。不愉快でないと仰しゃればそれまでです、またそんな不愉快は通り越していると仰しゃれば、それも結構であります。願くは通り越してありたいと私は祈るのです。
 しかしこの私は学校を出て三十以上まで通り越せなかったのです。その苦痛は無論鈍痛ではありましたが、年々歳々感ずる痛には相違なかったのであります。だからもし私のような病気に罹った人が、もしこの中にあるならば、どうぞ勇猛にお進みにならん事を希望して已まないのです。もしそこまで行けば、ここにおれの尻を落ち着ける場所があったのだという事実を御発見になって、生涯の安心と自身を握る事が出来るようになると思うから申し上げるのです。
    --夏目漱石「私の個人主義」、『私の個人主義』講談社学術文庫、1978年。

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こんばんわ、宇治家参去です。
市井の仕事のない一日のいわゆる休日というやつですが、ぎりぎりの原稿を提出したりと苦闘が続き今朝は、8時に寝ましたのですが、13時には起こされ、夕刻からちょいと家族と外食などをしたものですから、まったく日中人間活動時間の生産性の低い宇治家参去です。

さて……。

仕事の……っていいますか大学へ提出する原稿の仕上げ……合間に漱石・夏目金之助(1867-1916)の文明論をひもといておりましたが、「足下を掘る」自己本位こそ大切だと説く漱石の言葉は、訓戒ではなく、むしろ、わたくしたちへの励ましではないか……そう思い、そのことばを抜き書きした次第です。

有名な漱石の講演「私の個人主義」は、今の学習院で語られた講演ですが、漱石が大切にする自己本位を根絶やしにしようとする国家至上主義の跋扈するなかで、それをスライドさせるとでもいえばいいのでしょうか、現代フランス思想の言葉で言えば「脱構築」(déconstruction)させる言い方で、国家至上主義に代表される他人本位の“あきらめ”としての生き方の脱却を促すその言葉には驚く次第です。「足下を掘れ」という自己自身の即した生き方のススメをとく漱石の試みには、、、思うに、それは勇気が必要とされる取り組みではなかったか……そう思われて他なりません。

さて……。
起きると本日が休日でございました。

10日があいにく細君のご生誕の砌でございました。

……ということで、「足下を掘りましょう!」というアリガタイ訓戒をちょうだいしてしまいました。

宇治家参去自分自身の砌にも、思いもかけぬサプライズとしてのステーキハウスへの招待で歓待されておりましたので、、、「“あなた自身”の足下としての家族のためになる取り組みをしてみてはいかが?」と言われてしまうと、土竜(モグラ)のごとく掘らざるを得ないというのが人情ではないでしょうか……。

ということで、ひさしぶりに宇治家参去一家御用達?の「ささ花」にて細君・ご生誕祭を開催した次第です。

……ということで、13時に起きて18時に飲み始めたので、まさに、経済至上主義的にカウントされる生産性の数値はきわめて低い一日です。

ただしかし、そうした数値化に還元できない部分……たとえば、祝宴などがそうですが、そこには基本的には経済的合理主義は機能しませんが……=としての「呪われた部分」(La Part Maudite)を勘案できないようでは、数値化によって計測がそもそも不可能な人間を理解することなんて不可能なんだと喝破したフランスの現代思想家・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille,1897-1962)に怒られてしまうというものです。

タバコが不健康だとわかってぱかぱかすうのが人間なんですよね……って、まあ、理由にはなりませんが、それが人間なんです。

……ということで、種々、理由は随伴しつつも、「“あなた自身”の足下としての家族のためになる取り組みをしてみてはいかが?」という、数値には還元できない、合理的には割り切ることのできない挑戦に対してあえて挑戦する宇治家参去の夕べということで、宇治家参去一家御用達?の「ささ花」にて祝宴をこしらえた次第です。

二ヶ月ほど、寿司やにて月例宴会?のお茶をにごしておりましたが、ひさしぶりに訪れても店長さんは顔を覚えていてくださり、しっぽりと祝宴です。

細君は飲めないので、ひとりで飲むわけですが、手の込んだ料理にまたしても乾杯です。

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さて……
基本的には定番セレクトよりも、季節のメニューをいつも注文するわけですが、まずは、山菜の天ぷらで勝負していただきました。

たけのこ、わらび、ふきのとう。ぜんまい、つくし……という春づくし。

さあ、皆さん、注目したいのは、添え塩です。

メニューには、「桜海老の塩合せ」と紹介されておりましたが、そのまんまです。
桜海老を粉砕してあえた天然塩が薬味にて、これだけでも酒がすすむというやつですが、どうじに春の訪れを感じざるを得ない一品でございました。

そして前菜的にお願いしたタケノコと真鯛のカルパッチョです。
カルパッチョ(Carpaccio)といえば、本邦ではマグロで和えるのが定石ですが、めでたい鯛でやるのもなかなかどうしてという状況です。

生命力を感じさせるタケノコの勢いと、真鯛のみずみずしさ、そしてキャビア風にちりばめられた海苔が、磯の味わいだけでなく、春の訪れを予感させるというものです。

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弥生の一品として紹介されていたのが、里芋とカニのコロッケです。コロッケといえばジャガイモでやるのが定番です。そこにあえて挑戦したのがこの一品ですが、箸を入れ、口にもちこむと……、

もう、クリームコロッケは必要ない。

……そう思って知った次第です。

カニはニガテですが、里芋の泥臭さがかえってカニに生臭さを消すと同時に潮気を引き立たせるわけですが、里芋本来のクリーミィーさのおかげで、クリームコロッケに乳製品は必要ないよ!って怒られてしまった次第です。

鶏卵をとき汁でやるつくねの軟骨も口外でとけるわけですから……。
はい、もうたまりません。

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さて……。
定番アイテムはだいたい毎月チェンジしながら……この月はA、来月はBのように……やるわけですが、毎度頼むのが、黒豚と季節野菜の蒸し料理!

脂はおちてしまっているんです。蒸されていますから。
ですけど、うま味はおちていないんです。
この季節にやるのがやっぱり一番ですね。
寒いから燃料を蓄えるわけですから、夏とは肉のうまみののりがちがいます。
自然の恵み感謝です。

……ということで、飲みつ食われつ……細君と息子殿がセレクトしたのが、桜餅のおしることアイスのデザートセットですが、叮寧にこしらえられていたせいでしょうか。アレ世アレというまになくなった次第です。

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……ということで、はい。
宇治家参去の時間です。

夏目漱石は「足下を掘る」生き方としての自己本位の対局にあるそれを「他人本位」と評しましたが、他人本位とは何でしょうか。

はい。

すなわち、

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他人本位 自分の酒を人に飲んで貰って、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです。

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そんな酒の飲み方?だけでなく、生き方なんてやっているとそれは生きている人間ではありません。

「後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだ」なんてできませんよね!

……ってことでなじみの店長さんに、

「メニューにないやつ」

……ってお願いすると出てきたのが、はいこちら!

『十四代「純米吟醸」出羽燦々』(高木酒造/山形県)

「ささ花」は基本的には「黒龍」(黒龍酒造/福井県)につよいお店なのですが、本日はありがたくも『十四代』との対面です。

上立ち香に鼻腔の奥をくすぐられました!

含んで広がるフレッシュさが甘く、口蓋にてピチピチと元気さを主張してくれるではありませんか。

足下を掘るとは大切でございます。

……って、ちょと失敗!

いちおうじぶんのなかでは、ホワイト・デートとカネ合わせていた“つもり”だったのですが、そのことを最初に仕切っておくことを忘れておりました。

帰り際に、、、、

「ホワイト・デーもよろしく!」

……だそうな。。。。

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