反省とは後ろめたさではなく……
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一括して言ってしまうならば、ギリシャ、ロオマの文学には後めたさというものがない。それはギリシャ人やロオマ人が反省するなどということがなかったということではないが、その反省する自分というものの正体が解らなくなったり、自分と呼ぶに堪えない忌しいものになったりするというのは彼らの間で見られないことだった。彼らの精神の透徹した働きが自分というものを隈なく点検することがって人間というものがそこに確かに生きている感じがしても、それは彼らにはその通りに生きていて忌まわしいものでも疑わしいものでもなくて、そこにそれがあることは地中海の日光を浴びた白い大理石の柱が土に真っ黒な影を投げているのと同じだった。いつも自分がいて嘆き、悲み、あるいは喜び、愛し、憎しみ、それで自分の眼の前にある景色もそこにあるからペロップスの土地の全部もお前の愛には換えられないとテオクリトスとともに言い、ルキアノスが冥土で見るヘレナの白い頭蓋骨は自分もいずれそうなるから死は恐しいものなので、ルクレチウスの哲学での神々は人間のことになど無関心に存在しているのであっても神々とこうして縁を絶たれてのた打ち廻る人間でなくなるのではなかった。
--吉田健一『ヨオロッパの世紀末』岩波文庫、1994年。
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2-3日、まったく本を読むことができておりません。
基本的には活字中毒のような状況なのですが、ちょいと諸事もたちこんでい、その隙間でもよむことはできるのですが、どうも本を手に取ることが億劫で、2-3日読むことができておりません。
反省する次第です。
悩む<自我>としての近代的個人はこの「反省」の行為がとても大好きです。
しかしその反省を契機に次にどのようにしていくのかという展開よりも、反省そのものに惑溺してしまいことの方が多いような気がします。
ですから、その惑溺する自己に対して反省をして……ってやりはじめますと、反省が無限遡上していくものですので、ここはひとつ、ギリシャ人、ロオマ人の反省として転換していこうかと思います。
すなわち……
「その反省する自分というものの正体が解らなくなったり、自分と呼ぶに堪えない忌しいものになったりするというのは彼らの間で見られないことだった。彼らの精神の透徹した働きが自分というものを隈なく点検することがって人間というものがそこに確かに生きている感じがしても、それは彼らにはその通りに生きていて忌まわしいものでも疑わしいものでもなくて、そこにそれがあることは地中海の日光を浴びた白い大理石の柱が土に真っ黒な影を投げているのと同じだった」……というこれで行きましょう!
ただしかし、晩冬の日本は地中海の陽光とまったく逆の陰鬱した陰影空間なのですが、はやいもので、春の草花は咲き始めております。
その生命力でいきましょう!
……ということで、はやいもので、大学の入学式の案内がとどいておりました。
3月は恐ろしくはやく過ぎ去っていく月です。
では、本を抱えて仕事へ行って参ります。
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