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「人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによる」のだそうです

01_2010

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 宗教家の要求と哲学 宗教家はおそらく、哲学することによって神と関係するところの個人の高慢な自力性を非難するでしょう。彼らは啓示された神に対する服従を要求します。そこで彼らに対してつぎのように答えられるのであります。すなわち哲学する個人が信仰するのは、神が欲することを客観的な保証によって知るのではなく、むしろたえざる冒険において、神に従うことを心の底から決断する場合なのであります。神は個人の自由な決断によって働くのであります。
 僧侶は神に対する服従と、教会とか聖書とか、直接の啓示と見なされる戒律などのような、この世界の中で現れている審判に対する服従とを、混同しているのであります。
 究極において、この世界における客観的な審判に対する服従と、根源的に経験される神の意志に対する服従との間に真の一致が可能ではありますが、この一致は戦いとらねばならないものなのであります。
 もし個人によって経験される神の意志が、一方的に客観的な審判を無視するならば、一般的なものや共通的なものによる吟味を回避しようとする恣意へ陥りやすいのです。ところがそれと正反対に、もし客観的な審判が一方的に、個人によって経験される神の意志を無視するならば、現実そのもののうちから神の意志を聴くことによって、たとえ客観的な審判に反しようとも、神に服従するという冒険を回避しようという誘惑が生ずるのであります。
 信頼するに足る権威の法令や命令においてさえそれをつかもうとする場合には、それを誰から聴くのかという当惑が存在します。それに反して、現実全体のうちから聴くことのうちには、個人の責任負担の飛躍的なエネルギーが存在するのであります。
 人間存在の位階は、それが聴くことにおいて自己の導きを獲得してくる源泉の深さによるのであります。
 人間であることは人間となることであります。
    --ヤスパース(草薙正夫訳)『哲学入門』新潮文庫、昭和四十七年。
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世の中のサラリーマンという種族の方々はほんと偉大だと思います。

妻子のためとかいろんな理由はあるのでしょうか、『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)の主人公の父・星一徹のごとく、ちゃぶ台をひっくりかえして、

「おまえらなぁ~」

……って叫びたいのが本音なのですが、そうもいかないところが漫画と違う生きている生活世界ということでしょうか。

ホンマ、考えなくて済むならすませたいのですが、済ませるわけにもいかず……、市井の職場でのことですが、働いている現場と、制度との乖離にアタマを悩ませる宇治家参去です。

アタマを悩ませるほど給料はいただいておりませんし、割り切ってやってもよいのだろうでしょうが、そうは問屋がおろしません。

ここでも生きた社会を学んでいるのであれば、悩んでも解決を目指すのが本道だろうということで、制度やシステムとその現場での運用に関して、種々そのすり合わせをきちんと上司とするようにしております。

今日も久しぶりに切れそうになり、以前は壁にパンチしておりましたが、壁にパンチを繰り出しますと手が痛いものですから、このところ、空段ボールに鉄拳を食らわせる次第ですが、翌日は……

「昨日、宇治家参去さん、だいぶ頭にきていたようね」

……などとウワサされるのも難ですが、繰り出さざるを得ず……というところでしょうか。

ただ、宇治家参去の場合、そこで自分のストレスとして終わらせてしまっても、学習にはならないし、まあ、別に切られてもいいやって感覚がどこかにありますので、そのすり合わせだけはきちんとやるようにしております。

ですから、システムとか制度の運用、体制の指示に関しては、現場の声を報告することはできているのかもしれません。

店長もいっておりましたが、

「まあ、宇治家参去さんのいうとおり、最低の会社で、環境だということはわかるけど、まだ“マシ”なほうなんだよ。サービス残業を強制するわけでもないし、○○でも、××でもないしねぇ~。従業員を守るということではこの会社は同業他社にくらべるとまだ“マシ”なんだよ。だからといって、それでアナタのいう報告も理解できるけど、ただちにはフィードバックもできないけどね。できるできないは別にしても耳を貸すシステムとか制度であるという点では“マシ”な方なんだよ」

……そのことも承知しているのですが、「マシ」といわれると、その「マシ」にかちんとしつつも、それでも「マシ」という文脈で省察するならば、「聞く耳」があるという意味では、そして小難しい議論をしつつ正攻法でせめていく、宇治家参去のような“学問やくざ”ときちんと向かい合ってくれるという意味では、「現実全体のうちから聴くこと」をオープンポリシーとして掲げているだけ「マシ」なのでしょう。

ただ、この「マシ」というヤツがやっかいでして……。

上述の店長の言葉にもあるとおり、「マシ」というのは当該状況より“以下”との対比でしかありませんから、その心根には、納得することができず、まさに“青臭い”自分自身に辟易としつつも、「まあ、そんなもんだよな」と嘯くよりも、“以下”との比較に嫌悪を覚るほうがまだ「マシ」とも思う次第です。

ただ、いい加減パンチを繰り出すのも、思想的格闘としてガチンコをするのも、結構疲れますので、そうならないように、自分のいるうちには、少しでも善い方向にスライドさせていきたいものでございます。

ただ「言い過ぎたかぁ~」ってところも一方には歴然としてあり、同苦する店長に少し、申し訳なかったかな……とも思う次第ですが、やはり、自分が抱える手下(テカ)もいますので、それはそれで致し方なしか~などとも思うのですが、そこにも違和感があり……、、、

まったく物事を割り切って考えることができない“おこちゃま”の宇治家参去です。

とりあえず、“おこちゃま”なのですが、飲んで寝るほかあるまい。

……というわけですけども、そうした苦闘?を学問に還元していくのが、働き学ぶ自分自身のアドヴァンテージだとは思うのですが、いい加減、卒業したいというのも実感です。

はぁぁあ。

とりあえず、飲んで寝よ、寝よ。

なんどもいいますが、「○○より“マシ”」……って言い方が大嫌いなんです。

02jaspers2_1 03_2010

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