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以上の三種類の愛はそれぞれ本質を異にしているが、もし同一の対象に対してこの三種の愛が同時に体験されることがある

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 しかし、このような議論を重ねていくよりも、我々は寧ろ端的に愛の本質を規定し、そこから還って当面の問題を論じた方がいい。
 そこで我々が「愛」と呼んでいるものを詳しく調べて見ると、そこにいくつかの本質的に違ったものが含まれているのに気付くのである。まず第一には、神学者がが一般に認めている自己中心の愛である。凡そ生あるものは、自分自身を愛する。自分を愛するとは、生物の自己の存続を守り、その破滅を防ごうとする本能があるということである。人もまた、この例に洩れない。人は自分の生命の持続を助けるものにたいしては本能的に心を傾け、自分の存在を脅かすものにたいしては自然に嫌悪の情を懐く。一口に言えば人は死を怖れ、死を嫌う。彼は決して死ぬ時の苦しみが怖いから、或は現世で様々な罪を犯した故に死後の罰が怖いから死を嫌うのではない。彼らはたとえ、何の苦痛もなく死ねる、また死後は絶対に罰を受けはしないと保証されても、依然として死を嫌うことを止めはしないであろう。死の恐怖、すなわち自愛(自己の存在のために物を愛すること)こそ、生を受けた人間の自然の本性である。父の子に対する愛もこの種の愛の一種に過ぎない。と言うと次のような反論が起こるかも知れない。すなわち、我々が自分の子供を愛するのは決して、我々自身の存続のため、つまり我々自身の利益のために愛するのではないのだ、親は自分の子供から何の利益も期待できない時でもやはり、子のため、あらゆる苦難を堪え忍んでこれを養育し愛するではないか、と。しかしそれは皮相的な観方である。すなわち親がその子供を愛するのは、自分の身体や健康や財産を愛するのと少しも違いないのである。我々は自分の子供を愛することにおいて、自分自身を愛しているのである。自分が死んだ後、子供が生存することは、いわば自分が生存することの一種である。我々はいくら永久に生きていたいと思っても、その望みは絶対に実現できないということをよく知っているから、自分の「一部」のような、子供を愛するのである。人が自分の親類や友人を愛するのもこれと少しも違うところではない。彼はその親類や友人を、自分の親類であるが故に、自分の友人でえあるが故に愛するのである。また自分を保護し、自分を世話してくれる人を愛するのも同様である。
 然るに我々は、こういう愛とは全然性質を異にする愛のあることを知っている。すなわち、何等かの意味において完全であると認めたものに対する愛である。この愛は対象を、何か他の目的のために手段としてではなく、そのもの自身のために愛する処に特徴がある。たとえば人は美しいものを、そのもの自身の故に愛する。人は何か利益を獲ようと思うことなしに美しいものや、崇高なものを愛する。美しい絵をそれ自身のために愛するとは、決して、それで我々の存在を続ける一助とするために愛することではない。しかもここに注意すべきことは、同一の対象が、我々の心構え如何によって第一の愛の対象ともなり、第二の愛の対象となり得ることである。流れ行く川は、渇を医してくれる水として愛することもできれば、また美しい自然風景として愛することもできる。
 このような愛あるが故に、我々は何千年の昔の優れた有徳の人を愛し、また数千里を隔てた遠国の明君を愛し得るのである。数千里の彼方の国へ我々は一生のうち決して自分で行く当てがないにしても、そこに慈悲深い王様があるのを聞けば、これを愛さずにはいられない。この場合、我々はその王様を自分のためにではなく、その王様自身のために、言い換えれば彼に内在する性質の故に愛するのである。我々が自分で一度も見たこともない古い昔の予言者や詩人を愛するのも、それらの人々の完全さの故でなければならぬ。そして我々はこの愛の故に、自己の命さえ投げ捨てて惜しまないのである。第一の愛に比して、この愛は「真の」愛(hubb haqiqi)とみなされるべきであろう。
 ところが我々は経験によって、この二つの愛とはまた違ったさらにもう一つの愛のあることを知っている。それは愛する者と愛される者との間の理屈では何んとも説明のできない一種不思議な関係(munasabah khafiyah)による愛である。人は、別に何と言って理由が分からないのに、或る人を夢中に好きになってしまうことを経験したことがあるであろう。なぜ相手を愛するのか自分で自分に尋ねて見ても説明できない、相手が自分の存続のためになる訳でもない、さればと言って相手が美しいのでもなく完全な訳でもない、いや客観的に見たら何処が好いのかと問いたくなる程不完全である、にもかかわらず、どうしても自分の魂を挙げてこれを愛さずにはいられない、そういう経験が誰にもあるであろう。この愛に理由を見出そうとするのは無益である。それは人智をもっては絶対に解決されぬ謎である。ただ我々は、この経験の事実を認めるのみで充分である。
 以上の三種類の愛はそれぞれ本質を異にしているが、もし同一の対象に対してこの三種の愛が同時に体験されることがあるならば、それこそ至上の愛と言うべきであることは論をまたないであろう。そして、その事が、正に人間の神に対する関係において成り立つのである。
    --井筒俊彦『イスラーム思想史』中公文庫、1991年。

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イスラーム神秘主義のスーフィーの議論を整理しようと思い、その大成者・アブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・アル=ガザーリー(Abū Hāmid Muhammad ibn Muhammad al-Ghazālī,1058-1111)の井筒俊彦先生(1914-1993)の手による解説書を読みつつ、はあ、なるほどねとひとり悦に入る宇治家参去です。

ただ、運悪く明け方までひもといていたのが失敗です。
今朝は息子殿の幼稚園の卒園式でしたので、寝たかと思うとおこされてしまうという状況です。

愛とは、自愛、完全性への愛、愛する者と愛される者との間の理屈では何んとも説明のできない一種不思議な関係(munasabah khafiyah)による愛に生活世界では区分されるようですが、感動のあまり泣くわけでも、熱心に撮影にいそしむわけでもありませんが、この「以上の三種類の愛はそれぞれ本質を異にしているが、もし同一の対象に対してこの三種の愛が同時に体験されることがある」ことだけは深く確信した宇治家参去でございます。

はあ、つかれた。

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