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【覚え書】人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義

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 ルネサンス期のユマニストたちが、どのような人間観を持っていたか、どのような人間像を理想としていたか、これを簡単に指示できないのは残念です。しかし、ユマニストたちは、聖書に対して加えられた誤った解釈を、聖書の原典批評によって発見すればするほど、キリストの精神から見れば、歪められた人間としか言いようのない人々の手が働いていることと、その結果、更に多くの人々を歪めさせるような制度や言動が生まれていることを感じたらしく思われます。また、ギリシヤ・ローマの学芸に触れて、中世キリスト教以前の世界に、思いもかけぬ深い思想や、明るい人間感情や、闊達な生活があったことを知ったユマニストは、自分の周囲の人々が、あたかも足枷手枷をはめられて、人間本来の姿勢を失っているばかりか、歪んだ体躯のままで固まってしまいかねないことを感ぜざるを得ませんでした。
 ユマニストの王者と言われるオランダ生まれの神学者デシデリウス・エラスムスは、《キリスト教の復元》ということを申しまして、その生涯の仕事をこれに沿って発展させましたし、その影響は全ヨーロッパのユマニスムの発生と成長とにあずかって力がありました。このエラスムスは中世伝来のキリスト教会の制度および指導法が、人間を著しく歪めていることを感じ、キリスト教本来の面目への復帰を熱望していたのでした。エラスムスは、それまでの聖書解釈の誤謬を指摘したり、容赦なくキリスト教会の制度の欠陥や聖職者たちの行動を批判しましたので、カトリック教会中の頑迷な人々からは白眼視されるようになりました。そして、エラスムスよりもやや遅れてこの世に生れ、公然とカトリック教会に反旗をひるがえしてプロテスタントの教会の礎を築き、ルネサンス時代の最も重要な運動の一つである宗教改革の祖となったマルチン・ルッターの同類と見なされて、「エラスムスが卵を産み、ルッターがこれを孵した」とまで、エラスムスは罵られてしまいました。エラスムスとしては、あくまでもカトリック教徒っとして、カトリックの司祭として、キリスト教会の歪みを匡そうとしただけなのです。しかし、宗教改革運動の初期において、エラスムスを首領とし、その主張に賛成するユマニストたちと、プロテスタント(新教徒)とが、手を握っていたような感じを与えたのも無理ならぬことでした。ともに、それまでのカトリック教会への00批判を行っていたからです。しかし、エラスムスは、人間を歪めるものを正しくしようとしたのに対し、ルッターは、人間を歪めるものを一挙に抹殺打倒しようとしたのでした。前者は、終始一貫、批判し慰撫し解明し通すだけですが、後者は、批判し怒号し格闘して、敵を倒そうとしたのです。ルッターの出発点には、「エラスムスが生んだ卵を孵した」と言われるくらい、ユマニスムに近いものがあったに違いありませんが、キリストの心に帰るために、同じキリストの名を掲げて、意見の違うキリスト教徒(この場合は旧教徒)と闘争するという行動に出て、ヨーロッパに幾多の非キリスト教徒的な暴状を誘発するような事態を作ってしまいました。そしてカトリック教徒の側には、ルッターから見れば《生ぬるい》エラスムスの批判までを白い眼で見て、新しい時代の息吹を窒息させることをもって唯一の解決法と考えていた人々もいましたから、そういう人々にも、ルネサンス期の血みどろな宗教戦争の責任を負ってもらわねばならぬことは当然です。しかし、もしルッターが、エラスムスと終始一貫手を握り、先輩としてのエラスムスの批判の衣鉢を継ぎ、これを更に世に広く辛抱強く弘めたら、また同じ志の人々の養成に尽したら、あのような悲惨事は起らなかったかもしれません。そして、このように《もし……したら》というようなことは、我々人間が、大して心の痛みも感じないで公言できる便利な言葉であることは、承知していますが……。
 ユマニストは、批判をするだけで、現実を変える力を持ち合わせないし、ユマニスムというものは、所詮無力なものだなどと言われます。しかし、終始一貫批判し通すことは、決して生やさしいことではありませんし、現実を構成する人間の是正、制度の矯正を着実に行うことは、現実を性急に変えようとしてさまざまな利害関係(階級問題・政治問題)と結びつき、現実変革の方法に闘争的暴力を導入して多くの人々を苦しめることよりも、はるかにむつかしいことだと思います。私のいうユマニスムは、一見無力に見えましょうが、決して無力ではないはずです。ルネサンス期にお互いに血を流し合った新旧両教会の対立は、現在でも残っているとは言えますが、それは、単なる教義上での対立であって、現在、新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)とが鉄砲を撃ち合って殺し合うというような対立ではなくなっています。人々は、同じキリストの名のもとで、キリスト教徒がお互いに殺し合うことがいかに愚劣であるかということを知っているからです。そして、こうした愚劣さや非キリスト教的な行為や非人間的な激情をおさえる力に自覚を与えてくれたものは、ユマニスムの隠れた、地味な働きにほかなりますまい。現在、人々は、宗教問題で戦争を起こすことはしない代りに、経済問題・思想問題で戦争を起しかねません。しかし、もしユマニスムが今なお生き続けているとするならば、必ずいつか、人々は、こうした諸問題のために争うことも愚劣だと観ずることでしょう。経済も政治も思想も、人間が正しく幸福に生きられるようにするためにあるという根本義を、必ず人々は悟ることでしょう。ユマニスムは無力のように見えてもよいのです。ただ、我々が、この無力なユマニスムが行い続ける批判を常に受け入れ、この無力なユマニスムを圧殺せずに、守り通す努力をしたほうが、殺し合って、力の強い者だけが生き残るというジャングルの掟を守ろうとするよりも、はるかにむつかしいにしても、はるかにとくだということだけは確かなように思います。
    --渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫、1992年。

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細君と話していても、地域のひとびとと話していても、そして小中高大学時代の親友と話していても、そうなることができない自分自身を常々自覚するのですが、やはり、宇治家参去自分自身というものは、なにかをたたきつぶすというあれか・これかという精神的態度がニガテなんです。

断嘩するのではなく説得……これがもっとも必要なのが現代社会なのですが、たたきつぶして〝勝っていく〟……っていう誤った〝勝他の念〟が支配的な空気なようであり、そこに違和感を感じてしまいます。

必要なのは〝勝他〟ではなく〝勝自〟なはずなのですが……。

チト、今晩は、私淑する偉人デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus,1467-1536)の生涯をはせながら沈没しようと思います。

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