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過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていたい

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……元来「ものの哀れ」なるものは、永遠なるイデアへの思慕であって、単なる感傷的な哀感ではない。それは無限性への感情となって内より湧き、あらゆる過ぎ行くものの姿に底知れぬ悲哀を感ぜしめる。しかし、この底知れぬ深みに沈潜する意力を欠くものは、安易な満足、あるいは軽易な涙によって、底の深さを遮断する。そこに感傷性が生まれて生活を浅薄化するのである。清少納言は時人とともに軽易な涙に沈溺することを欲しなかった。それをするには彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった。彼女もまた官能的享楽人として時代の子である。ただ彼女は、過ぎ行く享楽の内に永遠を欲していたずらに感傷するよりは、享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていたいのである。この点で彼女は、紫式部が情熱的であるのに対して、むしろ確固たる冷徹を持する。そうして彼女の全注意を、感覚的なるものに現われた永遠の美の捕捉の方に向ける。彼女の周到にして静かな観察には、右の意味で主観的情熱からの超越がある。
    −−和辻哲郎「『枕草子』について」、『日本精神史研究』岩波文庫、1992年。

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憧憬をもって私淑する女性のひとりが清少納言(966?-1025?)です。
『枕草子』はよく読みましたが、様々な論者から指摘されているとおりその核心とは、「ものの哀れ」なのでしょう。

「ものの哀れ」に関してもこれまた様々な先達がその概要を指摘してやまないものですが、日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)の解釈によれば、それは徹底的な「惑溺」からの回避ということかもしれません。

俗流プラトニズムにみられるような真理への惑溺は真理への奴隷と化し、その対局にある官能的享楽への惑溺というのも、対象を物神化してしまう奴隷志向なのかもしれません。

それをうまく避けながら日常生活のなかで「確固たる冷徹」に徹したのがその生涯であり、その「ふみことば」のひとことひとことが千年を越えてわれわれを魅惑するだと思います。

真理を探究する修道僧のごとく「底知れぬ深みに沈潜」するわけでもなく、明日の風に感傷するケセラ・セラな「軽易な涙」を流すわけでもなく、、、。

そこが清少納言のすがすがしい薫風たるゆえんであり強さなのかも知れません。

こだわっているようで、こだわっていない。

そこが彼女のすばらしさの秘訣なのだと思います。

まさに和辻が指摘するとおりで、「彼女はあまりに強かった。しかしその強さは、無限なるものに突き進む力とはならなかった」わけですが、同時にその営みは「享楽が過ぎ行くものなることを諦視するところの道に立っていた」からこそ、余韻の残る「主観的情熱からの超越」が可能になったのだと思います。

かくありたいものです。

「情熱」よりもすがすがしい「冷徹」さ。

そこに刮目してしまう宇治家参去です。

さて……。

この2-3日、東京は寒波到来で、2月のような極寒です。
フル防寒装備にて市井の職場へ出勤しますと、ひさしく欠品していた「辛そうで辛くない 少し辛いラー油」(株式会社桃屋)が納品されておりました。

〝食べるラー油〟として昨夏より販売されておりましたが、〝桃ラー〟との愛称で口コミでメガヒット!

気になっておりましたのでひとつ買い求め、試したみた次第です。

どえらく寒いので、これまた久しぶりにパック酒を熱燗にセットしてから、、、深夜ですので簡単なことしかできませんが、瀬戸内産のジャコ天を1分ほどチンしてから、九条葱を和え、そこに〝桃ラー〟をひとすくい。

通常ですと、生姜とポン酢でいただくところですが……。

なかなかいけますね……、というより、、、

「かなりいけるやん、コレ!」

……というところです。

「春はあけぼの」と筆を起こした清少納言でしたら、この味わい、どのように表現するのでしょうか?

気になるところです。

タンポポは咲き始めましたが「春はあけぼの」とはまだほど遠い東京でございます。

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