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2010年4月

♪ It ain't necessarily so ♪

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♪ It ain't necessarily so

It ain't necessarily so.
De things dat yo' li'ble to read in de Bible,
It ain't necessarily so.

Li'l David was small, but oh my!
He fought big Goliath who lay down an' dieth,
Li'l David was small, but oh my!
,
    --George Gershwin,Porgy and Bess,1935.

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Jazzのスタンダードナンバーになっているのが名曲「Summertime」ですが、これはアメリカを代表する音楽家のジョージ・ガーシュイン(George Gershwin,1898-1937)畢生の傑作オペラ「Porgy and Bess」の作中歌であることは以外と知られていないのかもしれません。

もっともルイ・アームストロング(Louis Armstrong,1901-1971)とエラ・フィッツジェラルド(1917-1997)の傑作アルバム「Porgy and Bess」(Verve,1957)を耳にされているかたにはおなじみのことで、

「そりゃア、話がくどいぜ、ベイブ」

などといわれてしまいそうですが、新世界アメリカ合衆国で後生に残る傑作オペラを残して早逝したガーシュインの偉業を振り返るには、トピック的にSummertimeだけに注目するだけでなく、Porgy and Bess そのもにも注視したいものでございます。

1991年にBunkamuraオーチャードホールで初の日本公演が行われましたが、その折りには、宇治家参去も忙しいなか?、大枚をはたいて鑑賞したのが懐かしい思い出です。

さて……。
舞台の中盤、キャット・フィッシュ・ロウの住人たちは、キティワ島でどんちゃんさわぎをするわけですが、そのなかで麻薬密売人のスポーティンライフ(Sporting Life)によって皮肉たっぷりにうたわれるのが、うえに引用した「It Ain’t Necessarily So」という黒人霊歌の要素が濃厚に出た一曲です。
※ちなみにエラが歌唱するこの曲はかなりヤバイです。

邦訳すれば、まあ、「いつもそうとは決まっていない」とでもいえばいいのでしょうか。

要するに、世の中ってえやつは、「必ずしもそうじゃないぜ」、「そんなのアリかよ!」ってえこと方が多いんだぜぇって、内容なのですが、アルバムを聴くたび、ライブでみたときしびれることのおおい一つの曲となっておりますが、スポーティンライフによって指摘されるを待つでなく、そのことだけは実際に痛感する宇治家参去です。

さて、歌詞の中では、旧約聖書のエピソードが詠われておりますが、注目したいのは、「サムエル記」からの一節です。

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ペリシテの陣地から一人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は六アンマ半、頭に青銅の兜をかぶり、身には青銅五千シェケルの重さのあるうろことじの鎧を着、足には青銅のすね当てを着け、肩に青銅の投げ槍を背負っていた。槍の柄は機織りの巻き棒のように太く、穂先は鉄六百シェケルもあり、彼の前には、盾持ちがいた。ゴリアトは立ちはだかり、イスラエルの戦列に向かって呼ばわった。「どうしてお前たちは、戦列を整えて出て来るのか。わたしはペリシテ人、お前たちはサウルの家臣。一人を選んで、わたしの方へ下りて来させよ。その者にわたしと戦う力があって、もしわたしを討ち取るようなことがあれば、我々はお前たちの奴隷となろう。だが、わたしが勝ってその者を討ち取ったら、お前たちが奴隷となって我々に仕えるのだ。このペリシテ人は続けて言った。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ。」
--「サムエル記上」(17:04-10)、共同訳聖書実行委員会『聖書 新共同訳』日本聖書協会、1987年。

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現在の単位で表現すれば3メートル近くの大兵の屈強な戦士がゴリアトなわけですが、これに一騎打ちをして、最終的には勝利を収めるが、羊飼いと琴弾きの名人といわれた小さな少年ダビデです。

ふつーにかんがえれば、ゴリアトが負けるはずがない勝負なわけですが、ダビデは才覚で勝利をおさめてしまうことがこのあと記されております。

まさに「いつもそうとは決まっていない」っていうわけです。

小さな少年が生まれつき= born to kill のような大柄な戦士倒してしまうという記述です。

ということで、宇治家参去も「大きなもの」よりも「小さなもの」が大好きです。

ちょうど千葉の大学へ通勤し始めて、小さいと言えば小さいのですが、Lenobo(旧IBM)のネットブック以上のネットブックといわれるThinkPad X100eをPowerPoint出力とか仕事のために持参していたのですが、やはり軽い部類にはいる1.2kg前後ですが、さすがに往復5時間も通勤しておりますと、PCだけでなく資料もありますので、結構こたえるなーってところがありましたので、ついにそれよりもミニマムなPCを買っちゃいました!

話題の370gPC、ONKYOのBX407A4という小さな巨人がそれです。
http://onkyodirect.jp/pc/bx/
※旧SOTECの業務をONKYOが現在は引き継いでいます。

370g、バッテリー駆動7時間(ただそんなにはもちませんが)、winXpで、モニター出力OKってシロモノです。

一昨日到着し、セットアップが済んだところですが、まさにこのPC、ダビデと名付けようかと思うところです。

iPhoneのおかげで、パワーポイントが出力できて、かんたんな手直しができれば、出先でPCには要がないわけですので(本格的なことはそんな局面ではそんなにありませんので)、思い切って買っちゃった次第です。

USEDですが、予備バッテリー×1(現在装着しているやつ)、ACアダプター×3のおまけつきでダイレクト価格よりも安かったので、ちと勇み足をしてしまいました。

ですけど、結構重宝しそうです。

まさに!

♪ It ain't necessarily so ♪

http://www.youtube.com/watch?v=pLLoNi4qHPg

http://www.youtube.com/watch?v=gZV5kSEl-aw&feature=related

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Porgy & Bess Music Porgy & Bess

アーティスト:Ella Fitzgerald and Louis Armstrong
販売元:Verve
発売日:2008/03/18
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常に途上にある

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 究極の解釈ということは、自己矛盾であるように思われる。解釈は常に途上にある。したがって、解釈という語が人間存在の有限性と知の有限性とを指し示すのだとすると、解釈の経験は、以前の自己了解のうちに存在していなかったものや、解釈学として特殊な諸領域に分類されたもの、そして、難しいテキストのなかの困難を克服するための技術として応用されたものを含むことになる。当時は、解釈学はKunstlehreとして理解可能であったのだが、今ではもはやそうではないのである。
 すなわち、、<テキストの説明と理解においては、完全に見通しうるテキストとか、あるいは、完全に汲み尽くすことの可能な関心といったものはそもそも存在しない>ということをわれわれが前提するときには、解釈の術と理論に関連するすべてのパースペクティヴはずれてしまうのである。
    --ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二、座小田豊訳)『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。

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どうも今晩わ。
さきほどまで机と一体化してよだれをたらして寝ておりました宇治家参去です。
ぬばっ!って目が覚めましたので、ちょいと日記を書いてから沈没します。

新学期が始まってから、だいたい3回目ぐらいの講義が終わりましたが、「いつもながら」新しい発見の連続で驚くばかりです。

火曜日は八王子の短大で「哲学入門」の講義。
もう7年目になるのですが、毎度毎度=「いつもながら」、新しい発見の連続です。
語らなければならない重要な処は不動なのですが、学生さんの関心や状況によって、不動ではあるにはかかわらず、毎度毎度、新たな表現になっていくとでもいえばいいのでしょうか、、、変わっているわけではないのですが、何かが違う、新しくなっていく……、授業をしながらそのことを痛感します。

カリキュラム的には2年に一度ぐらい、組み立て直すのですが、根本的なところは同じであるにもかかわらず、新しくなっていく……そういうところを授業をしながら感じる次第で、まさに、教師と学生さんが有機的に対象に挑戦していっている--そのことを痛感します。

水曜日は千葉の短大で「倫理学」の講義。
こちらは本年度より初めての担当になりますが、毎度毎度=「いつもながら」、アリエナイ出来事の連続です。

詳細は措きますが、どうやら、最終講義まで一対一の局面的面受の関係になりそうです。
気合いは入れっぱなしですが、ときどき、風船から空気が逃げ出すように、息抜きをいれながら、ゼミのように--といいましても、一人ゼミはないでしょう!--お互いに切磋琢磨するように授業を組み立てております。
これも貴重な経験です。

さて--。
哲学とか倫理学って一見しますと何か出来上がった体系とかシステムとか理論の様相が強い学問ですが、実際に携わってしまうとそう簡単なものでもありません。

そのように〝見える〟知見に耳を傾けながら、自分の口蓋で咀嚼していく学問とうのがその実情です。だからこそ、「いつもながら」のような体系に一見すると見えますが、実際にやってみるとそうではない側面が豊かに紡ぎ出されてしまうのでしょうか。

また自分としては大家とかの意識が全くないといいますか、実際には底辺をさまようヘタレ小僧ですので、履修してもらうだけで「ありがたい」わけですので、そうした感覚の所為でしょうか、一緒に学んでいるって感覚が濃厚で、教師というスタイルはとっておりますが、その所為もあってか、まさに「日に日に新たに」ってところです。

哲学的解釈学者ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)が「究極の解釈ということは、自己矛盾であるように思われる。解釈は常に途上にある」と指摘するとおり、この「究極の」完成品なんだオレとか、オレのコンテンツは「究極」なんだと思うことなく、常に「途上にある」って感覚を意識的にでももっておかないと腐敗はそこからはじまっちゃうんだよな--そう強く実感する毎日です。

……というわけで、「途上にある」ってことを深く痛感するために先日、新しい傘を購入しました。

これまで丸善の「こうもり傘」を使っていたのですが、いつも同じではオモシロクないって寸法で、24本骨組みの和傘を購入した次第です。

大学へ出講した火曜・水曜はあいにくの雨模様でしたが、さっそく「和傘」でチャレンジしたものですが、なかなか新鮮な感覚です。

ナイロン張の安物ですが、鬱陶しい雨なのに、なにか心が楽しいというのがいいですね。

その勢い余ってでしょうか……。
ちょいと贈り物の購入が必要でしたので、そごうへ寄った折り、要もないのに文具店を覗き始めましたら、ドイツのLAMYのSAFARIラインの万年筆が手頃な価格で出ておりましたので、衝動買いまでしてしまいました。

これも安物ですが、思い出深い一品です。
小学校4年生のときに、自分の万年筆ライフはスタートをしますが、最初に手に取ったのが、親からプレゼントしてもらった、このLAMYの万年筆です。スポーティーなデザインですが、インクののりも良く、中学1年で壊れるまで使い続けた思い出があります。そのあとはパイロットを経て、ペリカンへ定着するわけですが、

「懐かしいー」

……って思うと同時にお会計にならんでいた自分がおりました。

ま、これは「究極の解釈」として完成している人間にはできないという意味では「途上にある」人間の好事例ということでしょうか。

帰宅すると細君が、「初亀 富士山」(初亀酒造(株)/静岡県)を買っていてくれましたものですから、この吟醸酒で、ちょいといっぺえやってから寝〝直〟しましょうかと思います。

ひとくち、くちにふくみましたが、水のようにさわやかでありながらも、気品ある香味に驚きました。

日本酒といえば、どちらかといえば日本海側を想像する嫌いがありますが、太平洋に面した静岡の酒もなかなかどうしてです。

イメージだけで判断するともったいないものですね。

その意味では、日本酒道……そんなのあるんけ?ってツッコミはなしヨ……においてもまだまだ探求の「途上にある」って感覚をわすれてしまうと、酒を本当に楽しむことは不可能かもしれませんね。

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Book 科学の時代における理性 (叢書・ウニベルシタス)

著者:ハンス・ゲオルク ガダマー
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【覚え書】豊穣なる概念としての「カロン」と「理性」

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今週も休みなしでがっくしorzというところですが意気軒昂に千葉の短大へ向かっているところです。

ただ車中で読んでいて大事だと思った部分があり覚え書としてお茶を濁しておきます。

カロンと理性とはきわめて豊穣な概念ですね。

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 なるほど、植物や動物といったそのほかの自然の産出物にしても、<何も「無駄に」は行わない>という、つましい自然の合理的な目的論的図式がきわめて狭隘なものであることを、われわれは次第に認識し始めてきた。けれども、われわれが自分を人間的ー理性的に理解する際の基準にしている意識的な合目的性--それというのも、われわれは共通に望まれた目的に至る手段の合目的性を洞察するからであるが--を、行動が知っているところでは、効用や有用性や合目的性を凌駕するすべてのものの領域が独自のものとして際立たせられる。われわれはそのようなものを、ギリシア人たちがカロンKalonと言っていたのと同じ意味で、「美しい」と呼ぶのである。カロンは、一切の必要の彼方にある芸術や祭礼の創作を意味していたばかりではない。それは、われわれがさおこにおいて間違いなく自分を理解するすべてのものを包括している。なぜなら、カロンは、それが望ましいものであることを合目的性の観点で正当化する可能性も必要性も問わず、望ましいものだからである。これをギリシア人たちはテオーリア--すなわち、圧倒的に現前すればすべてのものに共通に明らかにされる或るものに<引き渡されてあること Weggegeben-Sein an etwas>--と呼んでいた。そしてまたこのものは、<それが、そのほかのすべての善きことどもと違って、分割によって減少することも、それゆえ、そのほかのすべての善きことどものように異論が唱えられることもなく、むしろ分有によって獲得される>というように特徴づけられる。結局のところ、これが、理性概念の誕生なのである。つまり、望ましいことが、すべての人を確信させるものとして、すべての人に対して現われるようになればなるほど、つまり、すべての人がこの共通のもののうちに自分を再発見するようになればなるほど、それだけ一層人々は積極的な意味で自由を、すなわち、共通のものと真の同一性をもつようになるのである。
    --ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二、座小田豊訳)『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。

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再論:危険な純粋さ 自分にはそぐわないもの、敵対するものを駆逐すること

01_img_0549 anti-pureism;危険な純粋さ

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 人はいかなるときに「野蛮」になるのか?
 自暴自棄になったとき、ではない。自分が何であるかを強烈に意識したときなのだ。そしてそれにはそぐわないもの、敵対するものを駆逐することで自分の属する世界を「浄化」する。それを求める意識の働きを<純粋さへの意志>と呼ぶ。
 まず、自分が属する共同体が「善きもの」であると確信していること。そしてそれ故に「原罪」(=もともと逃れ難い罪を背負っているという意識)を持たないこと。そしてここから「純粋無垢性」が帰結される。このことと、現実の世界の混沌とを重ね合せて考えたとき、次の問いが発せられる。
 「悪はどこからきたのか?」
 もちろん、それは「私たち」に起源をもたない。ではその悪をもたらす相手(敵)を駆除せねばならない。「浄化」することが「わたしたち」の使命なのだ--そういう発想を導くことになる。
 これはいわゆる原理主義のことを差していると受け取られがちだが、フランス革命もロシア革命も、ピューリタン革命も、紅衛兵の時代も、ポルポトの時代も、実はすべてこの論理で動いていたのではなかったか?
    --ベルナール=アンリ・レヴィ(立花英裕訳)『危険な純粋さ』(紀伊国屋書店、1996年)。

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構成は変えておりますが基本的に再論します。
チト、最近この手の問題……すなわち〝純粋〟という意味のはき違えの危険性を多々痛感することが多く2年前に書いたものなのですが、読み直したところ、自分自身の発想にはまったくぶれがないといいますか、ますます危惧を抱くという状況とでもいいますか、ますます危険性への焦燥感のようなものがたちこめておりますので、再掲といいますか再論いたします。

文体もチト変えてみました。
音声優位主義の元祖はソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)にまで辿ることが出来ますが、ここ数年はソクラテス的語りの言語によって言表(écriture)しておりますので、文体は変えてみました。
※西洋形而上学における音声優位主義の問題、このへんは、パロール(parole)、ラング(langue)、エクリチュール(écriture)という述語を使ってデリダ(Jacques Derrida,1930-2004)が議論しており、デリダの議論には極めて首肯する次第ですが、本論とは密接な関係がありませんので、ここではひとまず置きます。

……というわけで延々と前置きをひっぱるのが宇治家参去の宇治家参去たるゆえんですが、読者諸兄はこのヘンで疲れてしまいますので、本論へ移行かと思います。

……というわけで、どうぞ。

anti-pureism;危険な純粋さ

〝純粋さ〟ってやっかいだと思うんです。
たしかに〝純粋〟でありたいとは思うのですが、無邪気な〝純粋さ〟とは、菜の花畑にゆらゆらとゆらぐ蝶を装いながら、ときには、スズメバチの毒針でもって人を刺してしまうことがあるんです。
純粋さという鋭利な刃はどこにむけるべきなのでしょうかねぇ。
他者に向けるべきではなく、他者に仮託すべきでなく、発する自己自身に向けるしかないのかもしれません。

anti-pureism,危険な純粋さ

ここでいう純粋さとは、「○○は△△あるべきだ」とあるべき理想像の主張のことと同定してもらっていいかと思いますが、例えば……、

「クリスチャンはこうあるべし」
     「仏教徒はこうあるべし」
         「ムスリムはこうあるべし」
                    ……等々。

そういうものの言い方ってやつがあるじゃないですか。

そういうものの言い方自体を揶揄しようとするわけではないんですよ。
ですけどね、その言い方が時々、やっかいになるときがあるんですよ。

「○○は△△あるべきだ」という言説自体に罪はないんです。
そう語る当人が「○○は△△あるべきだ」と実践すれば済むことなんです。
その言説を自分自身に向けることで、ソクラテスが語ったとおり、人間がもっとも大切にしなければならない魂の問題へ配慮ができ、錬磨できるというわけです。
そのことには誰も文句はいいません。
否むしろ、文句どころか称讃をうけるかもしれません

宇治家参去が批判したいのは、「純粋さ」そのものへの批判ではありません。

要するにその向け方を問題にしているわけですね。

〝純粋さ〟とは、自分に向ければ、錬磨の糧となるものです。
しかしながら、それを他者に向けてしまうと、危険な刃へと変貌するのではないだろうか……。その辺を危惧する次第です。

とくに、純粋さを他者に強要・夢想・仮託してしまうと暴力性へと転換されてしまう気がして他なりません。

そこがやっかいなんです。

他者との対話のチャンネルがOFFのまま、そして本人が無自覚なまま「△△あるべきなんだ!」っていう部分が出てしまうと、けっこう辛いことが起こってしまうんです。

自分自身がそう思いそれを目指して錬磨するのはいいんです。
ですけど、ほかのひとにもそれを〝目指してもらいたい〟のであれば、無言の強要をしてしまうと、自分も辛いし、相手も辛くなるものではないでしょうか。

強要・夢想・仮託するのではなく、とことん語り合い、合意をめざす対話で納得の上、受け入れてもらう方向へできるだけもっていきたいものだと思います。

「学生はこうあるべし」--実に結構だと思います。
「サラリーマンはこうあるべし」--実に結構だと思います。

しかし、それができない人間も存在しますし、場合によっては、それを受け入れたくない自分自身も存在することもあります。

だからこそ、強要・夢想・仮託ですませてしまうのが怖いんです。

そして、一番問題のは結果としてのシニシズムというヤツでしょうか。
そう「あるべき」なのに「あるべき」でない状況に直面して、〝いかがなものか〟ってマア思うわけですよね。

でもなかなか、そう〝あるべき〟になりません。
なぜなら、強要ではありませんが、対話のチャンネルがありませんので、相手に伝わってもいませんから、〝いかがなものか〟って願っただけですので、結果としてあいては実践しませんわネ。

その結果……。

「なんじゃらホイ」

……そうなってしまう、言い方を変えればシラケてしまう、ひいてしまう、撤退してしまう、これが一番怖いんですヨ。

ではないけれど、そうしないひとびとに対してシニカルになる態度がやっかいなのかもしれない。

例えば……。

「クリスチャンはこうあるべし」と思っているキリスト者Aさんがいたとしませんか。
しかし同じ信仰のBさんは、そのようなあり方を採用していないことってあるんです。
しかし、ふたりの間には、その問題をめぐっての話しあいが一切存在せず、Aさんは「ほんらい、○○あるべし!」って思うわけですが、「どうしてBさんは同じクリスチャンなのにそうしないのか?」ってひとりで、憤る時なんかを想像してください。

このときって、Aさんも、Bさんも“損”してしまうんですよね。
いうなれば、ふたりが同時に“純粋さ”に傷つけられてしまうっていうわけです。

だからこそ、「そう思う」ならば、話しあいをしましょうよ!って思ってしまうんです。

ソクラテスは、対話は〝完結してこそ対話である〟と語ったというそうですが、魂と魂が撃ち合うほどの対話の結末が、全く異なる道になろうと、その両者が、両者の存在をお互いに認めあえるようになれば、血は流れないはずなんです。

有史以来、様々な血が流れてきたわけですけども、純粋さの強要による流血ほど、悲しい・淋しい人類の歴史はないのではないのでしょうか。

民族浄化や前衛理論は歴史的事件ではなく、ひょっとすると日常生活のなかにも形をかえて潜んでいるのではないでしょうか……、そう思われて他なりません。

冒頭に引用した思想家・レヴィ(Bernard‐Henri L´evy,1948-)の言う「純粋さへの意志」とは、異なる集団を認めようとしない野蛮性の指摘です。

指摘ですませずに、それを直視し、考えなければならないことがひとつあるのかもしれません。つまり、他者のなかだけにそれが存在するのではなく、己の生命自体に、巣くう野蛮性(=獣性)もあるということです。それが洗練された言い方の一つのバリエーションとして出てくるのが〝純粋さ〟って言い方であるのだろうと推察されます。

だからこそ、矛盾をはらむ人間自身そのものを、一人一人が真摯に見つめ直さない限り、徹底した純粋化と不断に戦い続けることは不可能なのだろうと思います。

まさに、池波正太郎(1923-1990)先生がくどいほど列挙している点ですが、

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「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
    --池波正太郎「谷中・いろは茶屋」、『鬼平犯科帳 2』文春文庫、2000年。

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……そのあたりなんですよね。

矛盾する生命を直視せずして、矛盾をコントロールすることは不可能だと思います。

以上の通りです。
初出では次のような「追記」を乗せておりました。「追記:すこしつかれているのでしょうかね。思いに導かれ書きましたが、誤解を招くようでしたらすいません。『純粋な“思い”』とか『純粋な“心根”』を揶揄したり、否定したりするのが目的ではありません。ただ、向け方によっては凶器(=狂気)になる、ただそれだけなんですが--」と記しておりますが、その感慨は今なお変わりません。

ま、宇治家参去自体がどちらかといえば、純粋さとほど遠い矛盾の深淵で呻吟しているところもありますし、キャラとして〝ヨゴレ〟ですから、純粋さという言葉に少し賺して見てしまう部分も否定はできませんが、そんなことを最近よくかんがえます。

……つうわけで、飲んで寝ます。

で、まったく関係ありませんが、土曜日に頂いた、初物の駿河湾産〝桜エビ〟は旨かった!

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「智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすること」を気にかけたい昼下がり

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「アテナイ人諸君よ、私は諸君を尊重しかつ親愛する者であるが、しかし諸君に従うよりもむしろいっそう多くの神に従うであろう。そうして私の息と私の力のつづく限り、智慧を愛求したり、諸君に忠告したり、諸君の中のいかなる人に逢っても常に次の如く指摘しつつ、例の私の調子で話しかけたりすることをやめないであろう。『好き友よ、アテナイ人でありながら、もっとも偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名最も高き市の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすることなどについては、少しも気にもかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱だとは思わないのか』と。」そうしてもしその時諸君のうちの誰かが、これに講義して、自分はそれを気にかけていると主張するならば、それでも私はすぐには彼を放さずにまた自分もそこを動かずに、彼に質問し、彼を精査しまた厳しく試問し、そうしてもし彼が徳(アレテー)を持たずして持つと主張すると私が認めたならば、私は、彼は最も貴きものを最も価値なきものと做し、かえって価値少なきものの方を高く評価するといって彼を非難するであろう。私はいやしくも逢う人ごとに、老人にも青年にも、異邦人にも同市民にも、そういう態度をとるであろう。
    --プラトン(久保勉訳)「ソクラテスの弁明」、『ソクラテスの弁明 クリトン』岩波文庫、1964年。

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ソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)は、かの有名なソクラテス裁判……「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落に導いた」として告発された裁判ですが、要するにソクラテスに対する嫉妬から画策された悲劇……において、自己の所信を力強く表明したことで有名です。

人間は何をもっとも大切にしなければならないのでしょうか。
ソクラテスによれば、「智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くする」ことこそ第一義であり、そのことを忘却し、「出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて」血眼になっていた当時のアテナイ人たちを手厳しく批判しました。

ソクラテスは「汝自身を知れ」をモットーにしましたが、その言葉にも見られる通り、人間はもっとも大切な自分自身、すなわち「魂」を問題にしなければならない、そうアテナイ人たちに語りかけたわけですが、その言葉は彼らの胸をうつことがなく、裁判は死刑の宣告をもって終了するわけで・・・、このあたりの消息は現今の状況においても相も変わらぬ悲喜劇として存在しているのかもしれません。

ソクラテスの魂の叫びが2000年の時代を超えて今なお現代のひとびとの心に響くのはここにその理由が存在するのかもしれません。

さて……昨日。
ある学生さんから、お宝を頂戴しました。
ひとつは、桂新堂(愛知県)の海老せんべい。
五月のこどもの日を意匠した「端午の節句」というとてもかわらしいおいしいせんべいです。これは小学校に入学した息子殿へのお祝いでした。

ありがとうございます。

も、ひとつは、日本酒の大好きな宇治家参去に、日本酒(一升瓶)を一本。

ぬわんと! 「庭のうぐいす」(福岡県/合名会社山口酒造場)ですよ!

やさしく爽やかな米香りと繊細な酸味が調和した辛口の味わいで大好きな特別純米酒です。

ありがとうございます!

いや、ほんと、ありがとうございました。

宅急便の荷物を開封しながら、ウ○コのような宇治家参去に対してご進物をわざわざ送ってくださり、①いやぁ~ア申し訳ないナァ、と思うと同時に〝浅はか〟をもって〝うり〟にする宇治家参去ですので、②うれしいのぉ~、とも思ってしまった次第です。

で……。
その様子を眺めていた細君からいつも苦言で手厳しく弾劾される次第です。
要するに、学生さんに対して何かを残すべき……例えば太宰治(1909-1948)場合でした「心と頭に残る〝砂金〟」ということでしょうが……教師が、学生さんに何も残さず=贈らず、学生さんから何かを贈って(=残して)もらって喜んでいるようでは、いったいなにをやっているんだ……という訳でして・・・。

要するに、「教師として恥辱だとは思わないのか!」

とほほのほい。

いや、しかし、うれしいのはうれしいんですよ。
ですから、また何か残すようにがんばります。

ただ、しかし、ソクラテスに糾弾されたアテナイ人のことは嘲り笑うことはできないようですね。

『好き友よ、アテナイ人でありながら、もっとも偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名最も高き市の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得るかぎり善くすることなどについては、少しも気にもかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱だとは思わないのか』

これでは我が家はどちらがソクラテスでクサンティッペ(Xanthippe,生没年不詳、ソクラテスの妻)なのかわかりません。
※ただべつに多量の蓄財もありませんし、名聞や栄誉も念じてはおりませんが(苦笑)。

ソクラテスは、「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」と語ったそうですが、この言葉だけは細君に開封することはできませんね。

ソクラテスが愛情を込めてアテナイ人を弾嘩したように、すぐに〝逸れて〟いってしまう宇治家参去を修正してくれるという意味では、善いわけですからねえ。

ただ、よい妻にせよわるい妻にせよ、ひとはいろいろな人間と向かい合うと〝哲学者になれる〟のかもしれません。

と・も・あ・れ、高価なお菓子と日本酒を贈ってくださいましてありがとうございました。

何度もくりかえしになりますが感謝に堪えません。
この感謝の念を忘れずに、一剣を磨きつついや増して精進して参ろうと思います。

本当に、ありがとうございました。

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旨いもの・酒巡礼記(番外編):埼玉県・川越市編「FRUMENTO MERCATO 小麦市場」、〝鬼の居ぬ間の心の洗濯〟つき

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 欲求を欲望、気まぐれ、空想、悪癖と区別し、糧を珍味や毒と区別する第一の特徴は、欲求に対応する糧に限界があるように欲求にも限界があるということだ。悋薔漢にとって手にする黄金が充分すぎることはない。だがいかなる人間にも、食べられるだけたらふくパンを与えられていれば、もうこれで充分だと思う瞬間がやってくる。糧は満腹をもたらす。魂の糧についても同様である。
    --ヴェイユ(冨原眞弓訳)『根をもつこと』岩波文庫、2010年。

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一応、残して置こうかと思います。
昨日の慶應祭の中盤、ランチに訪れたのが、「FRUMENTO MERCATO 小麦市場」という〝素材の味を生かした【直球イタリアン】〟です。

用件が済んで、本川越へ移動するまえに昼食をとったのがこの銘店です。
間口は狭いのですが、店内は地中海沿いの南欧風の開放的なつくりで、給仕のお兄さん、お姉さんの躾もよく、たのしく時間を過ごさせて戴きました。

とりあえず、昼時でしたので、お肉のランチを頂戴しました。
※お肉の他に、お魚のランチ、ピザ、パスタのランチがそれぞれ数点づつ用意されております。

オープンテラスも用意されておりますが、日差しがきつかったので、店内で頂いた次第です。

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さて……。
気になるお肉のランチですが、その日は、「鹿児島産黒毛豚肩ロースの照焼」です。サラダと焼きたてパン(食べ放題)、珈琲(ドリンク)がついて、ランチとしては1400円とチト高めですが、1400円分は楽しめるシロモノというところでしょうか。

だいたい、黒毛にしてもその他の種類にしても、往々にして豚肉というのは硬くなるわけなのですが、仕込みと焼き具合がちょうどいいのでしょうか……。

豚肉本来の適度な噛みごたえを残しつつ、コクはあるのですがくどくない味付けで、卯月の昼下がりをまったりとたのしませていただきました。

表面はカリッとしつつも、しっとりしたパンの味わいもなかなかで、さすが店名に「小麦」と掲げるだけのことあります。

ご案内してくださったM氏に感謝です。

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で……。
このお店のウリは、ワインなんですワ。
用件も済んでいるので、チトグラスワインぐらいは飲まないとマズイだろう……ってわけで、メニューを物色していたのですが、昨日は却下されてしまいました。

チキショーって店内で叫んで、テーブルをひっくり返すほど昭和ロマンの男でもありませんので、状況を粛々と甘受し、お店を後にした次第です。

ですけど、ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)は「だがいかなる人間にも、食べられるだけたらふくパンを与えられていれば、もうこれで充分だと思う瞬間がやってくる。糧は満腹をもたらす。魂の糧についても同様である」と指摘しましたが、そもそも、燃料としての大人向けの飲料を摂取していないわけですから、〝漢(おとこ)〟宇治家参去このままで「充分だと思う」ヘチマも何もあったものでもありません。

さすがにワインではありませんが、本川越に移動してから、細君どもが「楽」というパンやを物色している間に、待っているかき氷やさんで、ソッコーで缶ビールをぐびりとやった次第です。

これが俗にいう「鬼の居ぬ間の心の洗濯」というヤツです。

……ってしっかりばれましたが、とほほ。

さて……「小麦市場」
チト駅から遠いところですが、大自然の中?で、しっかりと本格イタリアンが手軽に楽しめる隠れ家です。気になる方はどうぞ。

■ FRUMENTO MERCATO 小麦市場
〒350-0821 埼玉県川越市福田59-1
ランチ  11:00~15:00
カフェ  15:00~17:00
ディナー 17:00~22:00(L.O.21:00) 
http://r.gnavi.co.jp/b216800/

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「肉がないのに肉にかける塩をほしがる子供の状況」への挑戦

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 思考の自由について、自由なくして思考は存在しないというのは、おおむね正論である。だが思考が存在しないとき思考はもはや自由ではないというのも、これをうわまわる正論である。この数年、思考の自由はあふれかえっていたが、思考は存在しなかった。肉がないのに肉にかける塩をほしがる子供の状況に似ている。
    --ヴェイユ(冨原眞弓訳)『根をもつこと』岩波文庫、2010年。

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 基本的な「条件」として、枠組みにおける「自由」の問題は看過できないわけですが、枠組みのみが先行し、コンテンツが忘れ去られてしまうと、共倒れしてしまうというのが人間世界の実情でしょうか。

 ですから「条件」の整備だけをはやりの〝仕分け人〟のごとく声高にメディア受けする〝ポーズ〟ですませてしまうことはかなりの違和感のある宇治家参去です。
※1.2010年04月23日日本テレビ系列の18時のニュースの特集で、例えば蓮舫女史(1967-)を筆頭与力とする仕分けの追跡特集がありましたが、要するに仕分けが目的ではなく、支持率の鳩山政権の目をくらますために、仕分けでまぎらわせてしまおうって戦略が報道されておりましたが、なんだかな~って感じです。
※2.もひとつ、指摘するならば入れ子構造のごとく、それをまた〝客観性〟の〝美徳〟のまま、安全地帯から報道する姿勢にもなんだかな~って感じです。

 ずれこみましたのでもどります。

で、、、要するに、本日はKO……ぞくに〝低脳未熟〟と揶揄されますが……で埼玉を盛り上げてやろうゼってことで1カ所だけでしたが、細君および、埼玉在住の大学の同期の桜のM倉夫妻と、埼玉盛り上げKOツアーを刊行させていただきました。

ヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)の指摘のとおり「肉がないのに肉にかける塩をほしがる子供の状況」ほど〝つまらねえ〟ことはありませんので、内実をつくる戦いをするべという次第です。

詳細は置きますが、とりあえず目当て1カ所へ訪問、用件をすませてから、郊外のちょいとこぢゃれたイタリアンにてランチ。

一服してから、NHKの連続テレビ小説「つばさ」(2009年上半期)の舞台で有名な埼玉県・川越市を観光させて戴いた次第です。

自宅から30分のところに情緒残る街並みがあったんだよなア~と思いつつ、小さな子供抱えた夫婦二組には過酷な観光?となりました、いい思い出となりました。

16時過ぎに帰宅してから、もうパワーが残っておりませんでしたので、そうそうに宇治家参去一家御用達の鮨やにてはやめになりますが〆の祝宴!

今日は早めに沈没いたします。

ただしかし、M倉ご夫妻、と宇治家参去一家、状況が同じなんです。
細君同士、亭主同士がそれぞれの大学の同期でして、、、お互いに〝逃げられない〟状況というのが……、かえって「根をもつ」うえでは確かな契機となっていることだけは否定できません。

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「つきあわなければならない人びとがあり、両親と祖国と親族を愛し、友人と交わり、また、生きていくために便利なことがたくさんあり、病気の治療法もその他のこともいくらでもある」のですが……

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 私たちは自分を完全に忘れることができるこの異郷の地へ連れてきていただいた神のご恩を深く感じます。ここでは万事が異教徒とまことの宗教に敵対する者の掌中にあるので、私たちは神を信じ神のご加護に頼むほか何もできません。主キリストの宗教が繁栄しているヨーロッパの本国では、つきあわなければならない人びとがあり、両親と祖国と親族を愛し、友人と交わり、また、生きていくために便利なことがたくさんあり、病気の治療法もその他のこともいくらでもあるので、神にだけすべての望みをかける必要は全然ないのですが、私たちのように故郷を遠く離れ、見ず知らずの人びとの中で、保護者もなく、財産もなく、無一文で生きていく者は神にすがる以外に何もできないのです。神から無上の恩恵を賜っていることを考えるにつけても私たちは恥ずかしくなり、自責の念にかられます。
 神がどれほどよい方かを私たちはまのあたりにする思いがします。聖教を広めるためにこの地へ来たとき、私たちは最初のうち神に対して適当なご恩返しをしているのだと思っていました。ところで今になってわかったのは、私たちは神から特別の恵みを頂いたのだということです。神は私たちを日本へお連れになって、神にすべての希望を託すために妨げとなるわなのような事物に決してとらわれないようにしてくださいました。
    --ピーター・ミルワード(松本たま訳)『ザビエルの見た日本』講談社学術文庫、1998年。

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どうも宇治家参去です。
フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier,1506-1552)ばりに、異教の地へひとり赴きたいと思うのですが、それは福音の宣教のためではないところですので、チト、ザビエルさんには申し訳が立たないわけなのですが……、「神にだけすべての望みをかける必要は全然ない」ことがない世界へと旅立ちたいと思うのは同感です。

何のために旅立ちたいのかと誰何されるならば、①がっつり休みたい、②休む乃至は仕事をするうえで、誰にも妨げられたくない! というわけですが、生活から離れて実存することは不可能ですので、そうした異教の異郷へと旅立つことはどうやら不可能なようでした。

本日は、足かけ13日ぶりに休みとなったのですが、夕方に発送しなければならない原稿が完成しておらず、……トホホのホということで、珍しく朝から起きて机に向かっておりましたが、これまた珍しいことに、息子殿も調子が悪く……たぶん気圧の変化の影響……学校を休んでおりましたので、危険なにおいを感じつつ、頭を悩ませていたわけですけれども、昼食をすませると、細君から、昼から保護者説明会とPTAがあるので、息子殿をよろしく頼む、という話で、、、

いゃ~ア、「頼むといわれましても・・・」

……というのが正直なところなのですが、

「要するに締切ぎりぎりまで手を付けなかった自分が悪いのでしょう」

……と模範解答を提示されてしまいますと、応答の使用もありませんので、

①頭をひねる(=智慧を沸かす)→②入力する→③子供と遊ぶ→再び①へ

……という極めて生産性の低い一日を送ってしまいました。

せっかくの休みでしたがガックシというところです。ま、自分の蒔いた種であることにはかわりませんので、「何も言えなくて・・・」黄昏って感じです。

ともあれ、なんとか締切ぎりぎりには仕事を済ませましたが、そのころには息子殿もさらに元気になっておりましたので、夕食後もひきつづき、その応対というわけで、この時間です。

何かをやろうという気にはなれませんので、まったりと直接学問の仕事に関係しない本でもゆっくりと飲みながら目をとおし、早めに沈没しようかと思います。

ザビエルの独白ではありませんが、ヨーロッパだけでなく、この現代日本も、まさに「つきあわなければならない人びとがあり、両親と祖国と親族を愛し、友人と交わり、また、生きていくために便利なことがたくさんあり、病気の治療法もその他のこともいくらでもあるので、神にだけすべての望みをかける必要は全然ない」のですが、そういうものがない分、かえってうまく時間をつくっていかないと知らず知らずのうちに「流れていく」ものですね。

「神から無上の恩恵を賜っていることを考えるにつけても私たちは恥ずかしくなり、自責の念にかられます」というものでございます。

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牛丼 、「それが今までに一度も国語の中に登録されたことがないものだ」、 デリダ

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実際すぐに気づくことだが、プシュケ〔魂、精神〕という概念のただ一つの中核は、それが意識という形で作られていようがいまいが、自己への関係としての生なのである。だから「生きる」ということは、還元に先立つもの、還元が現出させるあらゆる分割を結局のところ免れるものの名前なのである。なにしろ「生きる」ことは、自分自身の分割であり、自己自身を他方のものに対立させることだからである。したがって、「生きる」ことをこのように規定したことによって、われわれは言述(ディスクール)という手段の不安定さを、つまりまさしく言述がもはやニュアンスの中でみずからの可能性と厳密さを確固たるものにすることができないような点を名ざしたことになる。このとき生という概念は、日常生活や生命科学の言語における前(プレ)-超越論的な素朴さの審級(アンスタンス)ではもはやないような審級において捉え直されるのである。しかし生のこの超(ウルトラ)-超越論的概念が、なお生(日常的な意味であるいは生物学的な意味で)を思わせるものだとすれば、またそれが今までに一度も国語の中に登録されたことがないものだとすれば、たぶん別の名が必要になるかもしれない。
    --ジャック・デリダ(林好雄訳)『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年。

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昨日は、初夏を思わせるような一日でしたが、うってかわって本日は初冬を思わせる肌寒さの東京です。

人間という存在は言葉によって言表される規定によってのみ規定されるだけでなく、すべてのもの……たとえば暑い・寒い……から、その存在を規定されることをまさに身体を通して実感するわけですけれども、目下焦眉の問題は、

「冬物のコートをクリーニング出して仕舞うのはいつか」

……というアポリアを抱えるのは宇治家参去一人ではあるまいと思うところです。

ともあれ、夕方から市井の仕事ですが、本日は上着を羽織らずには出勤できないようで、そこに面倒を感じるわけではありますが、様々な状況を顧慮せず、言表にのみ即し、存在によってのみ根拠をおく存在としての人間というのもアリエナイし、特定の概念にのみ還元されてゆく存在としての人間というのもアリエナイし、「さあ、どこに人間が存在するのか」などとフト思いつつも、その問いを発している宇治家参去自身が「まあ、ひとつの人間の事例なんだよな」などと思いつつ、想念がぐるぐると頭をかけめぐるというところです。

現象規定専従でもなく、概念規定専従でもないやり方で「人間とは何か」そして「生きる」とは何かを考察する必要がありそうです。

だからちょいと「まあ、そんなものなんだよな」っていうドクサを定期的に意識的に破壊してやる必要があるのかもしれません。ソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)は当時のギリシア人からうっとうしいヤツということで「虻」と表現されましたが、「虻」ほどのそれはしませんけれども、ちょいと刺激あたえてみよう!

……つうことで、久しぶりに、吉野家の牛丼を戴いこうというものです。

この手のJapanese first foodを連日やりますと、ご存じの通り、「飽きる」を通りこして、「うぇっぷ、もう食べたくねえや」ってなってしまう部分が多いのですが、月にいっぺんぐらいでしょうか、たま~にやりますと、

「なかなか、どうして」

……ってなってしまうのがどうも不思議なものです。
濃い目の味付けが疲れた体躯に染み込んでくるというところでしょうか。
ただし、その滋養が染み込んでくるのを実感すると同時に、

「やはり、これを連日ヤルのも堪えますなあ」

……とも思いますので、食の味わいひとつとってみましても、ひとつの感慨が対他的・排他的に自存しているのではなく、むしろ多種多様な実感がふかく絡み合ったような状況で、感慨を形成しているのではないだろうか、そんな気がしてしまいます。

「読む」とは何か、そして「書く」とは何かを徹底的に考察したのがジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の『声と現象』(La Voix et le phenomene: introduction au problème du signe dans la phénoménologie de Husserl,1967)ですが、「生という概念は、日常生活や生命科学の言語における前(プレ)-超越論的な素朴さの審級(アンスタンス)ではもはやないような審級において捉え直される」という言葉と吉野家の味わいをかみしめつつ、その現実をどのように表現すればよいのか悩む食事のひとときです。

ただしかし、うまく表現できない部分があることは確かですので、あまりデリダは好きではありませんが、それでもなお、「それが今までに一度も国語の中に登録されたことがないものだ」というのには深く同意する次第です。

まさにこれが「言述(ディスクール)という手段の不安定」というところでしょうか。

ただ、これからこの雨のなか、仕事へ行くのがチトだるいということは否定できません。

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「インクから手を離しても、インクは手にこびりつく」あたり、「こびりついて離れない世界と関わり合う仕方」で

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いずれもつかの間のことではあったがいくたびか哲学の歴史は、極度の若さとでもいったもののなかで、存在することと絶縁せる主体性をかいま見た。プラトンにおける存在なき<一>から、内在のうちで超越者たるフッサール的純粋<自我>に至るまで、哲学史は実在からの形而上学的剥離を認めてきた。ただし、存在からの形而上学的剥離が認められるや否や、この逸脱は<語られたこと>によって裏切られ、託宣のごとき断定のうちに組み込まれる。かくして存在からの逸脱は、存在すること、運命の手に戻され、再び存在することの規則に縛られ、背面世界に導くことしかない。何よりも、ニーチェの語る人間がそうだろう。フッサールのいう超越論的還元をおこなうには、括弧入れだけで十分であろうか。インクから手を離しても、インクは手にこびりつく。括弧入れは、このインクと同様こびりついて離れない世界と関わり合う仕方、一つの書き方なのだが、超越論的還元をおこなうには、こうした括弧入れだけで十分であろうか。十分ではない。そのためには、ニーチェの詩的エクリチュールのニヒリズムにまで至らなければならない。このニヒリズムは不可逆的時間を渦巻きに転じる。哲学を拒む哄笑にまで至らなければならないのだ。しかし哲学者は、哲学史における言語の誤用のうちに言語を再び見いだす。語りえないもの、存在の彼方を私たちの面前に翻訳するような言語のうちに。いずれにせよ、否定性は依然として存在と相関関係にあり、それゆえ、存在とは他なるものを意味づけるには不十分である。

    −−E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。

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さて本日は、千葉の短大での第2回目の講義。先週ガイダンスの参加は2名でして……

アリエナイと思いつつ、前期の授業は時間割の関係でほとんど履修できる学生がいないのではと3月末にいわれていた事態が到来したという寸法です。

ただ教職だとか保育園だとか幼稚園の先生を目指す人間には「倫理」が必要だろう!という事務方の判断で、通常なら「四名以下不開講」というわけですが、

「先生がよろしければやっていただけませんか」

……というわけで本日2回目の講義というわけで2時間弱の通勤時間をかけて本日も楽しく出発させていただきました。

ただ4/9(金)に休んだのが最後で、福岡出張をはさんで休みなしという過酷なロードレースの最中でしたが、なんとか昨夜の深夜に準備を完了し、本日の授業に参加という次第です。 さて大学へ到着しますと、教室の変更(大教室⇒ゼミ室)へお願いし、状況を確認したところ、

前回参加した学生さんのうち、一名は本日風邪でお休みということでして、、、

はい!

「一対一」 ……という真剣勝負!

と相成った次第です。

一名休んでおりましたので、教材にそって進めすぎても難ですので、ざっくばらんに話ながら、倫理学とは何ぞやという部分を、巌流島における剣客同士の真剣勝負のごとく、お話ししたわけですが、、、 まあ、倫理学とは「人間とは何ぞや」という問いをめぐり探究する学問なわけですが、存在論に重きを置く哲学とはことなり、存在を規定するエクリチュールの探究とは様相が異なる学問であり、どちらかといえば、多様な人間存在の現実に驚嘆し、生きている世界で人間を深めていく学問ですので、少人数の方がやりやすいことは承知なのですが、

はい! 「一対一」とは初めてです。

100名オーヴァーの授業は何度も経験があります。

10数名というのもよく経験します。

また4名というのもありますが、、、1名というのは実に初めてです。

もはやゼミというよりも、大学院の博士課程の研究室のようではないか!と思わざるをえませんが、とわいえ、こうした驚愕と学生さんとの共学により「人間とは何か」という根源的探究が遂行できるというのであれば大変貴重な時間ではないか……と思われます。

いや~あ、しかし、睡眠不足の問題もありきつかったですが有意義な時間でございました。

現在、中央線の中ですが、これから市井の仕事です。

現象学者フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)は、ものごとをいったんカッコにいれて、それから対象をとらえなおす手法を導入しましたが、それだけでもだめなのかもしれませんねえ。

レヴィナス先生(Emmanuel Lévinas,1906-1995)がいうとおりです。

「括弧入れだけで十分であろうか。インクから手を離しても、インクは手にこびりつく。括弧入れは、このインクと同様こびりついて離れない世界と関わり合う仕方、一つの書き方なのだが、超越論的還元をおこなうには、こうした括弧入れだけで十分であろうか。十分ではない。」 ですので少ないメンバーですが、人間の定義先にありきではなく、「インクから手を離しても、インクは手にこびりつく」あたり、「こびりついて離れない世界と関わり合う仕方」でも探究してみようかと思います。

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存在の彼方ヘ (講談社学術文庫) Book 存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

著者:エマニュエル・レヴィナス
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旨いもの・酒巡礼記:福岡県・福岡市編「角打萬坊(福岡空港内)」、〝こんなことが旅の楽しみであろうかと寛〟げます。

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 ゆうべ意伯はしばらくやめていた酒を飲み、旅の気儘さからか彼女にもすすめた。長い憂鬱からの解放感もあったろう。祝言のときに口をつけただけで酒の味を知らない万は夫の囁(ささや)きに驚いたが、恐る恐る飲んでみると案外な旨さであった。味をしめた彼女は二口目をためらわなかったし、こんなことが旅の楽しみであろうかと寛いでいた。
 意伯は夕餉のためにわざわざ料理屋を探して、彼なりに妻を慰労したようである。宿の食事は癖のない据え膳らしく、我儘が言えない。旅のはじめに料理屋で味わう土地の味は、万には一生の贅沢であった。海辺のそれはどれも野趣に溢れて、中でも時季のカツオが絶品であった。厚い刺身はねっとりとして舌を蕩(とろ)かし、骨ごと輪切りにして甘辛く煮付けた切り身は豪快であった。
    --乙川優三郎「旅の陽差し」、『むこうだんばら亭』新潮文庫、平成十九年。

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〝声なき声〟を〝声〟にかえ、〝音なき音〟に〝音〟を与える現代の時代小説家の一人こそ、乙川 優三郎氏(1953-)ではないかとひそかに思う宇治家参去です。

たくましく生きるひとを厳しくも慈愛あふれる筆致に描くのがその真骨頂ですが、上述した作中の人物・高崎藩藩医の意伯のように酒をしばらく「やめていた」わけでもありませんので、旅空の「気儘」なときであれ、何であれ、飲めるときには口する次第ではございますが、旅先でのいっぺえ、というヤツは何にもまして格別です。

ですからその締めとなる、最後の一杯は、丁寧に戴くようにしております。
そのために、用事が済んでから、帰りのフライト前にはすこし余裕をもちたく、すこしだけ遅らせ目の飛行機やら新幹線にしております。

すべてが済んでから、東京の現実生活世界へ帰還する前に、いうなれば、ひとつの儀式のように、最後にひとりで飲む一杯というのは、何にもまして格別です。

まさに、意伯の佳人・万(まん)が、「味をしめた彼女は二口目をためらわなかったし、こんなことが旅の楽しみであろうかと寛いでいた」と表現しておりますが、こうした場合、「二口目をためらう」のは花鳥風月を解さない野暮の骨頂ですから、そうならないようにも店は選ぶというわけですが、、、

今回は、〝呼子イカ〟で有名で、〝イカシューマイ〟発祥の店・海中魚処「萬坊」の福岡空港内の「角打萬坊店」を利用させて戴いた次第です。

……と書きますと、何度も利用していて「よく知っている」と思われそうですがそうではありません。利用は2回目で、開店した翌年、最初のスクーリング講義が済んでから、学生さんに誘われて最後の祝杯を挙げたのがこちらの「萬坊」になります。

肴に関しては絶品であることは言うを待たないわけですが、それ以上に、本格焼酎のラインナップがハンパ無く、通には〝めっけもの〟というような焼酎道場なお店です。その折は、おすすめの芋焼酎で最後の乾杯を仕上げましたが、今回はビール+日本酒で示した次第です。

さて、余裕はもって空港には到着しましたが、その日は保安検査場が大混雑してい、ゆっくりと腰を据えるというほど余裕もありませんでしたので、よくある晩酌セットで〝ひとり慰労会〟〝宇治家参去、今回はよくがんばった、自分でほめてあげましょう会〟の火ぶたを切らせて戴きました。

生ビール(グラス)ないしは焼酎に、刺身(二点盛)、日替わりの小鉢、イカシューマイのセットの「角打セット」がそれですが、グラスビールなどというものは、お冷やのようなものですから、コンマ数秒で蒸発してしまいましたので、すかさずキリンの「ブラウマイスター」をオーダーして待つことしばしば。

木目も新しい四方と丸蒸籠が手もとに運ばれてきました!

ハイ、これが「角打セット」というやつです。

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刺身はぶりに鯛。
ぶりの脂ののり具合がほどよく、鯛はサッパリしているのですが、甘い味わいでございまして……、まさに「厚い刺身はねっとりとして舌を蕩(とろ)かし」てしまうというものです。

日替わりの小鉢は、「鯛の煮付け」になりますが、味付けは薄味なのですが、薄い味付けがかえって鯛の旨みを引き出してしまうものですから、ぱくぱくと口へと運ぶわけなのですが、それでいて添えられた菜の花がほのかに春の息吹を運んでくれるものですから・・・

酒が進むという訳です。
キリンの「ブラウマイスター」はジョッキで頂戴しましたが、これも1分たらずで底がみえはじめておりましたので、

そろそろ……、、

……というわけで、日本酒をオーダーです。
扱う銘柄は本格焼酎に及ぶほど多くはないのですが、それでも九州の銘品を揃えてはおりますので、呼子イカで有名な佐賀の銘酒「東一(あずまいち)」(五町田酒造株式会社)を頼みましたが、上品な旨みと香りが、鰤と鯛と鮮烈なハーモニーを奏でるというわけで、一押しの「イカシューマイ」に箸を付けると、

「これがイカ? でもこれはイカ?」

……などと嬉しくなって頭を抱えた次第です。

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さて……。
出発時間は決まっておりますので、ぼんやりとやっているわけにもいきません。

そこで、前日、『海物』本店でいっぺえやって〝目を剥いた〟「庭のうぐいす」(合名会社山口酒造場・福岡県)があるものですから、お兄さんにお願いすると、ちょうど封を切った一升瓶がなかったので、新しいやつの封をきっていただき、グラスに注いで戴いた次第ですが、

気分はまさに菅原道真(845-903)というものです。

道真公は『拾遺和歌集』のなかで「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて  春を忘るな」と詠んだそうですが、梅の「におひ」だけでなく、その梅の木にとまった「庭のうぐいす」の音色までつたわってくるような……、そんな思いに浸らせてくれる特別純米酒!

ラベルには「うぐいす」の姿が中央に刻印されておりますが、中央に「うぐいす」が刻印されているように調和のとれた銘酒です。やさしく爽やかな米の持つ香味と繊細な酸味が調和して、辛口との触れ込みながらも、やさしい味わいとでもいえばいいのでしょうか。

薫製セットの鶏のササミと卵との調和もおどろくほどよく、時間にしては短い時間ですが、優雅なひとときをすごさせて戴いた次第です。

福岡へ赴いた折は、〝詣でなければならない〟大切な〝男の隠れ家〟ですね。

また寄らせて戴きます。

場所柄、長居するような処ではございませんが、いいものをさくっとつまんで、現実へと帰る一歩手前で〝鋭気を養う〟ことのできる名店ではないでしょうか。そう思われて他なりません。

いやはや、ありがとうございました。

〝こんなことが旅の楽しみであろうかと寛〟げます。

■角打萬坊(福岡空港内)
福岡市博多区下臼井767-1 福岡空港第2ターミナルビル3F レストラン街
TEL:092-626-5851
営業時間 10:00~21:00
(ラストオーダー20:30)

 むこうだんばら亭 むこうだんばら亭
販売元:セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ)
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常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって

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ここに二つの物がある、それは――我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である。私は、この二物を暗黒のなかに閉されたものとして、あるいは超越的なもののうちに隠されたものとして、私の視界のそとに求め、もしくはただ単に推測することを要しない。私は、現にこれを目のあたりに見、この二物のいずれをも、私の実在の意識にそのままじかに連結することができるのである。
    --カント(波多野精一ほか訳)『実践理性批判』岩波文庫、1999年。

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カント(Immanuel Kant,1724-1804)の専門家ではありませんが、倫理学を担当しているおかげでカントの哲学を定期的に再読できるということは実にありがたいなと思う宇治家参去です。

カントの哲学は難解だといわれますが、再読するたびに、難解というのはどうなのでしょうか……ねぇ、、、なんて思ってしまうことが多々あります。

言葉が難解というよりも、むしろ、言葉と人間の存在に対して、誠実に真摯に探求した努力の積み重ねがそびえ立っている……そう表現した方が精確なのではないでしょうか……そんなことをフト思う昨今です。

さて……。
金曜日から福岡市へ2泊3日で出張しておりましたが、さきほど無事に帰宅しました。

まずは、ウ○コのような宇治家参去の授業を、真剣に受講してくださった9名の学生さんの皆様、まずもってありがとうございました。

ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)の畢生の大著『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャ・カラマーゾフの言葉を借りるならば、次の通りでしょう。

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みなさん、ぼくはきみたちに約束します。みなさんのだれ一人、忘れることはありません。いま、こうしてぼくを見ている一人ひとりの顔を、たとえ、三十年たっても思い出します。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟 5』光文社文庫、2007年。

-----

くさいセリフですが、正直な言葉です。
なにしろ、〝カラマーゾフ〟の血の流れる宇治家参去の偽らざる信条の吐露といってよいでしょうから。

ほんとうに、〝蚊〟ほどの〝価値〟もないシャイでナイーヴでチキン野郎である宇治家参去のスクーリング講義を2日間、眠ることもなく真剣に聞き続けてくれた皆様のご厚情には、本当に感謝に堪えません。

くどいようですが、

ありがとうございました。

学生さんに対する、この〝感謝の念〟を喪失してしまった瞬間に、人間としての存在価値、そして「人間の学としての倫理学」の存在価値というものが木っ端みじんに砕け散ってしまうわけですから、そのこころをわすれないように、また今日から一日一日を真剣に生きていきたいと思います。

だからこそ、「みなさん、ぼくはきみたちに約束」するんです。

「みんさんのだれ一人、忘れることはありません。いま、こうしてぼくを見ている一人ひとりの顔を、たとえ、三十年たっても思い出します」

……のです。

ですから、ハイ、講義の余韻の残っているウチに、レポートをだしましょう!

……って、また、それかいナ!

……ってツッコミはご容赦を。

すいません。
脱線しました。

くどいようですが、

ありがとうございました。

宇治家参去が通信教育部の原点の地(=はじめて地方スクーリングで講義をした都市)にて、貴重なひとときをすごさせていただきましたが、またあたらしい決意と出発の貴重な経験となりました。

くどいようですが、

ありがとうございました。

さて……、
カントは、わが内なる道徳律と、わが外なる天空に輝く星空に対して「感嘆と畏敬の念」を抱いたわけですが、宇治家参去も、わが内なる道徳律と、わが外なる天空に輝く星空に対して「さて、カントは、わが内なる道徳律と、わが外なる天空に輝く星空に対して「感嘆と畏敬の念」を抱いてしまうわけですが、それとどうじに、

たった十数時間の短い間だったかもしれませんが、参加してくださった「学生さんの皆さん」と、こうした得難い教室で教鞭を執らせて戴く機会を与えてくださった「創立者」に「感嘆と畏敬の念」を抱いてしまいます。

だからこそ、畳の上での水泳の練習ではなく、現実の「倫理学」の教室で共々に成長していきましょう!

……そう思う次第です。

と・も・か・く。。。

いずれにしまして、ありがとうございました。

宇治家参去は「嬉しい」んぢゃ。

ありがとう、福岡スクーリング。

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福岡 二日目の朝

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どうも宇治家参去です。

昨日は18時に授業を終えると、そのまま第二部?ということで21時まで少々、学生さんたちと懇談。

ホテルへ戻ると爆死しておりました。

9時間ほど寝たのですが……。

疲れがとれませんねえ。

2日目の授業も全力でがんばります。

福岡より。

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福岡初日

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昨夜は3年前に訪問した「海物」の本店にて、いい一日を過ごさせていただき、ホテルへもどってからは快眠させていただきました。

酒がのこっていることもなく、ひさしぶりに快眠・すっきり起床です。

福岡は晴天です。

これからスクーリング会場へ向け出発!

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羽田 で レポート

Img_0328 どうも宇治家参去です。

これから福岡へ出発いたします。

22日〆切のレポートがあと12通のこっております。
今、羽田空港のラウンジです。
うんよく、搭乗口近くのラウンジでラッキーと思いつつ、出発までレポート添削している最中です。

ぎりぎりまでちとがんばろうかと思います。

しかし、仕事の組み立てがうまくないな~と思いつつ、そこに宇治家参去の宇治家参去たるゆえんがあるのかもしれません。

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はしご蕎麦

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昔から禁酒令が、もっと有毒なしろものを作り出すいとぐちになったように、理論的想像力の閉塞は、政治的狂気を下ごしらえする。
    --ホルクハイマー、アドルノ(徳永恂訳)『啓蒙の弁証法』岩波書店、2007年。

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現代の問題の翠点がどこにあるのか……と問うた場合、「想像力」にあるのかもしれません。

古くはサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)が現象学的アプローチから『想像力の問題』(L'Imaginaire,1940)で議論したとおりですし、近くはアイヒマン裁判を傍聴したH.アーレント(Hannah Arendt,1906-1975)が『イェルサレムのアイヒマン』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil,1963)で「他人と言葉に対する想像力の欠如」と指摘した部分に、問題が存在するのでしょう。

「そうするとどうなるのか」

単純な問題なのですが、それをキチンと整理しないとトンデモナイことになってしまうのかもしれません。

同じようなことをフランクフルト学派のホルクハイマー(Max Horkheimer,1895-1973)とアドルノ(Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno,1903-1969)が共著『啓蒙の弁証法』の中で、ぼそっとつぶやいておりましたので先に引用した次第です。
※ちなみの蛇足ですが、アーレントはアドルノに対してかなりの嫌悪を抱いていたようですが、想像力の問題に関しては同じ知見を提示しているというのはオモシロイところです。

さて……水曜日は予見されていた如くキツイ一日でありました。

前日が授業。
翌日の水曜が授業。
その授業が済みますとそのまんま市井の仕事!

……というフルコースでしたので、いやはや飯を食べる暇もないというヤツです。

久しぶりですが、駅蕎麦のはしごなんてやっちゃいました。
昼食が乗り換え前に千葉にて駅蕎麦(ただしまずかった!)
夕食が乗り換え前に西船橋にて駅蕎麦(こっちはなかなか!)

……という状況です。

ただ蕎麦はアルコール人間には効果的に作用しますので、マア、それはそれでよかったのだろうということにしますが、さすがに、鉄人……もとい哲人・宇治家参去にしましてもキツイ一日でしたので、今日はそろそろ沈没しようかと思います。

本来であれば、想像力をフルに回転させて、世の中、そして思想と、そしてひとびとと対話すべきなのでしょうが……、今日は早めに沈没しようかと思います。

……というわけで、お休みなさいお月様。

あづ……、ひとつ忘れていました。
今日はサルトルの命日です。
偉大な人物なのでしょうが、なかなか好きにはなれない哲学者の一人です。
こちらが青臭いのか、相手が青臭いのか、まだまだ峻別できないという意味では、まだまだ挑戦すべき哲学者の一人かもしれません。

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「驚異(タウマイゼン)の情(こころ)」

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実にその驚異(タウマイゼン)の情(こころ)こそ智を愛し求める者の情なのだからね。つまり、求智(哲学)の始まりはこれよりほかにはないのだ。
    --プラトン(田中美知太郎訳)『テアイテトス』岩波文庫、1966年。

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どうも宇治家参去です。
眠いです……が、がんばります。

火曜になんとか! 哲学の第二講義を終えました。

ぐったりと疲れましたが、心は春風のごとくここちよい具合です。

哲学とは、フィロソフィアというギリシア語に由来しますが、これは、「~を愛する」というフィロと、「智慧」を意味するソフィアによる合成語です。

要するに哲学とは、「智慧を愛する」学問というわけです。

その意味では、教室とか教材とか限定されず、人はどこからでも「哲学する」=「智慧を愛する」ことが可能です。

では、どこからひとびとは「智慧を愛する」ようになるのでしょうか。

すなわち、それは対象に対して「驚いた」ときなんですね。

何かに「驚く」からこそ、「それはなんやねん」となるわけです。

そこから「それ」に対する探求が始まるという寸法です。

ですから、S短大での授業では、「智慧を愛する」をテーマにしたレポートを学期末に提出するようにしておりますが、それは、、、

「みなさん、自分が一番関心があることってなにかありますよね。まあ、この場合一番でなくてもいいですが、それをちょっと探求してみませんか?」

……ってことで、こちらから議題をふるわけではなく、ひとりひとりに、自分が深めたいことを「調べて」「書き」「発信(=レポート化)」する課題を貸しております。

それをガイダンスで紹介するわけですが(第二講義でも第一講義を履修していないひとがいるので、ちょいとフォローをしますが)、、、

結構、「レポートあるよん」

……ってやりますと、

「うぇ~ん」

……ってなってしまうパターンが多いのですが、

学生さんからのリアクションペーパー(授業感想)を読み直しておりますと、存外に、

「さっそくレポートの調査はじめました」
「レポートが楽しみです」

……っていうのが、おおく、、

まさに「驚異(タウマイゼン)の情(こころ)」を抱いてしまった宇治家参去です。

7月までの短い期間ですが、お互いに充実した教室にして参りたい、そう決意した一日です。

さて……。
ハイ、ひとつの授業は終わりましたが、明日から……もとい、本日から、千葉のT短大にて今度は「倫理学」の講義です。

さきほど、ようやくパワーポイントが完成しました。

……ってことで、またまた気を引き締め直して挑戦の日々、の開始です。

この初回の講義が済みますと、週末は福岡にて通信教育部の「倫理学」の講義です。

ぶっちゃけ、GWの折り、法事で実家へ帰省する以外に、なんとなく休日がなさそうなのですが、なんとか、やっつけていこうと思います。

去年の自分よりも今年の自分に関して、まさに「驚異(タウマイゼン)の情(こころ)」を明年いだきたいものですので、チト、エンジンにハイオクガソリンを注入しようかと思います。

つう、わけで、本日はハンブルクの「Holsten Premium」でもやりましょうか。

800年の歴史を誇る本格的ドイツビールなのですが、こういうものも輸入されているものなんですねえ。

まさに「驚異(タウマイゼン)の情(こころ)」がフル回転でございます。
「ビール純粋令」に準拠して大麦、ホップ、水のみで製造されているビールなわけですが、そのおかげで、風味とコクが素晴らしいです。

ま、あまり飲み過ぎずに、本日の授業を最高のものにしてまいろうかと思います。

最後ですが……

そうそう、

昼食を学食でやりましたが、日替わりメニューの「鯖の唐揚げ・きのこの餡かけそーす和え」なかなかでございました。

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最近、ふと思うのが、人間は人間以上でもないし、人間以下の存在でもないということです

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時間と思索の余裕がないので何も引用しませんが(スンマセン)、、、なにしろ来週の金曜まで休みがいなんです、スイマセン。

最近、ふと思うのが、人間は人間以上でもないし、人間以下の存在でもないということです。

それを過剰に演出するシステムというものは以上にも以下にも過分に存在するわけですが、そうした有象無象をのりこえて、人間そのものにアプローチしていくことが、いまさらながら必要なわけですね。

……つうことで、orionビールでも飲んでねます。

一昨日が汗ばむ陽気でしたので沖縄ビールって思ったのですが、一転して本日は冷気ただよう「知床旅情」!

こういうミスマッチもマア、それはそれでいいのでしょうか……ねぇ。

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「與へられた不可解のものをより明瞭なものによつて理解する」練習

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4 世界観の形成法則
 大いなる印象はいずれも、夫々の側面から人に生を示す。かくて世界は一の新しき照明の内に入り来る。かかる経験が繰り返され結合されることによつて、生に対する吾々の気分が生ずる。感情的な人々または思索的な人々に於ては一定の生関係から生の全体が着色され、解釈される。即ち一般的生活気分が生ずる。この気分は、生が人に新しき相を示すに従つて変ずる。しかし、各個人はその個性に応じて夫々一定の生活気分をもつてゐる。或者は魅惑強き感覚的事物に執着し、さうしてその日その日を享楽の中に過してゆく。他の者は、偶然と運命の只中にあつて、彼等の存在に永遠性を與へる偉大な目的を追求する。また己が愛するものとか、所有するものの滅び易きことに耐へ切れず、従つて生を価値なく空虚と夢幻とで織りなされてゐるものと観ずるに至り、或ひはかかる現世を越えて何か常住のものを求めんとする様な性質の人がある。大いなる生活気分の中でも最も包括的なものは、楽天観と厭世観である。それらはしかしさらに様々の色合に分たれる。かくて世界は、それを傍観者として眺める人にはよそよそしくみえ、変転万化の観せ物として映る。これに反して、ある生活計画に従つて秩序よく自分の生活を導いてゆく人には、同じ世界が親しく気楽なものとなつてくる。彼は世界の内にしつかりと立つてをり、世界の一員である。
 これらの生活気分、世界に対する態度の無数の色合が、諸々の世界観の形成に対する底層をなしてゐる。次に世界観に於ては、世界に対する各個人の様々な基礎であるところの諸生活経験をもととして世界の謎の解決の試みがなされる。ところでこれらの解決の試みの高級な形式の中でも殊に一つの方法を特筆せねばならぬ。即ち、與へられた不可解のものをより明瞭なものによつて理解するといふことがこれである。明瞭なものが不可解のものの理解の手段、または説明の根拠となる。科学は分析し、さうしてかく分析された諸々の等質的な事実からそっれらの問いの普遍的関係を展開する。ところが宗教、詩歌及び原始的形而上学は全体の意義と意味とを言ひ表す。前者は認識し、後者は理解する。世界の様々の存在をより単純なものによつて説明するこの種の世界解釈は、既に言語に於ても現れてゐるが、さらに比喩や擬人法や類推に於て発展する。比喩はある観念をそれに似通つた、何等かの意味でそれを一層分りよくする他の観念で言ひ代へるのであり、擬人法は擬人化することによつて手短なものとし、分り易くするのであり、また類推は類似にもとづいてよく知られたあるものから未知のものを規定するものであり、従つて既に科学的思惟に接近してゐる。宗教、神話、文学または原始的形而上学が分り易くかつ感銘深きものたらんとするときは、いつもこの方法によるのである。
    --ディルタイ(山本英一訳)『世界観の研究』岩波文庫、1935年。

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基本的にどのような世界観をもつことが重要なのか……そのことを仕事しながらよくよく痛感します。

世界観とはいってみれば、その人間の世界に対する精神的な態度と広くとらえることが可能ですし、言葉を換えて表現するならば、あらゆる対象との関係性の問題になってくるかと思います。

この関係性において大切なのがまさに対象とどのような関係を結ぶのかということになりますが、対象を「目的」とするのか、「手段」とするのかにおいては大きく進路が変わってくることは言うまでもありません。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)は『実践理性批判』(Kritik der praktischen Vernunft,1788)のなかで、人間は「手段」ではない「目的」であると喝破しましたが、人間そのものを「手段」としてしまう風潮が顕著な現今の世界において、ためいきばかりでてしまう毎日ですが、、、ためいきばかりついておりましても、体重が減る訳でもありませんし、心が軽くなるわけでもありませんので、そのへんを倫理学的アプローチにおいて、なんとやってやろうと、密かにもくろむ宇治家参去です。

……ということで、今春は、「櫻見(はなみ)」……いうまでもありませんが、櫻(はな)を見るということは酒が随伴してしかるべしというわけですが……は不可能だよな~ってことで、この週末が東京では最後の花見になっちゃうようなアってことで、酒を連れて行くことはできませんでしたが、ひとりで、櫻の咲き誇る公園にて、市井の職場への出勤途上に、昼食を取った次第です。

ここにおいては、形式的行為としては「櫻」や「酒」を「手段」として「楽しもう」という意味論構造があることは否定できませんが、実際に、「酒」をもたずに、パンと紅茶だけを持参して、櫻の樹下に暖をとると、そうした意味論的構造が払拭され、

そこにいること自体の「目的」だけで〝楽しく〟なってしまうのが不思議なものでございます。

近所の大きな公園における、たった5分の滞在ではございましたが、行き交うひとびと会話というBGMが心地よく、目に入る生命の息吹そのものが美しく、ひとつ感動してしまった次第です。

これがマア、本格派の詩人であったならば、ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig
Dilthey,1833-1911)の指摘するごとく、「酒」とか「櫻」とか、そうした定番のタームのみを使わずに、「即ち、與へられた不可解のものをより明瞭なものによつて理解する」ことが可能なのでしょうが、そこまではどうやら不可能であったようです。

ただ、同時にそれは「世界に対する各個人の様々な基礎であるところの諸生活経験をもととして世界の謎の解決の試みがなされる」わけですので、そのひとつの訓練にはなったとは思いますが、それ巧みに再現するのが大詩人・文豪というわけですが、そのもひとつ訓練をしようと、深夜にもかかわらず、櫻の彩りを思い出しながら一献献じている宇治家参去です。

むむっ!

……って閃きはなかなかでてきませんが、これはこれで、なかなかいいドリンキングタイムの現在です。

ま、これを丁寧に毎日繰り返しておりますと、「與へられた不可解のものをより明瞭なものによつて理解する」ことが可能なはず!ですから、なんといっても毎晩の晩酌を欠かすことができない!……って理由にはなりやアしやせんか?

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【ご案内】04/17-18:地方スクーリング,D1期九州(福岡) 『倫理学』

01_img_0238 【ご案内】04/17-18:地方スクーリング,D1期九州(福岡) 『倫理学』

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 しかし、学問はイメージとはちがいます。「倫理学」は「倫理とはなにか」を根本的に問い直す学問です。おそらく本書を読み進まれるうちに、既成のイメージとは違ったなにかを発見されるのではないでしょうか。倫理という言葉は、もともと「人間のありかた」という意味の言葉です。つまり、この世界のすべての事象を、人間のありかたとしてとらえてみようという観点に立ちます。私たちにもっとも身近な学問としての人間が、それが倫理学だということができます。
 そして大切なことは、この身近なものごとのうちに価値を見いだし、さらに価値を創造していくということです。それは同時に、私たちの生や生活を充実させていくということにほかなりません。本書の副題が「価値創造の人間学」となっているのは、そうした理由からです。
    --石神豊『倫理学 価値創造の人間学』創価大学通信教育部、平成15年。

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賞罰告知といいますか、定型文といいますか、毎度同じ呼びかけで恐縮ですが、例の如く、アカデミズム底辺の荒涼たる裾野をさまよう宇治家参去で御座います。

開催まで一週間をきりましたので、告知ということで、、、。

表題のとおり、今週末より、福岡市で開催される大学・通信教育部の地方スクーリングにて「倫理学」を講じてきます。

受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

できれば……序論だけでも結構です。必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

是非、宜しくどうぞお願いします。

新年度最初のスクーリングとなります。
当方もちょいと力をいれて参りますので、是非よろしくおねがいします。

今回は予定者10名と聞いております。
こりゃア、宇治家参去ゼミナールとなってしまうこと間違いなしですねえ。
顔と顔を会わせつつ、真面目に議論できそうな人数だと思います。お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースをやりましょう!

こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

授業中には寝ることもできない……わけですよ、はい。
眠ることもできないほど最高のフルコースを提供しますので。
このフルコースは、銀座のマキシムでもなだ万でも味わうことのできない、絶品料理?であることは間違いなず……ハズ~、たぶん。

で……。

ここからが重要(?)

今回の逗留は福岡市です。

福岡との関係でいいますと、実は宇治家参去が通教のスクーリング(対面授業)の教鞭を初めてとった原点の大地です。

3月に卒業し、法学部を酒席……もとい、主席で卒業されたMくんとの出会いもここであり、今なお変わらぬ交流を続けている佐賀のSくんとの出会いもこの福岡市です。

ちょうど3年前の5月の最終週、5月にしては少し肌寒い福岡でしたが、

①パワーポイントを出力するための機材が用意されていない!
②授業が済むと、「センセ、これから暇ですか?」……って酒席になってしまった!

……というカルチャーショックの連続でした。

機材の用意がされていないのは勘弁願いたいところですが、、学問を通してお互いに切磋琢磨できる2日間になればと思う次第です。

さて……。
そのM君が誘ってくれた銘店が福岡市にあります。

住宅街の一角にある「海物」という居酒屋ですが、住宅街の一角にありますので、見た感じはフツーの民家です。看板も暖簾もありません。

ですけど出していただけるメニューがこれまた絶品なものでして・・・

ちょいと覗いてこようかと思います。

お店は漢字で「海物」と書きますが、読み方は「かいぶつ」です。

すこし「かいぶつ」と格闘するのもありでしょう。
予約をいれないとまず、入れないというお店ですので、ちょいと予約しておこうかと思います。

……というわけで、、、宇治家参去の通信教育部の原点の大地・福岡にて、参去節をちょいとぶいぶいいわせてこようかと思います。
それと同時に、4月から通信教育部での在籍の4週目(4年目)が始まりました。
大学生でいうと四年生。
もういちど学問の原点を考えながら、学生第一、学問第一、教員は一番ウンコという心意気でがんばっていこうかと思います。

……ということで、、、レポート添削の本日分が済みましたので、ちょいと飲んで寝ようかと思います。

夕刻、そらを見上げると、空そのものが桜色。
季節でいうと秋をこよなく愛する宇治家参去ですが、だいたい一年のうちで、この2-3日がいちばんいい季節なのかも知れません。

菜の花のおひたしでちょいと一杯やりたいところですが、春菜の天ぷらがありましたので、今日はこれをお供に沈没しようかと思います。

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日豪シンポジウム:「あんたのママみたいな人だけが、自分のお尻がどんなに大きくなっているかにも気づかずに、お気楽に片脚立ちなんかしちゃってるわけ」 っていう自分

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 私はね、いくつかのサークルのうちではけっこう人気があったのよ、とローズ伯母さんは言う。その頃だって、今に比べてとくに痩せていたわけじゃなかった。ただ肉にもっとしまりがあっただけ。ねえリリー、来るべき未来にあって、変化というのは神の御わざなの。驚いちゃ駄目よ。誰にもそれを逃れることはできないもの。あんたのママみたいな人だけが、自分のお尻がどんなに大きくなっているかにも気づかずに、お気楽に片脚立ちなんかしちゃってるわけ。そして三十年前から相も変わらず、カナリアさんの耳に向けて歌を歌い続けている。そんなものもう誰も聴いちゃいけないっていうのにさ。パパはお店に出ている。あんたとシーモアは自分のことで頭がいっぱい。それなのにあんたのママときたら、ぴかぴかに磨き立てたキッチンに立って、誰かに優しいひと言をかけられるのを待ちながら、こう考えている--あのかわいそうなロージーってね。
    --グレイス・ペイリー(村上春樹訳)「さよなら、グッドラック」、『人生のちょっとした煩い』文春文庫、2009年。

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実のところ、飲む機会が多いのが3-4月です。
出発と出迎えの季節ですから致し方ございません。

ただ宇治家参去が飲みに出かけると、家人は「おもしろくない」ものですから……、

あれこれと難癖をつけられる毎日なので、

「おい、今日は飲みに行くから帰りは遅いぞ」

……などと団塊世代ばりに啖呵をきるわけにもいかず……。

……というわけで、、

「男はつらいよ」を口ずさみつつ……

(たしか……所属の研究所のシンポジウムが4月に何回かあったよな……)

……ということで、

シンポジウムに向かいつつ、、、電車には乗ったのですが、

iPhoneのタスクを確認すると、本日ではなかったようで、、、乗り換え駅でおりますと、

旧知の静岡のセンセと再会しますと、

「こりゃ、参去センセ、今日は八重洲でオーストラリア祭=シンポジウムですよ。なにやってるんすか?」

……って声をかけられしまう次第で、、、

これは……

「研究所のシンポジウムは日程ちがいで本日ではなかったけれども、静岡のセンセと出会うのは日程ではありえないけれども、これは赤い糸という名の〝赤い意図〟で結ばれているにちがないない……」

……というわけで、シンポジウム=飲み会(シンポジウムが終わるとどの場合でもだいたい飲み会ですから)に参加してしまった次第です。

ちょうど、オーストラリアの学友が春休みで本朝に滞在していたわけですが、来週帰国するということでしたので、日豪文化シンポジウムが八重洲にて開催されていた……ということで、参加してしまった次第です。

言い訳ではありません。

偶然、東京駅で静岡のセンセと出会ったら、そうした野暮用なシンポジウムがありましたので不可避的に参加しただけです。自分は何も

〝意図〟したわけではなかったわけです……。

つうことで、ハイ。

楽しませていただきました。

いゃ~ア、いい酒を飲ませていただきました。

ただ、細君に対する後ろめたさ……っつうやつがどこかでひっかかっておりますので、本日は〝壊れる〟ことなく帰宅できましたが、楽しい宴席を演出してくださった皆様方、まことにもってありがとうございます。

……つうことで、

飲んだ量をメモしておりましたが、生(中)×5、日本酒×5合飲んでおりやした……が無事帰宅できましたが、なにやら〝飲みたりない〟ので、今、自宅で再度やっております。

この程度飲むと結構〝壊れてしまう〟わけで、ギャラリーは〝壊れてしまう〟宇治家参去を楽しみにしているのですが、ご参列者の皆様〝壊れてしまう〟ことがなくてすいませんでございました。

……でも、

はい。 たのしい酒をありがとうございました。

ま・さ・に……

「来るべき未来にあって、変化というのは神の御わざなの。驚いちゃ駄目よ。」

ですね。

ただ細君をうまくだませた!と自覚はしているのですが……、細君からしてみると、

「あんたのママみたいな人だけが、自分のお尻がどんなに大きくなっているかにも気づかずに、お気楽に片脚立ちなんかしちゃってるわけ」

……というわけでしょうか。

これを「人生のちょっとした煩い」と表現すればちょうどいいのかしら・・・?

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「余暇」は人間的であると同時に超人間的な状態だからです。それなしには人間は真実に人間であることができないのですが、同時に人間は自力でそれを克ちとるというより、賜物として受けとるのです。

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 ある鋭い観察者によると、この「目に見えぬ不安」こそ現代の組織化された労働管理社会の特質を示すものであって、この社会に閉じこめられた人間にとっての逃げ口はないのです。つまり、前に進めば「労働」で行きどまり、後に退いても「失職」で行きづまり、というわけです。
 これに対して、「余暇」においては--「余暇」においてだけ、とはいえませんが、「余暇」においてはいつでも--つぎのことが起こります。一方では「狭い意味で人間的なもの」への執着をくりかえし断ち切ることによって真実に人間的なものが守られ、救いだされます。そして、このこと、つまり真実に人間的なものの実現は、人間が自分の力をふりしぼることによってではなく、いわば一種の「忘我」の状態において起こるものです。
 いうまでもないことですが、ぎりぎりのところまで力をふりしぼって活動することよりも、「忘我」の方が「より困難」だといえます。なぜなら、それは思いのままにはならないからです。力を抜いて、ゆとりをもつことは、それ自体は楽で、苦痛のない状態ですが、じつは力をふりしぼって活動する方がある意味ではずっと容易だ、ともいえます。
 「余暇」はこのように何の苦労も努力もいらないものでありながら、もっとも困難なもの、というパラドックスをふくんでいます。それというのも、「余暇」は人間的であると同時に超人間的な状態だからです。それなしには人間は真実に人間であることができないのですが、同時に人間は自力でそれを克ちとるというより、賜物として受けとるのです。
 アリストテレスは余暇についてこう語っています。
 「人間はただ人間としてではなく、彼のうちに神的なものが宿っていることによって、ただそのことによって余暇を生きることができる」
    --ヨゼフ・ピーパー(稲垣良典訳)『余暇と祝祭』講談社学術文庫、1988年。

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現代社会の特質はカトリシズムの哲学者ヨゼフ・ピーパー(Josef Pieper,1904-1997)が分析したとおり、前にも後にも進めぬ「目に見えぬ不安」との戦いなのかもしれません。

だからこそ余暇とは何かが問われるわけですが、「目に見えぬ不安」からの逃避がその核心ではありませんし、物理的に仕事をしていない時間=余暇というわけでもないことは周知の事実でしょう。

ピーパーが大切にするのは、「コンテンプラチオ(contemplatio,観想)」という概念です。この「コンテンプラチオ」とは、通常の用法では修道僧が人里離れた荒野や修道院で行っている内観としての修行のことですが、そのことをもって高潔な?修養倫理を説いているわけでもありません。

雑踏の中で「コンテンプラチオ」していく……方向性の示唆とでもいえばいいのでしょうか。「コンテンプラチオ」の語源はギリシア語の「テオリア(theoria)」になりますが、もともとは単純に「見ること」を意味する言葉です。

現実のただなかで眼を開くことの大切さの指摘といってもよいかと思います。

天使博士・聖トマス=アクィナス(Thomas Aquinas,1225?-1274)は「愛のあるところ、そこに眼がある」といったそうですが、心を開き、眼を開くときにこそ「喜び」の扉としての真の余暇が雑踏の中で立ち上がっていくのかも知れません。

それが賢く余暇をとるというやつでしょう。
肩に力を入れて、「力をふりしぼって」余暇をとってやるぞ!って決意するのも変なものですよね。

……というわけで、櫻が満開の東京です。
本来であれば、酒瓶を片手に、樹下でひっくりかえりたいところですが、そうもいかず……。

市井の職場への出勤途上の公園にて、しばしまどろんだ次第です。

「コンテンプラチオ」でもやるかいな!

……っつうことで、桜花をまなざしたわけですが、

まなざすと同時に、視界に入ってくるのが、「空を見上げるひとびと」ばかりです。

そりゃアそうですよね。

木の花ですから、上を見上げるという寸法ですが、すこし視線を落としてみると……。
そこも〝満開〟でございました。

雪景色を彷彿させる花景色というやつです。

その淡い彩りに、「喜び」というやつが立ち上がってくるというものです。

まさに「人間は自力でそれを克ちとるというより、賜物として受けとる」といところが肝要かもしれません。

……ということで、帰宅後、冷蔵庫を調べると、日本酒が無し!
がっくしorzということでしたが、ちょいと視線をかえて、冷蔵庫の脇をみやると、先月、誕生日祝いで頂いた〝効き酒〟セットが未開封のままおいてあるではありませんか!
※って自分でそこにおいて失念していたわけですが……ツッコミはなしで。

ハイ、アレですヨ、アレ!

岐阜県の蔵元、「有限会社 原田酒造場」の効き酒セットでございます。
過日、学生さんから頂いたもので、例の如く、細君から

「学生に何かをおくるべき教師が、学生から何かをもらって喜んでいる浅ましさを自覚しろ、ボケ」

……っていわれてへこんで、冷蔵庫にいれずに、冷蔵庫の横に置いていたわけですが、

やばいセットです。

「山車 きき酒のみくらべ」というセットです。
  山車 金印上撰辛くち180ml、
  山車 純米吟醸花酵母造り180ml、
  山車 秘蔵吟醸原酒180ml、
  山車 純米上澄180ml、
  山車 特別純米酒 手造り純米180ml

日中公園で撮影した櫻の写真を肴に
と・り・あ・え・ず……、

「金印上撰辛くち」

……の封を開いた次第ですが、

「辛い!」といいますか、「さっぱり」しているのですけど、

「味わい」が広がってしまう……

……というわけで早速カラッポに。

1本でやめようと思っていたのですが、

どこまで開いてしまうのか。

マア、これも「余暇」の「余韻」ということで・・・。

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ぬぱっ! やって……もうた! 自分は「俗世の人たちよりも劣っているばかりか、生きとし生けるものに対して罪がある」

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 「神父のみなさん、愛しあってください」長老はそう説いた(あとでアリョーシャが記憶していたかぎり)。「神の子である民衆を愛してください。ここに来て、この壁のなかに隠遁しているからといって、わたしたちが俗世の人々より神聖であるあかしにはなりません。それどころかここに来た人はだれも、ここに来たという事実によって、自分が俗世のだれよりも、この地上に生きるすべてのものより劣っているということを自覚したことになるのです……。修道僧は、壁のなかの暮らしが長くなればなるほど、ますます身にしみてそれを自覚してかからなくてはなりません。もしそうでなければ、ここにやってくる理由などまるでなかったことになりますからね。自分が俗世の人たちよりも劣っているばかりか、生きとし生けるものに対して罪がある、人間の罪、俗世の罪、個人の罪に責任を負っていると自覚したときにはじめて、わたしたちの隠遁の目的は達せられるのです。
 なぜかと言えば、よいですか、わたしたちひとりひとりは、地上のすべての人、すべてのものに対してまぎれもなく罪があるからなのですよ。俗世の一般的な罪にとどまらず、それこそ個々人が、それぞれこの地上のすべての人、ひとりひとりの人間に対して罪があるのです、この認識こそ、修行をおこなう人間ばかりか、地上に住むすべての人間が歩むべき道の到達点なのです。なぜかと言えば、修道僧といっても他の人間と本質を異にするわけではありませんし、地上に生きている人間がいずれそうなるべき姿にすぎませんからね。わたしたちの心というのは、いずれその時が来てはじめて、飽くことを知らない、無限の、宇宙的な愛にひたることができるのですよ。そうしてあなたがたひとりひとりは、愛によって世界全体をわがものとし、俗世の罪を涙によって洗いながすことができるのです……。
 だれもがご自分の心をしっかり見守り、怠らずに懺悔なさることです。ご自分の罪を恐れてはなりませんし、たとえ罪を自覚しても、悔い改めばよいことで、神さまに何か約束などしてはなりません。あなた方を否定し、あなた方を辱め、あなた方をののしり、あなた方を中傷するものも憎んではなりません。無神論者、悪を教える者、唯物論者を憎んではなりません。そうした人たちのなかの善人はむろん、悪人も憎んではなりません。なぜかと言えば、とりわけ今のような時代には、そういう人のなかにもたくさんの善人がおりますからね。
 そういう人のために、祈りのさいにこう言ってあげることです。『神さま、だれにも祈ってもらえない人たち、あなたに祈ろうとしない人たちも、すべてお救いください』とね。そしてすぐにこうつけ加えるのです。『わたしがこうして祈りを捧げるのはけっしておごりからではありません。なぜかと言えば、このわたしこそだれよりも汚れた身なのですから……』
 神の子である民衆を愛し、羊の群を侵入者に奪われないように気をつけなさい。怠け心や、汚らわしいおごりや、そしてなにより私欲にかまけていたりすれば、四方から侵入者どもがやって来て、あなた方の羊の群を奪い去ってしまいます。民衆には、怠りなく福音を説いてあげなさい……。不正に蓄財してはいけません……。金銀財宝を愛してはいけません、所有してはいけません……。神を信じ、信仰の旗をしっかりたずさえ、高く掲げてください……」
 もっとも、長老の話は、ここに記したものよりも、また後にアリョーシャが書きとめたものよりも断片的であった。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟2』光文社、2006年。

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ぬぱっ!

やって……もうた!

たま~に、やるアレです、ハイ。

今年になって2回目です。

そう。

自宅の鍵を持たずに出勤していたようで・・・。

深夜の2時過ぎに細君をたたきおこして、自宅の扉を開いてもらいました。

ドアを開けると無言で寝室へと消えてきました。

ぬぱっ!

やって……もうた!

「自分が俗世の人たちよりも劣っているばかりか、生きとし生けるものに対して罪がある、人間の罪、俗世の罪、個人の罪に責任を負っている」と自覚した次第です。

この怯懦をひしひしとかみしめつつ、いっぺえやって沈没いたします。

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カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫) Book カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

著者:ドストエフスキー
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自分の創造性を高め、他者と連携できる全体人間へと成長するための実験室

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 人間の魂に欠かせない糧は自由である。語の具体的な意味における自由は選択の可能性のうちにある。もちろん、そこで問題になるのは現実的な可能性である。どこであれ共同体の生があるところでは、共益の課する諸規則により選択の幅が制限されることは避けられない。
 だが自由は課される制限の幅におうじて伸び縮みするものではない。また、よりいっそう計量化しにくい条件下にあっても、その十全性を失うことはない。
    --シモーヌ・ヴェイユ(冨原真弓訳)『根をもつこと(上)』岩波文庫、2010年。

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昨日から新学期が始まりました。
2時間睡眠二日酔いで朝から行事があり、へろへろでしたので、宵の口から沈没してしまいました。

トホホ。

今朝は早めに起きて昨日の授業の確認をしております。

大学の授業というのは、教科書と教室ですべて完結するというわけでないというのが一番おおきな特徴ではないでしょうか。

高等学校を含む義務教育に置いてはほぼほぼそれで完結する仕組み(受験勉強とか補習は除きますが)になっておりますが、それと極端な対照をなしているのが大学の授業なのだと思います。

要するに、教材を読んで教室で授業を受けて、ハイ、終わり……というのではなく、

「そこからなにすっぺ」

……というのが一番問われるのが大学の講座なんだと思います。

だからこそ昔話になりますが、何十年も前の大学なんかでは……それの善し悪しはひとまずおきますが……、(ある農学者の話ですが)講義に全然参加しなかったそうで、日がな一日、畑で格闘しつつ、その報告を、いわば挑戦と応戦のみはきちんと指導教官とやりながら、ひとつの業績をのこした、……というような話題なんかもありますが、マア、これは極端な例としても、

要するに、

教材と教室で完結しない、いうなれば、そこをヒントにどのように展開していくのか、そこに実は大きな意味があるのでは、そう思う宇治家参去です。

とはいえ、うえの農学者のような極端な事例を現今の環境において流通させることは不可能ですが、教材と教室で「ハイ、終わり」とはならないように、そして大学教育の幅広い〝沃野〟に履修者を驚かせてしまう授業を作っていきたいと思います。
そのためには、学生の「小使い」となって参ろうかと思います。

とくに、一般教養としての「哲学」とか「倫理学」をやっておりますと、どうしても高等学校なんかでの社会科学系の〝暗記〟科目との印象が濃厚な「倫理」の延長線上でとらえる学生さんが多いんです。

暗記が悪いというわけではありません。

ソクラテス=無知の知
プラトン=イデア論
デカルト=ワレ思う故にワレあり

なんですワ。

ですけど、その概念が当事者にとってどういう意味をもつものか、組み立てていく必要があるんです。

暗記しただけで終わると大変もったいないんです。
暗記しなくても、現今の情報世界を勘案するならば、引き出しにアクセスできれば、その展開こそが大切なんです。

その意味では、これまでならってきたイメージをたたきつぶす初回の講義としては上出来だったのでは……とリアクションペーパーを見ながら実感した次第です。

第2講義も、度肝を抜く?宇治家参去節でブイブイいわせていこうかと思います。

現実のただ中で人間を深めていったヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)は、「人間の魂に欠かせない糧は自由である」とは認めながらも、放逸としての自由とは厳しく峻別しながらも「選択の幅が制限」されてしまう事情は承認しております。しかし「選択の幅が承認」されたとしても、「自由は課される制限の幅におうじて伸び縮みするもの」ではありません。

単純に枠組みを破壊するのが正義ではありません。
むしろ、当事者が枠組みのなかで、創造性を高め、自由に進捗していく一歩一歩の歩みが大切であり、その歩みこそが、人間にとって人間を虐げるものになった枠組みをよき枠組みへと転換してしまうのだろうと思います。

その大きな実験室が大学教育なのだと思います。
まさに大学生とは、それまで受けてきた被教育者としての存在様態と比べるならば、まさに自由人です。
一方に置いて何をやってもいいのでしょう。
しかしその何をやってもいいのかどうかはたえず批判にさらされます。そのなかで本当の自由人へと成長し、自分の創造性を高め、他者と連携できる全体人間へと成長していくことが可能なのでは……そんなことをふと思います。

さて……。
今年度から火曜の4限になりましたが、4限目になりますと、さすがに余裕をもって授業の準備ができます。

昼頃出講し、準備をしてから昼食。
ゆっくりとキャンパスを散策しながら思索をまとめ、授業に望むことができるというものです。

恒例の昼食の一コマですが、今回は日替わりの「野菜肉巻きカツ」でしたが、ほどよい揚げ具合で満足でした。キャベツとわかめのスープには隠し味に胡麻油が利用されてい、ほのかに薫る香ばしさがなんともいえません。

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根をもつこと(上) (岩波文庫) Book 根をもつこと(上) (岩波文庫)

著者:シモーヌ・ヴェイユ
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名前は「アベリア」ではありません。

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午前中に息子殿の小学校の入学式のため、例のごとく二日酔い寝不足にもかかわらず早朝より起床!

開式の辞だけを聞いてからそのまま大学へ。
ハイ、今日から授業なんです。

今日は天気もよく櫻がマックス満開です。
花々が華麗にキャンパスをいろどり、なんだかにぎやかです。

「哲学」の第一講義無事終了しました!
時間割の都合上なのですが、今回は百名オーヴァー!

がんばっていきます。

そうそう、昼食をすませてキャンパスを散策しておりますと、ネコがひなたぼっこです。

名前は「アベリア」ではありません。

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ぼくの努力のいっさいは、世界との絆を見いだすことだ

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 世界から離れてはいけない。人生が光にさらされるとき、人生をやり損なうようなことはない。どんな地位にあっても、また、どんな不幸や幻滅のさなかにあっても、ぼくの努力のいっさいは、世界との絆を見いだすことだ。そして、たとえ悲しみのさなかにあっても、ぼくの心には、愛したいというなんという熾烈な欲求が燃え、また夕べの大気にひたされている丘の景色をただ見ただけで、なんという陶酔がこみあげてくるのだろう。
 真実とのもろもろの絆。まずはじめに自然との、ついで、理解した人びとの芸術との、またもしぼくに可能なら、ぼくの芸術との絆。そうでなくとも、光が、水が、陶酔が、いぜんとしてぼくの前にある。それに欲望に濡れた唇が。
 微笑を浮べる絶望。逃げ道はない。だが、それが空しいこととは知りながらも、やはりたえず支配しようとするのだ。要は自己を失わぬことだ。そして、おのずから世界のなかで眠りこけているものを見失わぬことだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『太陽の讃歌 カミュの手帖1』新潮文庫、昭和四十九年。

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散髪にいきたい宇治家参去です。
ただ、しかし、平日の昼下がりになんかいきものですから、、

「お客さん、暇なんですねぇ」

……ってぼそっといわれてしまうように、

どうやら「暇人」のように見受けられてしまうものですが、

「そんなことはありゃアしやんせんゼ、旦那!」

……と返したいところですが、返す言葉を紡ぎ出すほど勇気のある人間ではありませんので、

「暇なんですよなア~」

……というのがせいぜいというところでしょうか。

ともあれ、はやく髪の毛を切りたいところです。
このままで、メタボな芥川龍之介(1892-1927)が、ルンペンな芥川龍之介になってしまうというものです。

ちかいうちに段取りしたいと思います。

……ということで、「暇人」の仮面をかぶっておりますが、四月中旬まで休みなしのようで……、今週・来週がヤマの仕事がてんこ盛りなんですが、、、

ちとすべてに勝利していこうと思います。

そのためには何が必要なのでしょうか。

燃料としての酒が必要なことは言うまでもありません。しかも燃費の悪い60年代のアメ車ばりですができればハイオクでいきたいところです。

……ってもとにもどります。

「世界から離れてはいけない」

……ということでしょう。

世界から当事者は「離れて」しまうことはないのですが、当事者から「世界」に対して離れてしまうことは可能です。

忙しいとは俗に「心を亡くす」と書きますが、そうならないように心がけていこうかと思います。

私淑するカミュ(Albert Camus,1913-1960)のいうとおりです。

「ぼくの努力のいっさいは、世界との絆を見いだすことだ」

このへんが大事ですね。

ちなみの蛇足ですが、カミュが読みたくて、そしてついでにフランス外人部隊(Légion étrangère)に入りたくて、高校時代からフランス語は勉強してきましたが、いまもってパロール(parole)は不可で、筆談対応な宇治家参去です。

ただ、息子殿が小学校に入ると同時に、筆談対応の学習を一緒にしようとは思っていたのですが、その教材も未だ完成せず、、、トホホ。

6日が入学式で、S短大の第一講義となります。

ですけど、すべてに勝利!していこうと思います。

タスクには負けませんですゼ、旦那!

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「過ぎた日の表象が今日もまたそのままに呼び覚まされる」ようにするための訓練

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 想像力は一つの奇蹟として、人間の日々の活動とまったく異なる一現象として、われわれの前に現れる。しかしそれはある種の人間のいくらか強力な機構が、まれに見る強さをもった一定の自然的事象にもとづいたものたるにすぎない。この事象から出発して精神生活は、その一般法則に従いながらも普通のものとはまったくかけ離れた形態に造り上げられるのである。
 知覚が同時的感覚から空間における諸形態を組み立て、連続的感覚から律動や音形象を組み立てるときに早くも、詩人の特性がそこに作用を現わす。わけても、詩人においてその生活関係、情緒、情熱が本源的な力をもって知覚形成に作用を及ぼす。
 つぎに記憶心象は、同じ条件にあってもそれぞれの個人によって、明るさと強さ、明確と具象の程度がまったく違っている。色も音も無い影としての表象から、目を閉じても視空間に投射しうる事物および人間の形態に至るまでの広い範囲にわたる種々さまざまな形式の再生がある。そこで描写的な死の天分と結びついているのは、再生されるかあるいは自由に形成されるかした表象に明確さともっとも明るい直観性を保持するか付与するかする異常な能力である。詩人が物事を形にして考えるには、その基礎として、くっきりした輪郭のある形象の動きと明確さとを、到るところに必要とするのではないか。同時にそれは、得られた印象の豊かさと、記憶心象の完全さが無ければならない。それゆえ詩人も大抵の場合有能な語り手である。
 さて、集められた経験と自由に作り出す創造力の関係、形態や局面や運命の再生とそれらの創造との関係はいかなるものか。与えられた要素をある与えられた組合せにおいて表象によびもどす連合と、与えられた要素をもって新しい組合せを造りあげる想像力とは、きわめて明瞭な境界線で分けられているように見える。この心理上の二大事実の実際の関係を吟味するときには、説明のための仮説を少しも雑えずに、記述的方法を適用することが大切である。このようにしてのみ文学史家にとって、日常生活の粗大な表象のかわりに、より繊細な心理学的洞察を自分の文芸観に利用しようとする確信が生じうるのである。
 われわれに把握しうる精神過程の中で同じ表象が意識に復って来ることもなければ、それが二度目の意識にまったく同じ表象として再現することもない。春が新たにめぐって来ても去年の木の葉がふたたびわれわれに見えてはこないと同様に、過ぎた日の表象が今日もまたそのままに呼び覚まされるということはなく、かならず前よりも朦朧となり曖昧になる。
    --ディルタイ(柴田治三郎訳)『体験と創作(上)』岩波文庫、1961年。

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ちょうど吉野作造(1878-1933)研究の辛みで、ドイツの詩人・思想家レッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729-1781)を読んでいるのですが、レッシングをダイレクトに理解するためにディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)の評伝集を読んでいる宇治家参去です。

吉野作造は、宗教的寛容を説いたレッシングの『賢者ナータン』(Nathan der Weise,1779)に若い頃、深い感銘を受けたようで、おのれの信仰を大切にしつつも、他者の信仰を尊重する……その点をレッシングから学んだようであります。

では、レッシングとはいかなる人物か。
クロニクルなところは人物辞典に譲るわけですが、その肉声に肉薄したといわれる解釈学者ディルタイの評伝をチト再読しよう……そう心がけた市井の職場の休憩時間です。

さて……。
レッシングのところをふむふむと読み、そのあとにレッシングの次の世代になりますが文豪ゲーテ(ohann Wolfgang von Goethe,1749-1832)の記述がありますので、私淑する大詩人の肉声にも肉薄したくなり、そのあたりまでどうしても踏み込んでしまうというものです。

冒頭に引用したのは、ちょうどゲーテの「詩的想像力」というところの叙述です。
※いうまでもありませんが、何かを調べるためにえんえんとさかのぼっていき、さかのぼっていく途上において、当初のもくろみとはまったくちがうところに感銘を受け、さらにそれを調べ始めてしまう……というのが学問を生業とする人間の〝性〟というものですから、レッシングに関して叙述をしないことに関しては「ゆるしてちょんまげ」ぢゃ。

で……、もとい。
ちょうど、ゲーテの「詩的想像力」というものは、ディルタイがいうとおり、「一つの奇蹟として、人間の日々の活動とまったく異なる一現象として、われわれの前に現れる」ものであることは否定できません。

たしかに「奇蹟」的な事績であるわけです。
ですからはるか雲上に不動にゲーテの光彩が光放つというわけです。

しかし、どうやらそれだけでもないようです。
つまり「それはある種の人間のいくらか強力な機構が、まれに見る強さをもった一定の自然的事象にもとづいたものたるにすぎない」というわけです。

で、あるならば、、、

凡庸たる宇治家参去においても、訓練をつめば可能ではないか!

……そう思い、仕事が済んでから満開の桜の木の下へそそくさと赴いた次第です。なにしろ昼日、出勤途上で桜並木を通り抜けた際、こりゃああ〝花見〟で〝詩心〟にひたらざるをえないな……と思ったわけですから!

というわけで、深夜25時、桜並木の下でございます。
缶ビールをプシュッとしながら、ひとつ思い出しました。
梶井基次郎(1901-1932)の有名な一節です。
梶井は、たしか、次のよう筆を起こしたわけですが、すなわち、、、

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 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
    --梶井基次郎「櫻の樹の下に」、『梶井基次郎全集』第1巻(全)、ちくま文庫、1986年。

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櫻の樹の下にて、シルクヱビスを高らかにかざしたわけですが、背筋がぞおっとした次第です。

はい、これは「屍体が埋まっている」からではございません。

要するに、寒かった!

ただ、それです。

しかし、寒き夜空に大輪をかざす櫻花は美しく、、、感動した次第です。
ついでに350ml缶はカラッポにしましたが、ビールよりも熱燗がお似合いの状況でございました。

しかしながら、これを「過ぎた日の表象が今日もまたそのままに呼び覚まされる」ように〝訓練〟していけば、宇治家参去の〝詩的想像力〟も豊かになるものかもしれません。

……というわけで、明日もう一度トライしてみようかと思います。

「要するに、寒かった!」

とか……、

「熱燗がお似合いの状況で」

……などとは表現したくありませんから……ねぇ。

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近代美学史―近代美学の三期と現代美学の課題 (岩波文庫 青 637-3) Book 近代美学史―近代美学の三期と現代美学の課題 (岩波文庫 青 637-3)

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檸檬・城のある町にて
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桜の木の下には
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梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫) Book 梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

著者:梶井 基次郎
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あらゆる人間にたいして義務が存在する。人間であるというただ事実ゆえに。

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 義務は個々の人間しか拘束しない。集団としての集団にたいする義務は存在しない。しかし集団を構成し、集団に奉仕し、集団を指揮し、集団を代表する個人にたいする義務は存在する。集団にむすびついた生活の一部であっても、集団と関係なくいとなまれる生活の一部であっても、この義務は存在する。
 同一の義務がすべての人間を拘束する。とはいえそれぞれの義務は、状況によってさまざまにことなる行為に対応する。いかなる人間も、なんぴとであるかを問わず、いかなる状況にあっても、赦しがたい過ちをおかさずして義務の要請をまぬがれることはできない。ただし、ふたつの現実的な義務が事実として両立不可能であって、どちらか一方をあきらめざるをえない場合はこのかぎりではない。
 社会秩序における不完全性の度合いは、秩序に内在する両立不可能性の多寡によりはかられる。
 ただし両立不可能ゆえにあきらめざるをえない義務が、たんに事実として放棄されるにとどまらず、それが義務であることまで否認されるなら、そこには罪がある。
 義務の対象(オブジェ)となるのは、人間的な事象においてはつねに個としての人間である。あらゆる人間にたいして義務が存在する。人間であるというただ事実ゆえに。そこに他の条件はいっさい介入しない。たとえその人自身がいっさいの義務を認めないとしても。
 この義務はいかなる現実の状況にも依拠しない。法解釈にも、慣習にも、社会構造も、力関係にも、過去からひきついだものにも、歴史の想定された方向性にもいっさい依拠しない。いかなる現実の状況も義務を要請しえないのである。
 この義務はいかなる協定にも依拠しない。協定であれば、当事者の意向しだいで修正が可能である。一方、義務にかんしては、当事者の意向にいかなる変化が生じようと、いささかの修正も加えられることはない。
    --シモーヌ・ヴェイユ(冨原真弓訳)『根をもつこと(上)』岩波文庫、2010年。

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珍しく朝から仕事に取りかかる宇治家参去です。
来週から授業が始まるのですが、その仕込みを少々……というところでしょうか。

……というよりも授業開始日を失念していたというのが正直なところですが、昨年度のまんまを使うわけにもいきませんし、それが学生さんたちに対する「責任」でもあり、自己自身の存在根拠における「義務」でもありますので、ただもくもくと推敲を遂行する昼下がりでございます。

市井の職場のほうもそのへんのことを想定せずに仕事を組みましたので……トホホ。来週の週末まで休みがなし!という状況で、本日は細君の実家に帰省していた息子殿も東京へもどってくるわけですので、騒がしくなりますが、もくもくと推敲を遂行するほかありません。

教師としての私。
父親としての私。
良人(おっと)としての私。

完全にその義務を遂行することはできませんが、すべてを放擲してしまうと、それはヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)のいう「罪」にもなりかねません。

ひとつひとつの存在のあり方がその存在を規定する「人間」そのものの存在根拠を形作るはずですから、「罪」を甘受してしまうということは、そうした枠組みをとっぱらったひとりの人間であることから「降りてしまう」ことにもなりかねませんので、チトない頭を絞る日々というところでしょうか。

ただ、重い気分になっても仕方ありませんので、楽しむように推敲を遂行している最中です。

で、その最中に、宅急便のピンポンです。

扉をあけると注文していたスプリング・コートが到着しておりました。

安物ですが正絹紬のステンカラーコートです。
着物の紬地で仕立てたコートなのですが、絹ですのでおどろくほど「軽い」コートです。

4月はこのコートで軽快に軽やかに「義務」を全うしていこうかと思います。

ただ、幸いなのは、細君の留守中……息子殿を迎えに行った後……だったということです。

細君の在宅時に配達などあろうものならば、何を言われるのかわかったものではありません。

大地も世界も真理も天も……これぐらいの「罪」は赦してくださるでしょう。

……といわけで、警戒に軽快に推敲を遂行する作業に戻ります。

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根をもつこと(上) (岩波文庫) Book 根をもつこと(上) (岩波文庫)

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①自然的に息づいている周囲世界のなかに、人間的な生の関係がどのように立ちあらわれるか

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 ほんらい私たちと共にというしかたではなく、私たちの周囲でというかたちで生き、手もとにあり、また手まえにある世界を、私たちはもっともひろい意味での周囲世界と名づけることにしよう。その場合、周囲世界のうちに共同世界が立ちあらわれるしだいをめぐる問題は、ふたつに分かれることになる。①自然的に息づいている周囲世界のなかに、人間的な生の関係がどのように立ちあらわれるか。②人間がつくり上げる製作品の世界のなかで、人間的な生の関係がどのように立ちあらわれるか。製作品の世界がじじつ存在し、またそれをじじつ理解するうえで、共同世界が構成的な意義を有していることは目につきやすい。だが他方、自然的に息づいている、自立的な周囲世界を理解するうえでのその意義は、明白ではない。
    --レーヴイット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)に師事したユダヤ系哲学者レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)が指摘するとおり、②の製作品の世界の存在を了解することよりも①の「自然的に息づいている、自立的な周囲世界を理解する」ことの方が確かに難しそうです。

ただしかし関心と生への従属が見失わなければ、周囲世界というものは「ばらばらで無秩序に」ならべられているものではなく、いっさいが内的に直接に理解可能なしかたで互いに関係づけられているというものんだろうと思います。いうなれば、生の関係にぞくする、さまざまな生の関心に応じて、すべてが互いに所属しあっているのが、私たちの周囲世界というものなんだろうと思います。

まさにそれは、ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)が、他者理解のすべての出発は「実践的な生の関心から生ずる」と語った通りです。

さて……。
風の強い一日でしたが、表にでますと桜が見頃を迎えた東京でございます。

桜並木をくぐり抜けて市井の職場へ通勤しましたが、強い風にものともせず、大輪を大きく咲かせた桜の花びらにいっしゅの感動を感じつつ、こうした「自然的に息づいている、自立的な周囲世界を理解する」ひとときでございました。

自然の営みに感謝でございます。

さきほど仕事が済んで帰宅しましたが、「周囲世界」への感謝の念を、観念論的な想念で終わらせてしまうと、

「これは、ひとつもうしわけない」

……ということで、細君が毎月1本購入してくれる地酒を栓を切らせていただかざるを得ない……断腸の決断というやつです。

本日の一本はこれでございます。

「上喜元 特別純米 からくち」(酒田酒造株式会社/山形県)

宇治家参去がこよなく山形の地酒を愛飲するものですから、テキトーに選んだのだと思いますが、ハイ、間違いのない1本でございました。

「美山錦」「雪化粧」を磨き上げたの特別純米酒で、深みのある旨みとコクがほどよく目立つにもかかわらず……、スッキリとした喉ごしでキレのある味わいに、脱帽というやつです。

クセがあるようでクセがないんです。
しかしほどよく余韻が醸し出されてしまう……。

何杯でもいけちゃうヤバイ一品です。
ま、これも「周囲世界」への感謝の念ということで……、杯、もといハイ。

さて……。
本日は勤務校の入学式でございます。
早々に寝ましょう!

おやすみなさい、桜さん。
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共同存在の現象学 (岩波文庫) Book 共同存在の現象学 (岩波文庫)

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「綿入れ」「火おこし」「湯たんぽ」……を説明せよ!

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 初の子供向け小説を毎日小学生新聞で連載 山本一力さん(62)
 「うわあっ!」。明け六つ(午前6時)過ぎ、障子戸を明けた大助が歓声を上げた。
 「たったひと晩で、こんなに積もってらあ」--。
 やぶ入りの1月15日早朝、雪に覆われた幕末の江戸・深川から物語は始まる。
 時代小説で下町人情を描いてきた直木賞作家が初めて、子供向け小説「とっぴんしゃん」を4月5日(一部地域6日)から毎日小学生新聞に連載する。「子供だからといってタッチは変えません」と意欲的だ。
 盗賊一味の千両箱を偶然掘り出してしまった8人の子供が、大人顔負けの知恵と得意技で一味に立ち向かう冒険活劇。「子供のころ、街頭紙芝居を楽しみにしていた。同じように、今の小学生が毎日、待ち遠しくなるような、わくわくする物語を書きたい。8人が頭の中で跳びはねているよ」と、楽しそうだ。
 「綿入れ」「火おこし」「湯たんぽ」など、子供になじみの薄い単語も並ぶが、「意味がわからなくても、前後の文脈から読み解く力をもっているはず」。身の回りのものを工夫して遊ぶたくましさ。けんかをしても仲直りをし、困ったら助け合う強いきずな。人と人とどうかかわりを持てるのか、現代人へのヒントにもなるか。「物語が話題になって、子供同士が仲良くなってくれればうれしいね」
 挿絵と題字は版画家の原田維夫(つなお)さん。息の合ったコンビで小さな読者を9人目の仲間に招き入れる。文・篠口純子 写真・梅田麻衣子
    --「ひと 初の子供向け小説を毎日小学生新聞で連載 山本一力(62)さん」、『毎日新聞』2010年3月31日(水)付。

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このところ……実に、猫の手よりも助手を雇いたいぐらい忙しい宇治家参去です。
連日、まともに考察、すなわち知的格闘戦ができず恐縮ですが、本は読んでおります。
ただなかなかそれを考察のレベルに移すほど時間がなく、あいスイマセン。

さて、冒頭には時代小説家・山本一力氏(1948-)のインタビューを引用しましたが、山本氏の著作は殆ど読んでおります。

山本氏の時代小説で特徴的なのは、筆致が成長するというところでしょうか。

デビュー作といってよい『蒼龍』(文春文庫、2005年、「讀物新人賞」受賞は1997年)にしても、直木賞を受賞した『あかね空』(文春文庫、2004年、「直木賞」受賞は2002年)にしても、時代小説としては文体が〝硬い〟……という印象がありました。

ただ「生きる」ことにこだわりつづけながら筆致されたその言葉に寄り添っていくと、時代を重ねるにつれ、深化(=進化)していくとでもいえばいいでしょうか……。

そんなところを感じてしまい、

「次はどのようになるのか」

筋ではなく、作家の息吹を求めるようになって今日まで読み続けている作家のひとりであります。おなじような作家として「若手」?の時代小説家でいえば乙川優三郎氏(1953-)にも同じような〝におい〟がありますので、ついつい新作がでますと、まずは文芸雑誌を立ち読みで通読、単行本購入という流れになってしまいます。

さて、楽しみなのは小学生向けの「時代小説」!
「冒険活劇」としての筋にも勿論興味がありますが、それよりも注目したいのが「意味がわからなくても、前後の文脈から読み解く力」の描写というところです。

哲学とか思想をやっているとこのあたりの力が試されることを至極実感いたします。

要するに変換不可能な言葉ってやつがあるんです。

それを通俗的には難しい「専門用語でしょ」ってスルーされてしまうのが実情なのですが、哲学・思想に関わりなく変換不可能な言葉ってあるんです。

ですけど変換不可能であったとしても「意味がわからなくても、前後の文脈から読み解く」……いいかえれば「フォロー」することによって、その言葉に近接することだけは可能なんです。

そのことを授業をしながら、いつもこころがけてはいるのですが……。
ひとつの参考になりそうです。

同語変換が不可能なのが世の常です。
しかしフォローは可能なんです。
フォローを構成することで大切に反比例の線曲のごとく肉薄することは可能なんです。
もちろん、肉薄していく構成力は当事者にゆだねられてしまうのですが、安易な同語変換をさけながら、考え、肉薄していく……じつはそこに学問の醍醐味があるんです。
※いうまでもありませんが、大乗仏教における存在論の形而上学的探求とか師・レヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)の存在探求における言語の超越というような深淵性からみれば一次応対の本質開示でないことは承知ですが、とりあえず……。

……ということで。

「綿入れ」「火おこし」「湯たんぽ」……。

別の言葉によって説明するというのは結構労力のいることです。
読者諸兄、相手が何も知らない人と想定しながら、説明してみませんか??
知的遊戯のそしりを受けるかもしれませんが、是非挑戦を!!

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