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牛丼 、「それが今までに一度も国語の中に登録されたことがないものだ」、 デリダ

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実際すぐに気づくことだが、プシュケ〔魂、精神〕という概念のただ一つの中核は、それが意識という形で作られていようがいまいが、自己への関係としての生なのである。だから「生きる」ということは、還元に先立つもの、還元が現出させるあらゆる分割を結局のところ免れるものの名前なのである。なにしろ「生きる」ことは、自分自身の分割であり、自己自身を他方のものに対立させることだからである。したがって、「生きる」ことをこのように規定したことによって、われわれは言述(ディスクール)という手段の不安定さを、つまりまさしく言述がもはやニュアンスの中でみずからの可能性と厳密さを確固たるものにすることができないような点を名ざしたことになる。このとき生という概念は、日常生活や生命科学の言語における前(プレ)-超越論的な素朴さの審級(アンスタンス)ではもはやないような審級において捉え直されるのである。しかし生のこの超(ウルトラ)-超越論的概念が、なお生(日常的な意味であるいは生物学的な意味で)を思わせるものだとすれば、またそれが今までに一度も国語の中に登録されたことがないものだとすれば、たぶん別の名が必要になるかもしれない。
    --ジャック・デリダ(林好雄訳)『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年。

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昨日は、初夏を思わせるような一日でしたが、うってかわって本日は初冬を思わせる肌寒さの東京です。

人間という存在は言葉によって言表される規定によってのみ規定されるだけでなく、すべてのもの……たとえば暑い・寒い……から、その存在を規定されることをまさに身体を通して実感するわけですけれども、目下焦眉の問題は、

「冬物のコートをクリーニング出して仕舞うのはいつか」

……というアポリアを抱えるのは宇治家参去一人ではあるまいと思うところです。

ともあれ、夕方から市井の仕事ですが、本日は上着を羽織らずには出勤できないようで、そこに面倒を感じるわけではありますが、様々な状況を顧慮せず、言表にのみ即し、存在によってのみ根拠をおく存在としての人間というのもアリエナイし、特定の概念にのみ還元されてゆく存在としての人間というのもアリエナイし、「さあ、どこに人間が存在するのか」などとフト思いつつも、その問いを発している宇治家参去自身が「まあ、ひとつの人間の事例なんだよな」などと思いつつ、想念がぐるぐると頭をかけめぐるというところです。

現象規定専従でもなく、概念規定専従でもないやり方で「人間とは何か」そして「生きる」とは何かを考察する必要がありそうです。

だからちょいと「まあ、そんなものなんだよな」っていうドクサを定期的に意識的に破壊してやる必要があるのかもしれません。ソクラテス(Socrates,469 BC-399 BC)は当時のギリシア人からうっとうしいヤツということで「虻」と表現されましたが、「虻」ほどのそれはしませんけれども、ちょいと刺激あたえてみよう!

……つうことで、久しぶりに、吉野家の牛丼を戴いこうというものです。

この手のJapanese first foodを連日やりますと、ご存じの通り、「飽きる」を通りこして、「うぇっぷ、もう食べたくねえや」ってなってしまう部分が多いのですが、月にいっぺんぐらいでしょうか、たま~にやりますと、

「なかなか、どうして」

……ってなってしまうのがどうも不思議なものです。
濃い目の味付けが疲れた体躯に染み込んでくるというところでしょうか。
ただし、その滋養が染み込んでくるのを実感すると同時に、

「やはり、これを連日ヤルのも堪えますなあ」

……とも思いますので、食の味わいひとつとってみましても、ひとつの感慨が対他的・排他的に自存しているのではなく、むしろ多種多様な実感がふかく絡み合ったような状況で、感慨を形成しているのではないだろうか、そんな気がしてしまいます。

「読む」とは何か、そして「書く」とは何かを徹底的に考察したのがジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)の『声と現象』(La Voix et le phenomene: introduction au problème du signe dans la phénoménologie de Husserl,1967)ですが、「生という概念は、日常生活や生命科学の言語における前(プレ)-超越論的な素朴さの審級(アンスタンス)ではもはやないような審級において捉え直される」という言葉と吉野家の味わいをかみしめつつ、その現実をどのように表現すればよいのか悩む食事のひとときです。

ただしかし、うまく表現できない部分があることは確かですので、あまりデリダは好きではありませんが、それでもなお、「それが今までに一度も国語の中に登録されたことがないものだ」というのには深く同意する次第です。

まさにこれが「言述(ディスクール)という手段の不安定」というところでしょうか。

ただ、これからこの雨のなか、仕事へ行くのがチトだるいということは否定できません。

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