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【覚え書】豊穣なる概念としての「カロン」と「理性」

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今週も休みなしでがっくしorzというところですが意気軒昂に千葉の短大へ向かっているところです。

ただ車中で読んでいて大事だと思った部分があり覚え書としてお茶を濁しておきます。

カロンと理性とはきわめて豊穣な概念ですね。

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 なるほど、植物や動物といったそのほかの自然の産出物にしても、<何も「無駄に」は行わない>という、つましい自然の合理的な目的論的図式がきわめて狭隘なものであることを、われわれは次第に認識し始めてきた。けれども、われわれが自分を人間的ー理性的に理解する際の基準にしている意識的な合目的性--それというのも、われわれは共通に望まれた目的に至る手段の合目的性を洞察するからであるが--を、行動が知っているところでは、効用や有用性や合目的性を凌駕するすべてのものの領域が独自のものとして際立たせられる。われわれはそのようなものを、ギリシア人たちがカロンKalonと言っていたのと同じ意味で、「美しい」と呼ぶのである。カロンは、一切の必要の彼方にある芸術や祭礼の創作を意味していたばかりではない。それは、われわれがさおこにおいて間違いなく自分を理解するすべてのものを包括している。なぜなら、カロンは、それが望ましいものであることを合目的性の観点で正当化する可能性も必要性も問わず、望ましいものだからである。これをギリシア人たちはテオーリア--すなわち、圧倒的に現前すればすべてのものに共通に明らかにされる或るものに<引き渡されてあること Weggegeben-Sein an etwas>--と呼んでいた。そしてまたこのものは、<それが、そのほかのすべての善きことどもと違って、分割によって減少することも、それゆえ、そのほかのすべての善きことどものように異論が唱えられることもなく、むしろ分有によって獲得される>というように特徴づけられる。結局のところ、これが、理性概念の誕生なのである。つまり、望ましいことが、すべての人を確信させるものとして、すべての人に対して現われるようになればなるほど、つまり、すべての人がこの共通のもののうちに自分を再発見するようになればなるほど、それだけ一層人々は積極的な意味で自由を、すなわち、共通のものと真の同一性をもつようになるのである。
    --ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二、座小田豊訳)『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。

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