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「インクから手を離しても、インクは手にこびりつく」あたり、「こびりついて離れない世界と関わり合う仕方」で

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いずれもつかの間のことではあったがいくたびか哲学の歴史は、極度の若さとでもいったもののなかで、存在することと絶縁せる主体性をかいま見た。プラトンにおける存在なき<一>から、内在のうちで超越者たるフッサール的純粋<自我>に至るまで、哲学史は実在からの形而上学的剥離を認めてきた。ただし、存在からの形而上学的剥離が認められるや否や、この逸脱は<語られたこと>によって裏切られ、託宣のごとき断定のうちに組み込まれる。かくして存在からの逸脱は、存在すること、運命の手に戻され、再び存在することの規則に縛られ、背面世界に導くことしかない。何よりも、ニーチェの語る人間がそうだろう。フッサールのいう超越論的還元をおこなうには、括弧入れだけで十分であろうか。インクから手を離しても、インクは手にこびりつく。括弧入れは、このインクと同様こびりついて離れない世界と関わり合う仕方、一つの書き方なのだが、超越論的還元をおこなうには、こうした括弧入れだけで十分であろうか。十分ではない。そのためには、ニーチェの詩的エクリチュールのニヒリズムにまで至らなければならない。このニヒリズムは不可逆的時間を渦巻きに転じる。哲学を拒む哄笑にまで至らなければならないのだ。しかし哲学者は、哲学史における言語の誤用のうちに言語を再び見いだす。語りえないもの、存在の彼方を私たちの面前に翻訳するような言語のうちに。いずれにせよ、否定性は依然として存在と相関関係にあり、それゆえ、存在とは他なるものを意味づけるには不十分である。

    −−E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。

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さて本日は、千葉の短大での第2回目の講義。先週ガイダンスの参加は2名でして……

アリエナイと思いつつ、前期の授業は時間割の関係でほとんど履修できる学生がいないのではと3月末にいわれていた事態が到来したという寸法です。

ただ教職だとか保育園だとか幼稚園の先生を目指す人間には「倫理」が必要だろう!という事務方の判断で、通常なら「四名以下不開講」というわけですが、

「先生がよろしければやっていただけませんか」

……というわけで本日2回目の講義というわけで2時間弱の通勤時間をかけて本日も楽しく出発させていただきました。

ただ4/9(金)に休んだのが最後で、福岡出張をはさんで休みなしという過酷なロードレースの最中でしたが、なんとか昨夜の深夜に準備を完了し、本日の授業に参加という次第です。 さて大学へ到着しますと、教室の変更(大教室⇒ゼミ室)へお願いし、状況を確認したところ、

前回参加した学生さんのうち、一名は本日風邪でお休みということでして、、、

はい!

「一対一」 ……という真剣勝負!

と相成った次第です。

一名休んでおりましたので、教材にそって進めすぎても難ですので、ざっくばらんに話ながら、倫理学とは何ぞやという部分を、巌流島における剣客同士の真剣勝負のごとく、お話ししたわけですが、、、 まあ、倫理学とは「人間とは何ぞや」という問いをめぐり探究する学問なわけですが、存在論に重きを置く哲学とはことなり、存在を規定するエクリチュールの探究とは様相が異なる学問であり、どちらかといえば、多様な人間存在の現実に驚嘆し、生きている世界で人間を深めていく学問ですので、少人数の方がやりやすいことは承知なのですが、

はい! 「一対一」とは初めてです。

100名オーヴァーの授業は何度も経験があります。

10数名というのもよく経験します。

また4名というのもありますが、、、1名というのは実に初めてです。

もはやゼミというよりも、大学院の博士課程の研究室のようではないか!と思わざるをえませんが、とわいえ、こうした驚愕と学生さんとの共学により「人間とは何か」という根源的探究が遂行できるというのであれば大変貴重な時間ではないか……と思われます。

いや~あ、しかし、睡眠不足の問題もありきつかったですが有意義な時間でございました。

現在、中央線の中ですが、これから市井の仕事です。

現象学者フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl,1859-1938)は、ものごとをいったんカッコにいれて、それから対象をとらえなおす手法を導入しましたが、それだけでもだめなのかもしれませんねえ。

レヴィナス先生(Emmanuel Lévinas,1906-1995)がいうとおりです。

「括弧入れだけで十分であろうか。インクから手を離しても、インクは手にこびりつく。括弧入れは、このインクと同様こびりついて離れない世界と関わり合う仕方、一つの書き方なのだが、超越論的還元をおこなうには、こうした括弧入れだけで十分であろうか。十分ではない。」 ですので少ないメンバーですが、人間の定義先にありきではなく、「インクから手を離しても、インクは手にこびりつく」あたり、「こびりついて離れない世界と関わり合う仕方」でも探究してみようかと思います。

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