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「過ぎた日の表象が今日もまたそのままに呼び覚まされる」ようにするための訓練

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 想像力は一つの奇蹟として、人間の日々の活動とまったく異なる一現象として、われわれの前に現れる。しかしそれはある種の人間のいくらか強力な機構が、まれに見る強さをもった一定の自然的事象にもとづいたものたるにすぎない。この事象から出発して精神生活は、その一般法則に従いながらも普通のものとはまったくかけ離れた形態に造り上げられるのである。
 知覚が同時的感覚から空間における諸形態を組み立て、連続的感覚から律動や音形象を組み立てるときに早くも、詩人の特性がそこに作用を現わす。わけても、詩人においてその生活関係、情緒、情熱が本源的な力をもって知覚形成に作用を及ぼす。
 つぎに記憶心象は、同じ条件にあってもそれぞれの個人によって、明るさと強さ、明確と具象の程度がまったく違っている。色も音も無い影としての表象から、目を閉じても視空間に投射しうる事物および人間の形態に至るまでの広い範囲にわたる種々さまざまな形式の再生がある。そこで描写的な死の天分と結びついているのは、再生されるかあるいは自由に形成されるかした表象に明確さともっとも明るい直観性を保持するか付与するかする異常な能力である。詩人が物事を形にして考えるには、その基礎として、くっきりした輪郭のある形象の動きと明確さとを、到るところに必要とするのではないか。同時にそれは、得られた印象の豊かさと、記憶心象の完全さが無ければならない。それゆえ詩人も大抵の場合有能な語り手である。
 さて、集められた経験と自由に作り出す創造力の関係、形態や局面や運命の再生とそれらの創造との関係はいかなるものか。与えられた要素をある与えられた組合せにおいて表象によびもどす連合と、与えられた要素をもって新しい組合せを造りあげる想像力とは、きわめて明瞭な境界線で分けられているように見える。この心理上の二大事実の実際の関係を吟味するときには、説明のための仮説を少しも雑えずに、記述的方法を適用することが大切である。このようにしてのみ文学史家にとって、日常生活の粗大な表象のかわりに、より繊細な心理学的洞察を自分の文芸観に利用しようとする確信が生じうるのである。
 われわれに把握しうる精神過程の中で同じ表象が意識に復って来ることもなければ、それが二度目の意識にまったく同じ表象として再現することもない。春が新たにめぐって来ても去年の木の葉がふたたびわれわれに見えてはこないと同様に、過ぎた日の表象が今日もまたそのままに呼び覚まされるということはなく、かならず前よりも朦朧となり曖昧になる。
    --ディルタイ(柴田治三郎訳)『体験と創作(上)』岩波文庫、1961年。

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ちょうど吉野作造(1878-1933)研究の辛みで、ドイツの詩人・思想家レッシング(Gotthold Ephraim Lessing,1729-1781)を読んでいるのですが、レッシングをダイレクトに理解するためにディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey,1833-1911)の評伝集を読んでいる宇治家参去です。

吉野作造は、宗教的寛容を説いたレッシングの『賢者ナータン』(Nathan der Weise,1779)に若い頃、深い感銘を受けたようで、おのれの信仰を大切にしつつも、他者の信仰を尊重する……その点をレッシングから学んだようであります。

では、レッシングとはいかなる人物か。
クロニクルなところは人物辞典に譲るわけですが、その肉声に肉薄したといわれる解釈学者ディルタイの評伝をチト再読しよう……そう心がけた市井の職場の休憩時間です。

さて……。
レッシングのところをふむふむと読み、そのあとにレッシングの次の世代になりますが文豪ゲーテ(ohann Wolfgang von Goethe,1749-1832)の記述がありますので、私淑する大詩人の肉声にも肉薄したくなり、そのあたりまでどうしても踏み込んでしまうというものです。

冒頭に引用したのは、ちょうどゲーテの「詩的想像力」というところの叙述です。
※いうまでもありませんが、何かを調べるためにえんえんとさかのぼっていき、さかのぼっていく途上において、当初のもくろみとはまったくちがうところに感銘を受け、さらにそれを調べ始めてしまう……というのが学問を生業とする人間の〝性〟というものですから、レッシングに関して叙述をしないことに関しては「ゆるしてちょんまげ」ぢゃ。

で……、もとい。
ちょうど、ゲーテの「詩的想像力」というものは、ディルタイがいうとおり、「一つの奇蹟として、人間の日々の活動とまったく異なる一現象として、われわれの前に現れる」ものであることは否定できません。

たしかに「奇蹟」的な事績であるわけです。
ですからはるか雲上に不動にゲーテの光彩が光放つというわけです。

しかし、どうやらそれだけでもないようです。
つまり「それはある種の人間のいくらか強力な機構が、まれに見る強さをもった一定の自然的事象にもとづいたものたるにすぎない」というわけです。

で、あるならば、、、

凡庸たる宇治家参去においても、訓練をつめば可能ではないか!

……そう思い、仕事が済んでから満開の桜の木の下へそそくさと赴いた次第です。なにしろ昼日、出勤途上で桜並木を通り抜けた際、こりゃああ〝花見〟で〝詩心〟にひたらざるをえないな……と思ったわけですから!

というわけで、深夜25時、桜並木の下でございます。
缶ビールをプシュッとしながら、ひとつ思い出しました。
梶井基次郎(1901-1932)の有名な一節です。
梶井は、たしか、次のよう筆を起こしたわけですが、すなわち、、、

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 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
    --梶井基次郎「櫻の樹の下に」、『梶井基次郎全集』第1巻(全)、ちくま文庫、1986年。

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櫻の樹の下にて、シルクヱビスを高らかにかざしたわけですが、背筋がぞおっとした次第です。

はい、これは「屍体が埋まっている」からではございません。

要するに、寒かった!

ただ、それです。

しかし、寒き夜空に大輪をかざす櫻花は美しく、、、感動した次第です。
ついでに350ml缶はカラッポにしましたが、ビールよりも熱燗がお似合いの状況でございました。

しかしながら、これを「過ぎた日の表象が今日もまたそのままに呼び覚まされる」ように〝訓練〟していけば、宇治家参去の〝詩的想像力〟も豊かになるものかもしれません。

……というわけで、明日もう一度トライしてみようかと思います。

「要するに、寒かった!」

とか……、

「熱燗がお似合いの状況で」

……などとは表現したくありませんから……ねぇ。

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