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「余暇」は人間的であると同時に超人間的な状態だからです。それなしには人間は真実に人間であることができないのですが、同時に人間は自力でそれを克ちとるというより、賜物として受けとるのです。

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 ある鋭い観察者によると、この「目に見えぬ不安」こそ現代の組織化された労働管理社会の特質を示すものであって、この社会に閉じこめられた人間にとっての逃げ口はないのです。つまり、前に進めば「労働」で行きどまり、後に退いても「失職」で行きづまり、というわけです。
 これに対して、「余暇」においては--「余暇」においてだけ、とはいえませんが、「余暇」においてはいつでも--つぎのことが起こります。一方では「狭い意味で人間的なもの」への執着をくりかえし断ち切ることによって真実に人間的なものが守られ、救いだされます。そして、このこと、つまり真実に人間的なものの実現は、人間が自分の力をふりしぼることによってではなく、いわば一種の「忘我」の状態において起こるものです。
 いうまでもないことですが、ぎりぎりのところまで力をふりしぼって活動することよりも、「忘我」の方が「より困難」だといえます。なぜなら、それは思いのままにはならないからです。力を抜いて、ゆとりをもつことは、それ自体は楽で、苦痛のない状態ですが、じつは力をふりしぼって活動する方がある意味ではずっと容易だ、ともいえます。
 「余暇」はこのように何の苦労も努力もいらないものでありながら、もっとも困難なもの、というパラドックスをふくんでいます。それというのも、「余暇」は人間的であると同時に超人間的な状態だからです。それなしには人間は真実に人間であることができないのですが、同時に人間は自力でそれを克ちとるというより、賜物として受けとるのです。
 アリストテレスは余暇についてこう語っています。
 「人間はただ人間としてではなく、彼のうちに神的なものが宿っていることによって、ただそのことによって余暇を生きることができる」
    --ヨゼフ・ピーパー(稲垣良典訳)『余暇と祝祭』講談社学術文庫、1988年。

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現代社会の特質はカトリシズムの哲学者ヨゼフ・ピーパー(Josef Pieper,1904-1997)が分析したとおり、前にも後にも進めぬ「目に見えぬ不安」との戦いなのかもしれません。

だからこそ余暇とは何かが問われるわけですが、「目に見えぬ不安」からの逃避がその核心ではありませんし、物理的に仕事をしていない時間=余暇というわけでもないことは周知の事実でしょう。

ピーパーが大切にするのは、「コンテンプラチオ(contemplatio,観想)」という概念です。この「コンテンプラチオ」とは、通常の用法では修道僧が人里離れた荒野や修道院で行っている内観としての修行のことですが、そのことをもって高潔な?修養倫理を説いているわけでもありません。

雑踏の中で「コンテンプラチオ」していく……方向性の示唆とでもいえばいいのでしょうか。「コンテンプラチオ」の語源はギリシア語の「テオリア(theoria)」になりますが、もともとは単純に「見ること」を意味する言葉です。

現実のただなかで眼を開くことの大切さの指摘といってもよいかと思います。

天使博士・聖トマス=アクィナス(Thomas Aquinas,1225?-1274)は「愛のあるところ、そこに眼がある」といったそうですが、心を開き、眼を開くときにこそ「喜び」の扉としての真の余暇が雑踏の中で立ち上がっていくのかも知れません。

それが賢く余暇をとるというやつでしょう。
肩に力を入れて、「力をふりしぼって」余暇をとってやるぞ!って決意するのも変なものですよね。

……というわけで、櫻が満開の東京です。
本来であれば、酒瓶を片手に、樹下でひっくりかえりたいところですが、そうもいかず……。

市井の職場への出勤途上の公園にて、しばしまどろんだ次第です。

「コンテンプラチオ」でもやるかいな!

……っつうことで、桜花をまなざしたわけですが、

まなざすと同時に、視界に入ってくるのが、「空を見上げるひとびと」ばかりです。

そりゃアそうですよね。

木の花ですから、上を見上げるという寸法ですが、すこし視線を落としてみると……。
そこも〝満開〟でございました。

雪景色を彷彿させる花景色というやつです。

その淡い彩りに、「喜び」というやつが立ち上がってくるというものです。

まさに「人間は自力でそれを克ちとるというより、賜物として受けとる」といところが肝要かもしれません。

……ということで、帰宅後、冷蔵庫を調べると、日本酒が無し!
がっくしorzということでしたが、ちょいと視線をかえて、冷蔵庫の脇をみやると、先月、誕生日祝いで頂いた〝効き酒〟セットが未開封のままおいてあるではありませんか!
※って自分でそこにおいて失念していたわけですが……ツッコミはなしで。

ハイ、アレですヨ、アレ!

岐阜県の蔵元、「有限会社 原田酒造場」の効き酒セットでございます。
過日、学生さんから頂いたもので、例の如く、細君から

「学生に何かをおくるべき教師が、学生から何かをもらって喜んでいる浅ましさを自覚しろ、ボケ」

……っていわれてへこんで、冷蔵庫にいれずに、冷蔵庫の横に置いていたわけですが、

やばいセットです。

「山車 きき酒のみくらべ」というセットです。
  山車 金印上撰辛くち180ml、
  山車 純米吟醸花酵母造り180ml、
  山車 秘蔵吟醸原酒180ml、
  山車 純米上澄180ml、
  山車 特別純米酒 手造り純米180ml

日中公園で撮影した櫻の写真を肴に
と・り・あ・え・ず……、

「金印上撰辛くち」

……の封を開いた次第ですが、

「辛い!」といいますか、「さっぱり」しているのですけど、

「味わい」が広がってしまう……

……というわけで早速カラッポに。

1本でやめようと思っていたのですが、

どこまで開いてしまうのか。

マア、これも「余暇」の「余韻」ということで・・・。

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