常に途上にある
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究極の解釈ということは、自己矛盾であるように思われる。解釈は常に途上にある。したがって、解釈という語が人間存在の有限性と知の有限性とを指し示すのだとすると、解釈の経験は、以前の自己了解のうちに存在していなかったものや、解釈学として特殊な諸領域に分類されたもの、そして、難しいテキストのなかの困難を克服するための技術として応用されたものを含むことになる。当時は、解釈学はKunstlehreとして理解可能であったのだが、今ではもはやそうではないのである。
すなわち、、<テキストの説明と理解においては、完全に見通しうるテキストとか、あるいは、完全に汲み尽くすことの可能な関心といったものはそもそも存在しない>ということをわれわれが前提するときには、解釈の術と理論に関連するすべてのパースペクティヴはずれてしまうのである。
--ハンス=ゲオルク・ガダマー(本間謙二、座小田豊訳)『科学の時代における理性』法政大学出版局、1988年。
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どうも今晩わ。
さきほどまで机と一体化してよだれをたらして寝ておりました宇治家参去です。
ぬばっ!って目が覚めましたので、ちょいと日記を書いてから沈没します。
新学期が始まってから、だいたい3回目ぐらいの講義が終わりましたが、「いつもながら」新しい発見の連続で驚くばかりです。
火曜日は八王子の短大で「哲学入門」の講義。
もう7年目になるのですが、毎度毎度=「いつもながら」、新しい発見の連続です。
語らなければならない重要な処は不動なのですが、学生さんの関心や状況によって、不動ではあるにはかかわらず、毎度毎度、新たな表現になっていくとでもいえばいいのでしょうか、、、変わっているわけではないのですが、何かが違う、新しくなっていく……、授業をしながらそのことを痛感します。
カリキュラム的には2年に一度ぐらい、組み立て直すのですが、根本的なところは同じであるにもかかわらず、新しくなっていく……そういうところを授業をしながら感じる次第で、まさに、教師と学生さんが有機的に対象に挑戦していっている--そのことを痛感します。
水曜日は千葉の短大で「倫理学」の講義。
こちらは本年度より初めての担当になりますが、毎度毎度=「いつもながら」、アリエナイ出来事の連続です。
詳細は措きますが、どうやら、最終講義まで一対一の局面的面受の関係になりそうです。
気合いは入れっぱなしですが、ときどき、風船から空気が逃げ出すように、息抜きをいれながら、ゼミのように--といいましても、一人ゼミはないでしょう!--お互いに切磋琢磨するように授業を組み立てております。
これも貴重な経験です。
さて--。
哲学とか倫理学って一見しますと何か出来上がった体系とかシステムとか理論の様相が強い学問ですが、実際に携わってしまうとそう簡単なものでもありません。
そのように〝見える〟知見に耳を傾けながら、自分の口蓋で咀嚼していく学問とうのがその実情です。だからこそ、「いつもながら」のような体系に一見すると見えますが、実際にやってみるとそうではない側面が豊かに紡ぎ出されてしまうのでしょうか。
また自分としては大家とかの意識が全くないといいますか、実際には底辺をさまようヘタレ小僧ですので、履修してもらうだけで「ありがたい」わけですので、そうした感覚の所為でしょうか、一緒に学んでいるって感覚が濃厚で、教師というスタイルはとっておりますが、その所為もあってか、まさに「日に日に新たに」ってところです。
哲学的解釈学者ガダマー(Hans-Georg Gadamer,1900-2002)が「究極の解釈ということは、自己矛盾であるように思われる。解釈は常に途上にある」と指摘するとおり、この「究極の」完成品なんだオレとか、オレのコンテンツは「究極」なんだと思うことなく、常に「途上にある」って感覚を意識的にでももっておかないと腐敗はそこからはじまっちゃうんだよな--そう強く実感する毎日です。
……というわけで、「途上にある」ってことを深く痛感するために先日、新しい傘を購入しました。
これまで丸善の「こうもり傘」を使っていたのですが、いつも同じではオモシロクないって寸法で、24本骨組みの和傘を購入した次第です。
大学へ出講した火曜・水曜はあいにくの雨模様でしたが、さっそく「和傘」でチャレンジしたものですが、なかなか新鮮な感覚です。
ナイロン張の安物ですが、鬱陶しい雨なのに、なにか心が楽しいというのがいいですね。
その勢い余ってでしょうか……。
ちょいと贈り物の購入が必要でしたので、そごうへ寄った折り、要もないのに文具店を覗き始めましたら、ドイツのLAMYのSAFARIラインの万年筆が手頃な価格で出ておりましたので、衝動買いまでしてしまいました。
これも安物ですが、思い出深い一品です。
小学校4年生のときに、自分の万年筆ライフはスタートをしますが、最初に手に取ったのが、親からプレゼントしてもらった、このLAMYの万年筆です。スポーティーなデザインですが、インクののりも良く、中学1年で壊れるまで使い続けた思い出があります。そのあとはパイロットを経て、ペリカンへ定着するわけですが、
「懐かしいー」
……って思うと同時にお会計にならんでいた自分がおりました。
ま、これは「究極の解釈」として完成している人間にはできないという意味では「途上にある」人間の好事例ということでしょうか。
帰宅すると細君が、「初亀 富士山」(初亀酒造(株)/静岡県)を買っていてくれましたものですから、この吟醸酒で、ちょいといっぺえやってから寝〝直〟しましょうかと思います。
ひとくち、くちにふくみましたが、水のようにさわやかでありながらも、気品ある香味に驚きました。
日本酒といえば、どちらかといえば日本海側を想像する嫌いがありますが、太平洋に面した静岡の酒もなかなかどうしてです。
イメージだけで判断するともったいないものですね。
その意味では、日本酒道……そんなのあるんけ?ってツッコミはなしヨ……においてもまだまだ探求の「途上にある」って感覚をわすれてしまうと、酒を本当に楽しむことは不可能かもしれませんね。
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