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2010年5月

「正しい人間主義というのは自動的に始まるわけではない、とお答えしておきましょう」。

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 E あなたに時々「反人間主義」というレッテルが貼られたことがありますが、それは理解できますか?
 L=S 正しい人間主義というのは自動的に始まるわけではない、とお答えしておきましょう。人間を世界の他のものから切り離したことで、西洋の人間主義はそれを保護すべき緩衝地域を奪ってしまったのです。自分の力の限界を認識しなくなったときから、人間は自分自身を破壊するようになるのです。強制収容所をご覧なさい。また別の平面では、環境汚染があります。これは強制収容所ほど目にはつきませんが、しかし人類全体に悲劇的結末をもたらすのです。
    --レヴィ=ストロース/エリボン(竹内信夫訳)(遠近の回想』みすず書房、1991年。

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どうも宇治家参去です。

暦の上では、給料日後の最初の土日ということで、市井の職場で忙しい連日を過ごさせて頂きましたが、すこし、またまた「人間とは何か」について考える契機を頂いたようですので日記として残しておきましょう。
※twitter読者?には恐縮ですが同じネタになりますがご容赦を。ただもちっと詳論にはなりますが(苦笑)。

さて、本日は降雨との予報でしたが、なんとか東京では終日、その事態をさけることのできた一日でしたが、お陰でこちらはレジ地獄……というヤツでしたが、食品レジをずんやりと打っておりますと、怒声が彼方から聞こえるではありませんか!

「んだ、てめえー、 ぶっ○ろすゾ!」
「論理的に悪いのはアナタでしょう」

どうも穏やかではない会話が木霊するではありませんか!

諍いのやりとりのボリュームが大きかった所為でしょうか。
レジに並んでいるお客様も顔をしかめるばかり……。

とわいえ、宇治家参去もレジ打刻中ですので、放置して仲裁にはいるわけにもいかず、、、(⇒ちょいとラッキー?)

……ってところでしたが、上席のMgrが対応に入り、事案としては、なんとなく「クローズ」させることができたようでしたが、、、後で詳論をきくと、ちとドン引きといいますか、

「にんげんといういきものとは何ぞや」

……などと、紫煙をくゆらせつつ、頭を抱えさせて戴いた次第です。

今回の闘牛場に参加された面々は以下の通り!

30代(……たぶん同じ世代)、首まで入れ墨をいれているのですが、本業(893)ではない、いきがっているニイチャン。

しかも入れ墨は「入れ墨」ではなく、「プリント」であることが明らかですので、なんだかなアって感じで、「本業に失礼だろう」ってひとりつっこみを入れつつ、目の前のお客様のレジ応対をしていましたが、なんでそんな差違が見抜けるのか……ってツッコミはご容赦を……って、小学校の同級生のおじいさんが墨師でしたので……。

……もどります。

もうお一人は、あきらかに70オーヴァーの壮健なご老人。
ノーネクタイでしたがブラックスーツがちょいと鯔背を醸し出す、背筋の「ピーン」とした絵に描いたような「はっきりとものをいう」ような御仁でございました。
※みてくれで判断するのは、人間論的にはかなり問題のあることですが、目の前で見たわけで絵に描いたような典型的な事案であっただけに何も言えません。

さて……、

要するに、

その前者の似非893のプリント入れ墨ニイチャン、ちょいと酒もはいっていたようです。ご婦人とお買い物に来ていたようですが、レジを通った後、GMSは基本的にセルフですから、袋詰めをてまえでやってもらうわけですが、その袋詰め台(=サッカー台)で、購入後の商品を食らいつつ、座っていたんでやんす。

その目に覆うような光景を眼差した(@レヴィナス)壮健なご老人!

「それは違うだろー」

……ってことで、ひとこと「注意」をしたようですが、例の如く逆ギレ。

大声で騒ぎ出す始末ですが、似非893氏ですから、、

「ぶっ○ろすゾ!」

等々NGワード連発という有様でござんす。

上席のMgrが間に入り、結果としては「手が出る」ような事態には陥りませんでしたが、

昨年100歳で没したコレージュ・ド・フランス(Collège de France)教授、思想家のクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908-2009)の回想録でのコトバ、すなわち「自分の力の限界を認識しなくなったときから、人間は自分自身を破壊するようになるのです」という一節をかみしめる次第です。

なんども詳論しておりますので詳細は措きますが、「人間とは何か」という問いが即自的な問いとして提示されるとき、存在のそのものの把握として、そこに「有限存在としての自覚」がない限り、人間の存在把握、了解というものは実のところ、うまく機能しないのでは……ふとそのことを再確認した次第です。

たしかに、人間は何でもできるのでしょうが、それと同時に何もできない……その翠点@南方熊楠を喪失した場合、とてつもなく恐ろしい事態を招来してしまうのではないか、そして最終的には、「人間は自分自身を破壊」してしまうのでしょう。

これは理念と現実の存在者との対峙の問題(理念による存在の規定と、存在からの理念の規定という問題)ではありませんが、自己自身の存在をどのように把握するかという意味では同じような性質を持っているのかも知れません。

似非893氏も人間であれば、注意したご老人も人間であり、その光景におびえているお客様も人間であれば、「直接対応しなくて、正直ホッとした」宇治家参去も人間であるわけですが、まあ、人間とは、いずれにしましても一様に定義できない存在であるけれども、その存在の自覚としての「凡夫の自覚」「被造物の自覚」というのはどこかになければ、簡単に「人間」という舞台から自ら降り、非・人間的な存在者として自らが振る舞ってしまうのかもしれません。

さて……。
繁忙タイムがすぎて、売り場の確認をしておりますと、近況の気になる後輩と遭遇!

「どうも」

……脇で少しコトバを交わして、

「近いうちに飲みに行くか!」

って声をかけると、

「じゃア、今日行きますか、自分大丈夫ですよ」

……ってことで、「今日は金ないし、すこし疲れて休みたいし……」って想念が経巡りましたが、そんなことをパロールしてしまいますと、「男が廃る」というわけで、

「よし」

……ってことで、24時頃から「呑みに逝って」しまいました。

なぜ逝くのか。

「正しい人間主義というのは自動的に始まるわけではない、とお答えしておきましょう」。

ほんとは、最近頭を抱えることが多くて、ただでさえキャパシティの少ない頭が悲鳴を上げているわけですが、あたまだけでなく財布も躰も悲鳴をあげてはいるのですが、そこで「もういいや」ってなったり、「関係ねえや」ってなってしまうと、人間存在の探究というものはおわってしまい、現実の存在者とは関係の薄い公定の主義主張のみが先行し、認識が存在を分断してしまうことが多々ありますので、そうした選択を避けながら、そしてその悲鳴を悲鳴で終わらせることなく、生きていく上でのなにがしかの糧にはしたいと切に願う宇治家参去です。

ただ、この相剋を超越するのはなかなか難しゅうござんすが、まさに「正しい人間主義」というものがどこかにでーんとあって、それが「自動的に始まるわけではない」ですから現実というフィールドワークのなかで考察し、実践していくほかありませんネ。

ま、ただ……、
①魚は少し干したやつが、かえって旨みが凝縮されている点を再発見したこと。
②近況の気になる後輩が元気だったこと。
③そして宇治家参去に会いたかったので、勤務先の店舗まで探しに来てくれた事。

このことは収穫であり、まあ、いろいろある人間生活世界ですが、まだまだ……

「捨てたものじゃアねえナ」

……と伝法な口調になってしまいましたが、レヴィ=ストロースの言葉はしっかりと受け止め、人間存在の探究を倦むことなく継続しなければと決意する宇治家参去でした。

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「(まるで、冬だ) 今日は泥行火に火を入れる」

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 三日も、雨が降りつづいている。
 今年は残暑がきびしく、夏が好きな藤枝梅安も、さすがに、うんざりしてしまったものだ。
 裸になっても寝苦しかった夜な夜なが、つい先ごろまでつづいていたのに、雨になってからの冷えは、
 (まるで、冬だ)
 冬が嫌いな梅安は、なんと、戸棚の奥から泥行火(どろあんか)を引き出し、そこへ足を入れて寝ころびながら、夕飯後の一時を、とろとろと微睡んでいた。
    --池波正太郎「梅安初時雨」、『梅安蟻地獄 仕掛人・藤枝梅安(二)』講談社文庫、2001年。

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どうも宇治家参去です。
いやはや、どうしたものか、藤枝梅安がツィッターをやっていたら、

 「(まるで、冬だ) 今日は泥行火に火を入れる」

などとぼやきそうですが、藤枝梅安ならずとも、つい先日までは夏の陽気で辟易していたものですが、うってかわって今日は真冬のような?肌寒い一日でございました。

五月末ですのに間断の差の激しい不思議な気候です。
皆様のご自愛専一心よりお祈り申し上げる次第です。

さて、こうした季節はずれの寒い一日は、やはり「湯豆腐」でしょう。
池波正太郎先生(1923-1990)も様々な作品で、梅雨時の「湯豆腐」を推奨されております。その作品に倣って、宇治家参去もさきほど湯豆腐をこしらえた次第です。

小さな土鍋で似ましたが、椀に移し替えました。

これからいっぺえやって沈没です。
いや~あ、最近、まったく思想的格闘戦を展開しておらずすいません。
およっ、元からやってないやんけ! ……ってツッコミはご容赦を。

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例えば、英語を母国語とする人が、日本の古代語を学び、『万葉集』を読む場合、もし、『集』中に多出する「恋」の語を、Loveで置き換えて理解したら、一体、どんなことになるだろう。

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 『コーラン』の内容について、『コーラン』自身をして語らしめるという右の原則は、勿論、『コーラン』の原語、つまりアラビア語、を以ってすることである。当然のことだ。例えば『コーラン』の英訳書を持ってきてそれを精読し分析し、それに基いて『コーランの倫理思想』を打ち立てる、というような愚を犯す人は、おそらくいないであろう。
 だが、危険な陥穽は、思わぬところに、微妙な形で我々を待ち受けているのだ。それは、原典を原語で読みながら、原典のコトバを、ほとんど無意識で、我々自身のコトバにすりかえて了解することがしばしば起こるからである。つまり、我々が自分の母国語の概念を原テクストの中に読みこんでしまい、そのテクストの重要な語のすべてではないまでも、多くを、自分の母国語でそれに対応する(と考えられる)ものにすりかえてしまう。それによって原典は、いわば我々の母国語に翻訳されてしまうのである。
 例えば、英語を母国語とする人が、日本の古代語を学び、『万葉集』を読む場合、もし、『集』中に多出する「恋」の語を、Loveで置き換えて理解したら、一体、どんなことになるだろう。
    --井筒俊彦「意味の構造 コーランにおける宗教道徳概念の分析」、『井筒俊彦著作集4』中央公論社、1992年。

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中世神学とイスラーム思想は、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の受容をめぐって深い関係にありますので、きちんとイスラームも読んでおかなければなりません。

昨年から研究所の輪読で、イブン=スィーナー(Ibn Sīnā、ラテン名アヴィケンナ、Avicenna、980-1037)のThe Metaphysics[ of The Healingをアラビア語テクストで読み始めることになり、アラビア語も始めたのですが、なかなか難儀で進みません。

輪読では、ラテン訳、英独仏訳で対応させながら、読んでおりますが、おかげで3時間で10行いくかどうかという進行状況で、まあ、いつになったら終わるのやら?……との感慨が深くこみ上げてくる次第ですけども、途中で投げ出さずに最後までやり通したいと決意する宇治家参去です。

翻訳の理解の問題に関しては私淑する大学者・井筒俊彦(1914-1993)先生が冒頭で指摘しているとおりですが、まあ、この誤読のレベルにすら達していないわけですが、語学を磨くながらで、思想としてそれを扱う人間は、「多くを、自分の母国語でそれに対応する(と考えられる)ものにすりかえてしまう」陥穽を深く自覚することだけは大切かもしれません。
※ただまったくこの部分から自由になることはマックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)が客観性論文のなかの価値自由の問題で指摘している通り、基本的には不可能でありますので、そのことを「自覚する」ことしかできないのでしょうし、その「自覚」があるからこそ、陥穽から抜け出すことが可能になるのだと思われますが、ひとまず措きます。

さて、昨日は日中は集中的に仕事にとりくみましたが、宇治家参去はアメ車ばりに燃費が悪いことで有名ですので、夕方からちょいと飲みに入ってしまいました。

近所のさかなや道場ですが。

無性に「カツオのタタキ」が食べたくなり……、

「宇治家参去が財布を負担するのであれば」

……との「条件付き了承」(なんか論文を雑誌に掲載するときの判断ペーパーのような表現ですが)ということで、出かけたのですが、生憎、「カツオのタタキ」はなかったようで、少しガックシ。

ただ、マグロの炙ったヤツはありましたので、そちらで楽しませて戴いた次第です。

結局、夜は仕事にならず、DVDで映画などを見ながらゆっくりと息抜きさせて戴きましたので、今日からまたガリガリ・ゲシゲシ、積み重ねていこうかと思います。

研究だけでなく、研究の土台を支える諸言語の学習も錆が出ないように、定期的にメンテナンスが心がけつつ、今日もがんばっていこうかと思う次第です。

でわ!

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「学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなく、その仕事(ザッヘ)に仕える人のみである」!

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 さて、学問上の霊感はだれにでも与えられるかというと、そうではない。それは潜在的な宿命のいかんによって違うばかりではなく、またとくに「天賦」のいかんによっても違うのである。これは疑うべからざる事実であるが、この点と関連して--といってもこの事実を結局の根拠としているわけではないが--近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは、「個性(ベルゼンリヒカイト)」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。この種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。そして、そいれが得られなかったばあいには、人はすくなくともこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。かつてはこの「体験」の意味での「センセーション」ということばがドイツ語的に使われたものであった。また、「個性」ということばも、以前にはもっと適切な表現があったように思う。
 さて、お集まりの諸君! 学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなく、その仕事(ザッヘ)に仕える人のみである。しかも、このことたるや、なにも学問の領域ばかり限ったことではない。
    --マックス・ウェーバー(尾高邦雄訳)『職業としての学問』岩波文庫、1980年。

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ようやく仕事の区切りがつきました。
今週は市井の職場の休日も変則で、なおかつ学問の提出物の締切なんかの副産物的な仕事が山積しておりましたが、ようやく仕事の区切りがひとつつきましたので、昨日は26時に業務を完了し、ひさしぶりにゆっくりと日本酒を味わわせて戴きました。

ちょうど細君が毎月1本、地酒を購入してくれるのですが、新潟の諸橋酒造株式会社の「越の影虎」を今回は準備していてくれたようです。

「越の影虎」はこれまで何度も飲んでおり、「間違いのない酒」というのは承知しているのですが、何度も同じものだと、すこし「またかいな」的な感慨を抱かざるを得ないのですが、少しそうした想念が浅はかでした。

これまでやったのは純米酒×2、なまざけ×1、季節もののにごり酒×2、でしたが、今回も「純米酒」かなと思いましたが、浅はかでした。

「越の影虎 龍」

純米酒よりはランクの劣る「晩酌酒」という部類になりますが、封を切って、ひとくち口にしますと、値段の割には、なかなかいける……という飲み応えで正直、驚いた次第です。

クセのないさらりとした味わいなのですが、次から次へと盃がすすみ、あっという間に飲み干してしまったわけで……、寝たのが5時過ぎでしたので、昼過ぎに起床してしまいました……が、そういうのも大事でしょう。

さて……。
昼から来週の授業の仕込みをしていたのですが、さきほど完了。
これから、学術論文のエントリーシートを作成します。
エントリーが月末締切ですが、提出は締切は9月末となります。

学問の仕事は大きくわけると教育の側面と研究の側面が車輪の両輪となっているわけですが、なかなかこれをバランスよくやるというのは実に難しいものです。

とくに宇治家参去のような身分、すなわち吹けば飛ぶような非常勤というのは、だいたい他にも仕事をしますので、①非常勤としての教育業務、②タツキをえるための市井の仕事のパーセンテージが高く、③研究活動という部分が、援助も保証もなく自分自身で、マア、自腹かつ、自分で時間をこじ開けて探究していかなければなりませんので、これがディスアドバンテージとなってしまうわけで、正直、なかなか時間を確保して、丁寧に探究することが、現実には困難です。

しかしながら、「まあ、しょうがねえや」ってやっていきますと、どんどん負のスパイラルに陥ってしまいますので、全部はできないにしても、ある程度死守する生命線は守っていかなくてはなりませんので、自分としては、「年に1本は論文を書く!」というのをデッドラインにしておりますので、ここは必ず守っていきたいと思います。

ま、嘆いても、まさに「しょうがねえや」ってことですので、チトこれから、エントリーするための要旨を作成しようかと思います。

ただもう少し生産性を高めればよいのですが、もともと、学問向きではないのかも知れませんし、才能があるとも個性があるとも思えませんので、なかなか生産性を上げることができないわけで、まあ、それゆえにアカデミズム底辺でとぼとぼと歩いているという状況ですが、歩み続けるというのは大事かもしれませんネ。

なにしろ、かのマックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)が励ましてくれるわけですから!

「学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなく、その仕事(ザッヘ)に仕える人のみである」!

さて、ザッへへと戻ります。

学問に限らず生活の局面においても「個性」だと「体験」だとか「天賦の才」だといった恣意的な概念に振り回され、「オレだめなんだよなア~」ってなることがあるかもしれませんが、そうした「個性」にしても「体験」にしても、そして「天賦」といった部分も「仕事(ザッヘ)」に“仕える”ことによって展開していくものだと思います。

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「銃猟禁止区域」を解釈するP.リクールの弟子?

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私の一切の企画は、ある意味で、了解と説明のあいだの非生産的な対立を克服することにあります。一報で、了解のモデルは、日常会話でわれわれが他者の生について抱く直観です。他方、説明のモデルは、自然科学における事実の法則への従属であったり、言語学やテキストの構造分析における体系理論であったりします。私見によれば、解釈とは、了解と説明の連続する諸段階を経由する、きわめて複雑な作業であります。了解は説明を包含します。説明は了解を展開させます。
    --リクール(久米博、清水誠、久重忠夫訳)『解釈の革新』白水社、1984年。

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学問の方法論としては哲学的解釈学を遵守する?宇治家参去ですので、了解と説明に関するP.リクール(Paul Ricoeur,1913-2005)の著作を熱心に読みますが、リクールの指摘の通り、了解とは「日常会話でわれわれが他者の生について抱く直観」であり、説明とは「自然科学における事実の法則への従属であったり、言語学やテキストの構造分析における体系理論」であることは承知しております。

ちなみに愛読するのは誕生日はリクールと一緒ということもあるのですが、それはひとまず措きます。

で……。
ただ、現実の生活世界においては、このどちらか一方に重点をおいたものの見方が広く浸透しているようで、そこに悲劇と喜劇の原因があるのではないだろうかと推察される次第なですが、その翠点に位置するのが解釈というきわめて複雑な作業なわけですが、了解と説明を連続させないかぎり、ものごとの意味というものは主観的にも客観的にも理解することは不可能なわけですので、宇治家参去は「解釈」にいそしむ次第でありますが、なかなかどうして世の中は、否応無しに解釈を強いてくるものもあるものだなと納得した一日でございました。

2時間半かけて大学へ出講し、30分前には講師控え室に入ったので、授業までレポート添削を少々やりつつ、準備もあるので、授業開始前に片づけてから教室へ向かうと、たったひとりなのですが、「倫理学」の受講生と正面ロビーで偶然遭遇!

「センセ、今日は、なんとかの説明会があるんで、4限目はないんですヨ」

「およっ?」

……ってことで教務で確認すると、そのようで……。

事務方の連絡ミスの様でございました。

大学行事都合による休講でした!

「ガボン共和国はどこに位置するのだろうか?」

……などと松尾芭蕉(1644-1694)ばりに彼の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」ごとく、「ガボン共和国はどこに位置するのだろうか?」という想念が「かけ廻る」次第ですが、、、

精確には「ガボン」ではなく「が、がびーん」

……というところです。

悔いてもしょうがないので、そのまま東京へと引き返しましたが、

「ままよ」

……って何が、「ままよ」なわけではありませんが、千葉駅で下車。
iPadのSoftbank版(3G通信対応版)を扱うのは限られた直営店のみですので、まあ、気になるし、こういう衝動買いこそ精神を潤すには一番いいし……、今日は平日で人も少ないだろうし……自動的に脳内CPUが状況を整理した結果、勢いで予約に足を運んだのですが・・・

「初回予約分はすべて終了で、発売日以降の順次のヤツで……」

……って話になり、

またまた、、、

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」ごとく、「ガボン共和国はどこに位置するのだろうか?」という想念が「かけ廻る」次第です。

ここで凹んでしょうがないので、市井の仕事が始まるまで、月末締切の教員公募の資料作成をしながら、仕事へいってきた次第です。

さきほど、ようやく1つ終わりました(2つ締切なので)。

つーことで、今日はかな~り疲れた次第です。
しかし、起きてからまた1つ決着をつけなければならないのですが、市井の仕事もあるわけで……。

考えても仕方がないので、ひとまず、鯨飲することが先決のようでございます。

リクール曰く、「了解は説明を包含します。説明は了解を展開させます」。

ま、これが人生の醍醐味ですわな。

……つうことで、壊れて寝ます。

あ、そうそう。
ひとつ「おもしれー」って思ったことがあったのでひとつ紹介しておきます。

アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)は次のような言葉を残しております。

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けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合にもあのように、智恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしその始めには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 上』岩波文庫、1961年。

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アリストテレスは哲学は「驚異」から始まると論じたことは有名ですが、それがどこから始まるかと言えば、「ごく身近な不思議な事柄に驚異の念」を抱くところから始まるようであり、自他共に認ずる「瑣末なところにまで注目」する倫理学者であるわけですから、大学を後にしてもより駅へ向かう道中……といっても歩いて7分ぐらいですが……、不思議な看板を発見!

「銃猟禁止区域」

……たしかに、このへんは都心からするとかなり田舎ですし、じぶんは銃砲がすきですが、

それでも、「銃猟するほどの地域ではないだろう! 住宅地域やんけ」

……思わず、独り言が脳内独り言でななく、音声を伴ったひとつの言葉として紡ぎ出されてしまいました。

つうことで、こんな駄文をかかずに、とっとと壊れて寝ます。

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学問は「なにを意欲しているか」を説明してくれたので、寝るという選択を決断します。

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 経験科学は、なんぴとにも、なにをなすべきかを教えることはできず、ただ、かれがなにをなしうるか、また--事情によっては--なにを意欲しているか、を教えられるにすぎない。
    --マックス・ヴェーバー(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』岩波文庫、1998年。

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最近、気になることが三つあります。

一つは、混迷する政界に鳩山由紀夫(1947-)センセーがどのようなけじめをつけるのかということ。

一つは、胡椒を鼻で吸うとどうして大きなくしゃみをするのかということ。

一つは、バナナの皮を踏むと、どうして転ぶのかということ。

経験科学--ここでは講義の意味で捉え、狭義の自然科学のみならず社会科学もいれましょう--はその理由を説明してくれるわけですが、意味はおしえてくれません。

三つの人生の大問題を解明するためには、いま、何がひつようなのでしょうか。

まさにヴェーバー(Max Weber,1864-1920)がいう「なにをなすべきか」というところですが、

それは……

「寝る」

……というところでしょうか。

でわ、だいぶ壊れてきているので、寝ます。

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「だれでもいい、アメリカ人や、イギリスのビジネスマンに向かって、生活の楽しみを一番じゃまするのは何かと聞いてみるとよい。彼は、「生存競争だ」と答えるであろう」といわれても

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 だれでもいい、アメリカ人や、イギリスのビジネスマンに向かって、生活の楽しみを一番じゃまするのは何かと聞いてみるとよい。彼は、「生存競争だ」と答えるであろう。彼は、まったく本心からこう言うだろうし、そう信じこんでもいるだろう。ある意味では、これは本当だ。しかし、別の、それもきわめて重要な意味では、これは根本的にまちがっている。生存競争は、もちろん、たしかに、起こるものだ。運が悪ければ、私たちのだれにだって起こるかも知れない。(中略)……人びとが生存競争ということばで理解しているのは、実は、成功のための競争にほからない。この競争に参加しているとき、人びとが恐れているのは、あすの朝食にありつけないのではないか、ということではなく、隣近所の人たちを追い越すことができないのではないか、ということである。
 次のような事実を真に理解する人がほとんどいないらしいのは、なんとも不思議である。すなわち、人びとは、逃げ場のないメカニズムにがっちり捕えられているのではなくて、踏み車を踏んでいるのであり、いつまでもそれをやめないのは、踏み車で自分を高いレベルに引き上げることはできないという事実に気づいていないためにほかならない、ということである。もちろん、私がいま考えているのは、実業界で高い地位についている人たち、つまり、すでに相当な収入があり、その気になれば、現在持っている財産で生活していける人たちのことである。そんなことをするのは、まるで敵を前にして軍隊から脱走するのと同じように、彼らには恥ずべきことに思われるだろう。それでいて、彼らは仕事を通してどんな公共の目的に奉仕しているのかと尋ねるならば、奮闘的な生活の広告に見られるような陳腐なきまり文句を並べたてたあとは、すぐに返事に窮してしまうだろう。
    --ラッセル(安藤貞雄訳)「競争」、『ラッセル 幸福論』岩波書店、1991年。

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今週は市井の職場の都合上、休日が変則で、月曜日が「お休み」となりましたが、なにげに月末週ですから、やることが多く、例の如く「休日返上」で、仕事をしていたのですが、なんとなく……、

「間に合いそうにねえ」

……ってところもありつつも、今日はがんばった!という側面も否定できませんのでこれにて閉店しようかと思います。

今週分の授業の準備は済みました!
来週返却のレポート添削は目処がたちました!

あとは、学術誌の論文応募のエントリー、そして教員公募のエントリーがおなじく今週中なのですが、、、

寝てから考え=挑戦しましょう!

今日はがんばった、よし!

……っていう感覚も大事ですよね。

……つうことで今日は閉店です。

ただ、これが、周りの人間からいわせると、

「お前は、本気になっていない」

とか、

「お前は勝ちたくないのか」

……って弾劾されるわけですが、

「本気になっていないわけでもなく、勝ちたくないわけでもなく……、とりあえずひとつづつ片づけていくだけなんですが」

……って返答してしまうと、

「だからお前は駄目なんだ」

……って凹ってくれるわけですが、ふう~む、これだけはなかなか治療できません。

感覚としての問題かもしれませんが、彼我の相対における「勝他の念」っていうのが、あんまりないんですよね。

呑気といえば呑気なのですが、それはそれでひとつのカラーだと思ってしまうわけですけども、いかがなものでしょうか。

ただ、この性分を細君に「呑気なんだよねえ」と表現することは『虎の尾を踏む男達』(黒澤明、東宝、1952年〔製作は1945年〕になってしまうので……ようするに「呑気」とは「(酒を)呑む気概」ですから、とほほ……そのような表現はしませんが、幸いすでに寝付いておりますので、、、

サア、いっぺえやって寝ようではありませんか!

なかなかフランクな日記となってしまいました。

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是雪の浅き国の楽み也

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 暖国の雪一尺以下ならば山川村里立地(さんせんそんりたちどころ)に銀世界をなし、雪の飄々(へうへう)翩々(へんへん)たるを観て花に諭(たと)へ玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽(たのしみ)を添へ、画に写し詞(ことば)につらねて称翫(しょうくわん)するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。
    --鈴木牧之編撰(京山人百樹刪定、岡田武松校訂)『北越雪譜』岩波文庫、1978年。

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今日は市井の職場が休みでしたので、一日中家にこもって学問の仕事をしておりましたが、あまり〝籠もり〟すぎるのがよくないのと、そして煙草が切れてしまったという喫緊の理由によって、夕方、ちょいと雨の降る外の世界へと旅立ってきましたが、強く降ったり弱く降ったりする雨のちょうど、後者の方でしたので、煙草を買い求めると共に、すこしゆっくりと散歩させて頂いた宇治家参去です。

弱い雨とはいえ、「服が濡れる」というのははなはだ心地よくないものですが、それでも梅雨どきにくらべるとその「濡れ」の「ひんやりさ」がかえって心地よく、まあこれは梅雨でも真冬でもないからそう思うわけなんだよなと一人納得した次第です。

目に映る青葉も雨に濡れて心地よく、鋭気を養っている様に、季節の移り変わりと、目に映る草花に自然の営みの美しさと詞を結びつける本朝の美意識に感謝しつつゆっくりと歩んだわけですが、結局衣類はびちょ濡れというわけですので、頃合いを見て引き返した次第です。

自宅へもどってから、「多雨」でも「薄雨」でもないからこそ「雨」が美しく、「豪雪」でも「薄雪」でもないからこそ「雪」が美しく「感じる」、そして「梅雨」でも「炎暑」でも「酷寒」でもないから「心地よい」という感覚を反芻したわけですが、たしかこれはどこかに書かれてあったなアと思い出し、江戸後期の随筆家・文人、鈴木牧之(1770-1842)の手による越後魚沼の雪国生活を活写した『北越雪譜』を本棚から探したわけですが、ありました!

うえに引用したのがそれですが、まあ、たしかに「是雪の浅き国の楽み也」というわけで、「是雨の浅き一日の楽み也」というところでしょうか。

さて……。
気分転換も済みましたので仕事の世界へと旅立ちます。

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「もし人を憤激させ、抗議と反抗を呼び起こし、弾圧の必要を生みだすようなものがなにもないとするならば」

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 レーニンは国家の死滅を論じつつ、「もし人を憤激させ、抗議と反抗を呼び起こし、弾圧の必要を生みだすようなものがなにもないとするならば」、共同生活の掟を守るという習慣でもって強制のあらゆる必要性をなくすことができるとのべた。このもしに全核心がある。ソ連の現在の体制はいたるところで抗議を呼びおこしている。抗議は抑えつけられれば抑えつけられるほど熾烈になっていく。官僚は強制の機関であるだけでなく、不断の挑発の源でもある。貪欲で嘘つきで厚顔無恥な支配者カーストの存在そのものが、隠然たる怒りを生みださずにはいない。労働者は物質的状態が向上しても権力と和解しない。そのことで労働者は逆に尊厳を高め、全般的な政治問題にむけてみずからの思考を解放することによって官僚との公然たる衝突を準備する。
 更迭されることのない「指導者」たちは、「学習」、「技術の習得」、「文化的自己修養」の必要性とか、その他のきれいごとを好んでくりかえす。しかし当の支配層自身が無学で教養が乏しく、なにものもまともに学ぼうとせず、不誠実で、態度粗暴である。それだけに社会生活のすべての領域を後見し、協同組合の商店ばかりでなく音楽の作曲まで牛耳ろうという官僚の欲望はいっそうがまんのならないものである。ソ連の国民は簒奪者カーストへの恥辱的な隷属から解放されないかぎり、より高い文化の段階にのぼることはできない。
 役人が労働者国家を食いつくすか、それとも労働者階級が役人をしまつするか? これが現在の問題であり、ソ連の命運はこの問題の解決いかんにかかっている。
    --トロツキー(藤井一行訳)『裏切られた革命』岩波文庫、1992年。

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10年ぶりに本棚からトロツキー(Lev Davidovich Trotsky,1879-1940)を引っ張り出してきて読んでおりますが、考えさせられることが多いなあと実感する宇治家参去です。

革命史においては、赤軍創始者として武闘派的なイメージが払拭できないところがありますが、文芸評論家としての顔ももっておりますので、状況認識と、そこからの未来図式への組み立てには卓越したところがあり、精緻な理論家というよりも、理論の実践家としての側面に、ひとつの特色を見いだすこともできるのではないだろうかと思われます。

さて、うえの文章は、ソ連(当時)を追放後、スターリン体制を批判するために書かれたものですが、ここでトロツキーが警鐘をならしているのは、スターリン体制におけるソ連だけの問題ではないだろうと考えさせられる次第です。

官僚主義批判と読んでもいいのでしょうが、優秀な官僚を使いこなせない本朝の政治家たちの姿をみるにつけ、「はあ、たしかに」と思わざるを得ません。

無能な政治家が国家を食いつくすか、それとも民衆が政治家をしまつするか? これが現在の問題であり、命運はこの問題の解決いかんにかかっている……というところでしょうか。

政権交代は必要不可欠なことは存知なのですが、昨今の言動をみるにつれ『裏切られた政権交代』と思わざるを得ず、気分はまさにトロツキーというところでしょうか。

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「自由に働き得た『余地』」に関する一考察

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 仏像の相好はただ単純な人体の写実ではなく、非常な程度の理想化を経たものである。そうしてその理想化は、ギリシアの神像においては人体の聖化を意味しているが、仏像においては「仏」という理念の人体化を意味している。が、もとよりそれが造形美術である限り、芸術家は、この理念の人体化に際しても、必ずや彼自身の人体の美の観照を基礎としているに違いない。儀規(ぎき)によって明確に規定され、また絶えず伝来の様式を踏襲しているにかかわらず、東洋各国の各時代の仏像がおのおのその特殊な美をもつことは、単に造像の技巧の変遷のみならず、またこの芸術家の独自なる創作力を考えずには、理解し得られないであろう。自分はここに厳密な様式伝統の束縛にかかわらず、なお芸術家が自由に働き得た「余地」を発見し得ると思う。そうしてこの「余地」こそは、実はおのおのの国と時代の仏像を、その芸術的価値において根本的に規定するものである。
    --和辻哲郎「仏像の相好についての一考察」、『日本精神史研究』岩波文庫、1992年。

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和辻哲郎(1889-1960)が仏像の相好の変遷や日本美術、文芸について、ヘーゲル的歴史主義の精神史(Geistesgeschichte)的立場から、絶妙な筆致で描いた『日本精神史研究』をふたたびひもといております。

たしかに仏像の相好は、「儀規(ぎき)によって明確に規定され、また絶えず伝来の様式を踏襲している」ようにがっちりとした枠組みによってその造像が規定されているわけです。しかしながら、それにもかかわらず、「自由に働き得た『余地』」があるからこそ、伝統と創作性の創造力が絶妙な握手を交わし、芸術的価値が枠組みや独創性から爆発していったんだよなあ……などと思う次第ですが、、、翻って現代社会を振り返ってみますと、芸術的分野に限らず、教育、政治、社会、生活などあらゆる分野で「自由に働き得た『余地』」がなくなりつつある……そう実感する宇治家参去です。

ま、そこに、限界と空転のひとつの原因があるのではなかろうかと推察される次第ですが、広く言うならば、社会全体としての余裕というものが喪失しつつあるというところでしょうか。

さて……。
仏像の相好を考察しておりますと、なにやら、造像の大国・中国の料理が食べたくなってしまいましたので昨夜は近所のバーミヤンにいった……手近な近所にキチンとした中華屋さんがないので(涙)……次第です。

ファミレスとはいえ、やはりキチンと火力をつかって調理された中華はいいなと思いつつ、同時に、そういいましてもかなり日本ナイズされているという意味では、中国式の造像が日本式に転換していく過程と同じだわなと思いつつ、家族で楽しんだわけですが、、、。

「激辛」仕様にした「本格四川マーボー豆腐」は辛かった!
自宅ではカレーにしろ、マーボー豆腐にしろ、おこちゃま向けの激甘仕様になりますので、ここはひとつ「激辛」にいたしましたが、「やみつきになる」辛さでした。

生ビールは2杯頂きましたが、辛さのお陰ですぐさま蒸発するわけです。
〆は何にしようか迷ったわけですが、激辛故に判断を迷わされたのでしょうか、梅酒ロックが100円でしたので、マアこれはお財布にも優しい!ということで、10年ぶりぐらいに頂戴しましたが、

「甘かった!」

ま、いずれにしましても、中華料理をうたいつつ、石仏とタリバンの破壊で名高い、アフガニスタンの都市の名前である「バーミヤン」が名前になっているのはなぜだろう……とひとつ考え込んでしまったわけですが、それはそれでひとつの「自由に働き得た『余地』」ということでしょうか。

ま、いずれにしましてもリーズナブルに楽しませて戴きましてありがとうございます。

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「そこへハイゼンベルクの革命が起こって、すべてを問い直した」わけですが、、、激萎えです。

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 科学的決定論と科学的非決定論のあいだの争いは、いわば停戦状態にあった。そこへハイゼンベルクの革命が起こって、すべてを問い直したのである。この革命は、まさしく、客観的な非決定性を確立しようとする。ハイゼンベルク以前には、独立変数にかんする誤差は独立であると仮定されていた。各変数について別々に研究し、それをますます精確なものにしていくことができた。実験家は諸変数を孤立させ、その一つ一つについての研究を完全なものにしていくことが、いつでもやれると思い込んでいた。つまり、彼は抽象的な実験に信をおいていたわけで、測定が障害に出会うとすれば、それは測定手段が不十分だったためであるとしか考えられなかった。ところがハイゼンベルクの不確定性原理があらわれて、誤差の客観的な相関が問題になる。
    --G・バシュラール(関根克彦訳)『新しい科学的精神』ちくま学芸文庫、2002年。

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基本的にどこでも使うファイルは、16GのmicroSDにぶち込んで利用しております。
ただぶっこわれる心配もありますので、徐々にDropBox、Sugarsyncへとファイルを振り分けてオンラインストレージで管理しようと引っ越しはしていたのですが、、、

昨日、何が原因かわかりませんが、microSDがクラッシュしてしまったようでございます。
おバカですので、古いファイルから引っ越しをしておりましたので、作業途中のファイルはまだ引っ越しが済んでいない状況でしたので・・・

取り急ぎ、復旧ソフトをダウンロード……この7700円の出費も痛いのですが……購入して、復活を試みたのですが……。

一部はサルベージできましたが、完全には復活できず!

激萎えです。

とりあえず、完全バックアップ(外部HDD)で残していたデータはありますので、そこからもう一度組み立て直すしかないのですが・・・

激萎えです。

詩的想像力を重視した科学哲学者ガストン・バシュラール(Gaston Bachelard,1884-1962)がヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg,1901-1976)の革命的業績を美しい文章で表現しておりますが、科学的決定論がどう言おうと、科学的非決定論がどう言おうと、そして「ハイゼンベルクの不確定性原理があらわれて、誤差の客観的な相関が問題」になろうとも、、、

激萎えです。

……ってことで萎んでしょうがないのですが。

亀には、こうした悩みも科学的決定論も、科学的非決定論も、そしてハイゼンベルクの不確定性原理も関係ないのでしょうねえ。

これが人間の人間たるゆえんというところでしょうか。

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しかしそれは要するに無責任な野狐禅か無定見な事大主義でしかない

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 人はしばしばし悟り顔をしてそれを拘泥のない生き方だという。成るようにしか成るものではない。無益な抗争をやめ、小乗的差別相に捉わるることをやめて、大乗的見地に立ち、清濁併せ呑む大度(たいど)を示せという。しかしそれは要するに無責任な野狐禅か無定見な事大主義でしかない。問題は働くことであって見ることではない。われらは生活戦場の戦闘員であってただの観戦武官ではない。人生における二元相剋のこの深刻なる戦いを如何に観ずるかではない。如何に戦うかである。深刻に実践的な問題である。しかして実践的な問題は実践によりてのほか解決できない。観照では解決できない。二と一を観じても二は一にはならない。二は飽くまでも二である。現に刻々われらの衷に又外に二元相たたかいつつある。この二つのうちのいずれに味方し、いずれを抑えようか。その差し迫った実践問題が現実の問題なのである。しかるをこの相剋に超然たれと言うのは、実践的には問題を回避するものであって、決してこれを解決するものではない。さればこそこの超然主義の実践的成果は、無解決のままなる事大主義的大勢順応より他のものであり得ないのである。現に見よ、したり顔なる野狐禅者流が妄りに大乗云々を口にしつつ、無恥無貞操なる時流便乗に得々たるもの数え難きを。
    --三谷隆正「幸福論」、『三谷隆正全集 第二巻』岩波書店、1965年。

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ここ数日内村鑑三(1861-1930)門下の文章を紐解くことが多いのですが、その一人・三谷隆正(1889-1944)の著作を片っ端から読み直しております。「一高(旧制第一高等学校)の良心」、「日本のヒルティ」と謳われ、温厚な人柄で知られた人物ですが、読み直しておりますと、かくかくたる熱い秘められたる魂というものをその文章から観じてしまいます。

たしかに温厚で人柄のよい人物として知られ、門下の中でも「群鶏中の一鶴」と認められるほど「白皙の美男子」だったようですが、魂は熱く、時代思潮と戦う人物だったんだなアと認識を新たにした次第です。

ただこのところ、ひじょーに忙しく、まあこれが「われらは生活戦場の戦闘員であってただの観戦武官ではない」というところの真相であり、本当は「観戦武官」として従軍したいところですが、そうもいかず「戦闘員」として不可避的にかり出されてしまうというわけで、例のごとく考察ができませんですいません。

ま、いずれにしましても、日本という国土世間で顕著にみられる「悟り顔をしてそれを拘泥のない生き方」という「大人の生き方」というやつは、「要するに無責任な野狐禅か無定見な事大主義でしかない」と三谷が断ずるとおりですから、時代に対するもどかしさや生活者として戦闘?するなかで、観ずる違和感については、「感傷」としての「観照」ですませることなく、実践の問題としてきちんと目を開いていかなければなと思う次第です。

--ということで、仕事へ戻ります。

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旨いもの・酒巡礼記(番外編):東京都・国分寺市編「四文屋 国分寺店」、100円玉を握りしめた少年の心で。

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 さて……。
 夏休みになると、市電(後の都電)に乗って、東京の諸方を見物するのが、私のたのしみだった。
 そのころの東京人(びと)は、自分が住む町内から、めったに外へ出ない。
 どの町にも、鮨屋があり、蕎麦屋・洋食屋・中華料理から寄席も映画館も、ところによっては芝居小屋まであった。
 すべて一つの町の中で、用が足りたのである。
 こうした時代に、浅草に住む小学生が赤坂や品川へ出かけることは、一つの旅行だった。
 スケッチ・ブックとクレヨンを抱え、一人きりで、または仲のよい友だちと、にぎり飯と水筒を持ち、一日がかりで出かける。東京の地図を手にしてである。
    --池波正太郎「私の夏(上)」、『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和五十九年。

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私淑する池波正太郎(1923-1990)が少年時代の思い出を綴った一文ですが、東京ではないにしても、少年時代というのは、自分の場合もひとつの町でものごとが「完結」していた節が、思い出としてあります。

浅草ではありませんので、さすがに寄席や芝居小屋まではありませんが、用は済むので、特段の用ががないかぎり、「めったに」というわけではありませんが、「外へ出」なくても済んだように思います。

そうした「外に出ない」で友だちと遊ぶとき、例えば夏時の暑いときなどは、

「遊びに行ってくるーー!」

って家人へ伝え、100円玉を1枚か2枚もらって、遊びに出かけたように思います。
小学生ですから、ジュースなり、アイスをそれで買って、涼を得ていた思い出があります。

大空が紅色に染まるころ、

「またね~」

って、自宅への帰路についた少年時代の自分の後ろ姿が薄ぼんやりと回想することができます。

遊びにいくときにもらった、100円玉。
今の貨幣価値とダイレクトにリンクさせることは不可能ですが、アイスなんかを買って、ガムなんかを買って一杯一杯の魔法の玉。

一枚の硬貨が遊びで疲れ切った躰に鋭気を与えてくれたことは、忘れがたい思い出です。

さて……。
そうした少年における一枚の硬貨で済むのが「焼鳥、焼きとん、焼き鳥 四文屋」ではないかと思います。

今日の東京は夏日でした。
大学での講義を終え帰路についたわけですが、財布のなかは1500円也!(うをぃ!)

しかし、今日の東京はあっちい一日でして……。
夜には用事はない(⇒学問の仕事はどんだけでもありますが、ひとまず措きます)ので、国分寺でふらふらっと降りてしまうと、そのまま「赤提灯」へと自動的に足が向いた次第です。

何度か利用はしているのですが、マア、宵の口から入るのは初めてでしたが、ここはサクッと、

生ビールをお願いして、クィックメニュー……焼き鳥・焼き豚はオーダー入ってから焼くのでちょいと時間がかかりますので……の「煮玉子」をお願いするという定番セレクトですが、

この「煮玉子」が旨いんです。
濃厚な煮込みの汁で煮込んだ玉子というわけですが、モツ煮込みでもない、おでんでもない、「煮込んだ玉子」でして……。甘辛い濃厚な味わいが疲れをふきとばしてくれるというものです。

串は、本日のおすすめの「豚ミミぽん酢串」と「豚ハラミスジ串」をお願いしました。
国分寺店よりも、中野、阿佐ヶ谷の店舗の方がいい仕事をしていると聞きますか、なかなかどうして、いや~ア、いい仕事をしております。

豚ミミは、あっさりポン酢と葱でさっぱり頂きましたが、弾力のあるミミとしゃきしゃきした葱とのバランスがよく、串を抜いてからゆっくりと頂戴しました。

ハラミスジは、濃ゆ~いタレ焼で、あつあつをふうふういいながらほおばりますと、味わいは「おお、焼き肉やねん!」とひとり悦にひたりながらも、同時に、スジの「食べ応え」にニンマリとしつつ、

これにてサクッと終了した次第です。
この手の立ち飲み風焼き鳥屋さん……立ち飲みではありませんが……というものは、サクッとやってサクッと立ち去るのがベストですから、10分少々にて店を辞した次第ですが、いや~あ、いいリフレッシュになりました。

ずんやりと飲み続けるってやり方も大事ですが、こうさらってやるのも粋なものでございます。

さて……お会計。
生ビールが500円、串・玉子が各100円にて、800円也!

少年時代の宇治家参去が駄菓子屋さんで、遊び疲れた折、握りしめた100円玉を片手に吟味のすえにセレクトしたアイスやキャンディーに満足したような爽快感に感謝です。

店をでた時間は、黄昏というにはまだはやい時間でしたが、少年時代の自分自身がどこかで今の私に手を振っている……そうした錯覚を覚えた次第ですが、

まあ、また用事がないときに、サクッといきましょう!

■ 四文屋 国分寺店 
東京都国分寺市本町3-5-1 1~2F
TEL 042-326-2122

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二時間の講義おへしかば雨はるる校庭の若葉ぬれて光るも

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二時間の講義おへしかば雨はるる校庭の若葉ぬれて光るも
    --南原繁『形相』岩波文庫、1984年。

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ツィッター的にサクッと。雨上がりの新緑ではありませんが、今日の大学は爽やかな陽気を通り越して「暑い!」と表現せざるを得ない状況です。

これから授業をしてきます。

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最高で、最も稀な目的のためにこそ取っておかれるべき手段を用いて、追求されるべきものではない!

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なんでこんなに政治や経済が混迷を深めてしまうのでしょうか。
細君が、「哲学者の観点から解説してみせてよ」といいますので、

「飢饉疫癘……」ってはじめるほど野暮ではありませんので、さらりとニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉にて解説に代えさせて戴いた次第です。

実体を虚構とし、虚構を実体として捉える精神の貧困さにその原因があるのではないかと思います。

……ということで、今日も烈しく疲れましたので、チト飲んで沈没だああ!

今日はなぜだからワカラナイのですので、ひじょーにすうぱあどらいが飲みたいので瓶ビールでこれから始めます。

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    一七九
 国家をできるだけ少なく! --一切の政治と経済の事情は、ほかならぬ最も天分豊かな精神の持ち主たちが没頭する必要がありまた没頭しなければならないといった価値はない。精神のそのような浪費は本当は緊急事態よりも悪い。それは比較的乏しい頭脳の持ち主のための労働領域であり、これからもそうである。乏しい頭脳の持ち主以外の者は、こうした仕事場の役に立つべきではないであろう。むしろ機械がもう一度ばらばらになった方がましだ! しかし現在の有様のままでは、すべての人々は日々その事情を知らなければならないと信じているばかりでなく、だれでもあらゆる機会をとらえてそのために働きたいと望み、自分自身の仕事をそのために諦めるのであり、これは大きな滑稽の狂気の沙汰である。「公共の安寧」は、この代価ではあまりにも高すぎる。そして最も愚かなことに、それに加えて、われわれの愛する世紀が証明しようと--まだ一度も証明されたことがないかのように--企てているような、公共の安寧とは反対のものが、それによって生み出されるのである! 社会を盗難と火災から安全にし、あらゆる商売にとってこの上なく便利なものにし、国家をよい意味でも悪い意味でも摂理に変えること、--これは一層低い凡庸な、不可欠とは全く言えない目標である。それは、いやしくも存在する最高の手段と道具を用いて、--最高で、最も稀な目的のためにこそ取っておかれるべき手段を用いて、追求されるべきものではない! われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。
    --F.ニーチェ(茅野良男訳)『ニーチェ全集7 曙光』筑摩書房、1993年。

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いったい何が、一つでなくても、なお存在し得るであろうか。

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 すべての存在は、一つであることによって存在なのである。このことは第一義的な意味の存在についても、また何らかの意味において存在のうちに数えられるものについても、みなそうなのである。なぜなら、いったい何が、一つでなくても、なお存在し得るであろうか。ものが一つのものとして語られる、その一つということを取去られるならば、そこに語られていたものとしては存在し得ないからである。すなわち軍団は、一つのものとなっていなければ存在しないであろうし、合唱舞踊者の一団も家畜の一群も、一体をなしていなければ、存在はしないであろう。いや、家でも船でも、一つということを失えば、家はもはや家ではあり得ず、船も船ではあり得ないであろう。つまり、連続によってひとつの大きさをもつものも、これに一つということが加えられていなければ、存在し得ないであろう。すなわち連続体が分割される場合には、一体性を失う範囲において、有り様(よう)をかえるからである。そしてこのことは植物や動物の肉体について特にそうであって、その各は一つなのであって、これが多に細分されて、一体性から遠ざかる場合には、所有していた自己自身の本来のあり方をなくしてしまい、いままであったものではもはやなく、これと違ったものになってしまうのである。しかもその違ったものというのも、一つのものである限りのそれなのである。また健康っというようなことも、その肉体が綜合的に一つに秩序づけられるところに成り立つのであり、美ということも、一体性の支配が身体の部分部分に行き渡っているということなのである。また精神のよさ(徳)というものも、それが一体化されて、一つところに合致し、一つとなることにおいて成立するのである。
   --プロチノス(田中美知太郎訳)「善なるもの一なるもの」、『善なるもの一なるもの 他一篇』岩波文庫、1961年。

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人間が〝小せえなあ〟って思うのですが、ガタイはメタボな自称〝ナイス・ミドル〟の宇治家参去です。

詳細は措きますが、市井の仕事をしておりますと、そのシステムや仕組みに翻弄されることが多く、お恥ずかしい話ですが、〝頭に来る〟ことが多いのですが、今日はひさしぶりに〝凄いヤツ〟(って別に凄い〝人間〟と直面し、勝負したわけではありませんが)に、頭を悩ませた一日でした。

そもそも、人間が〝小せえ〟のでいたしかたありません。
ただしかし、すべてを〝分かった〟ように〝ふるまう〟のも〝小人(しょうじん)〟のやることですから、そのような無様なまねができるわけでもなく、壁にパンチをぶっ込む次第です。
※もはや段ボールパンチでは収まり切らなくなってしまいましたので(苦笑)。

ただし、そうした部分に自分自身の存在そのものが引っ張られてしまうならば、それも不毛であるわけで……ただ、〝存在〟と〝存在者〟とは違うんだよな、などとも頭を言葉がよぎるわけですのでこのあたりは〝職業病〟かもしれませんが、ひとまずもどります。

で、はい。
怒りに囚われすぎると、狂いがでてきますから不毛です。
ですからから、クール・ダウンにもってこいの新プラトン主義のプロティノス(Plotinos,205-270)を紐解く次第です。

プロティノスは、新プラトン主義の創始者として知られるアレクサンドリア生まれの哲学者ですが、プロティノス自身は、あたらしい流派を作ったという意識はまったくなく、プラトン(Plato,428/427BC-348/347BC)の思想を正統に解釈したにすぎないと思っていたようでしたが、プラトン的二元論を克服しようとするその営みは、独自の体系へと変貌したようでございます。

さて……。
西洋形而上学の諸悪の根源として〝自己同一性〟……デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)にいわせると「自分の話している声を自分で聞く」というところでしょうにこだわるわけではありませんが、そうはいっても人間の存在は、ある程度は自己同一性にこだわるものかもしれません。

程度の差がもちろん存在することも、そして、こだわる対象としての自己同一性というのも、さまざまな諸相の一断片であることも承知なのですが、レゾンデートルとしての対象となる(ひとつの断片としての)自己同一性の対象というものを、現実には、こだわる保存しながら、人間は、なんとか生きているのもその現実なのだろう……そのことを痛感いたします。

ですから、新プラトン主義の「一者」の概念というわけではありませんが、プロティノスが、存在が存在を保つ「連続性」として「一」であることにその根拠を見いだす叙述を読んでおりますと、はあ、なるほどね!とはなんとなく納得してしまうというものです。

べつに「一」でなくとも、存在は可能でありますし、自分が「一」と措定している連続性は、無数に存在(可能)な措定対象のうちの「ひとつ」なことかもしれませんが、ま、ある程度は、人間は、措定対象をひとつきめてその連続性を保つことによって生きているのでしょう。

そして、その人間が生きている世界というのは、どちらかといえば、その連続性を破壊し、分断してしまおうって傾向が強く、だからこそ「壁にパンチ」してやろうって局面になってしまうわけなのですが、手は痛かったのですが、ま、これもそうやって「連続性」を保つ訓練と、そして、連続性にこだわりすぎないように……という諭しとして理解するならば、貴重な学習の瞬間かもしれません。

プロティノスもデリダも再読できるわけですからね。

……ということで、市井の仕事へ出勤するまで、チトレポートに目を通そうかと思います。

昨夜はひさしぶりに「一ノ蔵」を頂戴しましたが、サッパリしていていいものです。

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「酒が出た。 平蔵の顔に活気がみなぎってきはじめた。」

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 「ま、こういうわけだ」
 事情を粂八に語った平蔵が、
 「どうだ、粂八。おれが殿さま栄五郎に見えぬか、な……?」
 「えっ……」
 「火間虫の虎次郎は、腕ッ節の強い男(の)を、口会人の平十へたのんだそうな」
 「では、殿様が盗め人にお化けなさるのでございますか?」
 「たまさかには、おれも外へ出てはたらき、お前達の苦労を味わっておきたいのだ」
 「そんなことをおっしゃいましては……」
 粂八も利平治も困惑しきっている。
 「ま、よいわさ。ともかく、どうだ。殿さま栄五郎に化けて可笑しくないか?」
 「そ、そりゃあもう、殿様がなさいますことでございますから……」
 「大丈夫だと……?」
 「はい」
 「よし。それで決まった」
 と、平蔵が利平治に、
 「では、明日の朝、このことを鷹田の平十へつたえるがよい」
 「かしこまりましてございます」
 「粂八。佐嶋を、これへ」
 「はい」
 粂八が、与力・佐嶋忠介と共に居間へ引き返して来ると、平蔵は三人を相手に綿密な打ち合わせをおこなった。
 すでに、夜に入っている。
 酒が出た。
 平蔵の顔に活気がみなぎってきはじめた。
    --池波正太郎「殿さま栄五郎」、『鬼平犯科帳 14』文春文庫、2000年。

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こんばんわ、宇治家参去です。

仕事は休みでしたが、さきほどまで仕事をがんばりました。
もういいでしょう。

これからゆっくりと飲みながら、池波正太郎先生(1923-1990)の大好きな『鬼平犯科帳』でも読みながら、自分の時間を過ごしていこうと思います。

根を詰めたあとに、

「酒が出た。 平蔵の顔に活気がみなぎってきはじめた。」っていうのは大事です。

今日は気分的に「電氣ブラン」(合同酒精株式会社)です。

〝電氣ブラン〟ときけば〝電氣〟のようびびりびりと痺れるに、がつんとくる酒かっ!ってイメージしがちな人が多いようですが、そうではありません。

「神谷バー」の創業者・神谷伝兵衛(1856-1922)が考案したこの銘酒は、ブランデーベースのリキュールになりますので、とってもフルーティなんです。

宇治家参去的には、スモモのブランデー、そういう感覚です。

チェイサーには、生ビールというのが定番のようですが、生ビールがあいにくございませんので、そのまんまロックでいきましょうか。

もだーんな味わいのする銘酒で、池波先生のピカレスクに酔いしれようかと思います。

以上。

今日は閉店いたします。
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倫は「なかま」を意味する

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 さて倫理という言葉は、「倫」「理」というニ語から成っている。倫は「なかま」を意味する。「なかま」とは一定の人々の関係体系としての団体であるとともに、この団体によって規定せられた個々の人々である。シナの古代においては父子、君臣、夫婦、長幼、朋友などが「人の大倫」であった。すなわち最も重要な「なかま」であった。父子関係は「倫」である、一つの「なかま」である。ところで父と子とが別々にまずあってそれが後に関係を作るというわけではない。この関係の中で初めて父は父としての、子は子としての資格を得るのである。すなわち彼らは「一人のなかま」であることによって父となり子となる。しかし何ゆえに甲の「なかま」がそのなかまの一人一人を父及び子として規定するのに対し、乙の「なかま」はそれを友人として規定するのであろうか。それは「なかま」が一定の連関の仕方にほかならぬからである。従って「倫」は「なかま」を意味するとともにまた人間存在における一定の行為的連関の仕方をも意味する。そこからして倫は人間存在における「きまり」「かた」すなわち「秩序」を意味することになる。それが人間の道と考えられるものである。
和辻哲郎『倫理学(一)』岩波文庫、2007年。

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こんにちわ、宇治家参去です。
よーやく休みです!

で・す・が……、昼から学問の仕事を自宅にて粛々と手をつけているところでございます。

さて……。
毎週水曜日は、千葉の短大で、ひとりの受講生を対象に「倫理学」を講じておりますが、そのなかでつくづく考えるのが「関係〝性〟」の問題です。

たしかに70名を相手に哲学を講じ、100名を相手に倫理学を講じ、10名を相手に宗教を論ずることが仕事としてはありますが、どのレベルにおいても、関係性に入ったときに、存在が浮き上がってくるんだよなーって思うことがあるのですが、関係性に入る前には、それができあがったものとして見てしまうようなところも同時にあるんだよなーって相即的に感ずることがあります。

要するに、さまざまな関係-世界のなかで人間は生きているものですが、どうしてもそれが何かできあがった関係であるとか、相対するものごとと自分自身が切り放された……〝孤立的〟〝唯我独尊〟的に……ものとして対象と向かい合いがちになっていることが多いのではというところでしょうか。

しかしながら、和辻哲郎(1889-1960)が指摘するとおり、「父と子とが別々にまずあってそれが後に関係を作るというわけではない。この関係の中で初めて父は父としての、子は子としての資格を得る」というのが、正しく消息を物語っているのではないかと思います。

例えば、教師-生徒というような関係性は、確かに出来上がった「きまり」「かた」であり「秩序」であることは承知しております。ですからその関係性の「きまり」「かた」「秩序」に即して、「あるべき」って議論が出てくるわけですが、同時にその関係性というやつは出来上がっていると同時に、それぞれが「別々にまずあってそれが後に関係を作る」というものでもない……というわけですから、まさに生きている「きまり」「かた」「秩序」なんだよな……などと思うところです。

個別の存在者として対他関係から孤立した、独立自存する「生徒」も「教師」も存在しないわけであって、お互いがお互いを規定するというのが正しいところでしょう。そのへんを授業をしながらつくづくと痛感するわけで、そのことを週の初めから和辻の『倫理学』を再読しつつ考えさせられていたわけですが、授業のために千葉へ訪れると、もう「田植え」が始まっておりました。

「田植え」がされていた日は、昼から晴れ上がり、比較的暖かな陽気につつまれたものですが、東京はこのところ寒いですねえ。

こうした日は、昼から燗いのでいっぺえ……とするわけにはいきませんので、学問することによってチト頭を燗くしましょうか!

……ってことで、仕事へ戻ります。

休み……なのにねえ。

あ、そうそう出来上がった「きまり」「かた」「秩序」ということに注目するならば、乗り換え駅の西船橋で頂戴した蕎麦が興味深いものでした。

駅ビルのなかにある「おむすび処 ほんのり屋」で蕎麦とおむすびを頂戴しました。
駅蕎麦以上長寿庵未満の敷居のお店ですが、生蕎麦を手早くだしてくれたわけですが、薬味に葱のほか、水菜がのっているではありませんか。

「きまり」「かた」「秩序」に拘泥するならば、アリエナイ設定というところで驚いたわけですが、なかなかどーして!

さっぱりとして豊かな味わいに驚愕した次第です。

■ 「おむすび処 ほんのり屋」
JR・私鉄西船橋駅改札外2F
http://www.ekipara.com/html/Indication/ShopHtml/DI000NFB_003.html
http://www.jefb.co.jp/honnoriya/

……ってことで、仕事へ戻ります。

休み……なのにねえ。

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倫理学〈1〉 (岩波文庫) Book 倫理学〈1〉 (岩波文庫)

著者:和辻 哲郎
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【覚え書】「読書 中勘助せんせ 鈴木範久著 感銘深い師弟の交流を詳細に」

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こんばんわ。

学問の恩師・鈴木範久先生の近著を紹介した書評がありましたので、ひとつ【覚え書】として紹介しておきます。

表題となっている中勘助(1885-1965)の作品ですが、岩波文庫で刊行されている『銀の匙』、『犬』、『提婆達多』あたりは読んだこともありますし、中勘助の淡泊ながらも誠実な筆致、そしてテーマとなる〝欲〟の問題には若かりし頃、深く感銘は受けたことがあったのですが、「中勘助せんせ」と慕われる人間交流のドラマがあった事実は、正直なところ、本書を手に取るまで知りませんでした。

このあたりが、恩師の真骨頂のひとつなんです。

表層的に固定化された評価ってものが、だいたいどの分野・問題にもあるわけですが、そうした典型的な表現というものは、えてして氷山の一角なんです。その氷山の見えない部分を丹念に紡ぎ出すところに、凡愚の末弟子はいつもうならされてしまう……というわけです。

ですから、いつも著作や文章を読んでいると、「使徒行伝」(9章18節)に出ているとおり「目からウロコ」という状況です。

いろんな先生を見てきましたが、いや、本当にここまで守備範囲が広いといいますか、すべてを概観しつつも、深く、そして初学者にも優しい先生というのは、鈴木先生をおいては他にはいない、といっても過言ではありません。

ですからね……、
鈴木せんせの著作が紹介されているのに少し嬉しくなってしまい、舞い上がっているところです。

うれしいです。

自分自身の研究も少し進んでいないところがあり、恩師の膝下を半年あまり訪問しておりません。

ちかいうちに伺おうかと思います。

ふがいない弟子で非常に、申し訳なく思う宇治家参去です。
しかしながら、偉大な学問の師匠を授かることができたのは、身に余る幸福というやつです。

チト、そのコンテンツをコンテンツたらしめる一歩一歩の歩みを今日よりまた丁寧にやっていこうかと思います。

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読書 中勘助せんせ 鈴木範久著
感銘深い師弟の交流を詳細に

 『銀の匙(さじ)』の作家・中勘助には、彼を慕って訪ねてくる青年たちの集まりがあった。本書はその中のひとり、塩田章が残した詳細な記録から書かれたもの。
 この師弟の交流は昭和12年に始まる。日中戦争のため召集令状の届くなか、勘助の著書に感銘を受けた学生が門を叩いたのだ。
 「中先生は中せんせとよびたい。せんせいといはずに小学校のこどもたちが答えのできたときに、教壇の先生に手をあげていふときのせんせである」
 中勘助は、文壇とも距離を置き、地味で静かな生活を送っていた。一方、塩田章は無教会派のキリスト教伝道者として生きた。塩田の清貧な暮らしぶりは埼玉・越生(おごせ)の〝雀のお宿〟として勘助の随筆にしばしば登場するようになる。
 師と弟子であって、仲の良い親友のような、離れがたい関係は昭和40年の勘助の死まで続く。塩田は勘助の「心のあたたかさ、誠実さ、淡泊、自由」を敬愛し、「勘助の方も好んで青年たちのもとを訪れている。あるときは長い手紙により、あるときは足を運んで」。それは「教育意識のない教育」であった。
 「中せんせ」と呼び、人生の悲喜を心おきなく師に語りえた塩田の幸福。彼の記録はまた、漱石に賞された〝中文学〟の行間をも説明してくれる。(尚)
 ●岩波書店・2310円
    --「読書 中勘助せんせ 鈴木範久著 感銘深い師弟の交流を詳細に」、『聖教新聞』2010年5月12日(水)付。

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著者:鈴木 範久
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「あらゆる倫理問題の核心は存する」nervous naive chicken

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 道徳は個人の意向と行動とに妥当すべきものであると共に、他方では個人の良心のうちに根柢を有すべきものであると言はれるものの、孰れの道徳形式にあつても結局は、個人と全体との関係が常に問題となつてゐる。併しここにいふ全体は、事実的には、意欲をもつ個人而も共同的に意欲する個人の複合体として個人に対立してゐる。従つて、個人の意志共同体に対する或は個人意志の一般意志に対するかかる関係のうちに、あらゆる倫理問題の核心は存するわけである。
    --ヴィンデルバント(速水敬二・高桑純夫・山本光雄訳)『哲学概論 第二部』岩波書店、1936年。

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今日は千葉の短大で授業ですが、実は何気に、今日の授業の仕込みは既に済んでいるんです。遅筆と遅延と差延をモットー?とする宇治家参去にしては、実に、〝ありえない〟快挙なわけです!

マア、快挙の種明かしは、ゴールデンウィークで1週授業がありませんでしたので、できた荒技なのですが、それでは、本日その手間がない分、先取りして次回の授業分を、あいた本日の時間でやれば一番いいのですが……、そううまく問屋がおろさないというのが現実生活世界ではないでしょうか。

ともかくGW前後で結局の処、ゆっくりと休みをとることができませんでしたので、仕事と仕事の合間の一瞬にはなりますが、火曜日の短大での授業をすませた本日は、市井の仕事も後にセッティングされておりませんでしたので、その数時間だけですが、ゆっくりと休ませて戴いております。

ですから、、、そううまく問屋がおろさない⇒来週分の仕込みは断念!というところでしょうか。

たまにはこれぐらいはゆるして丁髷というところです。

ただし、これではホンマはまずいんです。

ちょうど、新カント派の頭目と目されるヴィンデルバント(Wilhelm Windelband、1848-1915)--しかし、戦前あれだけ読まれたヴィンデルバントが、戦後ほとんど読まれなくなってしまったという現実には驚愕しますが、それは本論ではありませんのでひとまず措く--の『哲学概論』をひもといていたのですが、個々人の営みというものは、すべて全体、この言葉を言い換えるならば、他者との関係によって深く規定されているんだよなって点を再確認させて頂いた次第です。

全体とはおそらくいろんな意味での共同体を意味する表現になりますが、つまるところ、規模の大小を問わず自分以外の他者との関係というのがその基本になるわけですが、その他者とどういう関係を取り結び、自己の実存を規定していくのか--そこに「倫理問題の核心は存するわけ」なんですが……、、、お恥ずかしながら宇治家参去、なかなかそれが励行できません。

ま、ただ、自分では励行している〝つもり〟ではあるわけですが……。

要するに、そうした関係世界の網の目を深く把握しているのであれば、直前になってうろたえずに済むように、今日は休まずに、仕込みをやるというのが「あるべき」姿なのですが、そんなことは承知の介でもあるのですが・・・、なかなかできませんねえ。

ただそのことを理解はしているという意味では、「道徳は個人の意向と行動とに妥当すべきものであると共に、他方では個人の良心のうちに根柢を有すべきものである」って点は把握しているのかもしれません。

「わかっちゃいるけどやめられねえ」って歌う植木等(1926-2007)の歌唱とはまた違う感覚でもあるんです。

……ってな話を細君としておりますと、

「だから、何十年もかけて大学に関わりながら、倫理学とは何かを死ぬまで探究しなければならないという十字架を背負わされたのでしょう」

……ってさらりと出てくるではありませんか!

おまけに、

「その余塵をこっちにまで振りかけてしまってからにーー」

……とのことだそうです。

つうことで、今日は、なんとなく、「ワイルド・ターキー」(8年)にて締めようかと思います。

若い頃はウィスキー一辺倒でしたが、最近は日本酒ばかりです。
若き日のやんちゃ?を思い出しつつ、「WILD TURKEY」っていうのも乙なモノです。

ただ、その実体は「nervous naive chicken」というわけですので、「WILD TURKEY」の男気あふれるそのラベルには申し訳ないのですが、その力強い味わいに勇気づけられるというものです。

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われ知らず取る動作が既に言葉なき歌

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 激情の発する叫びも呻きも歌とは言えまい。それは、言葉とも言えぬ身体の動きであろう。だが、私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」をするのも、内部に感じられる混乱を調整しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が「ほころび出」ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言いえたであろう。いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生まれ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生まれ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。
    --小林秀雄『本居宣長 上』新潮文庫、平成四年。

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吹けば飛ぶようなデラシネとして知られる宇治家参去ですが、正直、7月まで結構忙しく、なかなか考察するいとまがとれず恐縮です。

とりあえず今は小林秀雄(1902-1983)の本居宣長論を読んでおりますが、小林の文章は霊妙精緻でありながらも、読ませるモノとなっていることにしばし嘆息です。

さて、本日は短大での講義のため比較的早く出講したのですが、あいにくの雨天です。

しかし、雨天の〝おかげ〟でしょうか。
新緑のにおいがとぎすまされ、キャンパスを歩くとかる~い森林浴のようなもので、これは天候に感謝だなと思うひとときです。

かなり肩がこっていたのですが、かるい散策で、すこし重みがほぐれたような状況ですから、新緑に生命力をちょうだいしたというところですね。

ただ慢性寝不足のおかげで、これまたかなり眠いのですが、食事をとると、かえって眠さも散逸してしまいました。

本日は、「豚ロースのピザ風焼き」。
マッシュルームとトマトソース、たっぷりチーズにからめられたお肉の味わいがなかなかです。

さて、散策中に、またしても野良猫さんに遭遇しましたが、何もあげるものがなく恐縮でしたが、宇治家参去の人柄を察知したのでしょうか、、、

近寄ってきてくださいました。

これが、俗に言う「われ知らず取る動作が既に言葉なき歌」としてのあふれ出す所作というやつでしょうか。

何も猫さんには与えることが物質としてはありませんでしたが、そのお返しではありませんが、さあこれからの授業、ひとつがんばってきましょうか!

あ、そうそう、わすれるところでしたが今日が5月はじめての「お米」でした。

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現世の人とこんなに長く話をしたら汚れがうつってしまうんじゃないですか、と別れ際に質問したら、ちょっと困ってから、「理論的にはたしかにそういうことになります」と正直に答えた。

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 彼女と話しているとオウム真理教というのは、理想的な「容れもの」であったのだなと納得してしまう。たしかに「現世」で生きているよりは、教団に入って修行をしているほうが、たこの人にとっては遙かに幸福であったに違いない。現世でものごとにはまったく価値を見いだすことができないし、自分の中の精神世界を追求する以外のことにはほとんど興味を持つことがない。だから現実を離れて一途に精神の修行を励めるオウム真理教団は、一つの楽園のようなものだったのだ。
 もちろん十六歳で教団に入って純粋培養されて……という「人さらい・洗脳」的な捉え方も可能なのだろうが、それよりはむしろ「世間にはこういう人がいてもいいじゃないか」という考え方のほうに、私の気持ちは傾いてしまう。何もみんながみんな、「現世」の中で肩をすり合わせてひしひしと生きていかなくてはいけないというものではないだろう。世の中の直接の役に立たないようなものごとについて、身を削って真剣に考える人たちが少しくらいはいてもいいはずだ。問題は、こういう人たちを受けとめるための有効なネットが、麻原彰晃率いるオウム真理教団の他には、ほとんど見あたらなかったということにある。そして結果的に見れば、そのネットは、たまたま巨大な悪の要素を含んだものだったということにある。結局のところ、単純な言い方をしてしまえば、楽園などというものはどこにもないのだ。
 動機の純粋さというものについて考えるとき、現実はひどく重くなる。純粋さに排除された現実は、どこかで復讐の機会を狙っているように思える。美由紀さんと話をしていて、ふとそう考えてしまった。
 現世の人とこんなに長く話をしたら汚れがうつってしまうんじゃないですか、と別れ際に質問したら、ちょっと困ってから、「理論的にはたしかにそういうことになります」と正直に答えた。真面目な人だ。自家製のパンを食べさせてもらったのだが、さっぱりとしていて、なかなか美味しかった。
    --村上春樹『約束された場所で』文春文庫、2001年。
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ちょいと再び考えるところ……マア、要するに純粋さの危険性について……があり、村上春樹(1949-)さんが、地下鉄サリン事件のあとにオウム真理教信者(元信者含む)へインタビューしたルポルタージュをぱらぱらとひもといていた宇治家参去です。

再読しつつ、確かねに!と思うことが多かったのですが、理想とか理念といったイデアールなものをどんどん先鋭化させてしまうと、結局はその行為自体が排他的な排除の構造を生産してしまうんだよなーってところを、経験的な事例から筆致した部分に、ひとつはなっとくしてしまった次第です。

それともうひとつは、春樹さんも指摘しているとおりですが、「世間にはこういう人がいてもいいじゃないか」というセーフティーネット……とまではいいませんが、受容する度量のようなもの……がほとんど存在していないし、いびつなカタチで跋扈している、そういう現状認識にストンと落ちてしまいました。

マア、宇治家参去のようなヨゴレのキャラでしたら、「ヨゴレがうつってしまうよ」ってふってしまうと、「理論的にはたしかにそういうことになります」とお茶を濁されるよりも、「理論的にも、経験的には必ずそういうことになります」って返されそうですが、それでもまじめな心根とか、理念の追求というものを受け入れる度量と、当事者における先鋭化した排除の構造を回避するチャンネルをどこかで設定していかないとネ……などと思った次第です。

ま、コレは、はじめに〝カタチ〟ありきで設定していく問題ではなく、当事者と向かい合いながら、関係性を構築していくところにしか王道はないような気がうすうすとはしますが、ひとはそのことを遠い回りくどい、有効性がほとんどない道だよ、って言うかもしれませんが、それが一番近いような気もしつつ……というところでしょうか。

このへんが実は哲学的に言うならば「他者の学習」という「寛容」の問題になってくるのだろうと思います。「寛容」の問題は、基本的には先鋭化したイデオロギー間の調停の問題に端を発するわけですが、基本的に先鋭化したイデオロギー間の対立が予定調和的に「お上」という一元的価値観に収斂されていく本朝においては、「寛容」が〝横並び〟〝ずるずるべったり〟〝寄らば大樹の陰〟として理解されているわけですので、なかなか議論にならない部分があるわけですが……だから少しでも「ヘン」とされるとつぶされ、「ヘン」にならないようにディシプリンしていくのが本朝のもつ排他性ではあるのですが……、ことなる存在をきちんと理解し、受容しないことには何も始まらない……そのことだけは、たしかに言えるな、などと思う次第です。

いずれにしても、そういう精神風土とそれを保管するディシプリンのお陰なのだと思うのですが、本朝では、ややもすると、チキショーって純粋さが先鋭化されていってしまうのかもしれません。

さて……。
今日は快晴でしたが、快晴のお陰で、5月なのですが、花粉がひどいですねえ。
かる~くアルコール消毒なわけですが、気になっていたサントリーの新商品「絹の贅沢」をやっています。

基本的に金欠大魔王ですので、1缶目はビールでいきますが2缶目は「その他の~」ってやつになってしまいます。この場合、我が家の定番はサッポロの「麦とホップ」かサントリーの「金麦」を利用することが多いのですが、やはり両者とも「加味」がまったりとしていまいちなんです。

いずれにしても「その他の~」ってやつに〝本物〟を求めてもしょうがないわけですが、「絹の贅沢」はそれでも、「加味」臭さが押さえられており、さっぱりしすぎているところが逆にいいものですね。

純粋さってえやつも、そうありたいものです。

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後悔に反対!

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    四一
 後悔に反対。--思想家は、自分自身の行動のうちに、何ごとかを闡明(せんめい)するための試みと問いとを見る。事の成功とか失敗とかいうのは、彼にとって何よりもまず解答を意味する。だが、何ごとかがしくじったとて腹を立てたり、あるいはまた後悔を感じたりすること--こうしたことなら思想家は、命令されるから行動するといった連中に、したがって事の首尾が御主君のお気に召さないときには笞(むち)の頂戴を覚悟しなければならないといった連中に、一任する。
    --ニーチェ(信太正三訳)『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』筑摩書房、1993年。

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ちょゐと二日酔いと本日の市井の業務もハード……ひっさしぶりにクレームを受けて商品の交換にお客様宅を訪問とか……でして・・・、読書と思索のいとまがとれず忸怩たるある日の宇治家参去です。

昨日と同じニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)からの一節で恐縮ですが、マア、思想家とは「後悔に反対」であることを銘記しておかなければならない……そうフト思いましたので、チト引用しました。

「事の成功とか失敗」とかいうのに翻弄されているようではだめなのでしょう。
「事の成功とか失敗」というものが「何よりもまず解答を意味する」という点を深く把握しなければ、そのひとは思想家ではないのかも知れません。

いちおー、思想家をもって任ずる?宇治家参去ですので、このニーチェの言葉は深く心に刻んでおきたいものでございます。

といわけで、酒を飲み過ぎて昨日は凹んだわけですが、それを〝後悔〟ととらえてしまうと本末転倒というものでしょう。

後悔ではなく、「何よりもまず解答を意味する」ということにしておきます。

……ということで、三歩あるくと何かを失念するわけではないのですが、やはりアルコール消毒を体も心も所望するというわけですので、これからいっぺえやって沈没します。

ちょうど帰宅しますと、鶏の唐揚げがありましたので、そのままやるのも〝芸がねえ〟……ということになりますので?、すこし甘辛く炒めた次第です。

なかなか良さそうな出来具合です。

でわ、これから消毒タイムということで、お休みなさい。

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汝ら額に汗して おのれの酒を飲むべし!

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    三九
  夏に
汝ら額に汗して
おのれのパンを食うべし、とか?
かしこい医者の診断(みたて)では、
汗した際には何も食わないがよいという。
天狼星が目くばせする、何が不足と告げるのか?
あの烈しい目くばせは何を求めているのやら?
汝ら額に汗して
おのれの酒を飲むべし!
    --ニーチェ(信太正三訳)「たわむれ、たばかり、意趣ばらし」、『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』筑摩書房、1993年。

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昨夜は大学時代の仲間と愉快に快飲してしまい、結果として痛飲となってしまいました。
なんといえばいいのでしょうか。

30になっても18のときのままの関係ですので、のむペースもその若かりし頃の感覚でいってしまうわけです。

その結果きつくなってしまうのですが、利害や戦略的な関係性を超越した原初の人間関係というものは大事ですネ。

安兵衛・堀部武庸(1670-1703)の〝高田馬場の決闘〟で有名な高田馬場でいっぺえやっていて、23時には店を辞したのですが、隣駅が実家で、現在中国で日本語教師をやっている先輩と一緒に電車にのったわけですが、その隣駅で一緒に降りてしまい……、

またいっぺえやったのが、げふげふ状態を招来した失敗かもしれません。

ま、ただ、そういう副産物があったとしても、あらゆる関係性を超越した原初の在責関係としての人間の絆を深めるという意味では大事な契機だったのかもしれません。

KO万歳というところでしょうか。

……というわけで、これから仕事ですが、やはり・・・

キツイ!

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存在にかかわるある留保

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レヴィナス さきほどお話したように、私は存在にかかわるある留保から出発しました。そのような留保は必ずしもつねに劇的な形態をとるものではありません! それに、そのような留保は私の創見にかかわるものでもありません。日常性の重苦しさそのものをとおして、日常性を、崩壊してゆく瞬間の単調性のごときものとして理解し始めること。政治的状況に対する不安と、戦争の切迫に対知る不安と、勃興するヒトラー主義に対する不安をとおして、無-意味と倦怠感のうちでの実存の反復を理解し始めること。これは私の身にだけ起こったことではありません。
    --エマニュエル.レヴィナス・フランソワ.ポワリエ(内田樹訳)『暴力と聖性 --レヴィナスは語る--』国文社、1991年。

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よく市井の職場の同僚Mgrにもいわれますが……

「宇治家参去さんって、調子のよいときってほとんどないですよね」

「だいたい一年の2/3は風邪状態ですヨ、ぐわぁっはっはっはっ」

てなわけなのが通例で、だいたい微熱の毎日なのですが、あいにく病院へいくほどの金子(きんす)をもちあわせているわけでもありませんので、アルコール消毒……体内からのですが……にてスルーしてしまう次第です。

ちなみに、アルコール消毒する金子があれば、病院へいけばよかろうという外野の声も聞こえてきそうですが、いやいや、そう早計しなさんなという部分もある一面では存在します。

それが「存在にかかわるある留保」というヤツでしょうか。
たしかに躰はきつい部分はあるのですが、その分、精神がとぎすまされてしまうとでもいえばいいのでしょうか。

外界に対するアンテナが鋭敏になり、思索が深まるという側面がどうしても側面できませんので、それをよいように利用している……そういうところが否定できません。

ただ、例の如くGWをはさんでゲフゲフはしていたのですが……、昨日の朝からそのゲフゲフが違う感じのゲフゲフに移行したようで、風邪のタイプが喉系のそれから、微熱系のそれへと入れかわったようでございます。

しかし、そうした「日常性の重苦しさそのもの」をとおして、「日常性を、崩壊してゆく瞬間の単調性のごときものとして理解し始めること」は、思想に関わるものとしては必須の条件……それを講壇的最大公約数のエクリチュールとして受容・流通させてしまったとたん哲学者というものは生命を失ってしまいます!……ですので、マア仲良くやっていこうかと思います。

……ということで、GWを破算で初冬のように寒かった気候から一変して、初夏のような陽気です。季節の変化への対応がうまく出来ていないということでしょうか。しかしその意味では、しかし、これほど躰が弱いとは思ってもいなかったというのも、別の側面からの独白ですが、皆様もお気を付けくださいまし。

……ということで???

この時間からですが、餃子を食べたくなりましたので、冷凍の「王将の餃子」ですが先ほど焼き上げた次第です。

何を隠そう宇治家参去は餃子焼きの達人?です。細君が焼くより旨いのですが、餃子を食べるのは、「話すことが商売」ですので、月に一度ぐらいなんです。今日は市井の仕事も学問の仕事もない……訳ではないのですが、仕込みとレポート、論文の仕上げはあるのですが……一日ですので、餃子を焼いてしまいました。

あまりにも暑いので一足早く、寝間着の浴衣を夏物にチェンジしました。

これから軽くアルコール消毒して沈没いたします。

おやすみなさい、お月様。

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ぼくには君の言うことがよくわかる。

01_img_0688 こう、何か、「頭を抱えたくなったとき」、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)に救いをもとめることが昔は多かったのですが、30になってから、どちらかといえば、ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)とかカミュ(Albert Camus,1913-1960))に魂が洗われることが多々あります。

ドストエフスキーとかカミュと聞けば、「魂が洗われる」というよりは「魂が真空になる」印象が強いものですが、ゆっくりとその言葉と息づかいに耳を傾けるならば、なかなかどうして、その「真空」とは、概念としての「真空」というよりも「魂を洗う」〝真空〟なのではないだろうか……印象批判の誹りを免れることはできませんが、そんなことをつくづくと感じます。

ということで、やさぐれることが多いのですが、ひとつ、カミュの言葉を自分自身への言葉として書き残しておきます。

この言葉が綴られたのは、ちょうどドイツ第三帝国によって祖国フランスが占領されていた、いうなればもっとも過酷な時期にカミュによって綴られた言葉です。

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 絶望に暮れる男への手紙。
 この戦争は私を押し潰してしまう、死ぬことはかまわない、だがこの世界全体をおおう愚劣さや、血ぬられた卑劣さや、人間の問題を血を流すことで解決できるといまだに信じている罪深い愚直さには耐えられない、と君は手紙に書いている。
 ぼくはそれを読み、君の言うことがよくわかる。とりわけ、喜んで死のうという善意と、他人の死を見るには忍びないという相反する気持ちのあいだに立たされて、あれかこれかと思い惑う気持ちがよくわかるのだ。そうした気持こそ人間のしるしと言えよう。それこそその人間を、ともに語りうる仲間の一人とするものだ。実際、どうしたら絶望しないですむのだろうか? 非常にしばしば、われわれが愛する人びとの運命は脅かされてきた。病、死、そして狂気と。けれどもわれわれや、われわれが信じたものは残されている。非常にしばしば、いわばわれわれ自身の人生にほかならなかった価値は、危うく危機にさらされてきた。かかる運命やかかる諸価値は、全体では、また同時には、決して脅かされたことはなかったのだ。われわれは決して全的に絶望の危機にさらされたことはなかったのだ。
 ぼくには君の言うことがよくわかる。しかし、君がこの絶望から人生のある規範をこしらえようとし、すべては空しいと判断して、あるやりきれなさの背後にかくれてしまおうとするとき、ぼくはもはや君に承服できない。なぜなら、絶望は気持ちの問題で、一つの状態とは言えぬからだ。君はそれにとどまっていることはできない。それに気持ちというものは、事態の明確な見通しには席を譲らねばならぬからだ。
 君はこう言っている。<<だがそれ以上に言ったなにをしたらいいだろう? そして私になにができるだろう?>>しかし問題は、はじめはそんなふうには提起されていないのだ。君はまだ個人を信じている。それは確かだ。というのは、君は、君を取りまく人びとや、君自身のなかにある快いものをちゃんと感じているからだ。けれどもこうした個人はなにもできぬし、君は社会に絶望している。しかし気をつけたまえ。君は、破局の訪れる前にすでに社会を見捨ててしまっているのだ。また、君とぼくは、この社会の終局が戦争であることを知っていた。それに君とぼくは、そのことを予告していたし、結局ぼくたちと社会のあいだにはなんのつながりも感じられなかったのだ。こうした社会はこんにちだって同じことだ。それはあたりまえの結末に到達しただけだ。そして事実、事態を冷静に観察するならば、一九二八年当時以上に絶望しなければならぬ理由はないのだ。そうだ。君にはまさにあの頃と同じくらいの絶望しかないのだ。
 それから、よく考えてみると、一九一四年に戦った連中には、いまよりもっと絶望する理由があった。というのは、彼らは事態をあまりよく理解していなかったからだ。すると君は、たとえ一九二八年は一九三九年と同じくらい絶望的だったということを知っても、それは私にはなんの役にも立たぬ、と言うだろう。だがそれは、うわべのことでしかない。なぜなら君は、一九二八年にはまだ全部が全部に絶望していたわけではない。だがいまでは、君にはすべてが空しく見えるからだ。だから、もし事態が変らなかったとしたら、君の判断こそ間違っているのだ。それは、とある真実が論理的に把握されるかわりにいきなり直感されると、そのたびごとに判断を誤ってしまうようなものだ。君は戦争を予見した。そしてそれを妨げようと考えた。それこそ君が全的に絶望するのをとどめるものなのだ。こんにち君は、もはやなにも妨げることはできないと考えている。そこにこそ議論の糸口がある。
 しかしその前に君にききたいのは、この戦争を防ぐに必要なことを、君がちゃんとしたかということだ。もししたのだったら、この戦争はそれこそ君には宿命的なものと思えるのだろうし、もはやなすべきことはなにもないと判断するだろう。しかしぼくは、それに必要なすべてのことを君がしなかった、われわれ以上にしたわけでは決してなかったと確信している。君は防ぎえなかったのだろうか? いやそれは間違っている。この戦争は、君も知っているように宿命的なものではない。ヴェルサイユ条約をそれまでに再検討すればじゅうぶんだったのだ。だが、それはされなかった。それがすべてのいきさつだ。そして君には、それが別な進展をたどることもありうるのだということがわかるだろう。しかしこの条約は、あるいは他のどんな原因でも、いま再検討することだって可能なのだ。ヒットラーのああした言明にしたところで、その正当性を無効にすることだってまだ可能なのだ。これらの不正行為は、つぎつぎに別の不正行為をよびおこしたが、いまでもそれらを拒絶することだってできるし、彼らの返答を無効にするよう要求することだって、可能なのだ。やらねばならぬ効果的なつとめはまだ一つある。君は、君の個人的役割は実際には皆無だと思っているだろう。しかしここで、これまでのぼくの議論を逆にさかのぼってみよう。そしてぼくは、その役割は一九二八年当時より大きくもなければ小さくもないと言うだろう。それにぼくは、君にしたところで、無益だという考えにそうあぐらをかいているわけでもないことを知っているのだ。なぜならぼくは、君が、良心の申し立てる異議にほとんど耳をかさぬとしても、それは勇気を欠いているからでもなければ、感嘆する心を欠いているからでもない。そうではなくて、それにはいかなる効果もないと君が判断しているからだ。だから君は、いまではもう、ある種の効果という考えをいだいたわけだ。とすれば君は、これからするぼくの議論についてこなければならぬはずだ。
 君にはなすべきことがある、それを疑ってはいけない。それぞれの人間には、多かれ少なかれ影響を及ぼしうる領分があるものだ。各人はそうした影響力を、長所と同様短所にも負っているのだ。だがそんなことは問題ではない。影響力があれば、それをすぐにも活用することだ。なんぴとをも反抗におもむかせてはいけない。流血を避けなければいけないし、他人の自由は大切にしなければいけない。けれども君には、「この戦争は宿命的なものではなかったし、現にない。それを防ぐ手段は、いままでは試みられていないがいくらでも試みることはできる。だから、それが可能なときにはそのことを言い、あるいは書き、必要とあらば叫ばなければならない」と、十人、二十人、いや三十人の人間に説得することはできるはずだ。その十人あるいは三十人が今度はほかの十人にそのことを言うだろう。そしてその十人がまたそれをだれかに伝えるのだ。もし面倒くささから彼らがそれをやめてしまったら、またほかの人たちに向かってやりはじめるのだ。そして君が、君の領分や君の地域でやらねばならぬことをやってしまったら、そのときこそ説得をやめ、あとは随意に絶望したまえ。だが、つぎのことをわかってほしい。だれでもごく「一般的な」人生の意味には絶望できる、だが人生の個人的な形にではない。その実存には絶望することができる。なぜなら、ひとはそれにたいしては力が及ばないからだ。だが、個人がすべてをなしうる歴史にではない。こんにちわれわれを死にかりたてているのはある数人の個人だ。だとすれば、なぜある数人の個人が世界に平和を与えられないことがあるだろう? 大きな目標などは考えず、ただはじめさえすればいいのだ。だから人びとが戦争をしているのは、それを望んでいる人びとの熱意によるのと同じぐらい、全身全霊でそれを拒む人の絶望によっているのだということをどうかわかってくれたまえ。
     --カミュ(高畠正明訳)『太陽の賛歌 カミュの手帖1』新潮文庫、昭和四十九年。

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「これが、現前の形而上学か!」

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 まだ文字の中に産み出されていないものは、他にも棲家をもたないのだということを、それは一種のτσπος ονρναιος か神の悟性の中にあらかじめしるされたもの(préscription)としてわれわれを待ち受けるものではないのだ、ということを。意味がおのれを棲家として住みつき、意味がおのれと異なることによって意味であるようなものとなるためには、意味が言われ書かれることが必要なのだ。フッサールが『幾何学の起源』を通じてわれわれに考えさせるのは、このことである。文学的行為はこのようにしてその源において自らの真の力に再びめぐり会うのだ。メルロ=ポンティは、『真理の起源』と題する著書に含まれる予定の断章の中で書いた。<<文学におけるコミュニケーションは、ただ単に、人間精神の先験性の一部をなす意味作用にうったえる、というようなことではない。むしろ、コミュニケーションが人間精神の中に訓練の結果か一種の隠微な作用によって意味作用を惹起するのだ。作家の裡では、思考が外側から言語(ランガージュ)を操るのではない。作家は自らが構成されていく一つの新しい固有言語(イディオム)のようなものなのだ……>> フッサールはまた<<私のことばが私自身を不意打ちし、私に自分の考えを教える>>とも言っている。
 書くことが危険で苦しいのは、それが事始めであるためだ。書きながら、自らその行き先は知れない。どのような智恵も、それが本質的な疾走となって意味の方へ向かうのをとめることはない。意味は書くことによって作りなされていき、意味は始めはその行く手にある。とはいえ、この行為は気粉れに委ねられているというわけではない。そうなるのは気おくれした場合だけである。だから、こうした疾走の危険性に対する保障はないわけだ。書くことは、作家にとっては、作家が無神論者でない場合でも、作家である限りは、初めての、しかも恩寵のない航海なのだ。
    --ジャック・デリダ(若桑毅訳)「力と意味」、若桑毅ほか訳『エクリチュールと差異(上)』法政大学出版局、1977年。

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フランスの思想家・デリダ(Jacques Derrida、1930-2004)を読んでおりますと、何かを書きたくなってしまうのが不思議です。
一貫して、西洋形而上学が現前性を真理の基準としてきたことを手厳しく批判してきたことで知られるわけですが、そうした形而上学の暴力性の籠絡に宇治家参去もとらわれているのかも知れません。

何かを書く、語るという広い意味で、現前性にこだわる部分というのがそれなのでしょう。

「書くことが危険で苦しいのは、それが事始めであるためだ。書きながら、自らその行き先は知れない」つうことは、わかっちゃアいるのですが、なかなかその禁忌を守れないというのは職業病のせいかもしれません。

……というわけで前置きが長くなりましたが、写真もいくつかとっておりますので、帰省の旅を少々。

ま、基本的には法要以外は、のんびりとしておりましたが、まずは実家の猫と犬。
リアルな暴力ではありませんが、絡み合っております。

つぎにコレクション?を少々。

現代化されたスプリングフィールドM14のエアガン。
東京では持つことができませんが、ずっしりとくる重さがこたえます。

ただ、リアルな暴力と思想における暴力(現前の形而上学)とではどちらが問題が大きいのか、なかなか答えを導き出すことは不可能です。

という意味ではやはり両者に退治した各人の自覚というところにつきるというところでしょうか。西田幾多郎(1870-1945)の折衷的存在論としての「自覚」ではない、認識論としての「自覚」が肝要なのかもしれません。

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……というわけで、そうしたことを思念しつつ?酒を飲んだりしておりましたので、うどんを食べて帰ることを危うく忘れそうになりましたので、二日目に精進落とし宴のあと、すこし酔いをさましてから、夕方近所のうどんやへ赴いた次第です。

自転車で5分もかからぬところにある「灸まん うどん」へと行って来ましたが、さすがにゴールデンウィークなのでしょうか。県外車両で駐車場は満杯。

基本的に夕方にうどんやへ行くものではないのですが、GW期間中ですから、かなり仕込んでいるのでしょう。さくっと「かけ」の「肉うどん」(小)を頼んでから、舌鼓を打った次第です。

こちらで暮らしていたときはよく行きましたが、内装もメニューもかなりかわり、驚いた次第ですが、ひところ「味が落ちた」といわれておりましたが、ひさしぶりにやってみますと、

「そう、悪くはない」

……東京では味わうことの出来ない讃岐の味を堪能させて戴きました。

甘辛く似た牛肉がすこし「クドイ」かなと想像しましたが、さっぱりとしたつゆに案外あうもので、うどんを飲み込むと同時に、肉とつゆのハーモニーをたのしませて頂きました。

……などと言葉として表現してしまうものですから、認識論としての「自覚」はできておりませんし、目の前に現前させようとしてしまう心根の沸々と起きあがってくるところに、

「これが、現前の形而上学か!」

……などと思うわけですが、まあまあいい仕事をしているのでは、などとふと思った次第です。

■ 灸まんうどん
香川県善通寺市大麻町388
http://www.kyuman.co.jp/udon/

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それらが経験に由来することはない

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 ア・プリオリの基準は、必然的で普遍的であることである。ア・プリオリは、経験から独立したものと定義されるが、とはいえそれは、経験にわれわれに決して、普遍的で必然的なものを「与え」ないからに他ならない。「すべて」「常に」「必然的」といった語はもちろんのこと、「明日」という語ですら、経験の中に拠ることはない。それらが経験に由来することはない。それらが経験に適用されるとしても、そのことに変わりはない。だが、われわれは何かを認識するにあたって、これらの語を用いる。つまり、われわれは、自分たちに与えられるより以上のことを語り、経験という所与を超え出てしまっている。--ヒュームのカントへの影響はしばしば語られるところである。実際、このような超過によって認識を定義したのはヒュームがはじめてである。私が何かを認識したと言えるのは、私が「私は太陽が昇るのを千回も見た」のを確認する時ではない、「明日も太陽は昇るだろう」、「水は百度に達した時はいつでも、必然的に沸騰する」と判断する時である。
    --ジル・ドゥルーズ(國分功一郎訳)『カントの批判哲学』ちくま学芸文庫、2008年。

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日曜月曜と実家の香川県に帰省しておりました
昨年5月になくなった祖母の3回忌の法要のための帰省でしたが、れいのごとく強行軍となってしまいました。
土曜は仕事でしたので、深夜に帰宅、結局寝たのが朝の6時で11時には起きて羽田へ。

そのまま実家にて一泊。

翌日の3日が法要と精進落とし?でゆっくりするまもなく、二日間ひたすら飲んでいた次第です。

今日は新幹線にて東京へ戻り、そのまま市井の仕事へいくというわけで、ついでに大学からレポートの束もしっかりと到着しており、短いGWがサクッと終了です。

20代ならこの程度の強行軍はまったく問題がなかったのですがさすがに最近ではキツイですね。

おかげで日記を1日分すっとばしてしまいました。500日程度の連続更新記録を爆走していたので、残念ではあるわけですが、致し方ありません。
※twitterは毎日快調にとばしておりますが。

人間はア・プリオリな認識構造をもってはおりますが、ア・プリオリな超人的な能力を保持しているわけではありませんので、チトつらいところです。

私が「明日も日記を書くだろう」と判断する時というのは、「水は百度に達した時はいつでも、必然的に沸騰する」と判断する時とでは様相がかなりことなってしまうというところでしょうか。

さて、疲れましたが、仕事へ戻ります。

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「弱さの露呈は、そのような情緒的なつまずきは、あらゆる人生において避けがたいこと」らしいっす

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 グラヴァーは話し終えると、トレイシーが何かを言うのを持った。そんなに多くを語ってしまったことを彼は悔やんでいた。気恥ずかしさを彼は感じていた。なにも自ら選んで犬になったわけではないのだ、そのような倒錯的変身の数々は必要性から生まれるものであって、決して嘆かわしいことではないのだということを、彼女にわかってほしかった。ときとして、人間であることへの怒りは、予期されるものを大胆に改変してしまうかたちで、もっとも精妙に顕在化されるのだ。なぜなら人々の自己などというものはほとんどうわべだけのものにすぎないからだ。その夜の最初のうちは悔恨の苦悶に沈み込みかけていたグラヴァーであるが、今では自分は正しいことをしたのだという誇りを感じていた。彼はトレイシーの瞼が閉じられているのを見た。彼女は眠ってしまったのだ。真実は耐えることのできるものであったのだ。そして新たなる夜の運命に彼女を安全に導き入れる必要性がその真実のとげをやわらげていた。朝早くふたりは目を覚まし、いつものように互いを見つめることだろう。彼がそのとき口にしたことは、もうふたりのあいだで持ち出されることはないだろう。それは慎み深さ故ではなく、あるいはまた相手を思いやってのことでもない。そのような弱さの露呈は、そのような情緒的なつまずきは、あらゆる人生において避けがたいことであるからだ。
    --マーク・ストランド(村上春樹訳)「犬の人生」、『犬の人生』中公文庫、2001年。

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今日のといいますか昨日の仕事……といいましてもタツキを得るための市井の職場ですが……もきつく、何度か段ボール箱を粉々に粉砕して、ついでにドラム缶を蹴飛ばしたところ、相手がわるかったのか、靴が粉々になってしまった宇治家参去ですが、中盤以降は、仕事もおちつき、平静?を取り直して、勇んで?休憩にはいって、活字に目を通すと自然と心が落ち着くのがどうも、不思議です。

ある意味では活字中毒なのか、それとも活字に救いをもとめているのか定かではありませんが、浅はかに〝物〟にあたったことに後悔するばかりです。

とりあえず、業務がすんでから……。

「ひとりで飲みに行きたい」

……との思念が強く、24時前からですかひとりで逝ってしまった次第です。

この「ひとりで飲みに行きたい」という感覚は、なんといえばいいのでしょうか。
飲兵衛だけに限られた現象ではない(飲兵衛でない場合は別の選択枝ということでしょうが)と至極実感する次第ですが、感傷から傷を癒そうとか、がんばった自分をほめてやろうとか、そうした作為的な感覚を超越したところにある「ひとりで飲みに行きたい」という感覚です。

たしかに、気の置けない仲間とわいわいがやがや飲むのもいいんです。
旅先で、気儘にやるのもいいんです。

しかし、それとはまったくことなる、すなわち、大勢でやるのでもなく、孤独を楽しみたいからやるのでもない、第三の道とでもいえばいいのでしょうか……、そうした「ひとりで飲みに行きたい」ってやつがあるんです。

表現したいのですが表現できない、つまるところ宇治家参去の語彙の貧弱さにわれながら辟易とする次第ですが、そうした超越論的な視座とでもいえばいいでしょうか、なんだか「ひとりで飲みに行きたい」ってやつがあるんです。

人間は現実生活世界から遊離して生きていくことは不可能なんですが、それを中空からふわふわと観察するように自己省察するとでもいえばいいのでしょうか、そうした契機が自分にとっては「ひとりで飲みに行きたい」というヤツです。

で、仕事が終わってからふらっといっちまいましたが、近所の「さかなや道場」です。

剣豪のごとき修行はしませんでしたが、サクッとかるく呑(や)らせて頂いた次第です。

ちょうど北海道特集?のようなものをやっておりましたので、まずは……

「室蘭風やきとり」でスタートです。
〝やきとり〟とのふれこみですが、これは〝室蘭風〟ですので、豚バラとタマネギのやき〝豚(トン)〟というわけですが、あま~い、たれと豚とタマネギのすてきなハーモニーがが疲れた体に滋養をあたえてくれるというものです。

ついでに頼んだのが、〝たこザンギ〟。
ようするにタコの唐揚げなのですが、油によってタコの旨みが凝縮されているのをゆっくりと味わいつつ、楽しませて戴きました。

ビールは生ビールの大ジョッキをゴッキュリってやってから、、、どうせ帰宅して風呂上がりにまたやるから、日本酒で!ということで、宮城県の超辛口「雪の松島」を頼んで、運ばれてきた「びんちょうハラス焼き」の脂と真剣勝負にて、

「いざ」

……って気合いをいれた次第です。

マグロの脂は確かに〝生〟もいいのですが、ほどよく焼き上げた素焼きもなかなかのものでして、超辛口の引き締まった香りが磯の甘みをとぎすまさせるひとときに、幸せを感じてしまうというものでございました。

ま、それだけでサクッと帰宅しましたが、「犬の人生」でさりげなく表現されている通り「それは慎み深さ故ではなく、あるいはまた相手を思いやってのことでもない。そのような弱さの露呈は、そのような情緒的なつまずきは、あらゆる人生において避けがたいことであるからだ」ですから、「ひとりで飲みに行きたい」ってえ衝動も「人生に措いて避けがたいこと」ってことなのでしょうかねえ。

……ってえことで、もちょっと仕事してから寝ます。

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想像力を閉ざすとき、自分の周りにいる人々が自分と同じように、さまざまなことを期待し求めていることを忘れがちになる

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 倫理は、想像力を閉ざさないこと、想像力を開いておくことを求める。これは、他人の身になって考えることであり、おそらくもっとも根本的なものである。この本では倫理を身につけるために考えるべきテーマを扱ってきたが、これが最後のテーマになる。

 想像力を閉ざすとき
 レストラン、銀行、切符売場、レジをはじめとして、多くの場所で私たちはサービスを受けている。誰もが知っているように、そこでの人間関係はあらかじめ決められているかのように、まったく型通りのものになることがある。それどころか、ほとんどの場合、それは「人間関係」とさえいえない。客にとっては、ウェイターは料理を運ぶ存在にすぎないことがほとんどであり、ウェイターにとっては、お客は料理を食べチップをくれる大勢の中の一人にすぎないだろう。たとえ何か会話があったり、相手にちょっとした興味をもつことがあったとしても、事情はたいして変わらない。それぞれが役割を演じているだけなのだろうし、一人の個人として相手を気遣うことはほとんどない。
 こういうとき、何が起こっているのか。おそらく、他人の立場に自分を置くことができず、他人が感じているものを自分のものとして考える気になれないのだろう。十九世紀の哲学者ジョサイア・ロイスは、聖書を思わせる仕方で描写している。

 あなたは、〔あなたの隣人の〕考えや気持ちをあなた自身のそれとはいささか異なったものとみなしている。あなたはいう。「隣人の痛みは私の痛みとは異なっており、私の痛みに比べればはるかに耐えるのが容易なのです」と。あなたの目に映る隣人は、あなたほど生き生きとした存在ではない。……ぼんやりとそして何も考えず、隣人のことを分からぬまま見ようともせず、ともに生きている。あなたは、〔隣人〕を自我をまったくもたぬひとつの物となしている。

 これが、つまり、想像力を閉ざすということだ。もっとも現代的な言い方をすれば、想像力を閉ざすとき、自分の周りにいる人々が自分と同じように、さまざまなことを期待し求めていることを忘れがちになる。対等の人間としてではなく、たとえば下僕や邪魔物といったものとして接しがちになる。
 いくらなんでもそれは極端だ、と言う人がいるだろう。たしかに、他人も人であるということは、いつでも、いや少なくともほとんどの場合に、頭では分かっている。
 でも、考えてみてほしい。銀行の窓口が全面的に機械化されたとしても、私たちはほとんど気にも留めないだろう。どうしてだろうか。これまでずっと機械に対するように接してきたからではないか。これを伝えたくて、ロイスは「ぼんやりとそして何も考えず」に私たちはともに生活している、と書いたのだ。私たちは、相手が「自我をまったくもたぬ」ものであるかのように接しているし、あまりにも多くの場面で、習慣だけに従って型通りに関係し合っている。
    --アンソニー・ウエストン(野矢茂樹ほか訳)『ここからはじまる倫理』春秋社、2004年。

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こんばんわ、宇治家参去です。
いつものGWは基本的に市井の職場のオシゴトのため(=暦上の休日とはこの商売において殆どの場合仕事日)、休んだことがないのですが、今年は、祖母の1周忌と実父の13回忌(だったと思う)の法要のため、無理言って、市井の職場を休むように設定しておりました。

予定では、2日に実家へ戻り、3日に法要、4日に東京へもどりゆっくりしてから、翌日からオシゴトというスケジュールで組んでいたのですが、、、。

5/1付で店長の人事異動があったり、さきの4/1付での直辱上司の人事異動があった所為で、

「できれば、このへん出てくんねえ?」

……って無理がまかり通るのが市場経済社会ぢゃアないですか!

つうことで、4日に東京にもどってからそのまんま市井の仕事へ直行!
振り替え休日は当分なし……っつうすてきな状態となってしまいました。

まだ細君には話していないのですが、たぶんブーたれることでしょう。

ともあれ、想像していないことが、Boeing B-29につまれた排気タービンのごとく次から次へと出てくると言いますか、想像だにしていない展開になってくる、この市井の職場には、倫理学に携わる人間としては、感謝をした方がいいのでしょう。
※ちなみに写真のNorth American B-25には排気タービン(ターボチャージャー)と与圧キャビンはついていません。

まあ、「倫理は、想像力を閉ざさないこと、想像力を開いておくことを求める」わけですヨ。

「まあ、こんなもんだよな」って生活の中で思うわけですヨ、かんがえるに値いしないって寸法で。

「ぼんやりとそして何も考えず、隣人のことを分からぬまま見ようともせず、ともに生きている」とでもいえばいいのでしょうか。

しかし、このウ○コのような市井の職場は、「ぼんやりとそして何も考え」ないことを不可避的に拒否してきますし、こういうやつだんだよなって思っていると、足下をすくわれる自体も多々ありますので、ある意味ではまったく「予断」を赦してくれません。

その意味では、こちら側が望んでいないにもかかわらず、「無理矢理に」想像力とかその他もろもろが、強制的に〝開かれて〟しまう……わけなんです。

その意味では、学徒としてはアリガタイところでしょうか。

できればもちっと銭くれやってところですが、学問の基礎を固める上では、必要不可欠の素材を提供して戴いていると解釈しておきましょうか。

……つうことで、いっぺやって沈没です。

東京の地酒「純米酒 夷」(東京都あきる野市・野崎酒造株式会社)でもやります。

東京で地酒?

……って思う事勿れ。

結構あるんですワ。

想像力を〝機械〟的に閉ざさないように。

……ってことで、例の「頭の良くなる花」(オレンジ ジョセフィン)がようやく花びらを開きました!

これでちっとは頭がよくなるかな???

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