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例えば、英語を母国語とする人が、日本の古代語を学び、『万葉集』を読む場合、もし、『集』中に多出する「恋」の語を、Loveで置き換えて理解したら、一体、どんなことになるだろう。

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 『コーラン』の内容について、『コーラン』自身をして語らしめるという右の原則は、勿論、『コーラン』の原語、つまりアラビア語、を以ってすることである。当然のことだ。例えば『コーラン』の英訳書を持ってきてそれを精読し分析し、それに基いて『コーランの倫理思想』を打ち立てる、というような愚を犯す人は、おそらくいないであろう。
 だが、危険な陥穽は、思わぬところに、微妙な形で我々を待ち受けているのだ。それは、原典を原語で読みながら、原典のコトバを、ほとんど無意識で、我々自身のコトバにすりかえて了解することがしばしば起こるからである。つまり、我々が自分の母国語の概念を原テクストの中に読みこんでしまい、そのテクストの重要な語のすべてではないまでも、多くを、自分の母国語でそれに対応する(と考えられる)ものにすりかえてしまう。それによって原典は、いわば我々の母国語に翻訳されてしまうのである。
 例えば、英語を母国語とする人が、日本の古代語を学び、『万葉集』を読む場合、もし、『集』中に多出する「恋」の語を、Loveで置き換えて理解したら、一体、どんなことになるだろう。
    --井筒俊彦「意味の構造 コーランにおける宗教道徳概念の分析」、『井筒俊彦著作集4』中央公論社、1992年。

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中世神学とイスラーム思想は、アリストテレス(Aristotle,384 BC-322 BC)の受容をめぐって深い関係にありますので、きちんとイスラームも読んでおかなければなりません。

昨年から研究所の輪読で、イブン=スィーナー(Ibn Sīnā、ラテン名アヴィケンナ、Avicenna、980-1037)のThe Metaphysics[ of The Healingをアラビア語テクストで読み始めることになり、アラビア語も始めたのですが、なかなか難儀で進みません。

輪読では、ラテン訳、英独仏訳で対応させながら、読んでおりますが、おかげで3時間で10行いくかどうかという進行状況で、まあ、いつになったら終わるのやら?……との感慨が深くこみ上げてくる次第ですけども、途中で投げ出さずに最後までやり通したいと決意する宇治家参去です。

翻訳の理解の問題に関しては私淑する大学者・井筒俊彦(1914-1993)先生が冒頭で指摘しているとおりですが、まあ、この誤読のレベルにすら達していないわけですが、語学を磨くながらで、思想としてそれを扱う人間は、「多くを、自分の母国語でそれに対応する(と考えられる)ものにすりかえてしまう」陥穽を深く自覚することだけは大切かもしれません。
※ただまったくこの部分から自由になることはマックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)が客観性論文のなかの価値自由の問題で指摘している通り、基本的には不可能でありますので、そのことを「自覚する」ことしかできないのでしょうし、その「自覚」があるからこそ、陥穽から抜け出すことが可能になるのだと思われますが、ひとまず措きます。

さて、昨日は日中は集中的に仕事にとりくみましたが、宇治家参去はアメ車ばりに燃費が悪いことで有名ですので、夕方からちょいと飲みに入ってしまいました。

近所のさかなや道場ですが。

無性に「カツオのタタキ」が食べたくなり……、

「宇治家参去が財布を負担するのであれば」

……との「条件付き了承」(なんか論文を雑誌に掲載するときの判断ペーパーのような表現ですが)ということで、出かけたのですが、生憎、「カツオのタタキ」はなかったようで、少しガックシ。

ただ、マグロの炙ったヤツはありましたので、そちらで楽しませて戴いた次第です。

結局、夜は仕事にならず、DVDで映画などを見ながらゆっくりと息抜きさせて戴きましたので、今日からまたガリガリ・ゲシゲシ、積み重ねていこうかと思います。

研究だけでなく、研究の土台を支える諸言語の学習も錆が出ないように、定期的にメンテナンスが心がけつつ、今日もがんばっていこうかと思う次第です。

でわ!

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