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「これが、現前の形而上学か!」

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 まだ文字の中に産み出されていないものは、他にも棲家をもたないのだということを、それは一種のτσπος ονρναιος か神の悟性の中にあらかじめしるされたもの(préscription)としてわれわれを待ち受けるものではないのだ、ということを。意味がおのれを棲家として住みつき、意味がおのれと異なることによって意味であるようなものとなるためには、意味が言われ書かれることが必要なのだ。フッサールが『幾何学の起源』を通じてわれわれに考えさせるのは、このことである。文学的行為はこのようにしてその源において自らの真の力に再びめぐり会うのだ。メルロ=ポンティは、『真理の起源』と題する著書に含まれる予定の断章の中で書いた。<<文学におけるコミュニケーションは、ただ単に、人間精神の先験性の一部をなす意味作用にうったえる、というようなことではない。むしろ、コミュニケーションが人間精神の中に訓練の結果か一種の隠微な作用によって意味作用を惹起するのだ。作家の裡では、思考が外側から言語(ランガージュ)を操るのではない。作家は自らが構成されていく一つの新しい固有言語(イディオム)のようなものなのだ……>> フッサールはまた<<私のことばが私自身を不意打ちし、私に自分の考えを教える>>とも言っている。
 書くことが危険で苦しいのは、それが事始めであるためだ。書きながら、自らその行き先は知れない。どのような智恵も、それが本質的な疾走となって意味の方へ向かうのをとめることはない。意味は書くことによって作りなされていき、意味は始めはその行く手にある。とはいえ、この行為は気粉れに委ねられているというわけではない。そうなるのは気おくれした場合だけである。だから、こうした疾走の危険性に対する保障はないわけだ。書くことは、作家にとっては、作家が無神論者でない場合でも、作家である限りは、初めての、しかも恩寵のない航海なのだ。
    --ジャック・デリダ(若桑毅訳)「力と意味」、若桑毅ほか訳『エクリチュールと差異(上)』法政大学出版局、1977年。

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フランスの思想家・デリダ(Jacques Derrida、1930-2004)を読んでおりますと、何かを書きたくなってしまうのが不思議です。
一貫して、西洋形而上学が現前性を真理の基準としてきたことを手厳しく批判してきたことで知られるわけですが、そうした形而上学の暴力性の籠絡に宇治家参去もとらわれているのかも知れません。

何かを書く、語るという広い意味で、現前性にこだわる部分というのがそれなのでしょう。

「書くことが危険で苦しいのは、それが事始めであるためだ。書きながら、自らその行き先は知れない」つうことは、わかっちゃアいるのですが、なかなかその禁忌を守れないというのは職業病のせいかもしれません。

……というわけで前置きが長くなりましたが、写真もいくつかとっておりますので、帰省の旅を少々。

ま、基本的には法要以外は、のんびりとしておりましたが、まずは実家の猫と犬。
リアルな暴力ではありませんが、絡み合っております。

つぎにコレクション?を少々。

現代化されたスプリングフィールドM14のエアガン。
東京では持つことができませんが、ずっしりとくる重さがこたえます。

ただ、リアルな暴力と思想における暴力(現前の形而上学)とではどちらが問題が大きいのか、なかなか答えを導き出すことは不可能です。

という意味ではやはり両者に退治した各人の自覚というところにつきるというところでしょうか。西田幾多郎(1870-1945)の折衷的存在論としての「自覚」ではない、認識論としての「自覚」が肝要なのかもしれません。

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……というわけで、そうしたことを思念しつつ?酒を飲んだりしておりましたので、うどんを食べて帰ることを危うく忘れそうになりましたので、二日目に精進落とし宴のあと、すこし酔いをさましてから、夕方近所のうどんやへ赴いた次第です。

自転車で5分もかからぬところにある「灸まん うどん」へと行って来ましたが、さすがにゴールデンウィークなのでしょうか。県外車両で駐車場は満杯。

基本的に夕方にうどんやへ行くものではないのですが、GW期間中ですから、かなり仕込んでいるのでしょう。さくっと「かけ」の「肉うどん」(小)を頼んでから、舌鼓を打った次第です。

こちらで暮らしていたときはよく行きましたが、内装もメニューもかなりかわり、驚いた次第ですが、ひところ「味が落ちた」といわれておりましたが、ひさしぶりにやってみますと、

「そう、悪くはない」

……東京では味わうことの出来ない讃岐の味を堪能させて戴きました。

甘辛く似た牛肉がすこし「クドイ」かなと想像しましたが、さっぱりとしたつゆに案外あうもので、うどんを飲み込むと同時に、肉とつゆのハーモニーをたのしませて頂きました。

……などと言葉として表現してしまうものですから、認識論としての「自覚」はできておりませんし、目の前に現前させようとしてしまう心根の沸々と起きあがってくるところに、

「これが、現前の形而上学か!」

……などと思うわけですが、まあまあいい仕事をしているのでは、などとふと思った次第です。

■ 灸まんうどん
香川県善通寺市大麻町388
http://www.kyuman.co.jp/udon/

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