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最高で、最も稀な目的のためにこそ取っておかれるべき手段を用いて、追求されるべきものではない!

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なんでこんなに政治や経済が混迷を深めてしまうのでしょうか。
細君が、「哲学者の観点から解説してみせてよ」といいますので、

「飢饉疫癘……」ってはじめるほど野暮ではありませんので、さらりとニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche,1844-1900)の言葉にて解説に代えさせて戴いた次第です。

実体を虚構とし、虚構を実体として捉える精神の貧困さにその原因があるのではないかと思います。

……ということで、今日も烈しく疲れましたので、チト飲んで沈没だああ!

今日はなぜだからワカラナイのですので、ひじょーにすうぱあどらいが飲みたいので瓶ビールでこれから始めます。

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    一七九
 国家をできるだけ少なく! --一切の政治と経済の事情は、ほかならぬ最も天分豊かな精神の持ち主たちが没頭する必要がありまた没頭しなければならないといった価値はない。精神のそのような浪費は本当は緊急事態よりも悪い。それは比較的乏しい頭脳の持ち主のための労働領域であり、これからもそうである。乏しい頭脳の持ち主以外の者は、こうした仕事場の役に立つべきではないであろう。むしろ機械がもう一度ばらばらになった方がましだ! しかし現在の有様のままでは、すべての人々は日々その事情を知らなければならないと信じているばかりでなく、だれでもあらゆる機会をとらえてそのために働きたいと望み、自分自身の仕事をそのために諦めるのであり、これは大きな滑稽の狂気の沙汰である。「公共の安寧」は、この代価ではあまりにも高すぎる。そして最も愚かなことに、それに加えて、われわれの愛する世紀が証明しようと--まだ一度も証明されたことがないかのように--企てているような、公共の安寧とは反対のものが、それによって生み出されるのである! 社会を盗難と火災から安全にし、あらゆる商売にとってこの上なく便利なものにし、国家をよい意味でも悪い意味でも摂理に変えること、--これは一層低い凡庸な、不可欠とは全く言えない目標である。それは、いやしくも存在する最高の手段と道具を用いて、--最高で、最も稀な目的のためにこそ取っておかれるべき手段を用いて、追求されるべきものではない! われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神を浪費する。
    --F.ニーチェ(茅野良男訳)『ニーチェ全集7 曙光』筑摩書房、1993年。

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現代批評」カテゴリの記事

コメント

お忙しいところ失礼します。

>われわれの時代は、経済について語るだけ、一個の
>浪費者である。それは最も貴重なものすなわち精神
>を浪費する。

貴重な精神というのは、具体的にはどういうものなんでしょうか。これが分かれば政治に限らずいろんなものが精神の浪費に見えてきそうなのですが。

>すべての人々は日々その事情を知らなければならな
>いと信じているばかりでなく、だれでもあらゆる機
>会をとらえてそのために働きたいと望み、自分自身
>の仕事をそのために諦めるのであり、これは大きな
>滑稽の狂気の沙汰である。

若い人が政治離れしているとしたら、政治に関しての狂気の沙汰度合いは、良くなっていっている気がするのですが、自分自身の仕事というのは経済的な仕事なのでしょうか。

自分自身の仕事(経済的な仕事はあります)と貴重な精神が自分にはない様な気がするのですが、それが見つかるようなヒントはありますか。

投稿: トム | 2010年5月20日 (木) 11時57分

トムさんゑ

書き込み、ありがとうございます。
久しぶりの書き込みだったので驚いております。

で--。
出先からで簡略な対応で恐縮ですが、精神の浪費として自分が考えているのは、「ふりまわされない」ってところではないかと思っております。これは政治も経済も同じかも知れません。

実体即虚構なのが政治なのだと思いますが、「大きく期待」しないという「冷静」さが必要なのではと最近実感します。

この期待というのは、こーします、あーしますという喧伝に「大きく期待」するというやつですが、たいていの場合において大きなしっぺ返しをくらうのがその実情です。

ですから、夢のように期待はしない、という矜持とでも言えばいいのでしょうか。

しっぺかえしを受けて、「なんだかな」って振り回されてしまうことほど、疲労することはありませんから、最近そう思うことがあります。

しかしこれはまったく関心を抱かず、引きこもっていくという方向性ではない選択でもあると思います。

大きなフロシキに期待はしないけれども、できるところきちんとしてもらうようにしていく--現実にはそこまできていませんが--ようにスライドしていきたいなと思うところです。

フィクションと分かっていて、その舞台に理解した上であがり、できることをきちんとやる人間を監督する、かくありたいものです。


さてもひとつの経済的な仕事云々ですが、こちらのほうが難問かもしれませんね。ニーチェの生きた19世紀末のドイツに現代社会の基礎がほとんどできたといってよいかと思います。

要するに会社、工場、学校--といういれものです。
9時に工場へ行き、17時に退社して、サラリーをもらう、この生活が誕生したのがその時期です。

ニーチェは、時間やシステムに〝おわれて〟〝生かされている〟近代人を生命力を失った存在として弾嘩しておりますが、その文脈ででてきているのだと思います。ただこれを徹底的にやってしまいますと生活自体がごわさんになるのが現代ですから、どのように受容するのか悩むところですが、のめりこんで一体化するのでもなく、つきはなしすぎるのでもなく、使いこなしていくってところが重要なのかなとは思います。

まあ、お金はないよりもあったほうがいいですし、苦労はしたくないものです。通俗的ですが、カネをためるのが目的ではありませんし、どのようにつかうのかが目的ですよね。集めることや、苦労することで精神をすり減らすのはきわめてもったいないことですから、そのへんの中庸なつきあい方っていうものが必要なのかなと思います。

ただいずれにしましても、難しいですね。
私淑する池波正太郎先生が『鬼平犯科帳』で次のようにかかれておりますので、ひとつ紹介しておきます。


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 「金と申すものは、おもしろいものよ。つぎからつぎへ、さまざまな人びとの手にわたりながら、善悪二様のはたらきをする」
 「ははあ……」
 「その金の、そうしたはたらきを、われらは、まだ充分にわきまえておらぬような気がする……」
 何やら、しみじみと、平蔵がいったものであった。
    --池波正太郎「赤い空」、『鬼平犯科帳 15巻 特別長篇・雲竜剣』文春文庫、2000年。

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また帰宅後、ちょいと考えてみます。

まずは取り急ぎということで。

投稿: 宇治家参去@iPhone | 2010年5月20日 (木) 22時01分

貴重な時間を割いていただいて、ありがとうございます。iphoneからの打ち込みは大変だと思いますのでありがたいです。

>しかしこれはまったく関心を抱かず、 -略- できることをきちんとやる人間を監督する、かくありたいものです。


投稿: トム | 2010年5月21日 (金) 05時48分

すいません。まちがって送信してしまいました。

>しかしこれはまったく関心を抱かず、 -略- できることをきちんとやる人間を監督する、かくありたいものです。

ニュースなどで色々な問題を知りますが、それに対して具体的な行動を起したことはありません。宇治家さんの言われるようなスタンスで行動を起こせる人間になりたいです…

「善悪二様の働き」を完全に判断できる価値観を持っていれば、ある程度、自由に職を選べる状況にある人にとっては、稼ぐ方法や使い方も変わっていきそうですよね。それが間違っていなければ、そういう価値観と状況が欲しいです…

価値観の定まっていない戦闘員は、銃口を向ける先にも苦労します…

宇治家さんのブログはおもしろいです。普通に生活している人間にとって、色々な気づきを与えていただけますので。予備知識がほとんどないので、間違った解釈していそうで恐いですが、今後も楽しみにしています。
エントリー並のコメントありがとうございました。


投稿: トム | 2010年5月21日 (金) 06時39分

トムさんゑ

ありがとうございます。

三谷の指摘するとおり、生活から離れて観照することはできませんので、その現場で問題を発見し、考察し、探究していくことがやっぱりスタートとして必要なんだろうなと思う昨今です。

アリストテレスが「哲学は驚きから始まる」と『形而上学』で述べておりますが、その驚きは「身近なものごと」に対してはじまり、徐々に大きな問題に発展していくって述べておりますが、このあたりを銘記しておきたいところです。

そのなかで、ひとつひとつ丁寧に確認しながらやっていくのが、時間がかかるように思われますが一番の正道なのではないだろうかと思います。

いずれにしましても、両方の側面を同時に見ていく……うえの政治でいえば虚構と実体を把握して、一方に拘泥しない的なところ……のが必要なのでしょうねえ。

むか~し、イスラームのスフィーズムの「複眼の士」@井筒俊彦のことを紹介したエントリがありますので、何かの参考?になるかもしれませんので、紹介しておきます。

http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/dhu-al-aynain-8.html

投稿: 宇治家 参去 | 2010年5月21日 (金) 14時32分

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