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本来的に自己であることの可能性(ein eigentliches Selbstseinkönnen)

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  いまわれわれが求めているのは、現存在の本来的な存在可能であって、しかも、それが実存的に可能であることを現存在自身が臨証するような、そういう本来的な存在可能である。それを明らかにするためには、そのまえにまず、この臨証そのものを見つけださなくてはならない。この臨証においては、現存在が本来的に実存できるということが、現存在自身に告知されることになるのであるから、それは現存在の存在に根ざしている臨証であろう。したがって、このような臨証を現象学的に挙示する場合に、われわれはその臨証が現存在の存在構造にその根源をもつこともあわせて立証しなくてはならない。
  その臨証は、本来的に自己であることの可能性(ein eigentliches Selbstseinkönnen)を告示するはずのものである。「自己」という表現で、われわれは、現存在の「誰れか」の問いに答えたのであたった。現存在の自己性は、形式的には実存するありさま(eine Weise zu existieren)として規定された。すなわち、それはなんらか客体的に存在するものではないのである。現存在の「誰れか」は、たいていは私自身ではなく、世間的=自己である。本来的に自己であることは、この世間の実存的変様(eine existenzille Modifikation des Man)として規定される。この実存的変様を実存論的に画定することが、これからの課題なのである。この変様には、どういうことが含蓄されているのであろうか。そしてそれの存在論的な可能条件は、どういうことであろうか。
    --ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間  下』ちくま学芸文庫、1994年。

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千葉までの電車での通勤の渦中、iPodでなどで音楽を聴きながら、本を読みながら大学へ向かうというスタイルが多いのですが、夏場はあまりiPodを使用しません。

ただでさえ暑いので、冷房の効いた電車のなかとはいえ、イヤホンをつけるというのがうっとおしいという具合でして、もともと、徒歩とか自転車での移動時には音楽を聴きながらということもしておりませんので、さっぱりとはずしてすごしている6月の最後です。

ですから、いろいろとひとびとの話がそれとなく聞こえてくるというものですが、ひとつひっかかったところもあり、そしてちょうどマルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の主著『存在と時間』(Sein und Zeit,1927)もひもといてたところでしたので、ひとつ残しておこうかと思います。

「本来のオレはこうぢゃなかったんだ」
「もっとがんばれるはずなんだよなア」
「絶対に勝てたはずなんだ」

……etc。

単純に概略化するならば、要するに、想定された本来的自己と自己の現実態の相剋というやつでしょうか。そしてそれに対するものの見方という問題です。

想定された本来的自己と自己の現実態の相剋は、マア、どこにでも見られる現象ですし、自分自身もその現象から逃れることは、生きている限り不可能です。

ですからそれをどう捉えるか……という問題に収斂していくわけですが、やはり一番大きな問題は、想定された本来的自己と自己の現実態の二元論というパターンではないかと思います。

要するに、「本来的」なる理念や想定されたあり方というものを誰しもが想定したり、目標にしたりしながら、現実を開拓していく仕組みというのはどこでも同じですが、本来的なるものと、自己の現実態を有機的な相関関係と見ずに、互いに独立して存在して見てしまうというものの見方の問題です。

前述したとおり、人はだれでも、目標的に「本来的」なるものを造りあげ、それによって現実を批判しながら、現実を開拓していくわけですが、本来的なるものと現実的態というものが別個に存在した場合、まあ、そう見てしまった場合どうなるのでしょうか。

ひとつは、やはり、本来的と現実態が繋がりがないと見てしまった場合、現実は本来的と極端に対置されますから、それこそ「非本来的(自己)」として扱われます。相関関係があった場合、そこには、本来的⇔現実態というつながりから、両者を創造的に批判……ここでいう批判とは日本語の語感よりもカント(Immanuel Kant,1724-1804)のいうkritikがふさわしい……しながらずるずるべったりの現実を開拓したり、本来的なるものを修正しつつ漸進することが可能になるはずなのですが、つながりをみうしなって扱った場合、現実態は、本来的なるものとの関係がなく、あったとしても一方通行ですから、現実態はとるに足らないものとして扱われてしまいます。

ですから、引かれ者の小唄のように「本当は○○だったんだ」式な哀音しか出てこないという寸法なのでしょう。

早い話が悪しきプラトニズムというわけです。

そして、そのぐだぐだとした状況は、本来的から見るならば、非本来的にすぎませんから、厳しい言い方をすれば、結局の処、精査されることなく翌日……というのが永劫回帰していくといところでしょう。

全面切り替え式の変革を夢想するのとおなじかもしれません。

しかし、人間は自分自身の生から逃れることがそもそもできないわけですから、本来的なるものと現実態の両者の対話のなかで、生を充実させていくしかないわけですから、「本来のオレは、」とか「本当は○○だったんだ」と例えコトバに発するにせよ、哀音として終わらせるだけでなく、「でわ、そこからどう組み立て直していくのか」というところが必要なのだと思う次第なのですが……。

こう書きますと、「おまえは、そんなに強いやつなのか、コンニャロー」ってなってしまいますが、そう早計すること勿れ。

自他共ににんずるナイーヴなチキン野郎ですから、強者の勇気は持ち合わせていませんからあしからず。

ただ、そうではないからこそ、今の現実を諦念として「全肯定」するのでもなく、はたまた単純に「全否定」するのでもなく、向き合いながら、精査し、漸進していくしかない、そのためには想定された……ないしは想定する……本来的なるものと、現実態(これを非本来的というのは嫌いですがそういったとしても)の関係を別個に置くのではなく、相関的にみながら、やっていくしかないのかなア~、などと思う次第でして……。

まあ、そう思う次第というところ自体がひとつの引かれ者の小唄であることも否定できませんが、そんなところです。

いずれにしても、頽落としてのずるずるべったりの現実態であるのが現実の現象世界の事実でございますが、それはだれにもひろくあてはまること……そうぢゃないという人ももちろんいらっしゃるでしょうが……ですが、それを全肯定でも全否定でもない、第三のオプションとして捉え直す必要があるのぢゃなかろうか……ハイデガーなんかを読みつつ、そう思念する蒸し暑い一日です。

確かにハイデガーは、ずるずるべったりの現象世界の人間を「世人」と表現したり、その状態を「頽落」と表現しておりますが、本来的なる存在様態がそれとは別にあったとしても、その関係性は否定しておりません。

そういうところに何かヒントはあるはずなのですがねぇ。

まあ、こういうことをぐるぐると考えるの人間かもしれません。

そんで、まあ、自然はそういうことを考える必要がありませんけど、その分、自らの使命を自動的に発動しているところを観察しますとそれはそれで瞠目してしまいます。

ちょうど大学へ向かうため、駅でおりますと、先月田植えされたばかりとおもっていた稲の苗が、青々と成長しているではありませんか。

成長はシステムとして自動的であるのはうらやましくはありませんけど、その姿は、退歩と成長を繰り返す人間そのものが美しいように、同じく光り輝いていると思ったわけですが・・・

今日もあっちいい一日でした。

市井の仕事がありませんでしたので、帰宅後、鯨飲。
夏はこうなってしまうのですけどイタシカタありませんネ。

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