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2010年6月

本来的に自己であることの可能性(ein eigentliches Selbstseinkönnen)

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  いまわれわれが求めているのは、現存在の本来的な存在可能であって、しかも、それが実存的に可能であることを現存在自身が臨証するような、そういう本来的な存在可能である。それを明らかにするためには、そのまえにまず、この臨証そのものを見つけださなくてはならない。この臨証においては、現存在が本来的に実存できるということが、現存在自身に告知されることになるのであるから、それは現存在の存在に根ざしている臨証であろう。したがって、このような臨証を現象学的に挙示する場合に、われわれはその臨証が現存在の存在構造にその根源をもつこともあわせて立証しなくてはならない。
  その臨証は、本来的に自己であることの可能性(ein eigentliches Selbstseinkönnen)を告示するはずのものである。「自己」という表現で、われわれは、現存在の「誰れか」の問いに答えたのであたった。現存在の自己性は、形式的には実存するありさま(eine Weise zu existieren)として規定された。すなわち、それはなんらか客体的に存在するものではないのである。現存在の「誰れか」は、たいていは私自身ではなく、世間的=自己である。本来的に自己であることは、この世間の実存的変様(eine existenzille Modifikation des Man)として規定される。この実存的変様を実存論的に画定することが、これからの課題なのである。この変様には、どういうことが含蓄されているのであろうか。そしてそれの存在論的な可能条件は、どういうことであろうか。
    --ハイデッガー(細谷貞雄訳)『存在と時間  下』ちくま学芸文庫、1994年。

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千葉までの電車での通勤の渦中、iPodでなどで音楽を聴きながら、本を読みながら大学へ向かうというスタイルが多いのですが、夏場はあまりiPodを使用しません。

ただでさえ暑いので、冷房の効いた電車のなかとはいえ、イヤホンをつけるというのがうっとおしいという具合でして、もともと、徒歩とか自転車での移動時には音楽を聴きながらということもしておりませんので、さっぱりとはずしてすごしている6月の最後です。

ですから、いろいろとひとびとの話がそれとなく聞こえてくるというものですが、ひとつひっかかったところもあり、そしてちょうどマルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の主著『存在と時間』(Sein und Zeit,1927)もひもといてたところでしたので、ひとつ残しておこうかと思います。

「本来のオレはこうぢゃなかったんだ」
「もっとがんばれるはずなんだよなア」
「絶対に勝てたはずなんだ」

……etc。

単純に概略化するならば、要するに、想定された本来的自己と自己の現実態の相剋というやつでしょうか。そしてそれに対するものの見方という問題です。

想定された本来的自己と自己の現実態の相剋は、マア、どこにでも見られる現象ですし、自分自身もその現象から逃れることは、生きている限り不可能です。

ですからそれをどう捉えるか……という問題に収斂していくわけですが、やはり一番大きな問題は、想定された本来的自己と自己の現実態の二元論というパターンではないかと思います。

要するに、「本来的」なる理念や想定されたあり方というものを誰しもが想定したり、目標にしたりしながら、現実を開拓していく仕組みというのはどこでも同じですが、本来的なるものと、自己の現実態を有機的な相関関係と見ずに、互いに独立して存在して見てしまうというものの見方の問題です。

前述したとおり、人はだれでも、目標的に「本来的」なるものを造りあげ、それによって現実を批判しながら、現実を開拓していくわけですが、本来的なるものと現実的態というものが別個に存在した場合、まあ、そう見てしまった場合どうなるのでしょうか。

ひとつは、やはり、本来的と現実態が繋がりがないと見てしまった場合、現実は本来的と極端に対置されますから、それこそ「非本来的(自己)」として扱われます。相関関係があった場合、そこには、本来的⇔現実態というつながりから、両者を創造的に批判……ここでいう批判とは日本語の語感よりもカント(Immanuel Kant,1724-1804)のいうkritikがふさわしい……しながらずるずるべったりの現実を開拓したり、本来的なるものを修正しつつ漸進することが可能になるはずなのですが、つながりをみうしなって扱った場合、現実態は、本来的なるものとの関係がなく、あったとしても一方通行ですから、現実態はとるに足らないものとして扱われてしまいます。

ですから、引かれ者の小唄のように「本当は○○だったんだ」式な哀音しか出てこないという寸法なのでしょう。

早い話が悪しきプラトニズムというわけです。

そして、そのぐだぐだとした状況は、本来的から見るならば、非本来的にすぎませんから、厳しい言い方をすれば、結局の処、精査されることなく翌日……というのが永劫回帰していくといところでしょう。

全面切り替え式の変革を夢想するのとおなじかもしれません。

しかし、人間は自分自身の生から逃れることがそもそもできないわけですから、本来的なるものと現実態の両者の対話のなかで、生を充実させていくしかないわけですから、「本来のオレは、」とか「本当は○○だったんだ」と例えコトバに発するにせよ、哀音として終わらせるだけでなく、「でわ、そこからどう組み立て直していくのか」というところが必要なのだと思う次第なのですが……。

こう書きますと、「おまえは、そんなに強いやつなのか、コンニャロー」ってなってしまいますが、そう早計すること勿れ。

自他共ににんずるナイーヴなチキン野郎ですから、強者の勇気は持ち合わせていませんからあしからず。

ただ、そうではないからこそ、今の現実を諦念として「全肯定」するのでもなく、はたまた単純に「全否定」するのでもなく、向き合いながら、精査し、漸進していくしかない、そのためには想定された……ないしは想定する……本来的なるものと、現実態(これを非本来的というのは嫌いですがそういったとしても)の関係を別個に置くのではなく、相関的にみながら、やっていくしかないのかなア~、などと思う次第でして……。

まあ、そう思う次第というところ自体がひとつの引かれ者の小唄であることも否定できませんが、そんなところです。

いずれにしても、頽落としてのずるずるべったりの現実態であるのが現実の現象世界の事実でございますが、それはだれにもひろくあてはまること……そうぢゃないという人ももちろんいらっしゃるでしょうが……ですが、それを全肯定でも全否定でもない、第三のオプションとして捉え直す必要があるのぢゃなかろうか……ハイデガーなんかを読みつつ、そう思念する蒸し暑い一日です。

確かにハイデガーは、ずるずるべったりの現象世界の人間を「世人」と表現したり、その状態を「頽落」と表現しておりますが、本来的なる存在様態がそれとは別にあったとしても、その関係性は否定しておりません。

そういうところに何かヒントはあるはずなのですがねぇ。

まあ、こういうことをぐるぐると考えるの人間かもしれません。

そんで、まあ、自然はそういうことを考える必要がありませんけど、その分、自らの使命を自動的に発動しているところを観察しますとそれはそれで瞠目してしまいます。

ちょうど大学へ向かうため、駅でおりますと、先月田植えされたばかりとおもっていた稲の苗が、青々と成長しているではありませんか。

成長はシステムとして自動的であるのはうらやましくはありませんけど、その姿は、退歩と成長を繰り返す人間そのものが美しいように、同じく光り輝いていると思ったわけですが・・・

今日もあっちいい一日でした。

市井の仕事がありませんでしたので、帰宅後、鯨飲。
夏はこうなってしまうのですけどイタシカタありませんネ。

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同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然ながら遙かに好ましいし、読書することは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。

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 世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然ながら遙かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きるのことの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
    --村上春樹『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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相変わらず村上春樹(1949-)さんの著作に引き込まれております宇治家参去です。
自他共に認める村上ファンでございますので、その言葉に向かい合うたびに、そこで紡ぎ出された発想に深く頷かざるを得ず……、というところでしょうか。

自分はランナーではありませんが、「そこまでして本を読んで何がしたいかね」「そこまで探求する必要はあるのかね」と嘲笑的に言われることがあります。

しかし、徹して本を読み続けるという行為も、ランナーたちが日々走り続けることと同じ気持ちなんだろうなア~と思うわけで、、、読む本の量を比べたいとか、知識を旺盛に吸収したいとかそうした地平を超越したところにある、いうなれば、「本を読むことができるうちは、そのことで十全な人生を送りたい」と思って読んでいることのほうが多いのでは、しばしそう思います。

読書という行為から提供される知識の多寡なんて所詮、「十全な人生を送りたい」とせっせと毎日読書に励むひとへの、世界からのささやかなプレゼントにすぎない、そういうところでしょうか。

また言うまでもありませんが、読むために読むというようにぼんやりと読んでいるわけでもありません。行為としてはぼんやりと漠然と読んでいるように見えなくもないですが、その行為を通じて、ぼんやりとした目的なんかに、はっきりとした言葉が与えられ、霞の中にあったものがハッキリとして輪郭が浮かび上がってくる、、、それが読書家と呼ばれる人種には共通の体験ではないだろかと思われます。

さて……
たしかに有限な人生ですから、読む本の量には限りがありますから、ある程度は選ぶ段階でソフィスティケートな選別をしながら、対応するわけですが、そこで出会う有意義なひとときは、有効に自分を燃焼させ、与えられた、そしてどうしようもなく逃げることのできない人間存在の有限性を乗り超えるひとつのヒントと出会える得難い時間である……そんなところを読書という行為を通して実感する次第です。

このような意見はきわめて恣意的でひとりよがりなものかもしれませんが、まあ、そういうところに読書の魅力を感じている自分がいることまでは否定できません。

ちょうど今日は短大の哲学の授業で例のごとく「おまえら本読めよ」と口酸っぱくなるまで演説しましたので、そのへんのきわめて個人的な経験を述懐してみた次第です。

読みたいから読むわけですが、それだけでもなく、知識がほしいからというわけでもなく、端的に指摘するならば、やはりそれ以上のetwasを求めているというところでしょうか。

さて、あと30分で仕事が終わりますが、今日は休憩時間に休憩をとれなかったので、今こうした雑文を書きつつ、ちょうど時間まで遅い休憩をとっております。

日本全国はテレビの前におそらく釘付けなのでしょう。

そうした局面において、不可避的な用件による制約からですがテレビの前に座ることができない自分は非国民というわけでしょうが、まあ、そうした人種がひとりぐらいいてもいいのではと思うわけですが、さていかがなものでしょうか。

……ということで、ぼちぼち帰る準備をいたします。

マア、学生さんたちに「読め、読め」というわけですので、自分も読まなくてはならないのですが、先の週末に香川県へいっておりましたので、写真のなんとか餅は学生さんへのおみやげです。

めがねは新調したのですが、この季節、装着の取り外しが多いので、セルのめがねにしましたが、すこしインチキ野郎な雰囲気です。

しかしながらいつも思うのは短大の学食のランチは、大学のランチよりもやすいということ。前者が320円からですが、後者は400円前後。すこしボリュームに欠くところがありますが、この季節はこのぐらいでちょうどいいというものです。

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あっ

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あつすぎる。

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人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であると思う。

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……生まれつき才能に恵まれた小説家は、なにもしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自由に湧き出し、作品ができあがっていく。努力をする必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間を手間をかけなけくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を掘り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。だからひとつの水源が乏しくなってきたと感じたら、思い切ってすぐに次に移ることができる。自然の水源にだけ頼ってきた人は、急にそれをやろうと思っても、そうすんなりとはできないかもしれない。
 人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公正さ」に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。
    --村上春樹「人はどのようにして……」、『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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どうも宇治家参去です。
二日間の熱い!(=暑い)梅雨のスクーリングの二日間が無事に終了しました。

今回は8名の学生さんが参加。
大勢の学生さんとやるのとはまたちがう懇親的な雰囲気で授業を展開し、お互いに学ぶところのあった二日間だったかと思います。

参加されたみなさま、ほんとうにありがとうございました。

小説家ではありませんが、ワタクシ自身も、「生まれつき才能に恵まれた」学者でもありませんし、才能だけでなく、「チャンス」にも恵まれた学者でもありません。

ですから、「泉から水がこんこんと湧き出すように」叡智を絞り出すこともできませんし、残念ながら僕はどうやらそういうタイプの人間ではありませんから、「鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと」、思索の「水源にたどり着くこと」ができません。

自分自身が努力精励のひとだとは思いません・

が、まあ鑿を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがって、なんとか学問という世界の「蒼蠅驥尾に付して」というのが実情ですが、それでも毎度毎度のスクーリングや学問の仕事をするなかで、学生さんのひとりひとりが、

「倫理学を履修してよかった」

と皆がおっしゃってくださることに耳を傾けるなら、、、

まあ、だれも相手にはしてくれませんけれども、

「鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがって」いく毎日の営みは、まあ決して無駄ではなかったのだろうと思います。

いや、ほんとうに、「履修してよかった」ではなく、「履修していただいてよかった」です。

参加された学生のみなさま、本当にありがとうございました。

感謝のコトバを紡ぎ出すのはわたしのほうですよね。

さて……。

最後の試験終了後、学生さんと高松駅にていっぺえやってきました。
「夢の教室」(授業の教室)ではなく、現実の教室での講義とはいいものですネ。

お互いが教師であり、生徒であるひとときを実感いたします。

今日は高松空港近くのホテルで一泊です。

明朝東京に戻ります。
明日からまた「鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがって」いく毎日です。

まあ、自分らしくやっていこうかと思います。

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決して「単なる事実学」ではありませんからネ。

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 単なる事実学は、単なる事実人しかつくらない。
    --E・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中公文庫、1995年。

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1日目午前中の講義終了。
うへ、疲れたなり。

昼食をとると眠くなりますのでSOYJOY1本ですごそうかと思います。

さて、、、実体のない学問であるとして「倫理学」は近現代においては人気がなく批判にさらされることが多々ありますが、教授していていつも実感するのは、

「いやいや、なかなかどうして」

そんなことはありませんよ、って思う次第です。
決して「単なる事実学」ではありませんからネ。

午後もチトがんばりましょうか。

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「もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる」

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 ハワイに来てからも、毎日欠かさず走り続けている。やむを得ない場合を別にして、一日も休まずに走るという生活を再開してから、そろそろ二ヶ月半になる。今朝はラヴィン・スプールンの『デイドリ-ム』と『ハムズ・オブ・ザ・ラヴィン・スプーンラル』という二枚のアルバムをひとつに録音したMDをウォークマンに入れて、それを聴きながら1時間10分走った。
 我慢強く距離を積み上げていく時期なので、今のところはタイムはさほど問題にはならない。ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じてる気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。アーネスト・ヘミングウェイもたしか似たようなことを書いていた。継続すること--リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。
    --村上春樹『走るときについて 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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こんばんわ。

明日から地方スクーリング@倫理学の担当ですので、さきほど赴任先のホテルへ到着しました。

スクーリング講義の準備はすんでいるので、これからすこしゆっくりとしようと思います。

今回の担当都市は高松市(香川県)。

実家が香川県ですので、ひとあしさきに昨日香川入りしました。

木曜は実家で一泊し、金曜日にかけてレポート添削を終了(7月第1週締め切り)。

実家にはオカンしかおりませんが、差しで痛飲。

12時間ほど爆睡してから、すこし持ち越しの仕事してから、実家へ顔を見せた弟さんと合流。

しばし……といいますか、かなりの時間……オレ・オマエの話をしてから、JRの駅まで送ってもらい、高松駅で降りて……、

「降りて」……

しまいますと、

いっぺえやっとくか!

……って寸法にて、さきほどまでがっつり楽しんでからホテルなう。

……というところです。

汗を流してから残っていた仕事をすこしやりましたが息切れです。

ぼちぼちゆっくりしようかと思います。

なにしろ、長編小説の執筆をマラソンのごとしと表現する村上春樹(1949-)さんが「もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる」っていっている通りです。

はやい閉店ですが、本日もこれぐらいにしまして、このへんで切り上げようかと思う次第です。

明日からは二日間ぶっとしの講義です。体力も必要ですからね。

仕事を済みましたが、燃料としての酒をもちっと補充しつつ沈没しようかと思います。

あ、そうそう。

今回、カフスボタンをスーツケースに入れることを失念しておりました。

弟に無理いってカフスボタンを買い求めにいきました……なにしろ用意したドレスシャツの全部がカフスボタン専用シャツにて、カフスをしていないと袖がしまりませんので……が、購入ついでに、GUCCIの携帯電話用のストラップなんぞを購入してしまい、、、、

無駄が多い!

、、、、と思いつつ、とり料理屋で鶏を堪能した一日でございました。

さて、明日から講義です。

宿題はいろいろと持ち帰っておりますが、このヘンで、ぼちぼちゆっくりしようかと思います。

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Bonne nuit.. tout le monde.

01 Ursprünglich kann ich nicht in nicht schreibendem something.but schlafen, ich bin heute sehr schläfrig . Deshalb werde ich ohne Schreiben und das Besprechen von alles schlafen . Es tut mir tatsächlich leid . Es ist, daß ich aktiv bin, weil es aber schläfrig ist, daß es zu Schlaf empfunden wird, . Es gibt wirklich irgend länger keine Art . Gute Nacht.. alle. .

Originairement, je ne peux pas dormir dans n'écrire pas à something.but, je suis très somnolent aujourd'hui . Par conséquent, je dormirai sans écrire et discuter n'importe quoi . Je suis désolé en effet . C'est que je suis énergique parce que c'est somnolent de quelque manière que qu'il est senti pour dormir . Il n'y a vraiment aucun sorte tout plus long . Bonne nuit.. tout le monde. .

ねむいので、本日は閉店いたします。

小学生の作文でヒジョーにすいません。

寝る!……のも〝戦い〟だ!

まことにすいません。

なんか余裕がない!

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「要するに、おまえら、良書を読めよ」

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 事のなりゆきはこんな工合だった。我々は五人か六人だった。私は一番年上でみんなの先生であったが、それ以上に仲間であり、友達だった。彼ら少年たちは燃え易い心と楽しい空想とを持ち、我々に好奇心を唆り、知識欲にかたたてるあの人生の春の潮に満ち満ちていた。一同はあのことこのことを語り合いながら、小径を歩いてゆくと、道ばたに生えたくさにわとこやさんざしの繖房花(さんぼうか)の上では、もうきんはなむぐりが強い匂いに酔いしれていた。我々はレ・ザングルの砂土の高台に、聖たまこがねがもう姿をみせて、古代のエジプト人が地球の像とした糞の団子を転がしていけるかどうか見に行くところであった。また我々が調べようとしていたのは、丘のふもとの小川では、敷きつめたようなうきぐさの下に珊瑚の小枝に似た鰓(えら)のある若いいもりがかくれてはいないか、小川のきゃしゃな小魚のとげうおは藍と緋の婚礼の首笠利をもうつけたかどうか、また帰って着たつばめはあのあざやかな翔(かげ)り方で牧場をかすめ、円舞の間に卵を撒くががんぼを掃蕩していないか。砂岩に掘った巣穴の玄関で、いぼとかげが藍色の斑を散らした尾を陽にさらしていないか。淡水に卵を生もうとローヌ河を遡る魚の群を追って、かもめが群をなして海から上り、河の上を飛びながら時々気違いの高笑いのような叫び声をあげていないか。それから……いや、まあこのくらにしておこう。要するに、単純で素直に、生き物と一緒に暮らすことに心の底から喜びを感ずる我々は、春の生命の目覚めという楽しい饗宴のうちに、朝の幾時間かを過ごそうと出かけたのだ。
    --ファーブル(山田吉彦・林達夫訳)『完訳 ファーブル昆虫記 1』岩波文庫、1993年。

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今日の哲学の講義では、イレギュラーの講義……といってもシラバスには組み込んでいるわけですが……をやっちゃった宇治家参去です。

先週の講義でひととおりの哲学史は概観しておりますので、以後はテーマに絞ってつっこんで議論するケース・スタディのようになるのですが、その冒頭となる今回、毎度毎度ですが、

「要するに、おまえら、良書を読めよ」

……って旧世界の黴くさい、先端科学やイノベーション、トレンドや銭儲けを指南するような新世界の学問とは対極にあるファウスト博士の「説教」のようですが致し方ありません。

なにしろ自分はやはり古典ヨーロッパ至上主義者であり、スコラ学に代表される中世末期ヨーロッパの大学を範型におきますのでイタシカタありません。その点で、システマティックかつ(よくわからん)アート&テクノロジー+就職指南を売りとする21世紀のマジョリティとしての大学教育にははなはだ違和感と隔靴掻痒を感じてしまいますが……まあ、もどります。

この「要するに、おまえら、良書を読めよ」っていう古典教養論に関しては、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ,1859-1938)の危機論文(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)を交えながら再論しようと目論んでおりますので、今しばらくお待ちくださいませ。

さて……。

学生さん方に「要するに、おまえら、良書を読めよ」って説教しながら、自分自身が読んでいないのでは話になりません。

ただ今日も実に忙しく、気になる新書を一冊ぱらぱらと読んだだけですので、これでは申し開けがつかない……ということで、大学へ向かう途中に紀伊国屋書店で購入したファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823-1915)の『昆虫記』を再読している深夜です。

いや~、読むとオモシロイもんですね、コレ。

ファーブルが進化論に反対の立場であったことなんかは聴きしには及んでおりましたが、綿密な観察で論駁する一節や、まさに、豊かな教養に裏付けられたその美しい文章には正直、驚いた次第です。

ちなみに『昆虫記』をはじめて邦訳したのはアナキストの大杉栄(1885-1923)こうした関係もオモシロイですねえ。

さて……。

なにゆえ、ファーブルの『昆虫記』なのでしょうか。

それは息子殿がこのところ、寝る前に、おこちゃま向けの『昆虫記』とかファーブルの伝記を興味深そうに読んでいたからです。

おもえば自分もそうしたたぐいの〝向け〟の本は読んでいたかとおもいますが、原著を手に取ったがことがなかったので、買い求めた次第です。

まあ、こうした関心からさまざまな分野の古典に手を伸ばすというは大切ですね。

そんなことを感じた一日です。

いやー、しかし、『昆虫記』、正直おもしろいですね。そしてひとつひとつの喩えや言葉が膨大な古典にうらづけられているところをひしひしと感じますと、やっぱり百年と読み継がれる古典を読んでいないことには、「話にならない」……そのことを痛感します。

たしかにアプリケーションを使いこなすとか、そのアプリケーションを武器にしてクリエイティヴしていこうぜってスマートにビジネスするのがもてはやされる現在ですが、やっぱり正直なところ、、、

「うすっぺらい」

……こう感じちゃうんですよね。

そうしたすべての基盤、いわば人間の大地を耕す古典との出会い……こうした契機かが欠如するならば、それがどのようにクリエィティブかつスマートなものであったとしても、それはせいぜい一過性の「はやり風邪」にすぎない局地的現象になってしまうのでは……、ふとそう思う次第です。

まあ、それがすべて悪いというわけではありませんが。

で……。

気がつくと本日が息子殿の誕生日でした。

ちょうど『完訳 ファーブル昆虫記 1』(岩波文庫)を先ほど読み終えましたので、これをプレゼントしようかと思います。

いつの日にかひもとくことでしょう。

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完訳 ファーブル昆虫記〈1〉 (岩波文庫) Book 完訳 ファーブル昆虫記〈1〉 (岩波文庫)

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(うまい!)と、感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。

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 人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向かって歩みはじめる。
 死ぬために、生きはじめる。
 そして、生きるために食べなくてはならない。
 何という矛盾だろう。
 これほどの矛盾は、他にあるまい。
 つまり、人間という生きものは、矛盾の象徴といってよい。
 他の動物は、どうだろうか。
 他の動物は、その矛盾を意識していない。
 だから、例外にしておこう。
 よくよく考えてみると、世に生まれ出たことが、
 「厄災そのものですよ」
 といった知人がいるけれども、
 「そんなことはありますまい」
 反駁はできないおもいがする。
 だが、人間はうまくつくられている。
 生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する……というよりも、これは本能的に躰で感じることができるようにつくられている。
 たとえ、一椀の熱い味噌汁を口にしたとき、
 (うまい!)
 と、感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。
 愛する人を得ることもそうだし、わが子を育てることもそうだろう。
 だから生き甲斐が絶えぬ人ほど、死を忘れることにもなる。
 しかし、その生き甲斐も、死にむすびついているのだ。
 このように矛盾だらけの人間の世界は、理屈ではまかないきれぬ。むかしの人びとは、そのことをよくわきまえていたらしいが、近代の人間たちの不幸は、何事も理屈で解決する姿勢が硬直しすぎてしまったところにある。
 などと、この文章も、いささか理屈っぽくなってきたから、ほかのはなしをしよう。
    --池波正太郎「食について」、『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和五十九年。

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どうも宇治家参去です。

月曜は休みでしたが……例の如く、休むことができませんでした。

午前中は東大和、久米川をすこしまわってから昼過ぎに帰宅。
※iPhoneを前の日の鞄の中に放置状態……ちなみに二日連続で同じ鞄は使いません、これは紳士の流儀……でしたのでtweetなし。

それから、週末の出張の準備、出張後の来週の授業の準備なんかをしておりますともはや黄昏時。。。

論文作成の文献を読んでいると夕食時間。
こちらも読んだだけで、整理できず……、しかも細君が夜は所用がありましたので、息子殿の世話。

気がつくと……もう呑んでおりますが……この時間。

はぁ? 何やってんだか……ってうなだれつつ、酒の味わいを楽しんでいるミッドナイトというところです。

結局、スーツケースの準備ができず……それが一番ネックです。
※呑みながら日記書くのであればやればいいじゃんっていう不埒なツッコミはなしヨ。

んー、

いずれにしましても、思索、肉体、タスク、プロジェクト、すべてにおいて時間がないんですが、この時間がない迫ってくる用件の中で、自分自身を鍛え上げるしかありませんネ。

感傷的な印象批判ですいません。

しかし!

休みたい!!

感傷的な印象批判ですいません。

ですが、私淑する池波正太郎先生(1923-1990)がおっしゃるとおりです。

その渦中で、生きている実感を感じつつ、こなしていくしかありませんね。

やすもんのウィスキーがしみますが、その味わいに、、、

 (うまい!)
 と、感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。

あ、そうそう、今朝……私が寝ると同時に起きる細君ですが……、早朝、路上でカブトムシ(メス)を路上で発見したとのこと(で、、、持って返ってきた)。

いちおー、ここは東京都なんですが・・・。

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日曜日の万年筆 (新潮文庫) Book 日曜日の万年筆 (新潮文庫)

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当時のイデオローグはこの理を本能的に直観していた。さればこそ、そうした思想は決して「空」の抽象論ではありえなかったのである。

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 「心を正す」ことに政治の基底を置く考え方がやや具体的に統治者の行動規範として表現されると「仁政」の思想となる。それはやはり宇宙的秩序に於ける万物の生育を政治的秩序に移したものとして観念される。天地がものをはぐくみ育てる心を以てするところの統治が仁政である。それは初期においては、なお仏教思想の影響の下に慈悲とか慈愛とかいう言葉でも表現されていた。「仁と云ふものは天理にありては物を生ずるの心ぞ。人にありては慈愛の心ぞ」(羅山、春鑑抄)といい、「天の本心は天地の間にあるほどの物を、さかゆる様に、あはれみ給ふなり。かかるがゆゑに人となりては人に慈悲をほどこすを肝要とするなり」(千代もと草)という如く。
 そうしてこの慈悲慈愛の政治は更に具体的な形に於ては、民衆に対する苛斂謀求の否定、及び為政者の私的享楽の抑制の教説となってあらわれる。

 「仁政を行はんとならば、まず倹約を守るなるべし。倹約は奢縦ならざるなり。衣服居宅よろづ内の事につきて、華美を好まず、乱りに費さざる是なり。国大なりといへども、土地より生ずる米殻、その外の財は限りあるなれば、上の物ずきにまかせて、無用の費をなぜば、財を用ひ盡して、年々に足らず。況や歳の豊凶ひとしからざれば、財用の積り同じからず。上の財乏しければ、礼儀を行い、変に備へ、貧窮を恵むこともならず、果は下を虐げ取り、債を負ひて、倹約を失ひ、国危亡に至る。……古より明君賢主みな倹約ならぬはなし。倹は誠に君の美徳なり。」(貝原益軒「君子訓」、上)
 「古より君の為とて民の財をかすめとり、下を苦め申たる収斂の臣は、悉滅亡仕たる事慥に記録に多く見え申候。若幸にて其身亡不申候得ば、必子孫にて亡申候。稀に子孫亡不申も御座候得共、有か無かの仕合にて御座候。是必然の事にて御座候。……総て人は皆天の子にて御座候故、天の子をそこなひ申候得ば、天道の御にくみ御座候。又天の子をあはれみ申候得ば、必天道の御恵み御座候。皆是必然の道理にて、天道の善に福し、悪に禍し給ふ道理甚明にして、恐るべき御事に御座候。」(貝原益軒「延宝七年八月六日立花勘左衛門へ贈書」)

 こうした苛斂謀求への警告ないし為政者の私的享楽の否定も、徳川時代の儒学者、いな儒学者のみならず国学者もが異口同音に叫んでいることであるが、これを以て単純に口頭禅とか、イデオロギー的欺瞞とか看做すことはできない。むろんそうした面もあったであろうが、それはもっと本質的な社会的根拠を持っていた。というのは、「農は納なり」とか「百姓とごまの油はしぼればしぼる程出る」とかいわれたにも拘わらず、封建的再生産の基礎を脅かすような(農民の労働力の再生産を不可能たらしめる程の)搾取は、結局は封建領主自らの社会的経済的地盤を弱めることになって、支配者自身に対するマイナスの結果となってふりかかってくるからである。
 実際、このことは徳川封建制の発展過程に於ける歴史的現実となって現われた。間引、逃散等による農業労働の現象は、封建支配者の所得の絶対的な厳守となってあらわれるようになった。支配層の享楽の抑制も同じ意味があるのであって、支配者の所得の基礎が専ら農業にあり、しかも封建的農業に於ける再生産が本質的に、拡張再生産ではなく、たかだか同一規模に於けるそれである以上(被支配者の必要労働部分以上の消費が直ちに担税能力に影響するから、被支配層への奢侈の厳重な禁止はもちろんであるが)、商品貨幣流通に伴う武士階級の生活費の絶えざる騰貴に対処する途はやはり絶えざる消費の抑制以外にないのである。当時のイデオローグはこの理を本能的に直観していた。さればこそ、そうした思想は決して「空」の抽象論ではありえなかったのである。
    --丸山眞男「第四章 初期朱子学者の政治思想 第二節 『職分』思想 二 統治者の職分(義務)としての仁政」、『丸山眞男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948』東京大学出版会、1998年。

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世の中のシステムはすでに封建制度の枠組みを脱構築@デリダし、西洋流の市民社会を範型とするの近代、現代という世の中のあり方であり、その影響でしょうか。

DVの被害は後を絶ちませんが、DVでなくとも星一徹@「巨人の星」ばりのストロング・スタイルのオヤジ・亭主・主人を演出する封建領主、そして領主でなくとも、東洋的封建制度……就中本朝における……を支える要となる「家制度」にがっちりしがみついた家庭というのはかなり減少したのでしょうか。

そうした事例に頭を悩ます宇治家参去です。

ま、批判的合理主義と解釈学を両手にひっさげ、「これどうなよっ!」って戦う思想家のつもりですが、ご多分に漏れず、自分の場合、「家制度」の漆黒から逃れることはできない旧家の家庭環境がありますので、まあ、それはそれよねっ、開き直って、相手のゲームに乗るっていう寸法で、スライドさせているわけですが、まあ、それでも、違和感がありますので、細君……この表現にも思想的垢まみれの蔑称が濃厚ですが……ディクテで配偶者を称するときは、とりあえず「細君」、パロールで第三者に対して代名詞で使用する際は、「配偶者」と表現するよう心がけるところで、一寸抵抗している次第です。

さて……。
いずれにしましても、ストロング・スタイルのオヤジ・亭主・主人という東洋的封建制度の漆喰は、やはり減じてきてはいるのでしょうか。

そのことが「母の日」と「父の日」の購買動向によってうかがい知ることができるというものです。

まあ、シェアとしてですけどネ。

「母の日」は基本的に、やはり百貨店の包装紙が忙しくまかれるというものです。

それに対して、「父の日」というものは、どうやら、百貨店でなくてもよいようなんです。

ですから、この週末……すなわち「父の日」でしたが……は、当方の職場、いわゆるGMSってやつは、忙しいわけなんです。

可憐な乙女が、とりあえず義理チョコを、買わなければならないぢゃアないですか。

それとほぼほぼ似たようなコンテクストかもしれません。

「母の日」っていうのは、やっぱり、基本的に「三越」だとか「高島屋」だとかで購入した方がいいんです。

ですけど、、、

「父の日」っていうのは、近所の「イトーヨーカドー」でも「イオン」でもいいんです。

そうしたわけで、この週末は、猫の手も借りたいほどの忙しさだったわけですが、そこから推察するに、まさに、「母の日」=百貨店であり、「父の日」=近所の総合スーパー(乃至は大規模ショッピングモール)という図式であるならば、相対的に母の存在が尊重され、父の存在が下降しているというのであるとすれば、まあ、これは一面の評価にしかほかなりませんが、イデオロギー化し硬直化した儒教流封建主義からひとびとが脱構築しはじめたのか……そんなことを思った次第です。
※ただしくどいようですが儒学とは徹底的に現実主義ですから、言葉に即して本来の意義を辿るならば、国教化したあとの形骸化したそれとは別の息吹があるわけです。そのことを踏まえずに、イデオロギー対立に拘泥するならばそれは本末転倒というものでしょう。いちおーくどいですが、そこだけは明記しておきます。

ま、いずれにせよ、めちゃくちゃ忙しかった二日間ということです。

さて……。

蒸し暑い週末でしたので、西洋語がまったく頭に入らず……。

ただこれで何もしないのはマズイということで、漢籍やら日本の思想家の古典とよばれるものに目をとおしておりましたが、きになることが数点ありましたので、以下列挙しておきます。

「以下列挙」で大変恐縮です。

まさに思想的格闘戦ができていないということは、その人の思想が偽札に等しいわけですが、まあ、あまりにもいそがしかったものですからお許し下さいませ。
※ただ厳密に勘案するならば、本格のつとめにん@池波正太郎先生(1923-1990)でいくと、忙しいとは「理由」にならない「理由」ですから、ここに宇治家参去の二流戦士の所以があるのでしょう、がっくし、orzだぜい。

ですから……?

Se la meditazione non può essere addestrata per colpirlo dal pugno ed il pugno l'un l'altro, il suo pensiero è lo stesso come note contraffatte.

Wenn Meditation nicht geschult werden kann, ihm einander durch die Faust und die Faust zu treffen, ist sein Gedanke die Gleichen als gefälschte Notizen.

If meditation cannot be trained to hit it by the fist and the fist each other, his thought is the same as forged notes.

Si la méditation ne peut pas être formée pour le frapper par le poing et le poing l'un l'autre, sa pensée est le même comme notes forgées.

このへんで許してくんなせえ。

さて……「以下列挙」に戻ります。

現実の政治において、東洋文化圏においては、「仁政」とか「徳政」というものが重要視されたわけですが、結果としては「論語読みの論語知らず」が現実を分断してしまったのが実情ですし、理念と現実との乖離から不幸な二枚舌を招来した事例を列挙するには枚挙のいとまがありません。

ですから現実のパワーゲームに仁徳天皇陛下(257-399)のような徳政を期待しようとは思いません。システムが違いますから「期待する」こと事態矛盾でしょう。

そりゃアねえ、「徳政」してくれるなら、してくれるで、それにこしたことはないんです。ですけど、現実の問題において、そこに期待する+期待させるポーズをとるってことのマッチポンプは、普天間の問題をひもとくまでもなく、幾たびとなく我々が経験した不幸な出来事だったわけではないですか。

だとするならば、ようするに現代の時代において仁政を望むことは愚かであり且つ同時に、そこに忖度……
「存願を託する」言語ゲームとしての忖度デスヨ……してはならない。

そこに忖度してしまったために、「マニフェスト」に書いてあったのに~って絶望への病へ至る寸法ですし、システムとしての現代は、「徳」のある政治家よりも……そりゃア「徳」はあったほうがいいのですが期待するだけまさに忖度でしょう!……、「キチンと仕事をする」政治家がいれば話は済むのでしょう。

しかし、なかなかそうならないのが実情というところでしょうか。

忖度する人々と忖度にのってテキトーにポーズするひとだけ。

要するに仁政とシビアな制度としてのデモクラシーが混同されているという状況なんでしょう。

だからこそキチンと整理して、そりゃア徳がないよりあったほうがいいのですが、そうしたことを夢託するよりも、何をやるのか、何をするのかキチンと監督して働いてもらう、そうしたエートスが何にもまして必要不可欠なんだろうと思います。

その辺の消息を西洋の文脈で確認したいのであれば、トクヴィル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville,1805-1859)なんかを読めばいいんです。

忖度する人も忖度される人も読んでいないから、こっちが頭を抱えてしまうんです……、マア、それはひとまず措きます。

ただしかし、何を忖度するにせよ、大切のなのは、何をしたらどうなるかっている想像力です。

ここでいう想像力とはサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-190)の言う想像力であり、H・アレント(Hannah Arendt,1906-1975)のいう想像力……詳しくは、もう面倒いので原著を読んでください……になりますが、まさに「何をしたらどうなるか」っていう部分です。

それがねえ~、まったく欠落している現状に辟易としてぐったりと肩を落としてしまうんですよ、旦那。

そんなところを丸山眞男先生(1914-1996)の言葉を読み直しながら、感じた次第です。

現代の人々は、そして、システムとか思想を「脱構築」したとか「すでに乗り越えた」っておもっている市民風のひとびとに多い陥穽なのですが、そうした思考が前世紀の遺物を……、

「ふふっ」

……って嘲けわらいながら天ツバ(=天にむかってツバを吐くとテメエの顔に当たる)しているんではねえかっこころです。

たしかに嘲られる封建的領主の所行には問題はあるわけですし、諄いようですが仁政を忖度することははかない夢であります。

しかし、丸山眞男先生が指摘する通り「それをやるとどうなるのか」その把握があったのだとすればそれはソクラテスの無知の知であり、それを嘲け笑う、何もしない……例えば「若さがマニフェストです」……ってな式の現今の政治〝家〟……にはそうした部分が欠落しているのか。

それとも近・現代人の〝驕り〟なのか、定かではありませんが、

いったい、どうなってんだ。

頭を抱えてしまいます。

わけのワカラン乱文ですいません。

なんだかねぇ~。

仁政を期待していないのに、仁政してくれなくてなんだかな~って声も違和感です。
調子のいいこというだけいうやつらにも違和感です。

近代とは基本的にルールのあるゲームなんです。

ただしゲームを理解しなくて、反則ばかりやってのうのうとゲームを続行(=その時点でゲームは成立していないわけよ)する有名人ばかりですし、それをショービジネスとしてしか消化しないオーディエンス。

勝手にやれ!

……っていいたいところですが、勝手にやってもらうと困るので、乱文した次第です。

疲れたので寝ます。

嗚呼。
論じきっていない。

まさに……、

もう、いいや、

寝る。

02 03

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あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ

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あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ 橘諸兄
    --佐佐木信綱編『新訂新訓 万葉集 上』岩波文庫、1954年。

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どうも、宇治家参去です。

本格的に梅雨入りしたようで、曇天に押しつぶされそうな東京です。
雨がふるわけでも、日照るわけでもありませんが、ひがな一日蒸し暑い気候で、なんとも耐え切れません。

さっそく風呂から上がって恒例のいっぺえをやりはじめたことで、すこし、体と心の疲れが癒され、一息つく……そういう状況でしょうか。

元気なのは季節の花・紫陽花(あじさい)のようですが、さすがにうだるような蒸し暑さ、すこし元気のない花々もありましたが、紫陽花の花をみますと、

「もうすぐ、つらい夏が始まる」

……そのことが深く実感される次第です。

なにしろメタボリック星人と揶揄される宇治家参去ですから、日本特有の蒸し暑い夏というのは、まさに脂肪のコートを羽織って生活しているような状況ですから、ひどく苦しいわけなんです。

さて、紫陽花で気になりましたので、大好きな『新・古今和歌集』をひもといたところ、紫陽花を詠んだ和歌はひとつもなし!

次に好きな『古今和歌集』をもといたところ、こちらもにも一首もありません。

で、『万葉集』をめくってみたところ、ふたつほどありました。

冒頭に紹介したのは、橘諸兄(684-757)の和歌になります。

梅雨の季節に欠かせぬ風物詩なのですが、これほどまで人気がないといいますか、題材として扱われないことに驚くばかりですが、橘諸兄の一首は、紫陽花をめでたい花として詠ったもので、『万葉集』にしては意外にも気品にあふれる仕上がりになっており、はたまた驚く次第です。

ちなみ、『万葉集』、『古今集』、『新古今集』と比べた場合、その風情によって好みが分かれるところですが、宇治家参去は「八代集」の最後を飾る『新古今和歌集』がなによりも大好きです。

まあ、スノビズムを地でいく宇治家参去ですから致し方ありません。ただそこで見せてくれる技法・技巧、幽玄の美に関しては、他の勅撰和歌集の追随をゆるさぬ「仕上がり」になっており、そこに、唯美・情調を感じとってしまい、声に出して詠むたびに、そこはかとなく、喜びを感じてしまうという寸法です。

さて……。
今日も暑い一日でございました。
皆様方も明日へ疲れを持ち込まれませんように、わたしくしのほうで、懇ろに体内より冷たいアルコールにて消毒しておこうかと思います。

でわ。

02 03

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日本も長くはない、長くはないに決まっているから嘘とは知りつつ、せいいっぱい「個独」を楽しんでやるぞと虚勢を張って日々を過ごしている。

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 「個独」など、いわゆる「団塊の世代」の無責任さの表現ではないか。彼らは(わたしも含めて)自分さえよければいい、あとにつづく世代などどうでもいいと思っている。だからこそ、バーだ不倫だ演劇だ放浪だと騒ぐのである。親の身勝手で放浪に連れ出される子どもの迷惑はどれほどのものかと思う。後続する世代などどうでもいいということは、結局、社会の連続性を信じず、世界の存続そのものをも疑っているのだ。日本に中産階級はむかしたしかにあった。少なくともあろうとした。しかしいまはない。家はあっても家族はなく、家族はあっても家庭はないからである。家庭のない中産階級など笑止で、現代の大都会はまさに小金のある流民で満ちている。
 というようなことを大声でいうととても無事で済みそうもないから、あたしは黙っている。黙って、また好きこのんで、いやいや独身生活をつづけながら、日本も長くはない、長くはないに決まっているから嘘とは知りつつ、せいいっぱい「個独」を楽しんでやるぞと虚勢を張って日々を過ごしている。
    --関川夏央「家はあれども帰るを得ず」、『家はあれども帰るを得ず』文春文庫、1998年。

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たしかにひとりでいるときが気楽で、あらゆる社会的属性を排除して、自己自身に即して気楽に生きている瞬間に愉楽を感じることは否定できませんが、それだけですませてしまうと、けっこう人生というやつはもったいないのかもしれません。

ひとりでいるときの愉楽とは、いわば孤独(「個独」)を楽しむ・味わうという快楽なのでしょうが、快楽というやつは、長続きはしないというのも事実です。

たしかに喉が渇けば水が美味しい。
しかしそれ以上に飲み続けるともはや苦痛になってしまう。

さてそれではどこにその準拠を置けばよいのか……。
過去の先哲も悩み続けたわけですが、まあ、宇治家参去もひとつ悩む毎日でございます。
水ではありませんが、酒は確かに美味しい。

そして喉が渇いていようがいまいが、美味しいし、基準量を超えて飲み続けても、美味しい。

摩訶不思議なる液体だとは思いつつも、基準量を超えてしまうと、翌日に「祟り」が出てしまう……そのことから学習するならば、物質的なものに依存したり、孤独における「関係性」の遮断にみられるような「楽しみ」「味わい」というものは一種、一過性のものすぎないのかもしれません。
※ただいちおー念を押しておきますが、だからこそ「精神的な充足」を第一義に押し出して、物質的な物を全て排除してしまうような原理主義的アプローチというものも現実の抽象化を招き、結果として理念と現実を満足させうることは不可能ですから、そうした道学者ストロングスタイルには違和感はありますし、生活を潤すために物質的なものを全て否定することには賛同できないことはいうまでもありません。

さて……。
嬉しいことに?、金曜日は父の日を前倒しで家族が祝ってくれました。
基本的に一般市民様の休日にあたる日にちが宇治家参去の仕事日になりますので、前倒しというやつです。

その日は、息子殿の英語教室がありましたので、夕食時間がかなりずれ込んだのですが、迎えにいった細君と息子殿が、ドアを開けて帰宅して、一斉に、

「おとうさん、いつもありがとう」

……といってくれたときは(そのときは、換気扇の下で煙草を吸っていたのですが)、

むずがゆい部分もありますが、すこし嬉しかったですね。

まあ祝うといいましても、近所のお寿司屋さんで、「松」をテイクアウトしてくれただけですが、母の日にはキチンと細君に、鉢植えをプレゼントしていたので功を奏したというところでしょうか。
※ただこの母の日にプレゼントを細君にするということに関しては、一人称としてのワタシからの細君に対する関係は、「母」ではありませんので、する必要がないと論理的整合性をただして説明責任を果たしたのですが、容喙されず、とりあえずなけなしの財布をふって、準備したのがイタイ思い出です。

さて……。
もどります。

まあ、いずれにしましても、ワタクシの個性を認知の方はすでにご存じかもしれませんが、存在根拠として、どちらかといえば「せいいっぱい『個独』を楽しんでやるぞと虚勢を張って日々を過ごしている」割合の方が多いのが宇治家参去の実情です。

ですから、父の日であろうが、母の日であろうが、こどもの日であろうが、ストロングに神学者(そしてそれと表裏一体をなすフリーの飲兵衛)として生きることに自分自身の存在を見いだしている訳なのですが、たまーに、そして忘れていた頃に、

無理矢理に、

「父親である」

とか

「世帯主である」

とか

「配偶者……「亭主」とか「旦那」という言葉にはイデオロギッシュな側面が濃厚ですので言葉としては宇治家参去は使用しません、が日常語ではほぼ同意……である

とか、、、

その辺をすっとばして、呑んでひっくり返ることが多いのですが、

ときどきそのへんを点検させてくれる家人の慈愛には感謝すべきなのでしょう。

ということで、先月我が家の仲間になったミシシッピアカミミガメも一人ではかわいそうだろうということで、(補食されないサイズの)メダカを数匹導入してみました。

なんだか水槽もにぎやかです。

まあ、生き方の「雰囲気」としては「無責任」を気取っておりますが、ほんものの「無責任」にはならないように警戒しながら、軽快に生きていこうかと思います。

02 03

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【ご案内】06/26-27:地方スクーリング,F3期四国(高松) 『倫理学』

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けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合にもあのように、智恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしその始めには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 上』岩波文庫、1961年。

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賞罰告知といいますか、定型文といいますか、毎度同じ呼びかけで恐縮ですが、例の如く、アカデミズム底辺の荒涼たる裾野をさまよう宇治家参去で御座います。

開催まで一週間前になりましたので、告知ということで、、、。

表題のとおり、来週末より、香川県・高松市で開催される大学・通信教育部の地方スクーリングにて「倫理学」を講じてきます。

受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

できれば……教材の序論だけでも結構です。必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

是非、宜しくどうぞお願いします。

夏期スクーリング前の、前期の地方スクーリングはこの高松分にて終わります。
忙しい時節ですけども、当方もちょいと力をいれて参りますので、是非よろしくおねがいします。

今回は予定者9名と聞いております。
こりゃア、宇治家参去ゼミナールとなってしまうこと間違いなしですねえ。
顔と顔を会わせつつ、真面目に議論できそうな人数だと思います。お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースをやりましょう!

こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。
※ちなみに4月に福岡でスクーリングを担当したときに使ったパワーポイントが最も完成度が高かったのですが、USBのデータがぶっこわれ、バックアップもっていないかったので、再度構築し直して望みます。

授業中には寝ることもできない……わけですよ、はい。
眠ることもできないほど最高のフルコースを提供しますので。

また、ちなみに高松市に関しては、ほぼほぼ門外漢になりますので、旨い酒と肴を提供してくれる名店がありましたらご教示願えればと思う次第です。

で……。
香川県は、なにげ?に一応の生まれ故郷になりますので、前日は実家へよってこようかと思います。「故郷は遠くにありて思うもの」とは、詩人・室生犀星(1889-1962)の言葉かと思いますが、たまには、「近くにありて思う」ことも大切かと思いますので。。。

ということで、昨日は呑みながら朝方まで起きておりましたので……っていつものことやんけってツッコミはなしで……、14時に起きました。

レポートの束が大学から届いておりました。

高松へ出発するまでにはおわらせようと思います。

02 03

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桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。

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 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集まって酒を飲んで喧嘩していますから陽気できぎやかだと思いますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
    --坂口安吾「桜の森の満開の下」、『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』岩波文庫、2009年。

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ぬはっ。

飲みながら、えっちらおっちら、仕事しながら、なにやかにやらやっておりますとこんな時間でございます。

さて……。
本日は台風一過を思わせるような灼熱地獄の東京でございました。

正直3回ほど溶けました。

なにしろ体を構成する成分の7割がアルコールでできておりますので、ちょっとした温度で発火するというやつです。

千葉の短大での授業を終えてから市井の仕事をすませ、さきほどから、まあゆったりと飲んでおります。

このひとときが大事ですね。

いろいろと書きたいことは山積なのですが、気力がふるわず、覚え書のようになってしまい大変恐縮ですが、ひとつだけ。

昨日の日記にも書きましたが宇治家参去は皆さんから「ひねくれ者」といわれますが、トヨザキ女史の書評の紹介の通り、まだまだ青二才です。

ですけども、どうやらひねくれ者であることは疑いのないようであります。

ですから……?

『堕落論』で有名な坂口安吾(1906-1955)の文章を読んでしまうと、ひとり悦にはいってしまいます。

「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。」

はい、確かにそうなんです。

なにが、そうなのでしょうか?

「なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して」

……っていう次第です。

物事の輝きをひとつだけにしぼってしまうと、これは結構人生において大変に損をしてしまいます。

ようするにどれだけの輝きをひとつの事案から引き出すことができるのか。

そこに、生き方を潤すちょいとしたヒント詰まっているわけです。

ですから、「桜の花の下」は大変楽しい場所なのでしょうが、それだけではない……。

そういうところに目がいってしまいますし、そう心がける訓練を重ねることで、物事が持っている、様々な輝きを楽しむことができるんです。

だから坂口安吾の文章を読むと、

ほぉー。

うなります。

たしかちくま文庫で全集が出ているはずですが、学生時代にはまって全巻揃えて読了しましたが、結婚してから借家のスペース上、実家へすべて送り返しました。

先年、岩波から〝めずらしく〟選集が発刊されたようですので、今週買い求め、読みながら、そして酒を飲みながら、楽しんでおります。

多様な解釈の海で泳ぎなさい!

これ、大事ですね。

……いや~、例の如く今日も鯨飲しておりますが、坂口安吾の文章で愉快な深夜です。

公定解釈から逸脱することほど楽しいことはありません。

おっと、自己防御のようですが、これはケ・セラ・セラの絶対的相対主義……形容詞が違いに矛盾しておりますけど……の讃歌ではありませんけどね。

……って、意味不明のtweetのようでスイマセン。

ま、いずれにしましても、、、

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何千年何万年を通じて蓄積した理解には怖るべき深さがある。かかることが無数の事象について言えるとすれば、我々が土地として差し示しているものは、実に無限に深い理解理解の海である。
    --和辻哲郎『倫理学(ニ)』岩波文庫、2007年。

-----

……ってえぇやつですワ。

理解の海での水練とは睡蓮であり、そのまどろみが心地よいものです。

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倫理学〈2〉 (岩波文庫) Book 倫理学〈2〉 (岩波文庫)

著者:和辻 哲郎
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「世界文学の巨人ドストエフスキーの遺作にして最高傑作と目されている『カラマーゾフの兄弟』はコミック・ノベルなんであーる」……ってえところヨ

01 02

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 世界文学の巨人ドストエフスキーの遺作にして最高傑作と目されている『カラマーゾフの兄弟』はコミック・ノベルなんであーる。……と断言したその瞬間、トヨザキには『現代思想』を愛読するインテリゲンチャの皆さんが眉をつり上げる顔が思い浮かべられるのでございます。でも、ほんとなんだもん。笑っちゃったんだもん。
 粗筋は馬の耳に念仏、じゃなくて釈迦に説法でしょうからはしょりますが、まずは四兄弟(下男のスメルジャコフまで含めます)の父親フョードルの人物造型に注目。コミカルな小説や芝居、漫画では定番のデフォルメが施されておりますの。曰く、<この郡きっての分別のない非常識人のひとりとして一生をおし通した>男。で、この親爺は二度結婚し、三人の子どもをもうけた(スメルジャコフは非嫡出子)んですが、後年父親殺しの容疑で逮捕されることになる長男ミーチャを生んだ最初の妻はかなりの資産家にして名門貴族でもあった家の出身で、<持参金つきのうえに器量よし、おまけに利発な才女であるお嬢さんが><よりによってどうしてこんなろくでもない、当時まわりから「のらくら」とあだ名されていた男のもとに嫁ぐはめになったのか>と、創造主たる作者本人からも不思議がられているだけのことはあって、愛想をつかした嫁アデライーダは幼い息子ミーチャを置き去りにしたまま神学校出の教師と出奔。ところがフョードルときたら、落ち込んだりしないばかりか、渡りに船とばかりに自宅にハーレムを築いて大酒盛りを繰り広げるんです。
 で、ですね、このオヤジの容姿がすさまじいんですの。(中略)
 純正印のキモメンです。で、このダメな上にキモいオヤジが露悪的なまでの道化ぶりを発揮するのが、一巻一部第二編「場違いな会合」です。……
    --豊崎由美「ユーモリストとしてのドストエフスキー」、『現代思想 4月臨時増刊 ドストエフスキー』青土社、2010年4月。

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3月に買うだけかって、主要な対談だけ読んでそのまま放置していた雑誌『現代思想』(青土社)の臨時増刊号を、本日は大学へ向かう車中でひもといていたわけですが、、、

正直なところ、電車で読んでいて、ひとりフイタ宇治家参去です。

いや……、たしかに。

やられた。

自爆した。

いや……、しかし、たしかにそうです。

ニタニタしながら、活字を追っかけた次第です。

文人・豊崎由美(1961-)女史の書評はたまに読みながら、ニタニタすることが多々あったのですが久しぶりに今回は、ニタニタを超え、「フイタ」宇治家参去です。
※トヨザキ女史の論評には賛否両論がある「よう」なのですが、比較的に目にしながら、いゃア~すごいと思うのは、何かがあった場合、キチンと訂正することです。この辺を丁寧にすることはなかなかできません。

さて……戻ります。

言われてみると、たしかにそうなんです。

「世界文学の巨人ドストエフスキーの遺作にして最高傑作と目されている『カラマーゾフの兄弟』はコミック・ノベルなんであーる」。

いやー、その観点を失念していたわいナー、と襟をただしていただいたというやつです。

「『現代思想』を愛読するインテリゲンチャの皆さんが眉をつり上げる」という解釈が、すなわち「内面理解と葛藤」というような三流週刊誌の電車中吊り広告のようなコピーが、ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)理解におけるメインストリームなわけですけれども、まあ、それだけぢゃアないわけなんですよね。

「コミック・ノベル」っていう表現は、ひょとしたら戦略的挑発的文句であるのかもしれませんが、その戦略的・挑発的ってところにおさまりきらない余裕ってえヤツがドストエフスキーの作品にはあるわけよねぇ~ってずっーと思っていたのですが、トヨザキ女史のひとつの解釈を読みつつ、その、宇治家参去において言語化不可能であった「おさまりきならい余裕」のひとつの言語のパターンを見せて戴いたような気がしまして……。

ひとりフイタ。

ひとりニタニタ。

そして、「オレもまだまだでござんす」。

……ってええ、ところでしょうか。

「正しい解釈」という名の下の「公定教義」ってえやつは、まさに「皇帝競技」なんです。

そこからどれだけ逸脱していくか。

そして鼻から逸脱したあり方にどのようにセンスできるのか。

そこに人間の度量が問われるわけですが、まあ、自分も学生さんから・・・

「センセ、変人ですね」

とか、、、

「ひねくれ者、でも発想がすき」

……って、リアクションペーパーに書いてくれることが多く、

「おお、多彩な差違を尊重できているんだわいな」

……などとほくそ笑むことがあったのですが、、、

いやー、トヨザキ女史の書評を読んでまだまだ自分は青かった。

そんなところを実感させて戴きました。
※ちなみに本日の講義も無事終了し、額の汗をぬぐった次第ですが、28度オーヴァーの八王子@東京都は灼熱地獄でござんした。いやー体が溶けた!

これは、この増刊号でハナから読むべき一文でございます。

編集者もそのことを考慮したのでしょうか。

ほぼほぼ冒頭に据え置かれおります。

編集道……奥深し、、、とはこのことですね。

読みたいものから読んでいった自分が浅はかであると同時に、その傲慢さをうち砕いてくださいましてどうもありがとうござんすです。

……ということで、お約束。
こういう発想をすると、いちおー、細君に、

「こんなわけダゼ……」

とヵ

「これ、すげぇよなア」

……って話をするわけですが、卑俗な差別用語になっちゃって恐縮ですが、

細君は、それほど本を読む人でもありませんし、ややワタシの発想に嫌悪とまではいいませんが、要するにそれが金にならないことも承知している一般人ですから……

「いや……、トヨザキさんの書評には目をむかれたよ。おいらもたいがい、多様な解釈を励行する人間だと思っていたけど、まだまだ青かった」

……ってふったところ、、、

「ようするにアンタがフョードルだろう」

……ってつっこまれて返すことができず。。。

ひとりで、自室にもどりつつ、、、

「いやぁ~、オイラはイワンなんだよ……なあ」

って思った深夜です。

03

現代思想2010年4月臨時増刊号 総特集=ドストエフスキー Book 現代思想2010年4月臨時増刊号 総特集=ドストエフスキー

著者:亀山 郁夫,望月 哲男,沼野 充義,ジークムント・フロイト
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自分が文明人か野蛮人かどちらであるかを決める場合、普通の生活における一寸(ちょっと)した振舞いとか、通行規則を守るか否かに基づいて判断する。日常生活ではヒロイズムや自己犠牲を発揮する瞬間は稀である。

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 自分が文明人か野蛮人かどちらであるかを決める場合、普通の生活における一寸(ちょっと)した振舞いとか、通行規則を守るか否かに基づいて判断する。日常生活ではヒロイズムや自己犠牲を発揮する瞬間は稀である。人生の総和を構成し、人生の旅を甘美なものにしたり、苦しいものにしたりするのは、普通の交際上の一寸した習慣である。汽車の中のお喋りな男がこれに気付いてくれるといいのだが。もし気付きさえすれば、フランス軍がどうのだの、ドイツ軍がどこに行ったかなどを、近くの人に説明するのは止めないにしても、私が『青書』を読むのを可能ならしめるような低い声で説明するだろう。
    --ガードナー「通行規則について」、(行方昭夫編訳)『たいした問題じゃないが イギリス・コラム傑作選』岩波文庫、2009年。

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とりたててどうのこうのという話題ではありませんし、意識して、まあ、心がけてやっているものではありませんが、わりあいに、信号をきちんと守る宇治家参去です。

まあ、性根が、せっかちとの対極にあるのんびりずむ、敏腕ビジネスパーソンとの対極にある晴耕雨読の世捨て人?ですからそうなのかもしれませんが、まあ、信号を急いでわたるよりもゆっくりまって「チト休憩」そういう人格ですから、わりあいに信号をきちんと守ってしまう……という寸法です。

さて……。
市井の職場……業種としてはGMSになりますが……は小売りの店舗になりますが、店舗とその駐車場が直結しておらず、道を挟んで相対している、そういう間取りになります。ですから、駐車場へカートやカゴを回収しに行くためには、信号をわたらなければならないのですが、そこで信号待ちをしていると結構おもしろい人間模様を拝見することがときどきあります。

結論から言えば守るひとは守りますし、守らないひとは守らないんです。
そこに道学者の立場から弾嘩しようとは思いませんし、そんなことをつらつらと書き殴ることほど野暮なことはありませんから、ここはまあひとつ、そーゆうひともいると認知してください。ま、このことは自分自身のふだんの生活を振り返るとたまに見たり、よく見たりする、些細な日常の一コマというやつです。

冒頭で引用した編訳者が「コラム傑作選」のタイトルを『たいした問題じゃないが』としているとおりの「たいした問題じゃない」というわけです。

ですけど、表題のとおり「たいした問題じゃない」「が」の「が」なんですネ。

で……。
仕事に行っているときは何度もその横断歩道を往復するわけですけども、実際には、「守るひと」と「守らないひと」の比率っていうのは、厳然とした「決意」として「守る」「守らない」って見た場合、結構マイノリティになってしまうんです。

実際に一番多いのが、「どうしようか」=信号を守ろうか、それとも守らないでいっちゃおうか……そこで悩んでいて、どちらかにフラグを切ってしまうひとが多いんです。

そんで・・・
その光景を観察しておりますと、一番多いのが、やはり他の人の目をきにして判断しているというところでしょうか。

その意味では逆説的ですが、前述したとおり、「決意」して信号を「守らない」ひとも「決意」して信号を「守る」ひとっていうのもじつのところマイノリティというわけです。

そしてそのどちらの世界にも属せず、両方に足をつっこんで生きているひとがじつのところ大多数となってしまう……、そんなことをフト思った次第です。

ま、ここでは「守る」ことが何にあたり、そして「守らない」ことが何にあたるのかパラレルさせることは論旨ではありませんので、そこには容喙しません、「自分が文明人か野蛮人かどちらであるか」って「表現」に引っ張れてしまうと、まさに構造人類学者レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss,1908-2009)がサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-1980)と喧嘩した『野生の思考』(La Pensée sauvage,1962)になってしまいますので、ライトに考えようかと思いますが、「守る」/「守らない」、そして「文明」/「野蛮」の二項対立を超える人生の視座として、ひとつ指摘できるのは、それでもなお、「普通の生活における一寸(ちょっと)した振舞い」にそのひと自身の「ひととなり」がでてくることだけはたしかですね。

躊躇することが多いのですが、どちらに舵を切るのか。

まさに「たいした問題じゃない」んですけど、そこから横溢するそのひとのひととなりってえやつは醸し出されてくるような気がします。

ま、いうまでもありませんが、これは、そのひとが持つ思想という属性とそのひととなりとを結びつける次元とはまったくことなる、「日常の一コマ」というやつではありますけどね。

……ということで、数時間後に授業です。

ま、これも「たいした問題じゃない」……訳はないんですけど、気になっていた「枝豆豆腐」とやらをゲットしましたので、今日は、ハートランドビール@kirinでも呑みつつ……すでにバランタインハイボールへ移行していますが……沈没しようかと思います。

でわ!

Au Revoir !

02 03

たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫) Book たいした問題じゃないが―イギリス・コラム傑作選 (岩波文庫)

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ほかのすべての生物よりも傑出していると思い込んでいるこの人間をどのように理解すればよいのか途方にくれてしまうのである。

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 ほかの動物とは違って、人間はたんに本能にしたがって行動するわけではない。あるいは理性的な世界市民として、あらかじめ含意された計画にしたがって、全体としてまとまって行動するわけでもない。だとすると、蜜蜂やビーバーの場合とは違って、人間については、ある計画によって定められた歴史のようなものはないと考えられる。
人間の営みを世界という大きな舞台で演じられたものとして眺めてみよう。すると、ときには賢明さがうかがえるところもあるが、最終的にはそのすべてが愚かしさ、子供っぽい虚栄心、そしてしばしば幼稚な悪意や破壊欲によって織りなされていることがわかり、思わず憤慨してしまうほどなのだ。そして最後には、ほかのすべての生物よりも傑出していると思い込んでいるこの人間をどのように理解すればよいのか途方にくれてしまうのである。
    --カント(中山元訳)「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫、2006年。

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帰宅してから、カント(Immanuel Kant,1724-1804)を読んでいるのですが、やっぱりカントは偉大なだナと思わざるをえません。

カントの有名な論文の一つである「世界市民という視点からみた普遍史の理念」(Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht,1784)は、これまで『カント全集』にしか……たぶん、収録されていなかったと思うのですが、平易かつ精緻な訳文で手軽な文庫になったことに喜びと驚きを感じる宇治家参去ですが、まあ、これをひとつ読み返しながら、やっぱりカントは偉大だなと思います。

この論文が発表されてから、カントの有名な小著『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf,1795)が世に問われるわけですが、その助走は「世界市民~」論文から始まっているし、テーマと設定、提示されるモノ自体にまったくブレがないなアと、ひとつ驚く次第です。

カントの律儀なドイツ語と向かい合いつつそのことを実感します。

たしかに、「戦争はあるべきではない」し、「人を殺すのはよくない」わけですし、「うそをつくのはよくない」ことは承知ですし、このことはまさしくカントの定言命法によって定式化されていることで、詳論の余地もない事実です。

しかし、カントは「オモシロイ」って読者を思わせてしまうのでは、それにもかかわらず、例えば「戦争はあるべきではない」を論じるにあたっても、かならずその反対の局面の描写を丁寧にやるということです。

この場合テクストは、『永遠平和のために』だとか『人倫の形而上学』(Die Metaphysik der Sitten,1797)あたりをひもとけばそのことがくどいほどに理解できます。

両著において、カントは「事実」として、繰り返し戦争の「効用」について詳細にその詳細を語っております。

ただしかし、それでもなお……denn noch……といところでしょうか。

それを余剰する展開を示唆してしまう。

そこにカントの偉大さを感じてしまいます。

いうまでもありませんが、戦争よりも平和がいいわけで、敵対関係よりも友好関係がいいわけなのですが、人間にはその両方の側面が持ち合わせている事実を否定することができません。

しかしながら、その両者をそれぞれにプロする(=支持する)人間が思想に即して先鋭化すればするほど、本来もちあわせているはずの敵対的な側面がずぼっと抜け落ちてしまうことってよくあるじゃないですか。

そうなってしまうと、思想や観念が現実の人間を後に置いてしまうっていう悲劇になってしまうわけなんですよね。

歴史をひもとくまでもありませんが。

だからこそ、カントは、何を目指すにするとしても、全体を見落とそうとした、そしてできるだけ、封印したいような側面にキチンと目を向けた……、カントの言葉を読み返すたびにそのことが痛感されてしまいます。

たぶん、上述したような「プロする」運動ってぇやつは、片手落ちになっちゃうんです、過熱化すればするほど。

カントの全体を見ようする言説は、ひょっとするとそれに対する戦略的な示唆かもしれませんが、カントを読み直すたびに次の点だけは、その人格からも実感されます。

すなわち、俗っぽい言い方ですけど、「ひとりの人間のなかに、そしてそれが全体としての人間の中に、同居する沙汰名背反する方向性をまずきちんとふまえましょう、それからどうすっぺ」って図式です。

いやーア、今日も市井の仕事しながら、上司と一発、喧嘩をしましたが、「あいつはこうなんだゼ」とか「結局は時給あげれば、いんだゼ」みたいなステレオタイプの人格判断から、全てを見通したようなもの言い方というのでしょうか……。

宇治家参去の専門である神学、宗教学のコンテクストから表現すれば、

「あいつはムスリムだから○○」だとか「カトリックだから××」だとか「神道だから××」って一方的に判断して全てを見通して、最終的には「銭だろ」って話でまとめしまう思考形式に、

「はぁ、オタク、なんですか_?」

……ってなってしまゐ、カントをひもといた次第です。

たしかに、、、

「○○だから××」って側面があることを否定することはできません。

ただしかし、

「それで全て」

でもないわけなんですよね。

そして一番厭なのが、、、

「銭だろ」

……って訳で、確かに「銭は必要」なんですけど、そこに翠点を置きすぎても、

「はあ」

……ですワ。
※ちなみに予断ですが、本朝の「銭は必要」議論の問題は、有象無象の「稼ぎ方指南」はあっても「使い方指南」が存在しないことにそもそもの原因はあると思いますが、これは後日の宿題といたします。

……って、戻ります。

「マア、てめえ、マイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953-)に叱られるゼ」

……ってところでしょうか。

……って、戻ります。

「……って、戻ります」って用法が多いですネ。

まあ、呑みながら書いているのでご容赦のほどをってところですが、いろんな側面をふまえながら、何をつくっていくか、その創造の契機が欠如してしまう、そしていろんな意味で、多様な様態をスルーしてしまう、、、そこがなにか恐ろしいんです。

そのことを、ちょっとね……カントを教材に考えてみた次第です。

大学の教室的な言質でいけば、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」のキーワードは、まさしく「非社交的社交性 die ungesellige Geselligkeit」というやつであり、『永遠平和のために』、『人倫の形而上学』でいえば「「敵対関係(Antagonismus)」というやつです。

人間は協調しようとするし(=それが社会になる)、その一方であくまで自分に固執する。

その事実からなにすっぺ。

多様性を踏まえて、「なにすっぺ」がないかぎり、「協調関係」も「敵対関係」もそのままですし、自分固執する性癖もそのままになっちゃいます。

そのへんを……ねぇ、、、考えて動かないと……ネ。

つうことで、今日は金がないので、バランタインの安物のブレンドウィスキーでハイボール。伴奏者は、単なる「炭酸水」とか「ソーダ」では味気がないので、ペリエにしてみました。

ちょいと味わいが上品です。

久しぶりに真面目に学問した日記ですが、それでも……読み直しておりませんが……、まあ、呑んで書いておりますので、論旨に乱れあり……ってところかな?

ただ、……くどい!

ただ、ペリエのハイボール、なかなかいけますですワ。

ま、……ただ、くどい!

いずれにしてもカント大先生は、そうした把握を大切にしたこと、すなわち人間はどうしようもない存在であり、どうしようもなくもない存在であるという事実から出発しませんかと、声をかけてくれる偉大な先生なんだよなとは思います。

02 03

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したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである

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 しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである。単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない。この知識が教科課程や試験規定によって実用的に最も重要なものだけに絞られたところで、それは決して知ではない。必要欠くべからざるものだけに引き絞られたこの知識は「生活に近親」ではあろうが、しかしそれを持つことは決して知ることではない。こんな知識を持ち運び、さらには若干の実用的な小細工をおぼえ知っているような人は、しかもなお真の現実に直面すると真の現実はいつも俗物が生活や現実に近親であるという語で理解しているものとは違うものだから、途方に暮れて、きっと不器用者になるであろう。なぜだろうか? 彼は知を持っていないからである。というのは、知るとは習うことができるということである。
 もちろん常識的な人は、習い終えてもはや習う必要がない人こそ知を持っていると思っている。が、そうではない。知っている人とは、常に繰り返し習わねばならないということを理解していて、この理解に基づいて、何よりもまずいつも習うことができるような状態に自分をおいているような人だけである。このことは知識を保持するよりずっとむずかしい。
 習うことができるということは、問うことができるということを前提している。問うとは、まえに説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことへの決-意である。
    M.ハイデッガー『形而上学入門』平凡社、1994年。

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昨日の夕方、ちょうどピークタイムのスポット的なオアシスタイムに、サクッと一服やりながら、iPhoneでネットを見たり、ちょいとTweetしておりますと、細君から電話。

ひょっとして……、

「家の鍵を持たずに出たから、今からアンタの会社まで鍵を取りに来る」

……ってパターンかなって思い、

「また、かよっ」

……って思った次第ですが、そうではなかったようでございます。
※自宅にワタシがいるときに、細君が外出するとよく鍵を持たずに出てしまいます。まあ、ワタシがいるから、持たないで出ても「インターフォンでOK」っていうやつです。それがワタシの仕事日ですと、細君が外出した後に自分が出てしまう寸法ですが、この場合、インターフォンを押しても誰も出ませんので、たま~に、会社にワタシの鍵をとりにくるという、一種、嫌がらせのようなことがあるんですワ。何しろ市井の職場と自宅がチャリンコ通勤圏ですので、……戻ります。

で・・・、

電話に出ると、細君からではなく、息子殿のようで・・・

「仮面ライダーのベルトを入札したの?」

……って聞いてくるわけです。

ゆっくりと話を聞くと、今月が誕生日で、昨日までは、そのなんとかライダーのベルトが欲しいと言うことで、ネットオークションのウオッチリストに入れており、細君からも夜中にビッドしておいてくれっていわれていたわけですが、、、

あいにくコチトラ、自宅で一人鯨飲しておりましたので、入札を忘れていたのですが、息子殿と言葉を交わすと、どうやら、そのベルトではない別のモノが欲しくなったということで、その消息を確認したかったようであります。

一人鯨飲は、まあひとつの「不幸中の幸い」という事態のようでした。

さて、その通話のやりとりをする時点で、すでに、1本目の煙草が終わりかけており、ちょいと早く切電しなければと思う次第ですが、

「ねぇ、ねぇ、今日は○○(○○は会社名)のオシゴト? それとも、大学のオシゴト?」

とか

「今日ねぇ、ボクね、……」

……ってはじめてしまい、シカタナク2本目の煙草を点火!

ジリジリと焦りながら、最後に、

「ナンで仕事するの?」

ファイナル・クエスチョンが出てきました!

いやー、「ナンで?」と言われましても、、、

「食べていくため」

でもあり、

「シカタナク」

でもあり、

その無数の有象無象でもあり……。

そしてその全てがイエスでありノーであるというファイナル・クエスチョンというやつです。

……って今度は、一服……今日の場合はすでに二服ですが……をはやく切り上げて売り場に戻らねば!っていう焦燥感よりも、深い哲学的な洞察に脳内のスイッチが切り替わり、「考える人」@ロダンになってしまったわけですが・・・

運良く!

「宇治家参去さん、至急レジ応援をお願いします」

……っていういつもなら厭ぁーな店内放送が、思索の堂々巡りをうち切り鬨の声のように、入ったお陰で、

「その○○(=息子殿が欲しいというおもちゃ)を買うため!」

うまく終話にこぎつけました。

しかし、「ナンで仕事するの?」か、ひとり自分自身に対して誰何しつつ仕事を遂行しましたが、まさに、「ナンで」やっているのかわかりません。

ただ、今日をいきるためというところでしょうか。

まあ、くどくど考えても病気になるか、俳人……もとい廃人になるだけですし、自分としては仙人(いや、ホントは専任ですが)になるのが本望なのですが、どのような仕事であれ、汗をながすなかで、手足を動かし、脳を回転させるなかで、生活というものを組み立てていくひとつのしるべとして仕事をしているのですが、まあ、これを格好のよい説明とか、子供にわかるような説明をすることは、まだまだできないようでございました。

たしかに、様々な言葉を駆使して、説明することは不可能ではありません。
しかしそれだけで全てを説明することも同時に不可能であって、可能と不可能なただ中、言語可能な世界と、言語か不可能な世界のただなかで、それを探究しているのが事実に近いのでは……フト、そう思った次第です。

たしかに説明可能な語彙と徹底的な思惟は必要なんですが、「単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない」わけですし、「知っている人とは、常に繰り返し習わねばならないということを理解していて、この理解に基づいて、何よりもまずいつも習うことができるような状態に自分をおいているような人だけである」わけですから、絶えず更新しながら、その答え?というやつをすりあげていかなければならないのでしょう……ねぇ。

ま、ただ、しかし、息子殿がそうした形而上学的問いを発するようになったということは、コレ、ひとつ、哲学者?の父親の薫陶のタマモノでもあるわいな……などとひとり親バカの悦にも浸るわけですが、、、息子殿の方が、ワタシよりも先に、「問うとは、まえに説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことへの決-意である」という決意の境智へ立っているのかもしれません。

その意味では少し悔しい部分……自分はそうした形而上学的問いを親に発したことのないナイーヴチキン野郎でしたので……もありますので、今日も鯨飲して沈没することにいたします。

まあ、ただ、しかし!

M.ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の次の言葉、すなわち、「しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである」であるとすれば、様々な問いと課題に耐えながら生きているワタシも、同類項ということかしら???

02 03

形而上学入門 (平凡社ライブラリー) Book 形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

著者:マルティン ハイデッガー
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『良心ねえ! 良心ってなんですか? ぼくはそれを自分でこしらえてるんです。』

01

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 「兄さんは、だれかがここに座っていたと本気で思っているんですね?」アリョーシャはたずねた。」
 「ほら、そこのソファーだよ、隅の。おまえが追っ払ってくれればよかったんだ。いや、おまえがやつを追っ払ってくれたんだな。だって、おまえが現れたとたん、姿を消したもんな。おまえの顔が好きだよ、アリョーシャ。お前の顔が好きだってこと、知っていたか? で、やつはな、アリョーシャ、おれなのさ、おれ自身なんだ。おれがもっているぜんぶの下劣な部分、いやらしい部分、軽蔑すべき部分なんだよ! たしかにそう、おれは『ロマンチスト』だ、やつがそう指摘した……ただし、それも中傷だったがな。やつはおそろしく頓馬なんだが、それがあいつの強みでな。ずるがしこい、動物的にずるがしこい、おれを起こらせる方法を知ってやがった。おれがやつの実在を信じているってからかいつづけてな、それで自分の話を聞かせてしまうんだよ。おれのことをガキみたいにだましやがって。もっとも、おれにかんしては、いろいろとほんとうのことも教えてくれたがね。自分ではとても言えないようなことをさ。いいか、アリョーシャ、いいか」おそろしく真剣な、何か秘密でも打ちあけるような調子で、イワンが言い添えた。「おれは心から願っているんだ、やつがほんとうにやつで、おれじゃなければいいってな!」
 「兄さんを苦しめたんですね」同情の目で兄を見つめながら、アリョーシャは言った。
 「おれをからかったのさ! それも、ひじょうに巧妙にな。『良心ねえ! 良心ってなんですか? ぼくはそれを自分でこしらえてるんです。じゃあ、どうしてぼくが苦しんでいるんですか? たんなる習慣からですよ。七千年の、全人類的習慣からですよ。だから、そんなもの忘れて、神々になりましょうよ』--これは、やつが言ったことさ、ほんとうに言ったことなんだ!」
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟 4』光文社古典新訳文庫、2007年。

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どうも、宇治家参去です。

ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)の作品について議論できる学友からは、

「おまえは、イワンだ」といつもいわれてしまう宇治家参去です。

『カラマーゾフの兄弟』での二男イワンが発狂する直前のシーンを再読しつつ、たしかに……

「オレはイワンだな」

……などと一人独白する宇治家参去です。

さて……。
5月末にiPadが発売されましたが、細君から決して、

「買わないように」

……という厳しいお言葉を頂き、くれぐれもゲットしないようにと念を押されておりました。

しかしながら、なんだかものの拍子に5月末に店頭でポチッと予約をいれてしまい、サクッと入手しておりました。

まあ、ばれるとウザイので、テキトーにほとぼりが冷めるまで……すなわち発売されてから2-3ヶ月後……、だまって使おうということで、だまって使っておりました。

自分の部屋は学問の資料で錯乱……もとい、散乱しておりますので、ソフトケースにれて、本棚にそれとなく立てており、細君のいないところ⇒すなわち、宅外で、ちまちまと利用し、細君が寝静まった深夜にアプリをダウンロードしたりしていたわけですが……。

「細君に黙っている」

……という良心に咎められる?という次第です。

その煩悶に苦しむあまり発狂するか!というぎりぎりまで追いつめられてしまうものですから、

あっさりと・・・

「革命的で魔法のようなデバイス。しかも信じられない価格で」

・・・ってあっさり紹介すると、

「おもしれー」

・・・ってイヂクリ回す次第です。

ただ、一番喜んでいるのは息子殿のようでございます。

早速、Youtubeで「ウルトラファイト」を観賞しているようですが・・・、占有されてしまうのが一つの難であり、もう一つの難が、mac系のOSでこの時期から入られまして……って頭を抱える次第です。

macユーザーの皆様には申し訳ないのですが、宇治家参去、dos時代からのユーザーですので、できればストロングにwindowsないしはlinuxで攻めて欲しいと願うものですから。

むかーし、仕事の必要上でmacを使っていたこともあるのはあるのです。今はなき、PowerBook時代ですが、あまりいい思い出がなく……作業の途中で、トイレに用をたしにいって帰ってきて作業を再開しようとPCを見るとフリーズしていたりして、ついでに保存もしてないくて(涙)、、、のような……コスト的にどうよ、ファイルのやりとりのシェア的にどうよ……っていうのがあり、ガシガシに(これまた今はなき)IBMにこだわってきた部分もありますので・・・。

一つの良心の苦悩はあっさり自白したことで終焉しましたが、あたらしい問題?で、まさに頭を抱える次第です。

「『良心ねえ! 良心ってなんですか? ぼくはそれを自分でこしらえてるんです。じゃあ、どうしてぼくが苦しんでいるんですか? たんなる習慣からですよ。七千年の、全人類的習慣からですよ。だから、そんなもの忘れて、神々になりましょうよ』--これは、やつが言ったことさ、ほんとうに言ったことなんだ!」

狂って「そんなもの忘れて」「神々」になるわけにもいきませんしねえ。

ちなみにドストエフスキーがここで「神」ではなく「神々」と使い分けているところが乙です。この課題の探求は後日にしましょう、さて本論に戻ります。

ま、これ以上頭を抱えてもしかたありません。
なるようになるのでしょう。

ただ、iPadを使いながら、現在は母艦にwindowsデスクトップで対応しておりますが、いっそのことmacでつないでみるのもチトオモシロイかとそぞろ心の揺らめくところです。

ただしかし、細君+息子殿による占有率が高くいまだに設定といいますか自分用にカスタマイズする、調整する設定するということがなかなかできません。

これが一番の問題です。

「革命的で魔法のようなデバイス」……とのこと。

たしかに「頭を抱えること」が多くなりましたので、その意味では「革命的で魔法のようなデバイス」であることだけは否定できないようですね。

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Pain is inevitable, Suffering is optional.

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 あるときパリのホテルの部屋で寝ころんで、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙を読んでいたら、マラソン・ランナーの特集記事がたまたま載っていた。何人もの有名なマラソン・ランナーにインタビューして、彼らがレースの途中で、自らを叱咤激励するためにどんなマントラを頭の中で唱えているか、という質問をしていた。なかなか興味深い企画である。それを読むと、みんな本当にいろんなことを考えながら、42・195キロを走っているのだなあと感心してしまう。それだけフル・マラソンというのは過酷な競技なのだ。マントラでも唱えないことにはやっていけない。
 その中に一人、兄(その人もランナー)に教わった文句を、走り始めて以来ずっと、レースの中に頭の中で反芻しているというランナーがいた。Pain is inevitable, Suffering is optional.それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。
    --村上春樹「前書き 選択事項(オプショナル)としての苦しみ」、『走るときについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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休みでしたが、論文の資料の精査、授業の準備、子供との応対をしつつ、その合間合間に、村上春樹(1949-)さんの文庫の新刊をぱらぱらとめくっていたのですが、「はあ、なるほど、たしかに」と合点がいくことが多くありましたので、ひとつ抜き書しておきます。

村上さんは、小説家なのですが、専業作家として生活を始めて以来、走り続けることをライフワークとした「走る小説家」なんですけど、その「走る」ということを通して、自分自身について綴ったのがこの一冊です。詳しくはまあひとつ読んでもらうしかないのですが、その前置きでいやー、おもしろいことを教わったと思った次第でございます。

たしかに「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」なんですね。
マラソンだけに限定される問題でないことを指摘するのは、野暮天なわけですが、まあ、それを承知しながらもその事実を確認することぐらいは必要なのかなと思います。

「『ああ、きつい、もう駄目』かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられている」わけですので、さてこれからもう少し、学問の仕事をやっつけておこうかと思います。

ま、その方がビールが旨いわけですしネ。

いやー。春樹さん、どんどんその思想が深くなっていく。

まじめにいきることがばかにされるような風潮がありますし、それとは対極にある、おれは「まじめにいきているんだゼ」って大声でいうような傾向にも、すこし辟易としますが、そうではなく、それでも自分自身との対話のなかで、「まあ、がんばってるゼ」って走り続けるっていうのは一種さわやかな余韻を残すものだと思います。

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「理性的には、世界戦争といった大惨事の危険性を認識しているのに、腹の底では信じていない。外を見よ、太陽が輝き、自然があるではないか--」ってホントか?

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Z ここでジャン=ピエール・デュプュイ〔フランスの哲学者・社会学者。一九四一-〕を引用したいのですが、彼は我々のおかしな反応を指摘しています。理性的には、世界戦争といった大惨事の危険性を認識しているのに、腹の底では信じていない。外を見よ、太陽が輝き、自然があるではないか--。実際に起きるとは思っていないという、構造的な盲点があるのです。次のような理論もあります。「ホロコーストはナチスの仕業だ」「グーグラ〔ロシアの強制労働収容所〕はスターリンのせいだ」と責任を特定するのは容易ですが、資本主義の惨事については「流してしまおう」と言われる。私が重要だと感じるのは、こうした見えない過程についても責任を負うことです。「我々に何ができるというのか」とはねつけるのではなく、人類の集合的責任として正面から捉えなければなりません。これらは、途方もない挑戦です。私が新型のポピュリズムや反グローバリゼーション運動に希望を抱けない理由は、そこにあると思います。共感はしますが、どのような意味合いがあるのでしょうか。反対運動には、実際の、積極的な効果はありません。最大でも、システムを緩和する圧力として機能する程度です。互いに議論を交わした際、ハートとネグリからは、「そこが素晴らしいのだ。マルチチュード、多様なアプローチ」という答えが返ってきました。まあ、抵抗に専念している限りでは、効果的かもしれません。
    --スラヴォイ・ジジェク(岡崎玲子訳・インタビュー)『人権と国家--世界の本質をめぐる考察』集英社信書、2006年。

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スロベニア出身でポスト構造主義系の思想家・スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek,1949-)のインタビュー集を深夜に再読しているのですが、まあ、このへんの感覚つうのは大切だよなアと頷くことがしばしばあり、ひとつ残しておこうと思い入力した次第です。

わかりやすい敵とか原因を見いだすことは簡単なことなのですが、その指摘だけではものごとは変わらないのだと思います。

そして、目的をアンチとした運動は絶対に成功しないばかりか、悲喜劇を生んでしまう。

この点は銘記したいものです。

つうことで、さすがにかなーり疲れ果てました。

このところ、ウィスキーばかりでしたので、今日は久しぶりに、日本酒にて撃沈しようかと思います。

京都の銘酒「純米吟醸 玉乃光」(玉乃光酒造(株)、京都府)です。
たまーにしかやりませんが、たまーにやると味わい深い一品です。

ちなみに親爺・自虐ではありません。

以上。

お休みなさい。

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「じゃ、幸福を願っておくぜ」

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 ヴェルサンジェトリクス通りの中ほどで、背の高い男がマチウの腕をつかんだ。向かいの歩道では警官がひとり行き来している。
 「いくらかくれよ、だんな、腹ぺこなんだ」
 両眼が寄っていて、厚い唇から、アルコールの匂いがする。
 「むしろ飲みたいってことじゃないのか」とマチウが言った、「本当だよ」
 マチウはポケットの中に百スー硬貨(五フラン)があるのを見つけた。
 「どうでもいいのさ。ちょっと言ってみただけだよ」
 マチウは百スーを渡した。
 「やってくれるね」と壁によりかかりながら男は言った、「すげえ願い事をあんたにしてやろう、何がいい」
 二人とも考え込んだ。マチウは言った。
 「あんたにまかせるよ」
 「じゃ、幸福を願っておくぜ」と男は言った。「そら」
 勝ち誇った様子で彼は笑った。警官が近づいてくるのを目にし、マチウは男が心配になった。
 「わかった、それじゃ」
 遠ざかろうとしたが、男はまた彼を掴まえた。
 「足りないな、幸福だけじゃ」と涙声で言った、「足りない」
 「じゃ、これ以上どうしようってんだ!」
 「あんたに何かやりたいのさ……」
 「物乞い容疑でぶち込むぞ」と警官が言った。
 非常に若く、真っ赤な頬をしている。厳しい態度を示そうとしていた。
    --サルトル(海老坂武、澤田直訳)『自由への道 I』岩波文庫、2009年。

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やっと休憩に入りました、宇治家参去です。

やっぱり二日間講義して済んだらそのまま仕事というパターンはキツイですね。

ともかく無事に本日の講義も終了。
たったひとりの学生さんが相手ですが、靖國神社と一水会、シー・シェパードからマルクス主義の問題まで深く議論できたことはなによりです。

なんで靖國神社からシーシェパードまで「倫理学」の議題になるのかって、ここはまあ突っ込まないでください。

ま、生きているこの世界の事象をすべて人間の問題として取り扱うのが「倫理学」であるから致し方ありません。

詳しい話が聞かれたい方は是非、授業に参加くださいまし。
※ついでですがどうやったら参加できるんかい!っていうような野暮なつっこみもご容赦を。

さて無事に済んだので市井の職場へ直行しましたが、バスの車中で、五十代のおばさまはDSで麻雀の最中。トナリのねえちゃんは化粧直しに余念がない……そうした光景を見つつ「平和だよなア」とふと感慨に浸りながら職場へ到着すると、のっけから商品不良のクレームが2件お待ちしておりました。

見通しがあまかったっス。

なにもないだろう……ってタカをくくったときってたいてい何かが不可避的に起こるものなんですね。

ま、ひとまず無事終了しました。

見通しが甘かった。
地球は青かった。
自分も青かった。

……というところでしょうか。

さて、ただ今、休憩中にてサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905-1980)の『自由への道』が昨年文庫化されたようですのでぱらぱらとめくっております。

自分より以前の世代はだいぶサルトルを読んだようですが、最近ではあまり読まれなくなってしまった感があります。サルトルは苦手ですが、文人としては一流だったと思わざるをえない才能をもっているとは思いますので、手軽な文庫化というのは大事ですね。

ま、今まで『自由への道』が文庫化されていなかったことが不思議ですけども。

さてぼちぼち休憩も終了です。

作中の酒臭い物乞いの男に「じゃ、幸福を願っておくぜ」と祈られたくはありませんが、このあとの時間、終業まで無事でありますように、自分で願っておきましょう。

でわでわ。

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「その問いは、もはやたずねるべきことが何もない真夜中に、ひそやかな興奮に身をまかせて立てるひとつの問い」なのですが--

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 「哲学とは何か」という問いをたてることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらくほかにあるまい。実際、文献目録などまったく取るに足らぬものである。その問いは、もはやたずねるべきことが何もないも夜中に、ひそやかな興奮に身をまかせて立てるひとつの問いなのである。
    --ジル・ドルゥーズ、フェリックス・ガタリ(財津理訳)『哲学とは何か』河出書房新社、1997年。

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こんばんわ。
なんとか無事に哲学の授業が済み、そのまま市井の職場へ移って仕事をしている最中ですけども、ようやく休憩です。

すこし、リラックス。

「『哲学とは何か』という問いをたてることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらくほかにあるまい」と、フランスの現代思想家ドゥルーズ(Gilles Deleuze,1925-1995)+ガタリ(Pierre-Félix Guattari,1930-1992)が意味深に『哲学とは何か』の冒頭で挑発的な描写をしておりますが、その警告を無視してしまった所為でしょうか。

疲れております。

真っ昼間から「哲学とは何か」などとしたものですから……。

ただ、その疲れは、すこしここちのよいすがすがしい疲れといえばいいでしょうか。

まあ、この手の問いは、「その問いは、もはやたずねるべきことが何もない真夜中に、ひそやかな興奮に身をまかせて立てるひとつの問い」というわけですから、深夜にいっぺえやりながら、探求すべき問いということは承知しておりますので、まあ、連日いっぺえやっておりますが、それでも連日その問いを探求することもできないんです。

なにしろ「深夜」にやるにしましても、「その問いは、もはやたずねるべきことが何もない真夜中」にやるように推奨されておりますし、たしかに、その問いの段階へ入る前の問いが山積しておりまして、そちらを片づけるのが精一杯というところもあり、「哲学とは何か」などとたずねるのは、まあ、これも月に1-2度ぐらいでしょうか。

でわ、それより下位の問いとはなにかといえば、

「どうして梅雨はうっとおしいのだろう」
「どうして〝つゆ〟は漢字で書くと『汁』になってしまうのだろう。『しる』って読んでしまうぢゃないですか?なんでだろう」
「どうして菅直人はイラチなのだろう」
「どうして日本酒をやると悪酔いするのだろうか」

……などと駆けめぐるものですから。

さて、本日は、まあ、「哲学とは何か」に収斂していく問題を学生さんたちと一緒に悩み考えることが出来ました。なんらかの答えが「これだ!」とファイナル・アンサーされたわけではありませんが、ひとつのいい時間を共有することができたのではないかと思います。

深夜にひとりでやると堂々巡りするのですが、日中に仲間たちとやるとなかなか奥深い思考経路をたどることがますので、これこれで自分としましてもいい機会です。

ドゥルーズ+ガタリは、この序論の次の次の段落で次のように述べております。

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 概念(コンセプト)は、やがてわたしたちが見るように、その定義に寄与する概念的人物を必要としている。友は、そのような人物のひとつであり、それについては次のようにさえ言われてさえいる--友(アミ)は、友愛(フィロ)-知恵(ソフィア)、〔哲学(フィロソフィー)〕のギリシアにおける起源を明かす証人である--他の諸文明は、<<賢者>>を有してはいたが、ギリシア人は、たんにより謙虚な賢者であるというのではない「友」を提示している--まさにギリシア人が、<<賢者>>の終焉を承認し、賢者のかわりに、哲学者、知恵の友、すなわち知恵を求めはしても、知恵を明白なかたちで所有するものではない者を提示したのであろう。ただし、哲学者と賢者のあいだには、あたかも目盛りで読みとれるような、程度上の差異だけがあるのではないのだろう。
    --ドゥルーズ、ガタリ、前掲書。

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ひとりでやるのも大事なんですけどね。
みんなとやるのも大切なんですよね。

履修者のみなさまありがとうございました。

でわ、仕事へ戻ります。

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人間にとって最初に考えられる生命の唯一の目的は、彼個人の幸福であるが、個人にとっての幸福なぞありえない

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 人間にとって最初に考えられる生命の唯一の目的は、彼個人の幸福であるが、個人にとっての幸福なぞありえない。もし生命に何か幸福に似たものがあるとしても、そこにだけ幸福のありうる生命、すなわち個我の生命は、一挙一動ごとに、ひと呼吸ごとに、苦悩や、災厄や、死や、破滅に向かって、ひきとめがたい勢いでひきずられていく。
 そしてこのことはあまりにも明白であり、はっきりしているので、老若や、教養のあるなしにかかわりなく、ものを考える人間ならだれでも気づいている。この考えはきわめて単純で自然だから、分別ある人間ならだれでも心にうかべるし、大昔から人類にはわかっていた。
    --トルストイ(原卓也訳)『人生論』新潮文庫、平成十年。

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なにがどうというわけではありませんが、トルストイ(Lev Nikolajevich Tolstoj,1828-1910)が『人生論』のなかで論じているとおり、「生命の唯一の目的は、彼個人の幸福であるが、個人にとっての幸福なぞありえない」という点を昨今深く実感いたします。

たしかにその個別の存在者に即したといいますか、そのひとのみ代換不可能な、他者に還元不可能な幸福の開花……それをincarnationと表現できるかと思いますが……を否定することはできません。

その意味で「生命の唯一の目的は、彼個人の幸福」にあるのは間違いありません。

しかし、それと同時に、「個人にとっての幸福なぞありえない」というのも確かではないか……そう思われてしまいます。

語彙が貧弱なため、なかなかニュアンスが伝わりにくいのですが、単純化の誹りを承知で表現するならば、そうした個々人の還元不可能なその人に即した幸福というやつは、どうやら対他の世界との交渉を抜きには、成立不可能で、いわば網の目のなかの結合点としてそのひと自身性というものがincarnationされていく。そんなことを生活するなかで、感じてしまうんですね。

たしかに、「彼個人の幸福」追求は大切なのですが、それが「個人にとっての幸福」と同一視されたとたん、何か本末転倒してしまう……。

トルストイの表現を借りれば、「すなわち個我の生命は、一挙一動ごとに、ひと呼吸ごとに、苦悩や、災厄や、死や、破滅に向かって、ひきとめがたい勢いでひきずられていく」のではないかと思います。

そしてこのことは、たしかに「ものを考える人間ならだれでも気づいている」し、「この考えはきわめて単純で自然だから、分別ある人間ならだれでも心にうかべるし、大昔から人類にはわかっていた」のはわかっていたのでしょうが、単純であるがゆえに、なかなかそのことを忘れてしまう、見落としてしまうのかも知れません。

印象批判になってしまいますが、現代の特徴とは何かといった場合、基本的に分断知の世界であることは可能であると思います。

たしかに分析知の基本的構えは、ものごとを「分断」して「認知」するのがそのイロハであり、そのことにより、様々な進展を迎えたことは否定できません。

しかしそれだが全てでもあるまい。

綜合知を探究する人文系の人間としては……くどいようですが印象批判の誹りを免れることはできませんし、社会学系の人間からも「違うよ」ってぼやかれそうですが……そんなことを推察されてしまうんですよね。

まあ、ある日の独り言です。

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第一の、そしてもっとも基本的な規準、それは、社会的諸事実を物のように考察することである

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 第一の、そしてもっとも基本的な規準、それは、社会的諸事実を物のように考察することである。

   一
 ひとつのあらたな種類の諸現象が科学の対象となってくるとき、ふつうそれらは感性的なイメージによってばかりではなく、大ざっぱながらすでに形成されているさまざまな種類の概念によって、精神のなかにあらかじめ表象されているものである。物理学や化学の最初の礎石がおかれるに先だって、人びとはすでに、種類の物理-化学的現象について純粋知覚を越えた諸観念をもっていた。たとえば、あらゆる宗教のなかに混在するかたちでみとめられる種々の観念がそれである。このことは、事実上、科学に先行して反省が生まれていて、科学はより方法的にその反省を行使していくにすぎないことを意味している。人間は、諸物からなる環境のなかにあって、それらについて種々の観念をつくりあげ、これをもってみずからの行為を律することにより、はじめて生きていくことができる。ところが、それらの観念は、これが対応づけられている実在よりも、われわれにより近しいものであり、より手のとどく範囲にある〔と思われる〕ため、われわれはおのずと、それらを実在に置き換え、思弁の対象とさえしがちである。諸物を観察し、記述し、比較する代わりに、この場合、みずからの観念を意識にのぼせ、それを分析したり、結合させたりすることで満足してしまうのだ。実在にかんする科学に代えて、もはや観念論的分析を行っているにすぎない。もちろん、この種の分析はかならずしもいっさいの観察を退けるわけではない。それらの観念、もしくはそこからみちびかれる諸帰結を裏づけるために、事実に訴えることも行われうる。けれども、その場合には、事実は、例証あるいは裏付けのための証拠として、たんに二義的なものとして介入してくるにとどまっており、科学の対象とはなっていない。およそこのような科学は、観念から物へとすすむのであって、物から観念へとすすみはしない。
    --デュルケム(宮島喬訳)『社会学的方法の規準』岩波文庫、1978年。

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社会学の方法論のマニフェストとも言えるデュルケム(Émile Durkheim,1858-1917)の『社会学的方法の規準』を今日は読んでおりましたが、いやはや今日も疲れた一日です。

デュルケムは、形而上学的なアプローチ、すなわち、アプリオリな観念や価値判断をしりぞけて、事実を「物のように考察」することを基本的な基準と説いたわけですが、その真骨頂とおもわれる一文がうえの引用部分にあたるのかと思います。

ただもちろんいうまでもなく、この価値判断を退けるという態度は、ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)のいう「価値自由」の問題とワンセットで考えない限り難しいものです。

自分が遂行する探究にも個々人の関心が深く関与していることは否定しがたく、その関心があるからこそ探究がスタートするわけですが、そのことに無自覚になってしまうと、知らず知らずのうちに恣意的な部分というものが等閑視され、恣意的なるものがあたかも公共・客観という看板をかかげて、エッヘンと歩いてしまうわけですので、探究者の自覚という部分は探究遂行にあたり決してわすれてはならないでしょう。

それでも、おそらく、「事実を物のように考察すること」は、社会「科学」としては、大切な公準であることだけは否定することはできません。

ただワタクシの場合、恣意的なところを炸裂させながら、公共性を目指して爆走する神学思想家ですので、「事実を物のように考察すること」がなかなかニガテなんです。

その一例をひとつ。

仕事中に細君からメール。
息子殿が欲しいと言っている食玩……なんじゃらかんじゃらで詳しい名前は失念……を帰宅時にふたつ買ってきて欲しい!

なんじゃらかんじゃらをふたつ買い求めましたが、まあ、これは、まさに自分にとっては「なんじゃらかんじゃら」なんですワ。

おそらく息子殿乃至は細君にしてみますと、これは「○○の××で、どえらい、△△」なのでしょうが、その消息がなかなか理解することができません。

そして一緒にかった季節限定エビスが2缶。

これは息子殿乃至は細君にしてみますと、これは「狂い水」、「お馬鹿の呑む水」という「なんじゃらかんじゃら」のひとつなのでしょうが、自分にとってみれば……

「おい、こりゃアな、この季節にしか飲めねえ、エビスだゼ。しかも白いヤツはもう終わる。茶色いヤツはこれからの一品だ。絶妙なコラボレーションに思えねえか」

……ってなるわけですが、

まあ、息子殿乃至細君、およびワタクシ宇治家参去にしてみましても、お互いに、「事実を物のように考察すること」はできていないことだけは確実です。

そのまま放置すると、ふたつの理念系の概念対立というアンチノミーの陥ってしまいますのでスルーすることはできませんが、それぞれがそれぞれの存在論的価値をお互いに見いだすことのできるようなすりあわせは必要でしょうねえ。

前者の「なんじゃらかんじゃら」が「ほう、これが○○レンジャーのアレですか!」

そして後者の「狂い水、お馬鹿の呑む水」が「ハア、通年呑むことができないレアーな一品ですな」

……ぐらいにはすりあわせていきたいものです。

社会学的アプローチのように、「事実を物のように考察すること」で公共性とか共通了解を目指す、すなわち「物から観念へと進む」ことは、当方ニガテなのですが、「観念から物へと進む」ことでも、恣意的にならずに、公共性とか共通了解に進む、ひとつの見本を、見事に提示してみたいものです。

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結局は世の中に対しては倦怠こそがふさわしいのに

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 今日倦怠を感ずるだけの暇はたっぷりありながら、倦怠を感じない人たちは、結局倦怠を感ずる余裕のない人と同じように退屈な人間である。なぜなら自分自身が行方不明になっているからだ。もし自分自身がいるならば、いまのようにあわただしい世界では、目的もないままに長い間滞在して退屈することを余儀なくされるし、また長い間滞在してじっとしていられる場所などどこにも見つかるはずがない。
 いうまでもなく大多数の人たちには余暇がかけている。生活費を稼ぐのに追われており、その生業でぎりぎりの必要を賄うことで消耗し尽くしてしまう。不快な束縛を多少とも耐えやすくするために、ある種の労働倫理をひねりだす。これが仕事に道徳的な粉飾を施し、何とか道徳的な満足感をつくりだしてくれる。自分のことを道義的存在であると感ずる誇りがあらゆる種類の倦怠を追放するといったらいいすぎかもしれないが、日々の苦役にむけられるありきたりの倦怠はそもそも考慮に値しない。というのも、その種の倦怠は致命的というほどのことはなく、また新たな生へ人を呼び覚ますものでもなく、たんに不満を表すにすぎず、この不満も、ややましな仕事が道徳的に聖化された仕事して提供されればたちまち消えてしまうものだからである。それにもかかわらず、自分に課せられた義務にあくびする人のほうが、好きで仕事をやっている人よりもいくらか退屈な人間ではないということはありうる。好きで仕事をするこの不幸な人は、ますますその仕事にはまりこみ、ついにはものを考える頭がどこかに消えてしまう。この消えた頭をもとにもどす極めつきの倦怠、ラジカルな倦怠は、永遠にかれらからへだてられたままになる。
 ところで余暇が全くない人などいはしない。オフィスは常設の収容所ではないし、日曜休日は制度化されている。したがって原則としては誰にでも、素晴らしい休日にまともな倦怠に身を委ねるチャンスはあるわけだ。それなのに人は何もしようとしない。されるがままになっている。世の中は人が自分自身にいたることがないように気を配っている。ひょっとして人が世の中に関心を持てなくても、世の中のほうは人に対して十分な関心を抱いており、そのために人は世の中に対して十分倦怠を感ずるほどの休息を見いだせない。結局は世の中に対しては倦怠こそがふさわしいのに。
    --ジークフリート・クラカウアー(船戸満之他訳)「倦怠」、『大衆の装飾』法政大学出版局、1996年。

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どうも宇治家参去です。
昨日は休みでしたが、ずっぽりと仕事をしておりました。ただ仕事だけやりますと頭が煮詰まってきますので、気分転換に部屋の掃除(⇒要するにそのへんに積んでいた本がどこに積んでおいたのかわからなくなったので、その整理)をやりつつ日中を過ごしましたが、夜は早くからいっぺえやらせて頂き、「倦怠」を楽しんだ次第です。

たまには「倦怠」を楽しむ、味わいというのも大切ですね。

ということで、今日からまた仕事……貧乏暇無しというやつ……ですが、躰中が「倦怠」であふれんばかりになっておりますが、さあ、いっちょがんばりましょうか!

自分らしくないですけどネ。

たまに読むクラカウアー(Siegfried Kracauer,1889-1966)の辛辣がなんとも刺激になるものです。

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「私たちは学者であるよりも前に人間であり、多くのことを忘れた後でも人間でありつづけるのだ」と思いつつ、不開講にならず安堵。

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……人間存在はまさに客体として扱われ、知覚における真実や人間諸科学の光のなかで知識に委ねられてしまう。けれども、客体としてのみ扱われるとき、人間は虐待され、見誤られることにもなる。とはいえ、それは真理が人間を傷つけたり、あるいはまた人間に相応しからざるものであるからではない。そうではなく、存在のうちへの人間的なものの出来それ自体が、存在に固執する存在の--そしてまた、この固執の観念ならびにその存在しようとする努力にもわずかに含意された暴力の断絶なのである。内存在性の利害からの超脱が人間的なものによって可能となるのであり、人間的なものはただちに、認識することよりも高き秩序へと思考を高めるのである。私たちは学者であるよりも前に人間であり、多くのことを忘れた後でも人間でありつづけるのだ。
 認識することよりも高き秩序。この秩序は、ある使命が谺するなかで、個体性としての人間的なものを触発する。依然として類の一般性によって凝固したままの個体性ではあるが、それはすでに私の唯一性へと目覚めてもいる。論理的には識別不可能な唯一性である。が、他の人間に対する責任のなかでは、それは選びのように忌避不能で愛をはらんだ唯一性であり、このとき他人もしくは愛される者はこの私にとっては世界でかけがえのない唯一の者なのだ。唯一性から唯一性へ、一者から他の一者へ、それもいっさいの近親性(parenté)とは無関係に。どんな外部性よりも疎遠なある唯一性から他の唯一性へ。ここにいう外部性は、客観的なもののなかではすでに内在性と化して自分を放棄してしまうのだが、だからこそ、ここにはまさに社会的近さという「論理的には」新しく未曾有な絆が、知識よりも善き思考の驚異があるのだ。主体の外に。
    --エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)『外の主体』みすず書房、1997年。

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吹けば飛ぶような存在ですが、メタボな体質だからでしょうか、なかなか存在そのものが飛んでしまうことがないのがチト残念なところではあるわけですが、それでもマア、学問に関わっておりますと、「人間存在はまさに客体として扱われ、知覚における真実や人間諸科学の光のなかで知識に委ねられてしまう」というところは、時々実感してしまいます。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)が指摘している通り、哲学とか倫理学といった学問は「学ぶことができない」学問であり、「(哲学は学ぶことができない。)哲学することを学べ」ということを把握はしておりますので、単なる知識や技術の教授だけに済まそうとはこちらも自覚しておりので、その点を念頭におきながら、組み立ててはいるつもりです。

ただしかしながらその行為の遂行は「客体としてのみ扱われるとき、人間は虐待され、見誤られること」という事態をも不可避的に招来してきますので、思想を扱うということは、モロボシダンが「それは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」(「超兵器R1号」、『ウルトラセブン』第26話)と語る心境ともなってしまいます。

まあ、ぐだぐだ言ってもはじまりませんので、そうしたもやもやっとしたところを、ビジネスライクに処理することなく、ひとつひとつと丁寧に向かい合いながら、学を深めていきたいと思う訳ですが、、、

メールを処理しておりますと大学から1通。

今月末、地方スクーリングが予定されているのですが、開講人数の連絡でした。
今回は9名の予定です。

ともあれ、不開講にならなかったことは幸いです。

たしかに学問・理性・言語といった西洋形而上学というものは、暴力性を内在しているわけですが、それと同時にそれだけでもない沃野をも秘めております。

その沃野を耕しながら、前進していこうと思う次第です。

しかし、まだ出張申請関係の書類が完成しておりません。
締切が迫ってきておりますので、まずはそちらから優先させましょう。

「内存在性の利害からの超脱が人間的なものによって可能となるのであり、人間的なものはただちに、認識することよりも高き秩序へと思考を高めるのである。私たちは学者であるよりも前に人間であり、多くのことを忘れた後でも人間でありつづけるのだ」。

至言です。

ともあれ、不開講にならずなによりです。
しかしそれと同時に、他の科目と比べますと、『倫理学』というのはやはりマイナーだと思わざるを得ませんが、マイナーはマイナーなりに重低音だとは思うのですが、、、。

02 03

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身軽な鳩は、空中を自由に飛翔しながら空気の抵抗を感じ、空気のない真空の中であれば、もっとうまく飛べるだろうと考えるかもしれません。

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……身軽な鳩は、空中を自由に飛翔しながら空気の抵抗を感じ、空気のない真空の中であれば、もっとうまく飛べるだろうと考えるかもしれません。プラトンも同じように、感覚的な世界が知性にさまざまな障害を設けることを嫌って、イデアの翼に乗り、この感覚的な世界の<彼岸>へと、純粋な知性の真空の中へと、飛びさったのだった。そしてプラトンは、その努力が彼の探求にいささかも起用sるものではないことには気づかなかったのである。[真空の中では]その上でみずからを支えたり、それに力を加えたりすることができるような、いわば土台となるいかなる抵抗もないために、知性を働かせることができなかったのである。
 しかし思索にふける人間の理性にとっては、自分の建造物をできるだけ早く建設してしまって、その後になってからやっと、建造物の土台が適切に構築されているかどうかを調べるという[転倒した]やりかたが、いわばごくふつうの<宿命>となっているのである。しかしそのときになると人間というものは、さまざまないいわけを考えだして、建物の土台は強固なものだと言い聞かせてみずからを慰めたり、後になってから点検を実行することは危険であると、拒んだりするものなのである。
    --カント(中山元訳)『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫、2010年。

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引用だけでスンマセン。

「もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!」

との言葉は報道写真家・一ノ瀬泰造氏(1947-1973)の絶筆になりますが、別に地雷を踏んだわけではありません。

チト、烈しく眠く、書きたいことはいろいろとあるのですが、今日はこれにて許してくださいまし。

思うに、最近、空気の濃度がきわめて薄くなりつつあります。

空気がない真空状態ほど恐ろしいものはありません。

悲喜劇がひとつの局面を起こしましたが、一番大切なことは、自分自身の事柄としての「ちゃんと生きる」ということに収斂します。

ということで、「ちゃんと生きる」ために、沈没です。

重ね重ねすいません。

眠うー。

02 03

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫) Book 純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

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もし基本的な関心が統一の要求なら……

01 02

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 不条理の展開。
 (一)もし基本的な関心が統一の要求なら、
 (二)もし世界(あるいは神)がそれを満足させえないなら。
 世界から遠ざかることによるにせよ、あるいは世界のなかでにせよ、統一がつくられるのは人間においてだ。こうして、これからまだ正確にせねばならぬが、一つの道徳と一つの苦行が取り戻されるのだ。
    --カミュ(高畠正明訳)『反抗の論理 カミュの手帖2』新潮文庫、昭和五十年。

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短大の哲学の講義で、今日……正確には昨日……は、ひとつあつく演説をしてしまいました。

あんまり演説をやるのは好きではないんです。
双方向になりませんから。

ただ、かたるべき必要というのも不可避的に存在するのです。

いやはや、いずれにしましても、疲れ果てました……が、ここちよい疲労。

今日も昼から授業です。

カミュ(Albert Camus,1913-1960)が探究した不条理ほど不条理な生き方をしているわけではありませんが、それでもなんとなく、不条理とまではいいませんが、矛盾しつつ生きているこの実感を大切にしたいと思います。

つうことで、早く寝なければならないのにこの時間。
眠いけれども、活字を入力するこの矛盾。

この中心にいて「統一がつくられるのは人間」だということ。

このことを失念してはいけませんネ。

03

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思うに個々の存在者は、自分一人では存在の果てまで行くことができないのだ

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 ジョルジュ・バタイユは、彼の目にあるいは彼の精神にとって共同体の要請が避けられぬものとして立ちはだかる二つの契機を、内的体験との関係でごくあっさりと言い表している(おそらく飾り気がなさすぎるのだろうが、彼はそれを知らないわけではない)。彼が、「友人たちに対する私の振舞いには動機がある。思うに個々の存在者は、自分一人では存在の果てまで行くことができないのだ」と書くとき、この断言は、体験が単独者には起こりえないことを含意している。というのも、体験は、個別者の個別性を打破し、個別者を他人の人へとさらし出す、従って本質的に他人に向けてのものである、という特徴をもっているからである。「自分の生が自分にとって意味あることを願うなら、私の生は他人にとって意味をもつものでなければならない」。あるいはまた、「私はかたときも、自分自身を極端へと駆り立てずにはいられない。また私は、自分自身と、他人たちのうちで私が通い合いたいと望んでいる人々とを区別することができない」。ここにはある混同が含まれている。つまり一方で、体験がそのようなもの(極端に向う)たりうるのは、それがコミュニケーション可能なものである限りにおいてなのだが、他方で、体験がコミュニケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質に措いて外部への開口であり他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションとを誘発する運動であるというそのことにかかっている--そしてこの二つは同時的なものでもある。
 従ってこの二契機は、区別して分析することもできるが、相互に他を前提とし合い、相互に破壊し合っている。
    --モーリス・ブランショ(西谷修訳)『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫、1997年。

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数日前にもマックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)の『職業としての学問』を再読しつつ、そうなんだよなアと思った次第ですが、「個性」とか「体験」への偏重とでもいえばいいのでしょうか、そうしたものを「ありがたがる」心性に何か大きな違和感を感じている宇治家参去です。

たしかに「個性」も「体験」も大切な契機であることを全否定しようとはおもわないのですが、その内実をきちんと整理しない限り、これはうまく機能しないのでは……そうフト思う次第です。だからこそ逆説的になりますが、「その仕事(ザッヘ)に仕える」ことによって、全体の中で「個性」だとか「体験」というものを構築していくべきだと思うのですが、なにやら順序が違っている……それが現状ではないかと危惧する次第です。

マア、あれですよね。

教室でセンセーが生徒さんに

「個性を伸ばしましょう!」
「は~い」

……って、全部の生徒さんが一斉に手を挙げるような状況だけは回避したいのですが、おそらくその場にいたら、宇治家参去はしらばっくれて、ふて寝しているのだろうと思いますが、このへんに何か本朝の大いなる誤解とか誤読が含まれているんだよな~などとしみじみと実感する深夜です。

さて……。
昼間におおよその学問の仕事を片づけたので、ワインをやりつつ、読書のひとときですが、戦後最大のフランスの文芸批評家と評されるモーリス・ブランショ(Maurice Blanchot,1907-2003)の『明かしえぬ共同体』(La communauté inavouable,1983)をワインを味わうように、言葉を口蓋で転がしつつ楽しんでおりますが、上述したところの最大の問題は、やはり「孤立」というところでしょうか。

論理学ではなく、倫理学をタツキにしているせいかもしれません。

要するに関係世界のなかで人間は存在しているのですが、その世界との関わりってやつをどこかで、みずからすぱっと遮断して、何か作業仮説の「アリガタイ」お題目というやつに人間は執着してしまう……そこに大いなる陥穽が存在するのでしょう。

ブランショ曰く「体験がそのようなもの(極端に向う)たりうるのは、それがコミュニケーション可能なものである限りにおいてなのだが、他方で、体験がコミュニケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質に措いて外部への開口であり他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションとを誘発する運動であるというそのことにかかっている--そしてこの二つは同時的なものでもある」というところでしょう。

レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)的に理解するならば……ちなみにレヴィナスとブランショはストラスブール大学で親交を結んでおりますが……聖性と暴力性は同時的なものというところでしょうか。

体験にせよ、個性にせよ……、
それが「単独者には起こりえないこと」である点、そして「個別者の個別性を打破し、個別者を他人の人へとさらし出す」ものである点、そして、「本質的に他人に向けてのものである」という特徴を深く把握する必要があるのでしょう。

つうことで、さきほどから味わいつつやっておりますワインが半分になってしまいましたが、まだ半分残っておりますので、飲み干すまで戦おうかと思います。

ちなみ本日の随伴者は、サドヤ((株)サドヤ製造、KOFU JAPON)の「Mon Cher Vin」。
高い銘品ではありませんが、フランス本土に自家農園をもつ日本のワインメーカーの一品です。安物の国産ワインは、甘くて締まりがないものが多いのですが、こちらは、さっぱりとしながらも飽きのこない味わいがなんともいえません。

人間の生き方もかくありたいと思うものです。

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明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) Book 明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

著者:モーリス ブランショ
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