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したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである

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 しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである。単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない。この知識が教科課程や試験規定によって実用的に最も重要なものだけに絞られたところで、それは決して知ではない。必要欠くべからざるものだけに引き絞られたこの知識は「生活に近親」ではあろうが、しかしそれを持つことは決して知ることではない。こんな知識を持ち運び、さらには若干の実用的な小細工をおぼえ知っているような人は、しかもなお真の現実に直面すると真の現実はいつも俗物が生活や現実に近親であるという語で理解しているものとは違うものだから、途方に暮れて、きっと不器用者になるであろう。なぜだろうか? 彼は知を持っていないからである。というのは、知るとは習うことができるということである。
 もちろん常識的な人は、習い終えてもはや習う必要がない人こそ知を持っていると思っている。が、そうではない。知っている人とは、常に繰り返し習わねばならないということを理解していて、この理解に基づいて、何よりもまずいつも習うことができるような状態に自分をおいているような人だけである。このことは知識を保持するよりずっとむずかしい。
 習うことができるということは、問うことができるということを前提している。問うとは、まえに説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことへの決-意である。
    M.ハイデッガー『形而上学入門』平凡社、1994年。

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昨日の夕方、ちょうどピークタイムのスポット的なオアシスタイムに、サクッと一服やりながら、iPhoneでネットを見たり、ちょいとTweetしておりますと、細君から電話。

ひょっとして……、

「家の鍵を持たずに出たから、今からアンタの会社まで鍵を取りに来る」

……ってパターンかなって思い、

「また、かよっ」

……って思った次第ですが、そうではなかったようでございます。
※自宅にワタシがいるときに、細君が外出するとよく鍵を持たずに出てしまいます。まあ、ワタシがいるから、持たないで出ても「インターフォンでOK」っていうやつです。それがワタシの仕事日ですと、細君が外出した後に自分が出てしまう寸法ですが、この場合、インターフォンを押しても誰も出ませんので、たま~に、会社にワタシの鍵をとりにくるという、一種、嫌がらせのようなことがあるんですワ。何しろ市井の職場と自宅がチャリンコ通勤圏ですので、……戻ります。

で・・・、

電話に出ると、細君からではなく、息子殿のようで・・・

「仮面ライダーのベルトを入札したの?」

……って聞いてくるわけです。

ゆっくりと話を聞くと、今月が誕生日で、昨日までは、そのなんとかライダーのベルトが欲しいと言うことで、ネットオークションのウオッチリストに入れており、細君からも夜中にビッドしておいてくれっていわれていたわけですが、、、

あいにくコチトラ、自宅で一人鯨飲しておりましたので、入札を忘れていたのですが、息子殿と言葉を交わすと、どうやら、そのベルトではない別のモノが欲しくなったということで、その消息を確認したかったようであります。

一人鯨飲は、まあひとつの「不幸中の幸い」という事態のようでした。

さて、その通話のやりとりをする時点で、すでに、1本目の煙草が終わりかけており、ちょいと早く切電しなければと思う次第ですが、

「ねぇ、ねぇ、今日は○○(○○は会社名)のオシゴト? それとも、大学のオシゴト?」

とか

「今日ねぇ、ボクね、……」

……ってはじめてしまい、シカタナク2本目の煙草を点火!

ジリジリと焦りながら、最後に、

「ナンで仕事するの?」

ファイナル・クエスチョンが出てきました!

いやー、「ナンで?」と言われましても、、、

「食べていくため」

でもあり、

「シカタナク」

でもあり、

その無数の有象無象でもあり……。

そしてその全てがイエスでありノーであるというファイナル・クエスチョンというやつです。

……って今度は、一服……今日の場合はすでに二服ですが……をはやく切り上げて売り場に戻らねば!っていう焦燥感よりも、深い哲学的な洞察に脳内のスイッチが切り替わり、「考える人」@ロダンになってしまったわけですが・・・

運良く!

「宇治家参去さん、至急レジ応援をお願いします」

……っていういつもなら厭ぁーな店内放送が、思索の堂々巡りをうち切り鬨の声のように、入ったお陰で、

「その○○(=息子殿が欲しいというおもちゃ)を買うため!」

うまく終話にこぎつけました。

しかし、「ナンで仕事するの?」か、ひとり自分自身に対して誰何しつつ仕事を遂行しましたが、まさに、「ナンで」やっているのかわかりません。

ただ、今日をいきるためというところでしょうか。

まあ、くどくど考えても病気になるか、俳人……もとい廃人になるだけですし、自分としては仙人(いや、ホントは専任ですが)になるのが本望なのですが、どのような仕事であれ、汗をながすなかで、手足を動かし、脳を回転させるなかで、生活というものを組み立てていくひとつのしるべとして仕事をしているのですが、まあ、これを格好のよい説明とか、子供にわかるような説明をすることは、まだまだできないようでございました。

たしかに、様々な言葉を駆使して、説明することは不可能ではありません。
しかしそれだけで全てを説明することも同時に不可能であって、可能と不可能なただ中、言語可能な世界と、言語か不可能な世界のただなかで、それを探究しているのが事実に近いのでは……フト、そう思った次第です。

たしかに説明可能な語彙と徹底的な思惟は必要なんですが、「単なる知識を持つことは、それがどんなに広い知識であっても、決して知ることではない」わけですし、「知っている人とは、常に繰り返し習わねばならないということを理解していて、この理解に基づいて、何よりもまずいつも習うことができるような状態に自分をおいているような人だけである」わけですから、絶えず更新しながら、その答え?というやつをすりあげていかなければならないのでしょう……ねぇ。

ま、ただ、しかし、息子殿がそうした形而上学的問いを発するようになったということは、コレ、ひとつ、哲学者?の父親の薫陶のタマモノでもあるわいな……などとひとり親バカの悦にも浸るわけですが、、、息子殿の方が、ワタシよりも先に、「問うとは、まえに説明したとおり、知ることを-志すこと、すなわち存在者の開明性の中に立つことへの決-意である」という決意の境智へ立っているのかもしれません。

その意味では少し悔しい部分……自分はそうした形而上学的問いを親に発したことのないナイーヴチキン野郎でしたので……もありますので、今日も鯨飲して沈没することにいたします。

まあ、ただ、しかし!

M.ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の次の言葉、すなわち、「しかし、知るとは真理の中に立ちうるということである。真理とは存在者の開明性である。したがって、知るとは存在者の開明性の中に立ちうること、つまりそれに耐えることである」であるとすれば、様々な問いと課題に耐えながら生きているワタシも、同類項ということかしら???

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