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「要するに、おまえら、良書を読めよ」

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 事のなりゆきはこんな工合だった。我々は五人か六人だった。私は一番年上でみんなの先生であったが、それ以上に仲間であり、友達だった。彼ら少年たちは燃え易い心と楽しい空想とを持ち、我々に好奇心を唆り、知識欲にかたたてるあの人生の春の潮に満ち満ちていた。一同はあのことこのことを語り合いながら、小径を歩いてゆくと、道ばたに生えたくさにわとこやさんざしの繖房花(さんぼうか)の上では、もうきんはなむぐりが強い匂いに酔いしれていた。我々はレ・ザングルの砂土の高台に、聖たまこがねがもう姿をみせて、古代のエジプト人が地球の像とした糞の団子を転がしていけるかどうか見に行くところであった。また我々が調べようとしていたのは、丘のふもとの小川では、敷きつめたようなうきぐさの下に珊瑚の小枝に似た鰓(えら)のある若いいもりがかくれてはいないか、小川のきゃしゃな小魚のとげうおは藍と緋の婚礼の首笠利をもうつけたかどうか、また帰って着たつばめはあのあざやかな翔(かげ)り方で牧場をかすめ、円舞の間に卵を撒くががんぼを掃蕩していないか。砂岩に掘った巣穴の玄関で、いぼとかげが藍色の斑を散らした尾を陽にさらしていないか。淡水に卵を生もうとローヌ河を遡る魚の群を追って、かもめが群をなして海から上り、河の上を飛びながら時々気違いの高笑いのような叫び声をあげていないか。それから……いや、まあこのくらにしておこう。要するに、単純で素直に、生き物と一緒に暮らすことに心の底から喜びを感ずる我々は、春の生命の目覚めという楽しい饗宴のうちに、朝の幾時間かを過ごそうと出かけたのだ。
    --ファーブル(山田吉彦・林達夫訳)『完訳 ファーブル昆虫記 1』岩波文庫、1993年。

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今日の哲学の講義では、イレギュラーの講義……といってもシラバスには組み込んでいるわけですが……をやっちゃった宇治家参去です。

先週の講義でひととおりの哲学史は概観しておりますので、以後はテーマに絞ってつっこんで議論するケース・スタディのようになるのですが、その冒頭となる今回、毎度毎度ですが、

「要するに、おまえら、良書を読めよ」

……って旧世界の黴くさい、先端科学やイノベーション、トレンドや銭儲けを指南するような新世界の学問とは対極にあるファウスト博士の「説教」のようですが致し方ありません。

なにしろ自分はやはり古典ヨーロッパ至上主義者であり、スコラ学に代表される中世末期ヨーロッパの大学を範型におきますのでイタシカタありません。その点で、システマティックかつ(よくわからん)アート&テクノロジー+就職指南を売りとする21世紀のマジョリティとしての大学教育にははなはだ違和感と隔靴掻痒を感じてしまいますが……まあ、もどります。

この「要するに、おまえら、良書を読めよ」っていう古典教養論に関しては、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl ,1859-1938)の危機論文(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)を交えながら再論しようと目論んでおりますので、今しばらくお待ちくださいませ。

さて……。

学生さん方に「要するに、おまえら、良書を読めよ」って説教しながら、自分自身が読んでいないのでは話になりません。

ただ今日も実に忙しく、気になる新書を一冊ぱらぱらと読んだだけですので、これでは申し開けがつかない……ということで、大学へ向かう途中に紀伊国屋書店で購入したファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823-1915)の『昆虫記』を再読している深夜です。

いや~、読むとオモシロイもんですね、コレ。

ファーブルが進化論に反対の立場であったことなんかは聴きしには及んでおりましたが、綿密な観察で論駁する一節や、まさに、豊かな教養に裏付けられたその美しい文章には正直、驚いた次第です。

ちなみに『昆虫記』をはじめて邦訳したのはアナキストの大杉栄(1885-1923)こうした関係もオモシロイですねえ。

さて……。

なにゆえ、ファーブルの『昆虫記』なのでしょうか。

それは息子殿がこのところ、寝る前に、おこちゃま向けの『昆虫記』とかファーブルの伝記を興味深そうに読んでいたからです。

おもえば自分もそうしたたぐいの〝向け〟の本は読んでいたかとおもいますが、原著を手に取ったがことがなかったので、買い求めた次第です。

まあ、こうした関心からさまざまな分野の古典に手を伸ばすというは大切ですね。

そんなことを感じた一日です。

いやー、しかし、『昆虫記』、正直おもしろいですね。そしてひとつひとつの喩えや言葉が膨大な古典にうらづけられているところをひしひしと感じますと、やっぱり百年と読み継がれる古典を読んでいないことには、「話にならない」……そのことを痛感します。

たしかにアプリケーションを使いこなすとか、そのアプリケーションを武器にしてクリエイティヴしていこうぜってスマートにビジネスするのがもてはやされる現在ですが、やっぱり正直なところ、、、

「うすっぺらい」

……こう感じちゃうんですよね。

そうしたすべての基盤、いわば人間の大地を耕す古典との出会い……こうした契機かが欠如するならば、それがどのようにクリエィティブかつスマートなものであったとしても、それはせいぜい一過性の「はやり風邪」にすぎない局地的現象になってしまうのでは……、ふとそう思う次第です。

まあ、それがすべて悪いというわけではありませんが。

で……。

気がつくと本日が息子殿の誕生日でした。

ちょうど『完訳 ファーブル昆虫記 1』(岩波文庫)を先ほど読み終えましたので、これをプレゼントしようかと思います。

いつの日にかひもとくことでしょう。

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完訳 ファーブル昆虫記〈1〉 (岩波文庫) Book 完訳 ファーブル昆虫記〈1〉 (岩波文庫)

著者:J.H. ファーブル
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