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結局は世の中に対しては倦怠こそがふさわしいのに

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 今日倦怠を感ずるだけの暇はたっぷりありながら、倦怠を感じない人たちは、結局倦怠を感ずる余裕のない人と同じように退屈な人間である。なぜなら自分自身が行方不明になっているからだ。もし自分自身がいるならば、いまのようにあわただしい世界では、目的もないままに長い間滞在して退屈することを余儀なくされるし、また長い間滞在してじっとしていられる場所などどこにも見つかるはずがない。
 いうまでもなく大多数の人たちには余暇がかけている。生活費を稼ぐのに追われており、その生業でぎりぎりの必要を賄うことで消耗し尽くしてしまう。不快な束縛を多少とも耐えやすくするために、ある種の労働倫理をひねりだす。これが仕事に道徳的な粉飾を施し、何とか道徳的な満足感をつくりだしてくれる。自分のことを道義的存在であると感ずる誇りがあらゆる種類の倦怠を追放するといったらいいすぎかもしれないが、日々の苦役にむけられるありきたりの倦怠はそもそも考慮に値しない。というのも、その種の倦怠は致命的というほどのことはなく、また新たな生へ人を呼び覚ますものでもなく、たんに不満を表すにすぎず、この不満も、ややましな仕事が道徳的に聖化された仕事して提供されればたちまち消えてしまうものだからである。それにもかかわらず、自分に課せられた義務にあくびする人のほうが、好きで仕事をやっている人よりもいくらか退屈な人間ではないということはありうる。好きで仕事をするこの不幸な人は、ますますその仕事にはまりこみ、ついにはものを考える頭がどこかに消えてしまう。この消えた頭をもとにもどす極めつきの倦怠、ラジカルな倦怠は、永遠にかれらからへだてられたままになる。
 ところで余暇が全くない人などいはしない。オフィスは常設の収容所ではないし、日曜休日は制度化されている。したがって原則としては誰にでも、素晴らしい休日にまともな倦怠に身を委ねるチャンスはあるわけだ。それなのに人は何もしようとしない。されるがままになっている。世の中は人が自分自身にいたることがないように気を配っている。ひょっとして人が世の中に関心を持てなくても、世の中のほうは人に対して十分な関心を抱いており、そのために人は世の中に対して十分倦怠を感ずるほどの休息を見いだせない。結局は世の中に対しては倦怠こそがふさわしいのに。
    --ジークフリート・クラカウアー(船戸満之他訳)「倦怠」、『大衆の装飾』法政大学出版局、1996年。

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どうも宇治家参去です。
昨日は休みでしたが、ずっぽりと仕事をしておりました。ただ仕事だけやりますと頭が煮詰まってきますので、気分転換に部屋の掃除(⇒要するにそのへんに積んでいた本がどこに積んでおいたのかわからなくなったので、その整理)をやりつつ日中を過ごしましたが、夜は早くからいっぺえやらせて頂き、「倦怠」を楽しんだ次第です。

たまには「倦怠」を楽しむ、味わいというのも大切ですね。

ということで、今日からまた仕事……貧乏暇無しというやつ……ですが、躰中が「倦怠」であふれんばかりになっておりますが、さあ、いっちょがんばりましょうか!

自分らしくないですけどネ。

たまに読むクラカウアー(Siegfried Kracauer,1889-1966)の辛辣がなんとも刺激になるものです。

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