同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然ながら遙かに好ましいし、読書することは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。
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世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然ながら遙かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きるのことの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
--村上春樹『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。
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相変わらず村上春樹(1949-)さんの著作に引き込まれております宇治家参去です。
自他共に認める村上ファンでございますので、その言葉に向かい合うたびに、そこで紡ぎ出された発想に深く頷かざるを得ず……、というところでしょうか。
自分はランナーではありませんが、「そこまでして本を読んで何がしたいかね」「そこまで探求する必要はあるのかね」と嘲笑的に言われることがあります。
しかし、徹して本を読み続けるという行為も、ランナーたちが日々走り続けることと同じ気持ちなんだろうなア~と思うわけで、、、読む本の量を比べたいとか、知識を旺盛に吸収したいとかそうした地平を超越したところにある、いうなれば、「本を読むことができるうちは、そのことで十全な人生を送りたい」と思って読んでいることのほうが多いのでは、しばしそう思います。
読書という行為から提供される知識の多寡なんて所詮、「十全な人生を送りたい」とせっせと毎日読書に励むひとへの、世界からのささやかなプレゼントにすぎない、そういうところでしょうか。
また言うまでもありませんが、読むために読むというようにぼんやりと読んでいるわけでもありません。行為としてはぼんやりと漠然と読んでいるように見えなくもないですが、その行為を通じて、ぼんやりとした目的なんかに、はっきりとした言葉が与えられ、霞の中にあったものがハッキリとして輪郭が浮かび上がってくる、、、それが読書家と呼ばれる人種には共通の体験ではないだろかと思われます。
さて……
たしかに有限な人生ですから、読む本の量には限りがありますから、ある程度は選ぶ段階でソフィスティケートな選別をしながら、対応するわけですが、そこで出会う有意義なひとときは、有効に自分を燃焼させ、与えられた、そしてどうしようもなく逃げることのできない人間存在の有限性を乗り超えるひとつのヒントと出会える得難い時間である……そんなところを読書という行為を通して実感する次第です。
このような意見はきわめて恣意的でひとりよがりなものかもしれませんが、まあ、そういうところに読書の魅力を感じている自分がいることまでは否定できません。
ちょうど今日は短大の哲学の授業で例のごとく「おまえら本読めよ」と口酸っぱくなるまで演説しましたので、そのへんのきわめて個人的な経験を述懐してみた次第です。
読みたいから読むわけですが、それだけでもなく、知識がほしいからというわけでもなく、端的に指摘するならば、やはりそれ以上のetwasを求めているというところでしょうか。
さて、あと30分で仕事が終わりますが、今日は休憩時間に休憩をとれなかったので、今こうした雑文を書きつつ、ちょうど時間まで遅い休憩をとっております。
日本全国はテレビの前におそらく釘付けなのでしょう。
そうした局面において、不可避的な用件による制約からですがテレビの前に座ることができない自分は非国民というわけでしょうが、まあ、そうした人種がひとりぐらいいてもいいのではと思うわけですが、さていかがなものでしょうか。
……ということで、ぼちぼち帰る準備をいたします。
マア、学生さんたちに「読め、読め」というわけですので、自分も読まなくてはならないのですが、先の週末に香川県へいっておりましたので、写真のなんとか餅は学生さんへのおみやげです。
めがねは新調したのですが、この季節、装着の取り外しが多いので、セルのめがねにしましたが、すこしインチキ野郎な雰囲気です。
しかしながらいつも思うのは短大の学食のランチは、大学のランチよりもやすいということ。前者が320円からですが、後者は400円前後。すこしボリュームに欠くところがありますが、この季節はこのぐらいでちょうどいいというものです。
走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) 著者:村上 春樹 |
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