「私たちは学者であるよりも前に人間であり、多くのことを忘れた後でも人間でありつづけるのだ」と思いつつ、不開講にならず安堵。
……人間存在はまさに客体として扱われ、知覚における真実や人間諸科学の光のなかで知識に委ねられてしまう。けれども、客体としてのみ扱われるとき、人間は虐待され、見誤られることにもなる。とはいえ、それは真理が人間を傷つけたり、あるいはまた人間に相応しからざるものであるからではない。そうではなく、存在のうちへの人間的なものの出来それ自体が、存在に固執する存在の--そしてまた、この固執の観念ならびにその存在しようとする努力にもわずかに含意された暴力の断絶なのである。内存在性の利害からの超脱が人間的なものによって可能となるのであり、人間的なものはただちに、認識することよりも高き秩序へと思考を高めるのである。私たちは学者であるよりも前に人間であり、多くのことを忘れた後でも人間でありつづけるのだ。
認識することよりも高き秩序。この秩序は、ある使命が谺するなかで、個体性としての人間的なものを触発する。依然として類の一般性によって凝固したままの個体性ではあるが、それはすでに私の唯一性へと目覚めてもいる。論理的には識別不可能な唯一性である。が、他の人間に対する責任のなかでは、それは選びのように忌避不能で愛をはらんだ唯一性であり、このとき他人もしくは愛される者はこの私にとっては世界でかけがえのない唯一の者なのだ。唯一性から唯一性へ、一者から他の一者へ、それもいっさいの近親性(parenté)とは無関係に。どんな外部性よりも疎遠なある唯一性から他の唯一性へ。ここにいう外部性は、客観的なもののなかではすでに内在性と化して自分を放棄してしまうのだが、だからこそ、ここにはまさに社会的近さという「論理的には」新しく未曾有な絆が、知識よりも善き思考の驚異があるのだ。主体の外に。
--エマニュエル・レヴィナス(合田正人訳)『外の主体』みすず書房、1997年。
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吹けば飛ぶような存在ですが、メタボな体質だからでしょうか、なかなか存在そのものが飛んでしまうことがないのがチト残念なところではあるわけですが、それでもマア、学問に関わっておりますと、「人間存在はまさに客体として扱われ、知覚における真実や人間諸科学の光のなかで知識に委ねられてしまう」というところは、時々実感してしまいます。
カント(Immanuel Kant,1724-1804)が指摘している通り、哲学とか倫理学といった学問は「学ぶことができない」学問であり、「(哲学は学ぶことができない。)哲学することを学べ」ということを把握はしておりますので、単なる知識や技術の教授だけに済まそうとはこちらも自覚しておりので、その点を念頭におきながら、組み立ててはいるつもりです。
ただしかしながらその行為の遂行は「客体としてのみ扱われるとき、人間は虐待され、見誤られること」という事態をも不可避的に招来してきますので、思想を扱うということは、モロボシダンが「それは血を吐きながら続ける、悲しいマラソンですよ」(「超兵器R1号」、『ウルトラセブン』第26話)と語る心境ともなってしまいます。
まあ、ぐだぐだ言ってもはじまりませんので、そうしたもやもやっとしたところを、ビジネスライクに処理することなく、ひとつひとつと丁寧に向かい合いながら、学を深めていきたいと思う訳ですが、、、
メールを処理しておりますと大学から1通。
今月末、地方スクーリングが予定されているのですが、開講人数の連絡でした。
今回は9名の予定です。
ともあれ、不開講にならなかったことは幸いです。
たしかに学問・理性・言語といった西洋形而上学というものは、暴力性を内在しているわけですが、それと同時にそれだけでもない沃野をも秘めております。
その沃野を耕しながら、前進していこうと思う次第です。
しかし、まだ出張申請関係の書類が完成しておりません。
締切が迫ってきておりますので、まずはそちらから優先させましょう。
「内存在性の利害からの超脱が人間的なものによって可能となるのであり、人間的なものはただちに、認識することよりも高き秩序へと思考を高めるのである。私たちは学者であるよりも前に人間であり、多くのことを忘れた後でも人間でありつづけるのだ」。
至言です。
ともあれ、不開講にならずなによりです。
しかしそれと同時に、他の科目と比べますと、『倫理学』というのはやはりマイナーだと思わざるを得ませんが、マイナーはマイナーなりに重低音だとは思うのですが、、、。
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