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当時のイデオローグはこの理を本能的に直観していた。さればこそ、そうした思想は決して「空」の抽象論ではありえなかったのである。

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 「心を正す」ことに政治の基底を置く考え方がやや具体的に統治者の行動規範として表現されると「仁政」の思想となる。それはやはり宇宙的秩序に於ける万物の生育を政治的秩序に移したものとして観念される。天地がものをはぐくみ育てる心を以てするところの統治が仁政である。それは初期においては、なお仏教思想の影響の下に慈悲とか慈愛とかいう言葉でも表現されていた。「仁と云ふものは天理にありては物を生ずるの心ぞ。人にありては慈愛の心ぞ」(羅山、春鑑抄)といい、「天の本心は天地の間にあるほどの物を、さかゆる様に、あはれみ給ふなり。かかるがゆゑに人となりては人に慈悲をほどこすを肝要とするなり」(千代もと草)という如く。
 そうしてこの慈悲慈愛の政治は更に具体的な形に於ては、民衆に対する苛斂謀求の否定、及び為政者の私的享楽の抑制の教説となってあらわれる。

 「仁政を行はんとならば、まず倹約を守るなるべし。倹約は奢縦ならざるなり。衣服居宅よろづ内の事につきて、華美を好まず、乱りに費さざる是なり。国大なりといへども、土地より生ずる米殻、その外の財は限りあるなれば、上の物ずきにまかせて、無用の費をなぜば、財を用ひ盡して、年々に足らず。況や歳の豊凶ひとしからざれば、財用の積り同じからず。上の財乏しければ、礼儀を行い、変に備へ、貧窮を恵むこともならず、果は下を虐げ取り、債を負ひて、倹約を失ひ、国危亡に至る。……古より明君賢主みな倹約ならぬはなし。倹は誠に君の美徳なり。」(貝原益軒「君子訓」、上)
 「古より君の為とて民の財をかすめとり、下を苦め申たる収斂の臣は、悉滅亡仕たる事慥に記録に多く見え申候。若幸にて其身亡不申候得ば、必子孫にて亡申候。稀に子孫亡不申も御座候得共、有か無かの仕合にて御座候。是必然の事にて御座候。……総て人は皆天の子にて御座候故、天の子をそこなひ申候得ば、天道の御にくみ御座候。又天の子をあはれみ申候得ば、必天道の御恵み御座候。皆是必然の道理にて、天道の善に福し、悪に禍し給ふ道理甚明にして、恐るべき御事に御座候。」(貝原益軒「延宝七年八月六日立花勘左衛門へ贈書」)

 こうした苛斂謀求への警告ないし為政者の私的享楽の否定も、徳川時代の儒学者、いな儒学者のみならず国学者もが異口同音に叫んでいることであるが、これを以て単純に口頭禅とか、イデオロギー的欺瞞とか看做すことはできない。むろんそうした面もあったであろうが、それはもっと本質的な社会的根拠を持っていた。というのは、「農は納なり」とか「百姓とごまの油はしぼればしぼる程出る」とかいわれたにも拘わらず、封建的再生産の基礎を脅かすような(農民の労働力の再生産を不可能たらしめる程の)搾取は、結局は封建領主自らの社会的経済的地盤を弱めることになって、支配者自身に対するマイナスの結果となってふりかかってくるからである。
 実際、このことは徳川封建制の発展過程に於ける歴史的現実となって現われた。間引、逃散等による農業労働の現象は、封建支配者の所得の絶対的な厳守となってあらわれるようになった。支配層の享楽の抑制も同じ意味があるのであって、支配者の所得の基礎が専ら農業にあり、しかも封建的農業に於ける再生産が本質的に、拡張再生産ではなく、たかだか同一規模に於けるそれである以上(被支配者の必要労働部分以上の消費が直ちに担税能力に影響するから、被支配層への奢侈の厳重な禁止はもちろんであるが)、商品貨幣流通に伴う武士階級の生活費の絶えざる騰貴に対処する途はやはり絶えざる消費の抑制以外にないのである。当時のイデオローグはこの理を本能的に直観していた。さればこそ、そうした思想は決して「空」の抽象論ではありえなかったのである。
    --丸山眞男「第四章 初期朱子学者の政治思想 第二節 『職分』思想 二 統治者の職分(義務)としての仁政」、『丸山眞男講義録 第一冊 日本政治思想史 1948』東京大学出版会、1998年。

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世の中のシステムはすでに封建制度の枠組みを脱構築@デリダし、西洋流の市民社会を範型とするの近代、現代という世の中のあり方であり、その影響でしょうか。

DVの被害は後を絶ちませんが、DVでなくとも星一徹@「巨人の星」ばりのストロング・スタイルのオヤジ・亭主・主人を演出する封建領主、そして領主でなくとも、東洋的封建制度……就中本朝における……を支える要となる「家制度」にがっちりしがみついた家庭というのはかなり減少したのでしょうか。

そうした事例に頭を悩ます宇治家参去です。

ま、批判的合理主義と解釈学を両手にひっさげ、「これどうなよっ!」って戦う思想家のつもりですが、ご多分に漏れず、自分の場合、「家制度」の漆黒から逃れることはできない旧家の家庭環境がありますので、まあ、それはそれよねっ、開き直って、相手のゲームに乗るっていう寸法で、スライドさせているわけですが、まあ、それでも、違和感がありますので、細君……この表現にも思想的垢まみれの蔑称が濃厚ですが……ディクテで配偶者を称するときは、とりあえず「細君」、パロールで第三者に対して代名詞で使用する際は、「配偶者」と表現するよう心がけるところで、一寸抵抗している次第です。

さて……。
いずれにしましても、ストロング・スタイルのオヤジ・亭主・主人という東洋的封建制度の漆喰は、やはり減じてきてはいるのでしょうか。

そのことが「母の日」と「父の日」の購買動向によってうかがい知ることができるというものです。

まあ、シェアとしてですけどネ。

「母の日」は基本的に、やはり百貨店の包装紙が忙しくまかれるというものです。

それに対して、「父の日」というものは、どうやら、百貨店でなくてもよいようなんです。

ですから、この週末……すなわち「父の日」でしたが……は、当方の職場、いわゆるGMSってやつは、忙しいわけなんです。

可憐な乙女が、とりあえず義理チョコを、買わなければならないぢゃアないですか。

それとほぼほぼ似たようなコンテクストかもしれません。

「母の日」っていうのは、やっぱり、基本的に「三越」だとか「高島屋」だとかで購入した方がいいんです。

ですけど、、、

「父の日」っていうのは、近所の「イトーヨーカドー」でも「イオン」でもいいんです。

そうしたわけで、この週末は、猫の手も借りたいほどの忙しさだったわけですが、そこから推察するに、まさに、「母の日」=百貨店であり、「父の日」=近所の総合スーパー(乃至は大規模ショッピングモール)という図式であるならば、相対的に母の存在が尊重され、父の存在が下降しているというのであるとすれば、まあ、これは一面の評価にしかほかなりませんが、イデオロギー化し硬直化した儒教流封建主義からひとびとが脱構築しはじめたのか……そんなことを思った次第です。
※ただしくどいようですが儒学とは徹底的に現実主義ですから、言葉に即して本来の意義を辿るならば、国教化したあとの形骸化したそれとは別の息吹があるわけです。そのことを踏まえずに、イデオロギー対立に拘泥するならばそれは本末転倒というものでしょう。いちおーくどいですが、そこだけは明記しておきます。

ま、いずれにせよ、めちゃくちゃ忙しかった二日間ということです。

さて……。

蒸し暑い週末でしたので、西洋語がまったく頭に入らず……。

ただこれで何もしないのはマズイということで、漢籍やら日本の思想家の古典とよばれるものに目をとおしておりましたが、きになることが数点ありましたので、以下列挙しておきます。

「以下列挙」で大変恐縮です。

まさに思想的格闘戦ができていないということは、その人の思想が偽札に等しいわけですが、まあ、あまりにもいそがしかったものですからお許し下さいませ。
※ただ厳密に勘案するならば、本格のつとめにん@池波正太郎先生(1923-1990)でいくと、忙しいとは「理由」にならない「理由」ですから、ここに宇治家参去の二流戦士の所以があるのでしょう、がっくし、orzだぜい。

ですから……?

Se la meditazione non può essere addestrata per colpirlo dal pugno ed il pugno l'un l'altro, il suo pensiero è lo stesso come note contraffatte.

Wenn Meditation nicht geschult werden kann, ihm einander durch die Faust und die Faust zu treffen, ist sein Gedanke die Gleichen als gefälschte Notizen.

If meditation cannot be trained to hit it by the fist and the fist each other, his thought is the same as forged notes.

Si la méditation ne peut pas être formée pour le frapper par le poing et le poing l'un l'autre, sa pensée est le même comme notes forgées.

このへんで許してくんなせえ。

さて……「以下列挙」に戻ります。

現実の政治において、東洋文化圏においては、「仁政」とか「徳政」というものが重要視されたわけですが、結果としては「論語読みの論語知らず」が現実を分断してしまったのが実情ですし、理念と現実との乖離から不幸な二枚舌を招来した事例を列挙するには枚挙のいとまがありません。

ですから現実のパワーゲームに仁徳天皇陛下(257-399)のような徳政を期待しようとは思いません。システムが違いますから「期待する」こと事態矛盾でしょう。

そりゃアねえ、「徳政」してくれるなら、してくれるで、それにこしたことはないんです。ですけど、現実の問題において、そこに期待する+期待させるポーズをとるってことのマッチポンプは、普天間の問題をひもとくまでもなく、幾たびとなく我々が経験した不幸な出来事だったわけではないですか。

だとするならば、ようするに現代の時代において仁政を望むことは愚かであり且つ同時に、そこに忖度……
「存願を託する」言語ゲームとしての忖度デスヨ……してはならない。

そこに忖度してしまったために、「マニフェスト」に書いてあったのに~って絶望への病へ至る寸法ですし、システムとしての現代は、「徳」のある政治家よりも……そりゃア「徳」はあったほうがいいのですが期待するだけまさに忖度でしょう!……、「キチンと仕事をする」政治家がいれば話は済むのでしょう。

しかし、なかなかそうならないのが実情というところでしょうか。

忖度する人々と忖度にのってテキトーにポーズするひとだけ。

要するに仁政とシビアな制度としてのデモクラシーが混同されているという状況なんでしょう。

だからこそキチンと整理して、そりゃア徳がないよりあったほうがいいのですが、そうしたことを夢託するよりも、何をやるのか、何をするのかキチンと監督して働いてもらう、そうしたエートスが何にもまして必要不可欠なんだろうと思います。

その辺の消息を西洋の文脈で確認したいのであれば、トクヴィル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville,1805-1859)なんかを読めばいいんです。

忖度する人も忖度される人も読んでいないから、こっちが頭を抱えてしまうんです……、マア、それはひとまず措きます。

ただしかし、何を忖度するにせよ、大切のなのは、何をしたらどうなるかっている想像力です。

ここでいう想像力とはサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre,1905-190)の言う想像力であり、H・アレント(Hannah Arendt,1906-1975)のいう想像力……詳しくは、もう面倒いので原著を読んでください……になりますが、まさに「何をしたらどうなるか」っていう部分です。

それがねえ~、まったく欠落している現状に辟易としてぐったりと肩を落としてしまうんですよ、旦那。

そんなところを丸山眞男先生(1914-1996)の言葉を読み直しながら、感じた次第です。

現代の人々は、そして、システムとか思想を「脱構築」したとか「すでに乗り越えた」っておもっている市民風のひとびとに多い陥穽なのですが、そうした思考が前世紀の遺物を……、

「ふふっ」

……って嘲けわらいながら天ツバ(=天にむかってツバを吐くとテメエの顔に当たる)しているんではねえかっこころです。

たしかに嘲られる封建的領主の所行には問題はあるわけですし、諄いようですが仁政を忖度することははかない夢であります。

しかし、丸山眞男先生が指摘する通り「それをやるとどうなるのか」その把握があったのだとすればそれはソクラテスの無知の知であり、それを嘲け笑う、何もしない……例えば「若さがマニフェストです」……ってな式の現今の政治〝家〟……にはそうした部分が欠落しているのか。

それとも近・現代人の〝驕り〟なのか、定かではありませんが、

いったい、どうなってんだ。

頭を抱えてしまいます。

わけのワカラン乱文ですいません。

なんだかねぇ~。

仁政を期待していないのに、仁政してくれなくてなんだかな~って声も違和感です。
調子のいいこというだけいうやつらにも違和感です。

近代とは基本的にルールのあるゲームなんです。

ただしゲームを理解しなくて、反則ばかりやってのうのうとゲームを続行(=その時点でゲームは成立していないわけよ)する有名人ばかりですし、それをショービジネスとしてしか消化しないオーディエンス。

勝手にやれ!

……っていいたいところですが、勝手にやってもらうと困るので、乱文した次第です。

疲れたので寝ます。

嗚呼。
論じきっていない。

まさに……、

もう、いいや、

寝る。

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