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思うに個々の存在者は、自分一人では存在の果てまで行くことができないのだ

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 ジョルジュ・バタイユは、彼の目にあるいは彼の精神にとって共同体の要請が避けられぬものとして立ちはだかる二つの契機を、内的体験との関係でごくあっさりと言い表している(おそらく飾り気がなさすぎるのだろうが、彼はそれを知らないわけではない)。彼が、「友人たちに対する私の振舞いには動機がある。思うに個々の存在者は、自分一人では存在の果てまで行くことができないのだ」と書くとき、この断言は、体験が単独者には起こりえないことを含意している。というのも、体験は、個別者の個別性を打破し、個別者を他人の人へとさらし出す、従って本質的に他人に向けてのものである、という特徴をもっているからである。「自分の生が自分にとって意味あることを願うなら、私の生は他人にとって意味をもつものでなければならない」。あるいはまた、「私はかたときも、自分自身を極端へと駆り立てずにはいられない。また私は、自分自身と、他人たちのうちで私が通い合いたいと望んでいる人々とを区別することができない」。ここにはある混同が含まれている。つまり一方で、体験がそのようなもの(極端に向う)たりうるのは、それがコミュニケーション可能なものである限りにおいてなのだが、他方で、体験がコミュニケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質に措いて外部への開口であり他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションとを誘発する運動であるというそのことにかかっている--そしてこの二つは同時的なものでもある。
 従ってこの二契機は、区別して分析することもできるが、相互に他を前提とし合い、相互に破壊し合っている。
    --モーリス・ブランショ(西谷修訳)『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫、1997年。

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数日前にもマックス・ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)の『職業としての学問』を再読しつつ、そうなんだよなアと思った次第ですが、「個性」とか「体験」への偏重とでもいえばいいのでしょうか、そうしたものを「ありがたがる」心性に何か大きな違和感を感じている宇治家参去です。

たしかに「個性」も「体験」も大切な契機であることを全否定しようとはおもわないのですが、その内実をきちんと整理しない限り、これはうまく機能しないのでは……そうフト思う次第です。だからこそ逆説的になりますが、「その仕事(ザッヘ)に仕える」ことによって、全体の中で「個性」だとか「体験」というものを構築していくべきだと思うのですが、なにやら順序が違っている……それが現状ではないかと危惧する次第です。

マア、あれですよね。

教室でセンセーが生徒さんに

「個性を伸ばしましょう!」
「は~い」

……って、全部の生徒さんが一斉に手を挙げるような状況だけは回避したいのですが、おそらくその場にいたら、宇治家参去はしらばっくれて、ふて寝しているのだろうと思いますが、このへんに何か本朝の大いなる誤解とか誤読が含まれているんだよな~などとしみじみと実感する深夜です。

さて……。
昼間におおよその学問の仕事を片づけたので、ワインをやりつつ、読書のひとときですが、戦後最大のフランスの文芸批評家と評されるモーリス・ブランショ(Maurice Blanchot,1907-2003)の『明かしえぬ共同体』(La communauté inavouable,1983)をワインを味わうように、言葉を口蓋で転がしつつ楽しんでおりますが、上述したところの最大の問題は、やはり「孤立」というところでしょうか。

論理学ではなく、倫理学をタツキにしているせいかもしれません。

要するに関係世界のなかで人間は存在しているのですが、その世界との関わりってやつをどこかで、みずからすぱっと遮断して、何か作業仮説の「アリガタイ」お題目というやつに人間は執着してしまう……そこに大いなる陥穽が存在するのでしょう。

ブランショ曰く「体験がそのようなもの(極端に向う)たりうるのは、それがコミュニケーション可能なものである限りにおいてなのだが、他方で、体験がコミュニケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質に措いて外部への開口であり他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションとを誘発する運動であるというそのことにかかっている--そしてこの二つは同時的なものでもある」というところでしょう。

レヴィナス(Emmanuel Lévinas,1906-1995)的に理解するならば……ちなみにレヴィナスとブランショはストラスブール大学で親交を結んでおりますが……聖性と暴力性は同時的なものというところでしょうか。

体験にせよ、個性にせよ……、
それが「単独者には起こりえないこと」である点、そして「個別者の個別性を打破し、個別者を他人の人へとさらし出す」ものである点、そして、「本質的に他人に向けてのものである」という特徴を深く把握する必要があるのでしょう。

つうことで、さきほどから味わいつつやっておりますワインが半分になってしまいましたが、まだ半分残っておりますので、飲み干すまで戦おうかと思います。

ちなみ本日の随伴者は、サドヤ((株)サドヤ製造、KOFU JAPON)の「Mon Cher Vin」。
高い銘品ではありませんが、フランス本土に自家農園をもつ日本のワインメーカーの一品です。安物の国産ワインは、甘くて締まりがないものが多いのですが、こちらは、さっぱりとしながらも飽きのこない味わいがなんともいえません。

人間の生き方もかくありたいと思うものです。

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明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) Book 明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫)

著者:モーリス ブランショ
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