ほかのすべての生物よりも傑出していると思い込んでいるこの人間をどのように理解すればよいのか途方にくれてしまうのである。
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ほかの動物とは違って、人間はたんに本能にしたがって行動するわけではない。あるいは理性的な世界市民として、あらかじめ含意された計画にしたがって、全体としてまとまって行動するわけでもない。だとすると、蜜蜂やビーバーの場合とは違って、人間については、ある計画によって定められた歴史のようなものはないと考えられる。
人間の営みを世界という大きな舞台で演じられたものとして眺めてみよう。すると、ときには賢明さがうかがえるところもあるが、最終的にはそのすべてが愚かしさ、子供っぽい虚栄心、そしてしばしば幼稚な悪意や破壊欲によって織りなされていることがわかり、思わず憤慨してしまうほどなのだ。そして最後には、ほかのすべての生物よりも傑出していると思い込んでいるこの人間をどのように理解すればよいのか途方にくれてしまうのである。
--カント(中山元訳)「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫、2006年。
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帰宅してから、カント(Immanuel Kant,1724-1804)を読んでいるのですが、やっぱりカントは偉大なだナと思わざるをえません。
カントの有名な論文の一つである「世界市民という視点からみた普遍史の理念」(Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht,1784)は、これまで『カント全集』にしか……たぶん、収録されていなかったと思うのですが、平易かつ精緻な訳文で手軽な文庫になったことに喜びと驚きを感じる宇治家参去ですが、まあ、これをひとつ読み返しながら、やっぱりカントは偉大だなと思います。
この論文が発表されてから、カントの有名な小著『永遠平和のために』(Zum ewigen Frieden. Ein philosophischer Entwurf,1795)が世に問われるわけですが、その助走は「世界市民~」論文から始まっているし、テーマと設定、提示されるモノ自体にまったくブレがないなアと、ひとつ驚く次第です。
カントの律儀なドイツ語と向かい合いつつそのことを実感します。
たしかに、「戦争はあるべきではない」し、「人を殺すのはよくない」わけですし、「うそをつくのはよくない」ことは承知ですし、このことはまさしくカントの定言命法によって定式化されていることで、詳論の余地もない事実です。
しかし、カントは「オモシロイ」って読者を思わせてしまうのでは、それにもかかわらず、例えば「戦争はあるべきではない」を論じるにあたっても、かならずその反対の局面の描写を丁寧にやるということです。
この場合テクストは、『永遠平和のために』だとか『人倫の形而上学』(Die Metaphysik der Sitten,1797)あたりをひもとけばそのことがくどいほどに理解できます。
両著において、カントは「事実」として、繰り返し戦争の「効用」について詳細にその詳細を語っております。
ただしかし、それでもなお……denn noch……といところでしょうか。
それを余剰する展開を示唆してしまう。
そこにカントの偉大さを感じてしまいます。
いうまでもありませんが、戦争よりも平和がいいわけで、敵対関係よりも友好関係がいいわけなのですが、人間にはその両方の側面が持ち合わせている事実を否定することができません。
しかしながら、その両者をそれぞれにプロする(=支持する)人間が思想に即して先鋭化すればするほど、本来もちあわせているはずの敵対的な側面がずぼっと抜け落ちてしまうことってよくあるじゃないですか。
そうなってしまうと、思想や観念が現実の人間を後に置いてしまうっていう悲劇になってしまうわけなんですよね。
歴史をひもとくまでもありませんが。
だからこそ、カントは、何を目指すにするとしても、全体を見落とそうとした、そしてできるだけ、封印したいような側面にキチンと目を向けた……、カントの言葉を読み返すたびにそのことが痛感されてしまいます。
たぶん、上述したような「プロする」運動ってぇやつは、片手落ちになっちゃうんです、過熱化すればするほど。
カントの全体を見ようする言説は、ひょっとするとそれに対する戦略的な示唆かもしれませんが、カントを読み直すたびに次の点だけは、その人格からも実感されます。
すなわち、俗っぽい言い方ですけど、「ひとりの人間のなかに、そしてそれが全体としての人間の中に、同居する沙汰名背反する方向性をまずきちんとふまえましょう、それからどうすっぺ」って図式です。
いやーア、今日も市井の仕事しながら、上司と一発、喧嘩をしましたが、「あいつはこうなんだゼ」とか「結局は時給あげれば、いんだゼ」みたいなステレオタイプの人格判断から、全てを見通したようなもの言い方というのでしょうか……。
宇治家参去の専門である神学、宗教学のコンテクストから表現すれば、
「あいつはムスリムだから○○」だとか「カトリックだから××」だとか「神道だから××」って一方的に判断して全てを見通して、最終的には「銭だろ」って話でまとめしまう思考形式に、
「はぁ、オタク、なんですか_?」
……ってなってしまゐ、カントをひもといた次第です。
たしかに、、、
「○○だから××」って側面があることを否定することはできません。
ただしかし、
「それで全て」
でもないわけなんですよね。
そして一番厭なのが、、、
「銭だろ」
……って訳で、確かに「銭は必要」なんですけど、そこに翠点を置きすぎても、
「はあ」
……ですワ。
※ちなみに予断ですが、本朝の「銭は必要」議論の問題は、有象無象の「稼ぎ方指南」はあっても「使い方指南」が存在しないことにそもそもの原因はあると思いますが、これは後日の宿題といたします。
……って、戻ります。
「マア、てめえ、マイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953-)に叱られるゼ」
……ってところでしょうか。
……って、戻ります。
「……って、戻ります」って用法が多いですネ。
まあ、呑みながら書いているのでご容赦のほどをってところですが、いろんな側面をふまえながら、何をつくっていくか、その創造の契機が欠如してしまう、そしていろんな意味で、多様な様態をスルーしてしまう、、、そこがなにか恐ろしいんです。
そのことを、ちょっとね……カントを教材に考えてみた次第です。
大学の教室的な言質でいけば、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」のキーワードは、まさしく「非社交的社交性 die ungesellige Geselligkeit」というやつであり、『永遠平和のために』、『人倫の形而上学』でいえば「「敵対関係(Antagonismus)」というやつです。
人間は協調しようとするし(=それが社会になる)、その一方であくまで自分に固執する。
その事実からなにすっぺ。
多様性を踏まえて、「なにすっぺ」がないかぎり、「協調関係」も「敵対関係」もそのままですし、自分固執する性癖もそのままになっちゃいます。
そのへんを……ねぇ、、、考えて動かないと……ネ。
つうことで、今日は金がないので、バランタインの安物のブレンドウィスキーでハイボール。伴奏者は、単なる「炭酸水」とか「ソーダ」では味気がないので、ペリエにしてみました。
ちょいと味わいが上品です。
久しぶりに真面目に学問した日記ですが、それでも……読み直しておりませんが……、まあ、呑んで書いておりますので、論旨に乱れあり……ってところかな?
ただ、……くどい!
ただ、ペリエのハイボール、なかなかいけますですワ。
ま、……ただ、くどい!
いずれにしてもカント大先生は、そうした把握を大切にしたこと、すなわち人間はどうしようもない存在であり、どうしようもなくもない存在であるという事実から出発しませんかと、声をかけてくれる偉大な先生なんだよなとは思います。
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