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第一の、そしてもっとも基本的な規準、それは、社会的諸事実を物のように考察することである

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 第一の、そしてもっとも基本的な規準、それは、社会的諸事実を物のように考察することである。

   一
 ひとつのあらたな種類の諸現象が科学の対象となってくるとき、ふつうそれらは感性的なイメージによってばかりではなく、大ざっぱながらすでに形成されているさまざまな種類の概念によって、精神のなかにあらかじめ表象されているものである。物理学や化学の最初の礎石がおかれるに先だって、人びとはすでに、種類の物理-化学的現象について純粋知覚を越えた諸観念をもっていた。たとえば、あらゆる宗教のなかに混在するかたちでみとめられる種々の観念がそれである。このことは、事実上、科学に先行して反省が生まれていて、科学はより方法的にその反省を行使していくにすぎないことを意味している。人間は、諸物からなる環境のなかにあって、それらについて種々の観念をつくりあげ、これをもってみずからの行為を律することにより、はじめて生きていくことができる。ところが、それらの観念は、これが対応づけられている実在よりも、われわれにより近しいものであり、より手のとどく範囲にある〔と思われる〕ため、われわれはおのずと、それらを実在に置き換え、思弁の対象とさえしがちである。諸物を観察し、記述し、比較する代わりに、この場合、みずからの観念を意識にのぼせ、それを分析したり、結合させたりすることで満足してしまうのだ。実在にかんする科学に代えて、もはや観念論的分析を行っているにすぎない。もちろん、この種の分析はかならずしもいっさいの観察を退けるわけではない。それらの観念、もしくはそこからみちびかれる諸帰結を裏づけるために、事実に訴えることも行われうる。けれども、その場合には、事実は、例証あるいは裏付けのための証拠として、たんに二義的なものとして介入してくるにとどまっており、科学の対象とはなっていない。およそこのような科学は、観念から物へとすすむのであって、物から観念へとすすみはしない。
    --デュルケム(宮島喬訳)『社会学的方法の規準』岩波文庫、1978年。

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社会学の方法論のマニフェストとも言えるデュルケム(Émile Durkheim,1858-1917)の『社会学的方法の規準』を今日は読んでおりましたが、いやはや今日も疲れた一日です。

デュルケムは、形而上学的なアプローチ、すなわち、アプリオリな観念や価値判断をしりぞけて、事実を「物のように考察」することを基本的な基準と説いたわけですが、その真骨頂とおもわれる一文がうえの引用部分にあたるのかと思います。

ただもちろんいうまでもなく、この価値判断を退けるという態度は、ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)のいう「価値自由」の問題とワンセットで考えない限り難しいものです。

自分が遂行する探究にも個々人の関心が深く関与していることは否定しがたく、その関心があるからこそ探究がスタートするわけですが、そのことに無自覚になってしまうと、知らず知らずのうちに恣意的な部分というものが等閑視され、恣意的なるものがあたかも公共・客観という看板をかかげて、エッヘンと歩いてしまうわけですので、探究者の自覚という部分は探究遂行にあたり決してわすれてはならないでしょう。

それでも、おそらく、「事実を物のように考察すること」は、社会「科学」としては、大切な公準であることだけは否定することはできません。

ただワタクシの場合、恣意的なところを炸裂させながら、公共性を目指して爆走する神学思想家ですので、「事実を物のように考察すること」がなかなかニガテなんです。

その一例をひとつ。

仕事中に細君からメール。
息子殿が欲しいと言っている食玩……なんじゃらかんじゃらで詳しい名前は失念……を帰宅時にふたつ買ってきて欲しい!

なんじゃらかんじゃらをふたつ買い求めましたが、まあ、これは、まさに自分にとっては「なんじゃらかんじゃら」なんですワ。

おそらく息子殿乃至は細君にしてみますと、これは「○○の××で、どえらい、△△」なのでしょうが、その消息がなかなか理解することができません。

そして一緒にかった季節限定エビスが2缶。

これは息子殿乃至は細君にしてみますと、これは「狂い水」、「お馬鹿の呑む水」という「なんじゃらかんじゃら」のひとつなのでしょうが、自分にとってみれば……

「おい、こりゃアな、この季節にしか飲めねえ、エビスだゼ。しかも白いヤツはもう終わる。茶色いヤツはこれからの一品だ。絶妙なコラボレーションに思えねえか」

……ってなるわけですが、

まあ、息子殿乃至細君、およびワタクシ宇治家参去にしてみましても、お互いに、「事実を物のように考察すること」はできていないことだけは確実です。

そのまま放置すると、ふたつの理念系の概念対立というアンチノミーの陥ってしまいますのでスルーすることはできませんが、それぞれがそれぞれの存在論的価値をお互いに見いだすことのできるようなすりあわせは必要でしょうねえ。

前者の「なんじゃらかんじゃら」が「ほう、これが○○レンジャーのアレですか!」

そして後者の「狂い水、お馬鹿の呑む水」が「ハア、通年呑むことができないレアーな一品ですな」

……ぐらいにはすりあわせていきたいものです。

社会学的アプローチのように、「事実を物のように考察すること」で公共性とか共通了解を目指す、すなわち「物から観念へと進む」ことは、当方ニガテなのですが、「観念から物へと進む」ことでも、恣意的にならずに、公共性とか共通了解に進む、ひとつの見本を、見事に提示してみたいものです。

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