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2010年7月

「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである」。

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  「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」みたいなことをときどき人に言われる。外国にいるときにはあまり言われないけど、日本ではそういう意見を持つ人がけっこうたくさんいるようだ。小説を書くという行為は、即ち不健康な行為であり、作家たるものは公序良俗から遠く離れたところで、できるだけ健全ならざるせいかつをくらなくてはならない。そうすることによって、作家は俗世と訣別し、芸術的価値を持つ純粋な何かにぴょり接近することができるのだ--といった通念のようなものが世間には根強く存在する。長い歳月をかけて、そういう芸術家=不健康(退廃的)という図式が作り上げられてきたらしい。映画やテレビ・ドラマには、よくこういうステレオタイプの--よく言えば神話的な--作家がよく登場する。
  小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。我々が小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ(妙なたとえで申しわけないが、河豚は毒のあるあたりがいちばん美味い、というのにちょっと似ているかもしれない)。それはどのように考えても「健康的」な作業とは言えないだろう。
  要するに芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。僕もそれを進んで認める。だからこそ作家(芸術家)の中には、実生活そのもののレベルから退廃的になり、あるいは反社会的な衣裳をまとう人々が少なくない。それも理解できる。というか、そのような姿勢を決して否定するものではない。
 しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期に渡って維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならない。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?
 誤解されると困るのだが、そういうやり方が作家にとって唯一の正しい道だと主張しているわけではない。文学にはいろんな種類の文学があるように、作家にもいろんな種類の作家がいる。(中略)しかし僕自身について言わせていただければ、、「基礎体力」の強化は、より大柄な創造に向かうためには欠くことのできないものごとのひとつだと考えているし、それはやるだけの価値のあることだ(少なくともやらないよりはやった方がづっといい)と信じている。そして、ずいぶん平凡な見解ではあるけれど、よく言われるように、やるだけの価値のあることには、熱心にやるだけの(ある場合にはやりすぎるだけの)価値がある。
 真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは、職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じづけてきたことだ。健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を指向するする人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。
    --村上春樹「もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても」、『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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酒に弱くなったなアと思う昨今です。
昨日は大学時代の先輩で美食家として知られるM氏(通称・鮨サムライ)と案内で吉祥寺でいっぺえならぬさんぺえやってきたのですが、記憶のかけらが酒の雫とともに置き忘れてきたようで・・・少し凹む昼下がり。

10年ぶりに再会したのは、まさにtwitterのおかげです。
下らぬ話で4時間近く呑んでいたのですが、いつも変わらぬ姿であの当時にままに向き合ってくれる大学時代に友人・先輩・後輩というのは本当にありがたいものです。

ただ酒には弱くなったアと思う昨今です。

村上春樹(1949-)さんは、走る作家として有名ですが、なぜ走る必要が個人的にあるのか探究するなかでひとつの言葉としてまとめたのが、上の文章ですが、作家に限らず、言葉という存在と格闘する人間というものは、まさに「真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない」のでしょう。

自分も少し鍛えなおして、また酒とマラソンをしたいものだ……そう思う月末です。

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さて……一軒目。
■ 吉祥寺南町『ぶ飲み酒場オーツキバル』右気軽にうまいワインが楽しめる店。
〒180-0003 東京都武蔵野市吉祥寺南町2-13-4 B1F
営業時間  17:00~翌3:00 ※水曜定休

「看板」にあるとおり「ワインをがぶがぶ飲みませんか」ということで、軽くプレミアムモルツの生を煽ってから、白を1本。赤を1本。

10名入れば一杯になるかと思われる小さなおみせですが、清掃の行き届いたすがすがしいお店、しかも出すものは本物。

メモってくればよかったのですが、写真の通り。
素材が活かされた珍味に舌鼓。

ワインを2本呑んでから、次のお店へ。

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■ たるたるホルモン
〒180-0004 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-33-9
営業時間  17:00~翌3:00 ※ほぼ無休

ひさしぶりに30度を超えなかった東京ですが、しかし蒸し暑い一日。
まずはとろとろハイボール。
こちらも隠れ家的なホルモン道場。タルイさんがやっているから「たるたる」というのにはフイタのですが、いやーいい仕事をしております。

新鮮なお肉をジュッと炙って暑気払い。
奄美の黒糖焼酎「加那」(西平酒造、鹿児島県)で締めてから次のお店へ。

※ここのみiPhone撮影でして画像がわるくすいません。

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■ BAR Surpass
〒180-0004 武蔵野市吉祥寺本町1-30-16 加藤ビルB1
営業時間  月曜~金曜 19:00-翌5:00
      土曜・日曜・祝日 15:00-翌5:00 不定休

すでにこのへんで記憶がないのですが、M先輩の響(12年)と白州(10年)をやったようです。

……という呑みツアー。

Mさんありがとうございました。
コレに懲りずに又よろしくお願いします。

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でも、学校を卒業する2ヶ月前、そんなものにはなれなって事を成績表が教えてくれた。だから、非常勤になった

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いいことなのか
それとも、わるいことなのか、わからない
でも、多くの人間がそうであるように
俺もまた、自分の生まれた国で育った

そして、ごく普通の中流家庭に、生まれつくことができた
だから、貴族の不幸も、貧乏人の苦労もしらない
別に、知りたいとも、思わない

子供のころは、水軍のパイロットになりたかった
ジェットに乗るには、水軍に入るしかないからだ
速く、高く、空を飛ぶことは、何よりもすばらしく美しい

でも、学校を卒業する2ヶ月前、そんなものにはなれなって事を
成績表が教えてくれた
だから、宇宙軍に入ったんだ
    --『王立宇宙軍 オネアミスの翼』東宝東和・BANDAI・GAINAX、1987年。

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http://www.youtube.com/watch?v=ZLid_y20X7c

ども宇治家参去です。
むしょーに『オネアミスの翼』を再聴したくなり、DVDなう。

アニメは殆ど見ませんが、衝撃的な作品だったと思います。

……ということで、叉焼を少し炙って、大根・水菜サラダ。
ちりめんじゃこにポン酢を少々でゆっくりしています。

金曜は休日☆

ゆっくりしたいけど……夜から恐怖のエンドレス飲みツアーの予定。
昼間は少し仕事と、細君へのご奉公をいたします。

でわ☆

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「人」という言葉は、状況に応じて様々の意味に解釈されるべきである

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 「人」という言葉は、状況に応じて様々の意味に解釈されるべきである。ある場合には、それは人間としての諸個人を意味するであろうし、他の場合には、国家、地方、会社、教会、チーム等々を意味することもあろう。人間としての諸個人の場合に一定の論理的優先順位が与えられているけれども、正義の諸原理は、これらすべての場合に適用される。
    --ロールズ(田中成明訳)「公正としての正義」、田中成明編訳『公正としての正義』木鐸社、1979年。

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いやー、今日も暑かったっす。
千葉県佐倉市詣で?最終日。
水曜日は、非常勤をやっている千葉の短大の「倫理学」の講座が最終講義+試験ということで、おもむいた次第ですが、

「息ができん」

……というほど熱風吹きすさぶ温度でしたが、無事最終講義終了。

たったひとりの受講生という超異例!
学則では4名以下不開講の決まりですが、カリキュラムの都合上マックス受講者2名。
最終的に1名の履修となりましたが、事務方から「教育者養成……その短大は教員・保育・幼稚園養成を主眼とおいております……には〝倫理〟は不可欠!」ということで、GOサイン。

都合15回の授業でしたが、一対一の家庭教師状態。

お互いに思想も信条も信念もまったく正反対の学生と教師でしたが、いやー、ある意味でオモシロカッタ。

いつも最後は、

「結局そうなんだよな」

……ってところへ落ち着き、

二人して、、、

「はなしてみないとわからない」

……などとミョーに納得したものです。

たいせつなのは、現実のただなかで「人間」を深めていくしかありませんね。

ま、いずれにしましても、イレギュラーの連続且つ、交通費が給料1/2+通勤往復5時間の仕事も一段落。次は9月の後半からです。

それまでまた新しい智恵を仕込んでおきたいと思います。

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Book 公正としての正義

著者:ジョン・ロールズ
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これからの「正義」の話をしよう

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  山岳地帯に潜伏する兵士や暴走する路面電車の目撃者とは異なり、ほとんどの人はそれほど重大な選択に直面することはない。しかし、こうしたジレンマについて考えることによって、個人生活や公的場面において、道徳に関する議論がどう進むのかがわかってくる。
  民主的な社会の暮らしのなかには、善と悪、正義と不正義をめぐる意見の対立が満ち満ちている。妊娠中絶の権利を認める人もいれば、中絶を殺人と考える人もいる。富裕層に課税して貧しい人びとを助けてこそ公正だという人もいれば、本人の努力で手に入れた金を税金で取り上げるのは不公正だという人もいる。大学入試における積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)を、過去の過ちを正す手段として擁護する人もいれば、実力で入学できる者への不公正な逆差別だとみなす人もいる。テロ容疑者の拷問を自由社会にふさわしくない道徳的醜態として認めない人もいれば、テロ攻撃を防ぐための苦肉の策だとして擁護する人もいる。
 選挙に勝ったり負けたりするのは、こうした意見の対立が反映されるからだ。いわゆる文化戦争とはこの対立をめぐって戦われる。社会生活において道徳的問題が論じられる際の熱意や激しさを考えると、われわれの道徳的信念はしつけや信仰によってしっかり植えつけられており、理屈を超えているのだと思いたくなるのかもしれない。
 だが、それが正しければ、道徳についての説明がうまくいくことなど考えられないし、われわれが正義や権利をめぐる公の議論とみなしているものは、独善的主張の応酬、イデオロギーの馬鹿げたぶつけ合いとなんら変わらないことになってしまう。
 最悪の場合には、われわれの政治はこうした状況に近づいていく。しかし、そうとばかりは限らない。ときには、議論を通じて人びとの考えが変わることもあるのだ。
 では、正義と不正義、平等と不平等、個人の権利と公共の利益が対立する領域で、進むべき道を見つけ出すにはどうすればいいのだろうか。
    --マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』早川書房、2010年。

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今の政治家たちは、政治哲学者・NHKの「ハーバード白熱教室」で有名なマイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953-)なんかの著作をきちんと読んだ上で、正義の問題やら具体的な政策を論じているのだろうか。

ふと頭を悩ます宇治家参去です。

合衆国の政治でオモシロイのは、どのような立場をとろうが、そして現実にはどのようなパワーゲームを遂行しようが、基本的に枠組みとしてはきっちりとした政治哲学に基づいて政党が動いているというところ。荒野の保安官を夢想した「子」ブッシュ(George Walker Bush,1946-)の不幸とはそうした政治哲学を欠いた点とスタッフに恵まれなかった点だろうと思いますが、いずれにしても理念と現実のすりあわせをきちんとやっていく。

ですから、学問の分野でも、倫理学、道徳学、政治哲学の分野でも、キチンと具体的な問題を参考にしながら学を遂行していく。こうした学と世界との相即的な関係はアメリカの哲学空間においては顕著にみられる現象ですが、そこがオモシロイところだと思います。

まあ、テレビを見ながら、辻本大センセも拙僧……もとい節操がないというか、信念も哲学もヘッタクレもないわな……と思いつつ、授業の準備のためにサンデルをひもとく宇治家参去です。

さて……。

今日の八王子は、、、

「まじ、ありえへん」

……という酷暑。

哲学の学期末試験がありましたので、出講した次第ですが、いやはや

「まじ、ありえへん」

……という糞暑さ。

昨年以上です。

そんなことをtweetしましたら、ジャーナリストの東さんが八王子が「糞暑い理由」を紹介してくれましたので、ひとつ。

「なにしろ八王子権現はインド祇園精舎の守護神・牛頭天王の8人の王子を祀るわけですから、八王子の夏はインド並みにもなりましょう」

……とのことだそうな。

これから夏の八王子を「東京のインド」って呼ぼうかと真剣に考えております。

しかし今日で八王子通勤も終わりで夏休みだ!

……と思いつつも、半月後にはスクーリング(倫理学担当)で、カンヅメだったことを思い出し、まぢでインド対策が必要であることを決意したわけですが・・・

……ということで、いずれにしましても「哲学」の受講者の皆様お疲れさまでした。

試験終了ということで、これにて「哲学」も講座としては修了しましたが、まあ、哲学の議論とは、荒唐無稽でアリエナイような議論を論じるわけですが、それはそれでもサンデルのいう通り「山岳地帯に潜伏する兵士や暴走する路面電車の目撃者とは異なり、ほとんどの人はそれほど重大な選択に直面することはない。しかし、こうしたジレンマについて考えることによって、個人生活や公的場面において、道徳に関する議論がどう進むのかがわかってくる」わけですから、その議論を通じて、世界を了解していく他ありません。

ともあれ、お疲れさまでした。

で……。
試験が済んでから、例の如く市井の職場へと行きましたが、帰宅時、大問題が発覚!

職場へ行く前に、自宅によって風呂に入ってから出社したのですが、着替えた際、自宅の鍵を忘れていたようで……。

いつものパターンです。

だいたい半年にいっぺんというのが相場だったのですが、最近、ふた月にいっぺんぐらいというペースに上昇中。

ふと、サンデルの議論が脳裏をかすめる次第です。

いわく……。

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 あなたは路面電車の運転士で、時速六〇マイル(約九六キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に路線上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。
 ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。
 どうすべきだろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ! 何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように見える。
    --サンデル、前掲書。

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運転士の苦悩ではありませんが、家の鍵がないのではいれない。
入るためには、細君を起こす必要がある。
しかし、起こすことは細君に過分の負担をかけてしまう。
では、自分が家にはいるのをがまんすべきなのだろうか。

……もうしわけないのですが、電話をかけてロックを解除して貰った次第です。

さて、あなたはどうする?

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二十何年か前、学生たちはたいてい眉間にしわを寄せていた。始終煙草を吸っていた。煙草をせかせかと吸いながら、都会育ちの女子学生のすっきりした後姿を見送り、そして欧州文明を憧れつつ憎んだ

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 六〇年代後半に東京に住みはじめてからは、数え切れないほどこの橋(引用者註……四谷見附の橋)を渡った。
 一九七〇(昭和四十五)年十一月下旬の晴れた夕方にも橋を渡り、地下鉄駅の売店に夕刊を買いに行った。買ったばかりの何種類もの新聞を橋の上でひろげていると、踊るような足取りで友がやってきた。
 友は私を見とめると、「どんなもんだ」と大きな声でいった。
 いぶかしむ私に、「三島はよくやった、天皇陛下は偉大だ」と、返事を待ちもせずに私の肩を力まかせに叩き、橋を渡って教会の方へ去って行った。
 二十何年か前、学生たちはたいてい眉間にしわを寄せていた。始終煙草を吸っていた。煙草をせかせかと吸いながら、都会育ちの女子学生のすっきりした後姿を見送り、そして欧州文明を憧れつつ憎んだ。
 今JR四谷駅はすっかり新しい。駅ビルという呼びかたさえ気後れするほど清潔で美しい建物のなかの店で一杯売りのビールを飲む青年たちは、みな明るく、みなハンサムである。彼らは欧州文明に憧れもせず抵抗もせず、すなわち欧化を苦にしない。モダンな風物は、長く身にまとった衣服のようになじんでいる。
 橋の上で出会った友は、その後間もなく故郷へ帰った。以来絶えて消息を聞かない。
    --関川夏央「四谷見附橋」、『昭和時代回想』集英社文庫、2002年。

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市井の職場での話で恐縮ですが、四月に部門マネジャーの移動があり、新しくY山さんという方が赴任なされました。

Y山って聞くと「ノック」!

……というわけで、コードネームは早速「ノック」になったわけです。
大事なのはコードネームですよ、愛称ではありません。

「ノック」の由来は、コメディアンにして元大阪府知事横山ノック(1932-2007)氏に由来するわけですが、そのコードネームを使用した際、

京都府出身24歳バイト君は、

「〝のっく〟って何スか?」

「およょょ」

……横山ノック氏を知らない世代といいますか、知らない人もいるんだな~。

驚いた次第です。

んー。

昭和は遠くなりにけり。

ただ、まあ、あれですよ。

昭和をノスタたるしてもそれはノスタルジジイの自噴にすぎません。

ですから、

「ほぉ、そんなもんなんだ」

……ってやっていきましょう。

ということで早めに寝る!

細君との二人きり生活で、いろいろうるさいわけよ。

人間に近い生活をすこし励行しようかと思います。

あづっ……。

忘れてはいけない例のやつ。

はい。また学生さんからお酒を頂戴してしまいました。

「大吟醸 夢おぼろ」(橋本酒造株式会社、石川県)。

日本海側の酒はやばいんです。

福井、石川、山形。
※新潟は私が宣伝しなくてもだれでもできますので。

慶事のときに頂こうかと思います。

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昭和時代回想 (集英社文庫) Book 昭和時代回想 (集英社文庫)

著者:関川 夏央
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兄は、真実の光のなか立ちあがれるのか、それとも、自分の信じないものに仕えた恨みを、自分とすべての人にぶつけ、憎しみのなかで滅びるのか

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 イワンの病気の正体がわかってきた。<<誇りたかい決心から生まれた苦しみなんだ、ああ、なんて深い良心の呵責だろう!>> 彼が信じようとしなかった神と真実が、いまなお屈服を望まない彼の心を征服しようとしていたのだ。<<そうだ>>--枕に横になっているアリョーシャの頭のなかを、何かがかすめた。
 <<そう、スメルジャコフが死んでしまったからには、もうだれもイワンの供述を信じない、それでも兄は出かけて行って証言する!>>アリョーシャは静かに微笑んだ。<<神が勝つんだ!>>ふと彼は思った。<<兄は、真実の光のなか立ちあがれるのか、それとも、自分の信じないものに仕えた恨みを、自分とすべての人にぶつけ、憎しみのなかで滅びるのか>>アリョーシャは苦しい思いでそうつぶやくと、ふたたびイワンのために祈りを唱えた。
    --ドストエフスキー(亀山郁夫訳)『カラマーゾフの兄弟4』光文社古典新訳文庫、2007年。

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なにがどうというわけではありませんが、すこし凹むところが多く、「人間とは何なんだ」と叫びたくなる宇治家参去です。

わたしひとりは地獄に行っていいと正直おもいますが、その分、世界の人はすこしだけ幸福であってほしい。

ほんとにそう思うんです。
その意味ではアリョーシャなんです。

しかし地獄に行かざるをえないという意味ではイワンなのでしょう。

人間の罪性をまじまじと見つめながら、行かないようにまた今日も生きていこうと思います。

ま、こんなことをくどくどと考えているからうだつがあがらないのは承知なのですが、本来思想的格闘戦を死ぬまで遂行するには、こうした内在的な理解が必要なはずだ!

……ということで息子殿が昨日、東京まで迎えに来てくださった義母の誘いにより田舎へ帰省。

今日から細君とふたりっきり。

あるいみで、ツライ。

まあ、これも人生。

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【覚え書】非社交的社交性

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◇非社交的な社交性
  自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作りだす原因となるのである。対立関係(アンタゴニスム)という言葉はここでは人間の非社交的な社交性という意味で理解していただきたい。これは、人間が一方では社会を構築しようとする傾向をもつが、他方では絶えず社会を分裂させようと、一貫して抵抗を示すということである。この素質が人間の性質に内在しているのは明らかである。人間には、集まって社会を形成しようとする傾向がそなわっている。それは社会を形成してこそ、自分が人間であることを、そして自然の素質が発展していくことを感じるからである。
  ところが人間には反対に、一人になろうとする傾向が、孤立しようとする傾向がある。人間には孤立して、すべてを自分の意のままに処分しようとする非社交的な傾向もあるのであり、そのためにいたるところで他者の抵抗に直面することを予期するようになる。自分のうちにも、他者に抵抗しようとする傾向があることを熟知しているからである。この抵抗こそが、人間にそなわるすべての力を覚醒させ、怠惰に陥ろうとする傾向を克服させ、名誉欲や支配欲や所有欲などにかられて、仲間のうちでひとかどの地位を獲得するようにさせるのである。人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである。
  人間が粗野な状態から文化へと進むための真の一歩が、ここに始まる。文化とはそもそも人間の社会的な価値を本質とするものだからだ。こうしてあらゆる才能が次第に伸ばされ、趣味が豊かになり、啓蒙がつづけられることによって、ある種の思考が鍛えられるようになる。この思考によって、当初はまだ自然の粗野な資質によって善悪の倫理的な判断をしていた人々が、時とともに明確な実践的[道徳的]な原則に基づいて判断するようになる。そして当初は情念に基づいた強制のもとで社会を形成していたとしても、やがては道徳に基づいた全体的な社会を構築するようになるのである。
  こうした非社交的な特質はたしかにあまり好ましいものではないし、利己心にかられて思い上がったふるまいをする人は、こうした特性のために抵抗に直面せざるをえないものである。しかしこうした非社交的な特性がなければ、人々はいつまでも牧歌的な牧羊生活をすごしていたことだろう。その仲間のうちで完全な協調と満足を相互の愛のうちに暮すことはできても、すべての才能はその萌芽のままに永遠に埋没してしまっただろう。人間は自分たちが飼う羊のように善良であるだろうが、自分たちには飼っている羊たちと同じくらいの価値しかないと考えるようになっただろう。そして創造という営みが、人間のために理性を行使する大きな空白部分を残しておいてくれたというのに、理性的な本性をもつ人間が、その満たすべき目的を実現することはなかっただろう。

◇悪の起源
  だから人間は自分に協調性が欠けていること、互いに妬み、争いを求める嫉妬心をそなえていること、決して満たされることのない所有欲に、ときには支配欲にかられていることを、自然に感謝すべきなのである。こうしたものがなければ、人間のうちに秘められたすべての傑出した自然の素質は、永遠に目覚めることなく、眠りつづけただろう。人間は協調を欲する。しかし人類に何が必要であるかをよく知っている自然は、人間に不和を与えることを選んだのである。人間はくつろいで楽しく暮らすことを欲している。しかし自然が人間に望んでいるのは、怠惰で、無為なままに満足して暮らす生活から抜け出して、労働と労苦の生活のうちに身を投じることであり、智恵を働かせて、この労働と労苦の生活から抜け出すための手段を見つけることである。そのために用意された自然の原動力は、非社交性と、いたるところでみられる抵抗の源泉である。ここから多くの悪が生まれる一方で、これがさまざまな力をあらたに刺激して、自然の素質がますます発展するようにしているのである。賢き創造主はこのように手配してくれたのであり、悪霊のようなものがいて、創造主のすばらしい配置をこっそりといじったわけでも、嫉妬のあまり破壊したわけでもないのである。
    --カント(中山元訳)「世界市民という視点からみた普遍史の理念」、『永遠平和のために/啓蒙とは何か』光文社古典新訳文庫、2006年。

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ちょい時間がないので覚え書でお茶濁しですいません。

カント(Immanuel Kant,1724-1804)は、「社会を構築しようとする傾向」(社交性)をもつと同時に「一人になろうとする傾向が、孤立しようとする傾向」(非社交性)をひとりの人間が同時に持っていると指摘しております。

そして、人間はこの矛盾する両面をもつがうえに、みずからの素質を発展させ、文化・文明を切り開いてきたと論じるわけですが、このカントの考察は示唆に富んでおります。

人間は本来、関係世界のなかにあり、その関係世界のなかにいきているがゆえにつねに両面の緊張を孕んでいる……それが現況なのでしょう。

そしてその緊張のなかで、還元不可能な個人がはぐくまれ、リアルな関係世界としての社会を形成発展させることが可能になる。

まあ、その辺りをわすれてはいけないのだと思い、ひとつ新訳を入力した次第です。

現実の世界では、そうした緊張関係はどちらかといえば放棄されている始末です。

「どうでもいいや」「関係ねえや」「ほっといてくれ」「ナニモカワラナイ」……というぼやきとその対極に位置する「国家に尽くせ」「共同体に生きろ」って恫喝のみ。

カントの言葉はそれを超克するひとつの可能性の提示かもしれません。

ということで、呑んで沈没します。

昨日あれだけ呑んで悲惨な一日だったにもかかわらず、このザマです。

まあこれが社交性と非社交性の緊張関係に「たたずむ」というところでしょうか。

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呑杉晋作。

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呑杉晋作。

激しく二日酔い。

orz。

歴史は繰り返す。

ジェームズ・ボンドは二度死ぬ。

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「だいがくのせんせいなれますように」

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 では、帰る、と言った太左衛門へ、捨蔵はその瓜を土産にくれた。
 「早く種を蒔いたのに遅くできた瓜だが、味はわるくない」
 「よいのか、人にくれても……」
 「汁にしてもよいし、漬物にしてもよい」
 「そうか、それはうまそうだな」
 捨蔵に見送られて野路を引き返すうちに日が沈んだらしく、暮色は濃い夕闇に変わろうとしていた。
 太左衛門は捨蔵の心遣いを感じながら、しばらくは板塀の続く道を歩いた。
 (負けたな……)
 と思ったが、言葉ほど悔しさはなく、むしろ心地よい気分だった。自分は上ばかり見て生きてきたが、捨蔵は自分というものを見つめて生きてきたらしい。そもそも人間の出来が違うし、あれは本当に負け惜しみではないだろうという気がした。それにしても迂闊だったのは、五十二歳にもなるいうのに今日まで人生の値打ちを一通りにしか考えなかったことで、人の幸福のありようも人それぞれに違うということであった。人から見上げられるまま偉そうにしていい気になっていたのだから、そんなことに気付かないのも当然であった。早い話が、もしも立場が逆であったら、自分にああいう態度がとれたかどうかは怪しいだろう。
    --乙川優三郎「九月の瓜」、『武家用心集』集英社文庫、2006年。

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権力闘争の過程で莫逆の友との錬磨を乗り越え、ある程度の地位を築いた主人公が、晩節にいたりその無為を悔いることってよくあるのですが、そもそも、錬磨を乗り越え、地位を築くこともできず、晩節にいたりその無為をこえるスタートラインに立つこともできない宇治家参去です。

「人生の値打ちは一通りにしか」考えられないことはないのですが、そうでもないわけでもあります。

ですから、もう少しがんばっていこうと思う昨今です。

週のアタマに、息子殿の終業式があり、たぶん学校で作ったと思われるよーな「作品」を沢山かかえて帰宅した次第ですが、そのひとつが「将来の夢」という短冊です。

「だいがくのせんせいなれますように」

……とのことだそうな!

幼稚園のときも同じような作品(3D)を作っておりましたが、

いや……、

非常勤講師しかやっていないので、自分自身としては現在の身に甘んずるわけにもいかず、もっぺん気合いを入れていこうかと思います。

難事がすんでこのところ少しだらけていたようですので。

細君曰く

「息子殿が先に〝センセー〟にならないように」

「大丈夫だぜ、おいらは〝センセー〟と呼ばせない」

……って禅問答を繰り広げても始まりませんから、息子殿に「先を越されない」ようにまた組み立てていこうかと思います。

つうことで飲んで寝ます。

連続講義がつづき、連続勤務が続き、さすがに疲れましたので。

すみません、お月様。

いやー、しかし、息子殿には負けておられません。

ですが、できうることならば、人文科学なんてものはやってはいけないよ。
せめて社会科学。できれば自然科学でやってください。

これが親の切なる願い。

……ただ、おそろしいー、息子殿の質問が最近多いんです。

「オーストラリアは何の宗教が多いの?」

とか

「日本では何の宗教ががんばっているの?」

……とか聞いてくる始末。

れくぐれも、神学・宗教学・仏教学……そのほかもろもろの学問はやらないほうが……「いいっスよ」

02 03

武家用心集 (集英社文庫) Book 武家用心集 (集英社文庫)

著者:乙川 優三郎
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でも年を取れば取るほど、話が長くなりますね。人生ってそういうものです。 「連投 酷暑 にがうり」

01 02

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  --どうぞ続けてください。
でも年を取れば取るほど、話が長くなりますね。人生ってそういうものです。
    --ガヤトリ・チャクラボルティ・スピヴァック(大池真知子訳)「家 聞き手 ショポン・チョクロボルティ」、『スピヴァク みずからを語る 家・サバルタン・知識人』岩波書店、2008年。

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早く寝ないとまずい訳ですが、なんとか千葉の短大での補講・通常講、そして市井の仕事の連チャンが終了!

……といっても起きてから今日も市井の職場ですがというわけではトホホですが、連日千葉県佐倉市までの往復5時間の通勤やって、それから24時過ぎまでガッツリ市井の職場を遂行できたのは、若さゆえか!

などと思いつつ、関東で現在は最高温度を更新中は熊谷市。
熊谷市が首位を獲得するまでは、一位をキープしていた千葉県佐倉市で二日間連投しましたが、いやー暑かった。

一昨日は光化学スモッグ警報もでる始末。
昨日は出ませんでしたが、東京が35度オーヴァーの一日でしたから、おそらくそのうえをいく猛暑。

なんとかしのぎつつ、その暑さを吹き飛ばす一対一の講義を完遂することができました!

おー、ぱちぱち。

来週、八王子の短大で試験をやって、翌日にこの酷暑地獄の千葉の短大で講義・試験をやれば終了です。

しかし……これは暑い夏の終わりではなく、始まりかもしれません。

もう1個の勤務先の大学の通信教育部での夏期スクーリングという、これまた灼熱地獄との戦い……の出講依頼が帰宅すると到着しておりまして、まあ、嬉しい悲鳴……喰いっぱぐれていないという意味で……というやつです。

今日はさすがに疲れており、日焼けも甚だしく、お陰で勢いでamazonで男性用の日傘を注文してしまう始末で、饒舌にはなれません。

まあ、なにしろ、スピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)が「年を取れば取るほど、話が長くなりますね。人生ってそういうものです」というわけですから、年が若い?宇治家参去の話は短い!っていことで……。

沈没します。

……つうまえに、⇒ってフリをするので、実は若くない「年を取れば取るほど」ってやつかもしれませんが、ひとつだけ。

春にベランダのプランターににがうり(ゴーヤ)の苗を植えたのですが、この好天のお陰でしょうが、ひとつ実を結んでおりました!

まだまだ豆粒サイズですが、この酷暑のお陰で育ちそうですね。

いやー、成長が楽しみです。

⇒って自分も言われたいものでござんす。

と、もうひとつ。

くどい。

それは措いてください。

7月に入ってから、スピヴァク女史の著作を再読しておりますが、まあ、やっぱりスゴイね、このひと。

詳論は後日ですが、いやー、火照った頭に冷や水をかけられましたワ。

フツーに生きることに誇りをもって、ブレない生き方を探究するその姿。
そこに哲学とか倫理学っていうものは存在するのかも知れません。

ということで、沈没します。

明日も……もとい正確には今日は……早いので。

03

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著者:ガヤトリ スピヴァク
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フツーのなかで立ち上がる

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河合  それはおもしろいですね。ぼくは教育の世界の人によく言うんですが、このごろの学校教育というのは、個人を大切にしようとか個性を伸ばそうとか、教室によく大書してあるんですね。ぼくが「こんなこと、アメリカではどこにも書いていない」って言いますと、みんなびっくりするんですわ。
  アメリカでは個性は大事なんじゃないですかと言われますが、いや、そういうのはあたりまえな話だからわざわざ書く必要はないんだ、と答えるんです。
  日本では「個性を大事にしましょう」と校長先生が言ったら、みんなで「ハァー」というわけで、「みんなでいっしょに個性を伸ばそう」ということになって、知らない間にみんな一体になってしまうんですね。それほど、日本では個性ということがわかりにくいんですね。
  このあいだおもしろい経験をしました。日本の学校はもっと国際的にならなければいけないと、教育の国際化にとりくんでいる学校の紹介があった。その紹介の文章の中に道徳教育のことがあって、そこには「『すみません』と言うことが大事だ」、と書いてあるのですね。それを先生も教えている。その時に、自分が悪いことをしないかぎり「すみません」と言わない文化があるということは全然教えない。そして人間関係がスムーズにするためには「すみません」という言葉が非常に大事だと、道徳の時間に教えているのですよ。
    --河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫、平成十一年。

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正直なところ読む必要のある古典は殆ど読んでしまっているのがひとつの自負になりますが、それでも古典というものは再読の必要性というものが不可欠です。

ですから、何度も紐解いてしまうというわけで、ドストエフスキー(Fyodor Mikhaylovich Dostoyevsky,1821-1881)は年頭から春先にかけて、春先からはゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)を少々読み直しておりましたが、先月から集中的に読み直しているのが村上春樹さん(1949-)の作品に耽溺している昨今です。

言い尽くされた方向性の示唆ですが、初期のデタッチメントからコミットメントへのスタンツの転換、そのひとつの翠点になっていくのが、阪神・淡路大震災、そして地下鉄サリン事件の起きた1995年なのでしょう。

村上さん自身もそのことを否定しておりません。

その渦中で実現し、お互いに率直な意見や時代感覚を吐露したのが、うえに引用した心理学者・河合隼雄さん(1928-2007)との対談になるのかと思います。

その年に読んでからそのままで、文庫は買うだけ買ってツン読しておりましたので、久しぶりにひもといた次第ですが、考えさせられることがすこぶる多い一冊であったと思います。

ある程度村上文学を読み、河合さんの著作を紐解いてから読む方がストンときますが、それでなくとも初学者に対しては敷居は低く編集されておりますので、興味深い一冊ではないかと思います。

ま、読み返しつつ、考えたポイントだけ少し列挙しておきます。

①全体に同化することで責任を放擲する「自由からの逃走」の問題
②個性を形成するのを学校教育に限定する問題
③個性を形成することを、奇を衒うこととはき違えた民間の受容の問題

……etc

挙げれば挙げるほどきりがありません。

そんなことを考えつつ、朝っぱら、千葉の短大で本日は2回目の補講。
2回とも大学行事で授業がすっ飛んだわけですがその埋め合わせです。

猛暑のなか、日焼けをしつつ……っていって屋外で農作業やっていたわけではありませんが……、なんとか授業を済ませて、そのまま市井の職場といういつものパターン。

本日も同じパターンです。

ただ、つらつら思うに、個性とは、上述したとおり、何かできあがった「個性」像というのがそれぞれあって、それを形成していくという目的論のようなものではなく、生活をどっぷりと経験するなかで、否応なしに形作られている顔のようなものなのではないか……。そしてそれが指示代名詞とか抽象的な概念に還元不可能なわけであって、そしてその自分と同じように、他者もそれがある……そのことをキチンと踏まえる必要がある……ただそれだけではないのか、そう思われてもしまいます。

どこかに「ひとと違う」「作業仮説」としての「個性」なるものを「ありがたく」やってしまうものですから、現在の生活や人格は全否定されてしまい、奇を衒ってしまったり、全体の獲得目標と設定されてしまうから、みんなで「ハァー」て手をあげてしまうのでしょう。

そうぢゃないんだが……。

つうことで、今日も呑んで寝る。

これがワタクシの個性。

02 03

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著者:河合 隼雄,村上 春樹
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すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。

01 02

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 すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえにさえ愛好されるものだからである。しかし、ことにそのうちで最も愛好されるのは、眼によるそれ〔視覚〕である。けだし我々は、ただたんに行為しようとしてだけでなく全くなにごとを行為しようとしない場合にも、見ることを、言わば他のすべての感覚にまさって選び好むものである。その理由は、この見ることが、他のいずれの感覚よりも最もよく我々に物事を認知させ、その種々の差別相を明らかにしてくれるからである。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 上』岩波文庫、1959年。

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月曜日は急遽休みになりましたので、家族と多摩六都科学館へ行って来ました。

息子殿には、人文科学よりも自然科学に馴染んで欲しいというのと、たまたま無料券があったというわけで、往復の道中だけで日焼けしてしまうというような猛暑のなか行って来たわけですが、ちょうど、「ロクト大昆虫展」なんかもやっておりましたので、虫を始め動物に興味のある息子殿にはちょうど良かったのではないかと思います。

アトラスオオカブトムシなんぞと触れ合う?催しのようなものもあったりしましたので、実際に見て、さわるというのは貴重な機会だったのではないかと思います。

ちなみに売店でも販売しておりましたが、クジをやったところ3等が当選。これがアトラスオオカブトムシ(雄)1匹というもので、我が家へと迎え居られた次第です。ただ日本のカブトムシもすでに4匹ばかりおりまして……、ケージがまた増えるという始末です。
※いったい、誰が世話をするのかというアポリアです。

さて……。
ここのウリは、プラネタリウムなのですが、それは「怖い!」ということでキャンセルしてから帰路についたわけですが、回転鮨ですが名高い!銚子丸がありましたのでちょいと寄るか!

……と思いきや、帰路にある別の回転鮨……すなわち「かっぱ寿司」の方がいい!

……とのことで、「かっぱ寿司」に逗留。
CMなんかで「かっぱ、かっぱ~」ってよく流れておりますので、一度は行ってみたかったのだと思います。

銚子丸を横目でみながら、「かっぱ寿司」というわけです。

今日は一日何も用事がない祝日でしたので、昼から「プレミアムモルツ」でかる~く、一杯!

すでに猛暑にやられておりましたので、さっぱりと涼を取らせて戴きました。

03

帰宅してから仮眠。

夕刻もそもそと起き出してから、紀伊國屋書店に注文していた本をサルベージするついでに再び家人と外出です。

国分寺の駅ビルに入っている「炙りゃんせ」という干物やでかるーくいっぺえやるかと思っていたのですが、こちらもおこちゃまの食べるメニューが殆どありませんので、あえなく却下。

しょうがなく「月の宴」にて晩餐です。

最近、家ではあまり日本酒をやらないのですが、これまたひさーしぶりに「上善水如」(純米吟醸)を頂きましたが、いやーさっぱりしていて夏にはベストですね。

まあ、一日中呑んだ休日ですが、家人にも楽しんでもらえたようなのでよしとしましょう!

今日からまた激闘?の開始!

04 05 06

形而上学〈上〉 (岩波文庫) Book 形而上学〈上〉 (岩波文庫)

著者:アリストテレス
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三日坊主で終わらなかったtwitter

01

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 ツイッターといえば、自分のつぶやきを不特定多数にながすのが普通だが、池田さんは全く逆の発想をした。「自分しか見られないアカウントを作成し、そこに自分が何時何分に何を行ったかを克明に書き込む」(池田さん)。
 その一例が左のタイムラインだ。書き方は極めてシンプル。「○時○分、何をした」。これを数日間続けると、自分の行動の中で無駄なところが見えてきて、今後の改善につなげられる。「携帯電話のメールでもできなくはないが、起動が遅いし、時間経過も追いにくいので難しい。iPhoneだと起動が早く、入力もサクサクできる」(池田さん)。
 もちろん手帳などアナログツールに行動を記録する手もあるが、分単位で記録でき、時間順に管理してくれるiPhoneとツイッターの組み合わせは、新時代の行動管理ツールと言えるだろう。
    --「逆転の発想でツイッターを活用、自分の行動を記録」、『日経ビジネス Associé』日経BP社、2010年7月20日号。

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三日坊主で終わると思ったtwitterですが、3月に登録後、ためしにと思い、「つぶやき」はじめますと、みょーに続いており、驚く宇治家参去です。

twitterと親和性の高いiPhoneに機種変更したのが環境としてデカイのですが、自分が何かを発信するというだけでなく、ひととのつながりがあったりして驚いております。

大学時代の先輩とか、昔おせわになった方とか。

はたまたTL上だけのおつきあいですが、みょーに意気投合する方との出会いとか。

まあ、正直、オモシロイ!

そういうところでしょうか。

さてそうした一般的な利用以外に関して、別の側面からの利用方法を紹介していたのが、上述した『日経ビジネス Associé』の記事になるのかなと思います。

要するに自分にしか見ることができないアカウントを作成し、まずはそれで自分の行動を記録する。その足跡を検討することでライフスタイルを見直すという手法ですが、まあ、いわれてみると確かにな……と思い当たること屡々。

これは三日坊主になりそうですがすこしやってみようかなと思う次第です。

また自分のtweetをブログの用に過去ログ化してくれるサイトがありましたので、早速登録してみた次第です。

http://twilog.org/ujikenorio

以下のURLから宇治家参去の「つぶやき」の一覧をみることができますが、いやー深夜は呑みながらひっくり返っていることがよくわかります。

まあ、その意味では、自己のライフスタイルを見直す専用アカウントは不要かもしれません(苦笑)。

さて、今日は仕事の予定でしたが、急遽休日に(要するに別の日と振替)。

お陰で久しぶりに休日です。

ですから、深夜にもかかわらず、餃子を焼き、ぱくぱくとやっている次第です。

起きてから、家人との用事がありますので、今日はサクッと呑んで早めに沈没しようかと思います。

でわ!

02 03

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けれども、国家は、それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家との対立において形成される。

01 02

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 国家とは、あるいは「幻想的共同体」「共同性の幻想的形態」(マルクス/エンゲルス)であり、あるいは端的に「共同幻想」(吉本隆明)であるかもしれない。けれども、国家は、それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家との対立において形成される。国家という共同性の単位がみずからに幻想を要求するにいたるのは、そのあとのことにすぎない。--国家は、可能性において戦争への準備を内在させている。国家とは可能性における戦争への投企である。
    --熊野純彦『和辻哲郎--文人哲学者の軌跡』岩波新書、2009年。

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詳細は措きますが(※)、市井の職場で仕事をしていて、クレームではありませんが、見識を伺うような意見に遭遇し、頭をかかえつつ、たしかに「人間」という存在は、その存在に即して存在しているという意味では代換え不可能な「唯我独尊」として表象することは可能なのでしょうが、現実にはそれだけでもない……そんなことをつらつらと考えさせられた宇治家参去です。
※詳細はおきますが……というわけですが詳細?は、家人のクレジットカードで決済しようとしたお客様へ「できません」ってキチンと説明責任はしたのですが、「他の店ではできたじょー」って謂われ、「いや、だから、ここは他の店ではなく、ここの店ですから~」って寸法。

たしかに、その人の存在はその人に即しているという意味では「唯我独尊」なのでしょうが、大多数のひとのなかで生きているという意味では「『あいだ』になりたち」しているということを失念してしまうとどえらいことになってしまう。

その辺をきちんと踏まえないと、失礼な表現かもしれませんが、恥ずかしい「裸の王様」になってしまうということを忘れてはならないのだろうと思います。

これはナショナリズムの問題に関しても同じかもしれません。代換え不可能な当の国家にその存在が即しているという意味では確かに代換え不可能な「唯我独尊」であることは否定できませんが、その「唯我独尊」というものは、まさに「それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家との対立において形成される」という意味で相対的な価値しかもっていない……。

その辺をはき違えてしまうと、「他の店ではできたじょー」式なジレンマ……たとえば、他の国も植民地主義やってきたのに、オレだけ文句いわれる筋合いはない。ましてや他の国よりもキチンとやりましたよっ……って言い方になっちまうというわけではないかと思います。

正直議論が目くそ鼻くそなんです。

よりその存在に即した美しさを演出するのであれば、「あいつよりマシ」っていうような議論は忌諱すべきなんです。

その辺がマア、誤解の総体というところでしょうか。

さて……。

市井の職場で久しぶりに夕刻、息抜きに屋上へ出てみると、これまた見事な富士山です。

10月~3月は東京からも澄んだ空気のお陰で富士山がよく遠望できます。

7月に、その勇姿を拝見させて戴いたのは初めてです。

いやー。

なかなかいいもんです。

まさに「富士の高嶺を知らざるか」ってところですが、富士山の美しさも、確かに、その代換え不可能なその富士山という存在に即した美しさではあるわけですが、それは同時に他の山々との対比のうえでの美しさでもあるという、この二重契機をすっとばしてしまうと不幸になってしまう。

つまり、美が醜へと転換してしまう。

このへんのことをキチンと踏まえないと、不毛な議論ばかりとなってしまいます。

つうことで、呑んで寝る。

03

和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書) Book 和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)

著者:熊野 純彦
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「それが私になんのかかわりがあるのか」とやらないこと

01 02 03

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 更にまた第四の人は、自分が仕合せなところから、ほかの人達が多大な困難と戦わねばならぬ様子を見ても(彼はこの人達を助けることができるのに、)こう考えるだけである、--「それが私になんのかかわりがあるのか。何びとにせよ、或いは天意のままに、或いは自力によっていかに幸福であろうとも、私は彼から一物をも取りあげはしない、それどころか羨みもしないだろう。ただ私としては、彼を安泰にするために、或いはまた彼が困窮した際の援助のために、力を致す気持ちはない!」。このような考え方が普遍的法則になったところで、人類はかくべつなんの差し障りもなく生活していくことができるだろう。それどころか誰も彼も口を開けばやれ同情の、やれ好意のと喋々し、またこのような結構なことを口にするだけでなく、時には精出して実行してみたところで、--或いはまたそれとはあべこべに、機会さえあれば人を欺き、人間の権利を売り渡し、或いはそうしないまでもこの権利を侵害したところで、人類はもっと立派に存続していけるだろう。だがたとえ彼がかかる格律に従ったところで、普遍的自然法則はなんら支障なく存立し得るであろうということは、確かに可能であるにせよ、しかしこのような原理が自然法則として一般に妥当することを欲することは、とうてい不可能である、なぜなら彼にも、他人の愛や同情を必要とする場合が、--また彼の意志にもとづいて成立したこのような自然法則によって、彼の希望している援助がすべて当て外れになるような場合が、しばしば生じるからである。
カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学原論』岩波文庫、1976年。

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ようやく「哲学」の最終講義を金曜日に終えました。
受講された皆さん、お疲れさまでした。

今回は、最終的にはシラバス通り進行することができませんでしたが、逆に細かいところには手を入れることができたのはひとつの収穫です。

最後のリアクションペーパーを読んでおりますと、だいたい2-3件は「結局、哲学とは何かよく分からなかった」というのがあるのですが、今回は皆無でした。

こんなのは初めてです。

いずれにしましてもありがとうございました。

いずれにしても学問をやるうえで大切なのは、何事に関しても「そんなことは関係ねえ」と分断してしまわないことかと思います。

「そんなことは関係ねえ」ってやっていきますと、最終的には自分自身の事柄に関しても「そんなことは関係ねえ」ってなってしまうのだと思います。

だからこそ世界や人間に対して「そんなことは関係ねえ」って放擲してしまわない態度が大切なのだと思います。

いずれにしてもありがとうございました。

さて……。
18時過ぎに講義を終えてから、ひさしぶりに「月の雫」で小休止。
来月、何度かお世話になりそうなので下見というところです。

asahiの熟撰と香味茄子味噌田楽で暑気払い。

つくね、エイヒレの炙り焼きでカント(Immanuel Kant,1724-1804)を精読という訳ですが、独り酒に長っ尻は無用ということで、サクッと帰宅した次第です。

酒は生もと純米大七でやりましたが、いい仕事をしております。
帰宅後、飲み足りなかったので安物シャルドネを1本明けましたが、お陰で今日はげふげふです。

ま、いずれにしましても、カントのいう通り「人類普遍の法則」に従うように、修正しながら今日もがんばっていこうかと思います。

03a 04 05

道徳形而上学原論 (岩波文庫) Book 道徳形而上学原論 (岩波文庫)

著者:カント
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28時の刺身でいっぺえ

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  戸坂は『日本イデオロギー論』の「日本倫理学と人間学」と題された一章で、和辻の方法を問題とし、次のように書いた。「「倫理」も「人間」も「存在」も皆日本語としての夫であって、従って之によって解釈される倫理そのもの・人間そのもの・存在そのもの・は、単に日本語に於ける夫等であるだけでなく、正に日本のを基準にした夫等のものでなければならなくなる」。だから、「「倫理」という国語によってしか表せないものを更に又「倫理」という国語の文義的解釈によって解釈するなら、倫理という日本語ばかりでなく、倫理そのものの日本性を、同義反復的に結論するのが、ノルマルなロジックになるだろう」。
  ここには一見したところひどく素朴にみえて、そうとうに本質的な批判が含まれている。日本語によって思考された倫理それ自体が、日本の倫理性へと回帰するという問題がそれである。柳田國男にあっては「一国民俗学」(子安宣邦)の成立が問われるように、和辻をめぐっては一国倫理学の形成が問題とされることにもなろう。
  この国の日常語には、さまざまに有意味な直観が折りかさなっているはずである。それは、すべての他の言語の場合と同様である。哲学することが、ギリシア以来の普遍的な思考に参与することなら、日本語で哲学することは日本語の固有性をむしろ抹殺する。日本語による哲学のこころみ自体に過剰な重量をかけることは、かえってドイツ語によるギリシア的思考の『反復』という、ヘーゲル的/ハイデガー的な志向を「模倣」することになるだろう。港道隆が周到に腑分けしてみせたそうしたことの消息に対して、和辻はどのていど自覚的であっただろうか。
    --熊野純彦『和辻哲郎 ーー文人哲学者の軌跡』岩波新書、2009年。

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哲学なんかは基本的にはマルチランゲージでやらないと話にならないのは承知なんですけど、変様としてマルチであったとしてもどこまでも出自はつきまとってしまうというのが人情です。

しかしその出自を忘れてしまうと大変になってしまいますし、出自をはなれた客観性とか公共性も存在できませんから脱却も不可能というところ。

要するに、ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)の価値自由ではありませんが、どこまで自覚できるか、そこが大切です。

つうことで、さきほど、本日の授業の仕込みが終了。

これから、少し、刺身を食べながら飲んで沈没です。

いやー、日本広しといえども、この時間に酒を飲んで、刺身を食う哲学研究者はいねえだろうと思いつつ、そう思うこと自体が思い上がりだよな……と思いつつ無限の自己言及をしている宇治家参去でした。

つうことで、お休みなさい。

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和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書) Book 和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書)

著者:熊野 純彦
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一対一で対話するようなジャズが好きでした。それは今も同じです。

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 大学が紛争状態(引用者注、インタビューされている柳井正氏は1967年の大学入学になりますので、先の大学紛争のこと)でしたから、下宿で麻雀ばかりやってました。それからジャズです。大学時代にはひたすらジャズを聴いていた。ジャズ喫茶はほとんど行かず、ひとりで下宿で聴くのが好きでしたね。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン。ビル・エヴァンズ、それからボーカルも好きでした。エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、クリス・コナー、フランク・シナトラ、ナット・キング・コール、メル・トメーメ、リー・ワイリー……歌がうまい人の音楽がとにかく好きでした。
 仕送りのかなりの部分をレコードにつぎ込んでました。飯も食わずに節約してレコードを買うこともあった。月に十枚ぐらいは買っていましたね。もうロックは聴かなくなっていて、ロックを聴くヤツをバカにしてた(笑)。ロックは不特定多数に叫ぶ感じがなんだかうるさい気がした。一対一で対話するようなジャズが好きでした。それは今も同じです。
 大学紛争にはまったく興味がなかった。学生運動をやってる連中の言うセリフが全部一律なんです。台本があるみたいに。頭が硬直化しているとしか思えなかった。世の中の現象は変化するものだし、触れ幅もある。単純化してしまったら見えなくなることのほうが多いでしょう。それを決まり文句で片づけようとするんだから、どだい無理なんですよ。
    --「柳井正氏に聞く」、『季刊誌 考える人』新潮社、2010年夏号。

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だいぶまえに『考える人』(季刊誌)を買い求めたのですが、なかなか読めない宇治家参去です。ちょうど村上春樹(1949-)さんの長文のインタビューが掲載されていたので手にした次第ですが、それよりも表紙あけてすぐと、裏表紙ととじてすぐの位置に、ユニクロの代表取締役会長兼社長の柳井正(1949-)氏に「聞く」が載っておりましたので、思いもよらずそちらを精読した次第です。

ちなみに、春樹さんと柳井氏、同じく早稲大学で学年は1年違い。ただ生年は同じですしので、同世代というわけですから、まあ、読み手としては編集者に一本やられたナ……、正直そう思ったわけですが、千葉の短大ので昨日の授業では上記の「柳井正氏に聞く」をひとつの教材としてつかったわけですが、まあ、なんとかうまく成功しました。

わたし自身、倫理学を講じる中で大切にしているのが、みっつあります。

ひとつが、異なるものを尊重すること。

そして、自分の言葉で語ること。

そして最後が、「話してみないとわからない」。

今日は、うえの文章や、スピヴァク(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)女史の『サバルタンは語ることができるのか』(みすず書房,1998年)なんかを教材に、そのことを白熱教室したわけですが、授業が一対一といこともあるのかもしれませんが、おたがいに……

結局の所、、、

「そうなんだよなア~」

、、、とがっちりと学生さんと握手をするような授業ができたのが幸いです。

その対極にあるのが、まあ、いわずもがななんですが、「頭が硬直化」しているような「セリフが全部一律」というのがそれですしねえ、柳井さんも述懐するとおり、まあ、あんまりいい印象は残さないわけですよ。

ですから、相手と自分がいるということは、まさに倫理の「倫」が「二人」を意味するように、必ずしも同じ見解にならないとしても「二人」で「いなければならない」のが世の常ですから、ぶん殴りあいをするよりも、話し合うなかでお互いの差違を尊重するしかないんです。

ちがうのはアタリマエなんです。

ですけど「違う」ことに「恐怖」するのもアタリマエなんです。

しかし、それを「恐怖」ですませてしまうと、まあ、ろくなことがない。

であるとすれば違うオプションするしかないんですよね。

だからこそ「台本があるみたいに」「それを決まり文句で片づけよう」としてしまうと、だいたいの場合、よき結末は迎えません。

ですから、たどたどしくてもいいんですが、自分の言葉に転換する努力と労力を惜しまない……これは大切だと思います。

そして、それを媒介するのが、やはり、どうしても「話してみないとわからない」というチャンネルです。

話もしないで、憶測や偏見で「決めつけてしまった」きたのが人間の歴史の不幸です。

話した結果、たとえ、相反する路を歩もうとしても、やはり「手続き」としては「話をしない」とわからない。

この部分を大切にしていきたいと思います。

一対一の授業ですから、まあ、なんでもありで、まさに徹底的に討議しながら授業をさせてもらっていることはある意味では幸せかもしれません。

類型論的な図式で見取り図を描けば、一対一の授業を一緒に走り続けてくれている学生さんはある意味では自分の対極にある発想をもった持ち主です。

しかし、べつに、そんな発想はどうでもいいんです。

おたがいに異なる発想をもった存在を、お互いが許容していく……この許容とはスルーの黙認とは違いますヨ、クドイですが、差違の尊重!……それをお互いに学んでいる、ある意味ではひとつの実験をさせていてくれているようで、ホント、4月からの非常勤講師の採用でしたが、担当大学には感謝です。

ということで、いずれにせよ、講義してから市井の仕事で疲れ果てました。

ロックもたいがい聴きますよ。

ですけど、やっぱりJAZZが好きなんです。

まさに柳井さんの指摘するとおり、「ロックは不特定多数に叫ぶ感じがなんだかうるさい気がした。一対一で対話するようなジャズが好き」っていうところです。

昼も一対一でしたが、深夜も一対一でジャズと向かい合う。

その実験的な思索のなかで、また新しい発見があるというものです。

というわけで、いやーしかしながら、柳井さんのリストアップ、日が昇るまでレコードを回しそうなセレクトではないではないですか。

ばやいのを。

また寝不足ぢゃ。

いやー、しかし今日の物井@千葉県佐倉市は暑かった。

たった一人ですが、その受講生によると、東日本の最高気温を計上するのは現在は埼玉県の熊谷市が常ですが、その記録を破るまでは、千葉県佐倉市だったとのこと。

東京で言えば、八王子市のようなものでしょうか。

ここもたいがい熱中症をトリガーさせる危険な地域です。

そこから逸脱したいのですが、どちらからも逸脱させてくれない……という意味では、こんどは人間と大地の関係をめぐってひとつ「風土」@和辻哲郎を論じる必要があるんだゼ……っつことかしら???

いや、そんな想念は無用。

とっとと飲んで寝よう。

今日も軽い熱中症。

03

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「そんなわけで我々は、プランBというものが必要になってくる」

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 しかし現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない。我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である。「いつも」とまでは言わないけれど、経験的に言って、それが薄暗い報告である場合の方が、そうではない場合よりもはるかに多い。配達人は帽子にちょっと手をやり、なんだか申しわけなさそうな顔をしているが、彼が手渡してくれる報告の内容が、それで少しでも改善されることはない。しかしそれは配達人のせいではないのだ。配達人を責めるわけにはいかない。彼の襟首をつかんで揺さぶるわけにはいかない。気の毒な配達人は、ただ上から与えられた仕事を律儀にこなしているだけなのだ。彼にその仕事を与えているのは、そう、おなじみのリアリティーである。
 そんなわけで我々は、プランBというものが必要になってくる。
    --村上春樹「死ぬまで18歳」、『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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火曜は短大での14回目の哲学の講義。
残すところ後1回。

本日は、「人間主義」の問題に関して概要のみですが、学生さんたちと闊達に言葉を交わすことができたのではないかと思います。

人間主義とはこれまで何度も言及している通り、人間を壊すものでもあれば、人間を活かすものでもあり、環境をぶちこわすものでもあれば、環境と共生させる視座を内包した発想でもあります。

その微妙なバランスを固定化させない一瞬に、人間主義が光り輝くわけですが、まあ、このへんが実際の生活の中ではむずかしいところ。

結局のところ、われわれはどこかに重点をおいて生活をおくってしまいますので、自分が掘った落とし穴に、知らず知らず落ち込んでしまうということでしょうか。

ただしここでいうバランスとは、いずこにも重点を置かないという意味での作業仮説としての客観主義というものではなく、どちらかといえば、泥水のみながらも、そして清水のみながらも、偏らないという意味でのリアリズムというところでしょうか。どこにも重点を置かないということは、基本的には「アリエナイ」事態です。ですから状況としては重点移動しながら、平均台から落ちないように配慮するという中庸というところでしょう。中庸とは確かに極端を避けるということですが、右でもない・左でもない、単純な真ん中というわけではなく、現実の中で、現実を引き裂いてしまう極端に傾かないそのあたりだと思います。

弥次郎兵衛がひっくり返らないのある意味で偉大でしょう。

さて……、
戻ります。

ですから、そこからの組み立て直しが不可避的に要求されてしまう。

それが日常というものだと思います。

これまで短大の哲学(15回講義)では、基本的に9章からなる私家版の教材をつかって講義を形成していたのですが、今回は、なんと……ある意味でよくない知らせ……、4章分ほど、まるまる授業で扱えなくなってしまいました!

まあ、こりゃあ、学生さんの関心やニーズを大切にしながら、ナイーヴなところに孫の手を忍ばせてしまい、シラバスで「やる内容一覧」として当初掲げていた部分が、結構なところすっとんでしまいました。

まず、受講生の皆様すんません。

ですが、同時に、なかなか、授業では手の入りにくい微妙な問題に関して突っ込んで議論できたということでお許し下さい。

しかぁーし!

それでも、絶対に触れておかなければならない翠点というやつも、れっきとして存在します。

それをあと1回の授業でやりきらなければなりません。

そんなわけで、、、

「そんなわけで我々は、プランBというものが必要になってくる」

……というところです。

しかぁーし!

こうした事態は想定外ですので、プランBなどというものは想定されておりませんでしたので、アンチョコなんて存在するわけでもなく、最終講義に望まなければなりません。

まさに、そうした事態の通知というやつは、、、村上春樹(1949-)さんが粛々と筆致を進めるとおり、

「配達人は帽子にちょっと手をやり、なんだか申しわけなさそうな顔をしているが、彼が手渡してくれる報告の内容が、それで少しでも改善されることはない。しかしそれは配達人のせいではないのだ。配達人を責めるわけにはいかない。彼の襟首をつかんで揺さぶるわけにはいかない。気の毒な配達人は、ただ上から与えられた仕事を律儀にこなしているだけなのだ」

という状況との出会いというヤツです。

そして一言付け加えるならば、、、

「彼にその仕事を与えているのは、そう、おなじみのリアリティーである」。

……という始末です。

これが1週間後の授業であればヨユーをもって望めそうなのですが、千葉の短大の補講の都合で、最終講義を金曜日にフッっておりました。

いやー、寝れないけれども、呑んで栄養を補給しながらしのいでいくほかりません。

「できなかった」

……つうのいやですからネ。

がんばります。

さて……、

「我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である」

……というわけではありませんが、先週初めに、クレジットカードのポイントがまたしても貯まっていたので、ギフトカードへポイントを振って送ってもらうようにしていたのですが、

知らない間に届いていたといいますか、宇治家参去が不在時に配達されていたようにて……。

「これみよがし」

……に、自室のデスクの上にで~ん!と置かれておりました。

前回も同じパターンでした。

本来的には細君に黙っていて、自分で消費するというのが筋書きでした。

そして、このポイントは家族カードではなく、家計とは収支を別にしたワタクシ個人の消費に対するポイントを転換した訳ですので、家人に振る舞う必要もないわけですが、前回はなんとなくクリスタルではありませんが、細君に強奪された訳ですけども、、、

同じパターンにて、デスクの上にで~ん!

これは忸怩しながら、渡すよりも、

「これで何か使いな!」

……ってやるほうがハンフリー・ボガード(Humphrey DeForest "Bogie" Bogart,1899-1957)だよな!

……って考え直し、

「ささやかな、プレゼント」

……などと付箋をつけて、今のテーブルにおいてきた次第です。

いやー。

「しかし現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない」。

村上春樹さんの言葉には脱帽です。

いやぁ~、しかし、なんでおいらだけ「貧乏くじ」ひくんだよぉぉぉぉ。

……って冷蔵庫を開けると、大好きな黒龍(黒龍酒造株式会社・福井県)の普通酒ですが、「黒龍 逸品」が1本冷やされておりました。

「予定調和」というのは、反吐がでるほど大嫌いな概念ですが、ひとまず、これを呑んで寝ればすっきりしそうです。

……ツーカ、単純。

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同じ屋根の下で眠り、同じかまの飯を食う、(あるいは同じ貯蔵所から取り出した食物を食う、)ということが、「家」の存在の最も著しい特徴なのである

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 「家」は屋根と壁によって外から区切られた空間である。すなわち閉鎖的な空間である。この閉鎖のゆえにこの空間は雨風や寒気から安全な場所となり、人々に安らかな休息の可能性を与える。そこでこの空間にともに住むことは、人間生活に不可欠な休息をともにすることを意味するのである。が、それのみではない。この空間は最も原始的な形態においては、竈(かまど)をめぐる一つの広い空間と、睡眠のための狭い空間とに仕切られている。竈をめぐる生活は、食物を調理しそれをともに食うことである。家の内部に共同の竈があり、またそこで共同の食事が行われているということは、竈や食卓の形態がいかに異なっていようとも、あらゆる家に共通であって異なるところがない。そこで「家」の存在は、財の受用の共同、すなわち生命の再生産の共同を意味する。このように同じ屋根の下で眠り、同じかまの飯を食う、(あるいは同じ貯蔵所から取り出した食物を食う、)ということが、「家」の存在の最も著しい特徴なのである。
    --和辻哲郎『倫理学 二』岩波文庫、2007年。

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朝っぱらから日本を代表する倫理学者・和辻哲郎(1889-1960)を再読する宇治家参去です。

和辻の人倫的組織論の骨子となるのはやはり家族論になります。これがしだいに高度化し「あいだがら」のすじみちがより具体的なかたちをとっていくなかで「家族」「親族」「地縁共同体」「経済的共同体」「文化共同体」「国家」へと変遷していくわけですが、やはりその原型は家族論におかれております。

そして、やはり和辻が幸福をもって回想する自身の少年時代の原像がその中核にあることは、「家」の中心に「竈」をみてとるその筆致からうかがい知ること可能です。うえの描写は丁寧に抽象化されてはおりますが、やはり兵庫県仁豊野の田園風景の一屋から抽出された光景ではないかと思います。

ま、その是非はともかく、共同体のひとつの原型を家族に見て取ることは否定できませんが、過度に強調するのも難があり、そのバランス感覚が実に難しいというところでしょう。

ただ和辻が幸福な少年時代をおくった事実が、和辻の学を形成するうえで多大な影響を与えたことは間違いなく、どのような学を形成するにせよ、「幼少期が幸福であった」という体験は大切なのではないか……そう忍ばれます。

さて……。
先週まで極度に忙しくなかなか家人と時間をとることができませんでしたので、「同じかまの飯」を家で食うのもなんだかな……というところで?

何かをなしおえると、だいたい外食というワンパターンですが、そのワンパターンの王道ということで久しぶりに寿司やさん(魚屋路へいった次第です。

5月にいったきりでしたが、ぬぅわんと、プレミアムモルツ生ビールが平日はほぼ半額という「生活応援」をやっておりましたので、ビールを湯水のごとく鯨飲。

その間に鮨をつまむという状況です。

鮪類は三貫セット(大トロ・炙りマグロ・マグロ)のみで、あとは平目、真鯛中心にさっぱりメニューですませてしまいましたが、たまにはこうしたセレクトもよいものだと思う夕べです。

冷酒は、やはり東京の地酒ということで澤乃井の大辛口。
疲れた体に透き通った味わいが染み込んでしまいます。

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息子殿は相変わらず玉子中心で、一週間分くらいの摂取量を一瞬にして採ったのではなかろうかと思うわけですが、まあいいとしましょう。

細君は、「海のチーズ」と称される新潟県産の天然岩牡蠣をやっておりましたが、ワタクシはコレ系がダメでして、眺めるのみ。

この季節にはずすことのできぬ「生しらす軍艦」などで軍艦マーチを口ずさみますが、やはり少しこってりしたのが欲しく最後は「鰻」で締めたわけですが……。

お会計の際、財布を忘れて出たことが発覚!

家まで財布を取りに戻り会計をした次第です。

せっかくの酔いもすっ飛び、家で再度やったという間抜けな一幕です。

いずれにしても不可思議なのは、どうして細君は財布を持たずに出てきたのかというところ。

ま、一族郎党、お疲れさまでした。

月曜はゆっくりさせていただきましたが、これから8月までほぼ休みなし。
最後の休日というところでしょうか。

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「祭」は終わったんです。 しかし「政」は終わっていないんです。

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twitterのフォロワーさんには恐縮ですが、やはり、ブログにも乗せておくべきと思いましたので、宇治家参去の矜持としてひとこと「冷や水を浴びせて」おきます。

当選するにせよ落選するにせよ、一晩の集団熱狂で終わってしまう精神的態度が一番恐ろしい。要するに「祭」で終わってしまうという事態です。どのように「祭」ではなく「政」を形成して行くのか。政治家(屋)の自覚だけでなく、自分を含め有権者の「今日」からの関わる責任にその翠点があるはずです。

TL上……当落の悲喜こもごも発言に……に水を挟むようで恐縮ですが、一夜の夢で終わらせて、明日からは何もなかった「祭」の後として、それぞれが関係性を断ち切り「自分の現場」へと「帰る」という名のもとに「引き篭もる」というのが、支配される・委ねて眠るエートスを醸成させてしまう、そこが趣味じゃないんです。

わたしは、熱狂が苦手なんです。特に集団熱狂が。

うわっーって大声に知らない間に飲み込まれてはいけないんです。

それが善いことでも、悪いことでもね。

自分がプロする(=支持する)対象に対しても、アンチとする(=反対する)対象に対しても等しい批判的な視座は失ってはいけないんです。

そこを人々は火中のなかで失念してしまうことが余りにも多い。

だからこそ「覚めている」ことが大切なんです。

戦前カトリックを代表する思想家吉満義彦(1904-1945)は、ラジオから流れてくる軍艦マーチに、知らない間に歩調があってしまうことに驚愕し、それに抗するが如く、Thomas Aquinasのスンマを片時も手放さず、道端でも風呂敷を開いて読んだという。

その感性を大切にしたい。

思うにこれで終わりとして「切り替える」のではなく、つねに監視を絶やさない、点検していく、関心を失わない日頃の取り組みが賢い力ある民衆の時代を水脈のように形成して行く、それを諦めない一人でありたいと思います。

ホント、「心して政治を監視せよ」です。祭は終わりますが、政はおわりません。ハードフレームとして生活に密着しておりますから、そこを失念しないようにと思います。これはどの党派・候補に対しても同じです。

「祭」は終わったんです。

しかし「政」は終わっていないんです。

「祭」が終わったとして「片づけてしまう」とそれで終わりなんです。

それが日本の政治史における陥穽なんです。

それが大嫌いなんです。

そうではない歩みをどのように展開していくのか。

今日から永遠に繰り返す日常で何をなしていくのか。

そこを大切にしたいんです。

非常に申し訳ないのですが、死ぬまで、そんでもって死んだ後も「永劫回帰」はつづくんです。

そこで、「負けず」に「挑戦」しゆく自分でありたいと思います。

すんません。

冷や水をあびせるようで。

ただね。

これは大事なんですよ。

私は一喜一憂というが極めて違和感なんです。

ですからこのときに本音のホンネとして残しておきます。

ちなみに……これもtweetネタで恐縮ですがか、「みんなの党」。

英文では「Your Party」。

Yourって誰よっ!

……って一人つっこみボケやって一人バックドロップです。

いやー無責任このうえない。

Are you join in Your Party ?

などといわれると?

ほえ……?

って感じで、

Nein,non,no……、My party !

……つうか、どこに属しようとねえ。

まあ、焼き直しでスイマセン。

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さて、そろそろ「夢見ること」から卒業しましょう。

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夢見ること。--夢は全然見ないようにするか、それとも興味ある夢を見るかすることだ。目を覚ましているときも同じようにすることを学ぶべきだ。--つまり、全く目覚めていないか、興味深かく目覚めているかすることを。
    --ニーチェ(信太正三訳)『悦ばしき知識 ニーチェ全集8』ちくま学芸文庫、1993年。

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さて、そろそろ「夢見ること」から卒業しましょう。

夢想家とペテン師と口八丁手八丁な○○〝屋〟さんは不要であるのが、21世紀のはずなんです。

夢のような大風呂敷を見せてもらう必要もないし、そこに対して、〝忖度〟する=夢想する、待望する必要もありません。

一個一個課題をこなしていく、プロフェッショナルが必要なのが21世紀なんだと思います。

議会制民主主義の運用には極めて問題があるのですが、プラトン(Plato,428/427 BC-348/347 BC)のように、すべてをひっくり返して哲人政治を〝夢想〟することも現実には不可能です。
※ だから私はプラトンが苦手ですし、プラトニズムは大嫌いです。ちなみにいえば、哲人政治も忖度しませんし、それどころからその逆に政治というシステムからの最小限の介入しか許さないリバタリアンなのが信条です、まあ、それはさておきます。

さて……
であるならば、どこらへんから議論を立ち上げていくのか。

いわずもがなのシロート議論ですが、そこにしかありません。

夢をみせてもらおうとはおもいませんし、夢をみようとも思いません。

ただ黙々と額に汗をかきつつも約束を守る……しかもその約束は誇大夢想やパラノイアではない〝できること〟の提示……をしっかりやる、そういうプロフェッショナルにがんばってもらわざるを得ないと思うんです。

できないならば、極論なんですが、民主主義なんて辞めてしまって、「賢い」独裁者にでも〝支配〟されてしまった方が楽なんです。

その消息はエーリヒ・ゼーリヒマン・フロム(Erich Seligmann Fromm,1900-1980)やマックス・ピカート(Max Picard,1888-1963)の省察を紐解けば済むことです。

考えない、夢想する、忖度する⇒その負のジレンマが、支配を待望する「楽ちーん」な心根を加速させてしまうんです。

被害者ってよくいいますが、被害者になる原因は自己自身に内在するんです。

夢をみるのは「楽ちーん」なんです。
まさに電子レンジで「ちーん」です。

そうではなく調理するのは大変なんです。

しかし、僕ァ、調理した料理のほうが趣味にあっている。

だから、電子レンジで「ちーん」はしません。

ということで、朝から埼玉最終ツアーを敢行。

まあ、やることはやったし、悔いもヘッタクレもないってところです。

いずれにしても、夢を見させてもらうのも、夢をみるのも卒業しなければならない。
これがポストモダンに生きる「人間」の矜持ではなかろうかと思います。

そんなことを考えながら、それが済むとがっつり市井の仕事というわけで、へろへろという状況。

おまけに、正直、かるく熱中症なので、これから少しアルコール消毒というやつです。

でわ、おやすみなさい。

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さて……。
所用が二カ所だけ残っていたところがあったので、西武線沿線を〝舐めて〟きたのですが、いやー、なんども埼玉には出かけましたが、埼玉はひろい!
※「舐め役」の馬蕗の利平次@鬼平犯科帳は偉大だなと改め実感!

結局一カ所目は、狭山市。
目的地まで駅から往復一時間!

いやはや、いずれにしても、溶けました!

溶けたので、所沢駅で降りて西武百貨店の「蕎麦 酒処 信濃」にて「季節の天ざる」を頂戴し、ランチタイムのオプションで「おとなのための麦茶」ならぬ「グラスビール」を所望しましたが、細君からNOといわれるかと思いきや、

すんなりと、、、

「YES」

、、、にていっぺえだけ。

ありがたい。

何度か三人で訪れておりますが……それ系の所用の合間に……、例の如く、息子殿は、

「ざるそば」

を注文!

蕎麦やで「ざる」か「せいろ」しかやらねえ息子殿をみていると、

「シブイ」

……などと少し親バカです。

いやー、江戸の水に馴染んできたのかなア~ってところです。

このところそれ系の所用で蕎麦やで休憩することが多いのですが、決して「天もの」はやりませんし、ストレートに「ざる」か「せいろ」のみ。

いやー、「潔くてようござんす」

で……。
所沢に、もう一カ所所用があるのでてくてくてくてく。。

要件をすませた次第です。。

ちなみに、その向かいの熱帯魚やさんがあるのですが、息子殿と、

「何かを買ってかえる」

約束をしておりましたので、泥鰌を二匹ゲット!

決して「柳川」にはいたしませんので。

つうことで、呑んで寝ます。

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そのとき、思想家で政治家でもあった荻生徂徠は、この世論に抗して、四十七士を切腹に処すべきだ、と言った

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 日本のひとつの文化的特徴として、法律を超えていくのが義理と人情であり、その人情を引き受けるのが政治であり、究極においてその国民をまとめる政治をできるのは天皇しかない、という考え方がある。それゆえ二・二六事件は明らかに法律違反であったが、農村の疲弊を救おうとし、子供たちの餓死や妹が女郎に売られていくことのない政治を実現しようとして、青年将校が蹶起した。その青年将校が厳罰に処されるのはかわいそうだという人情=世論が生まれるのである。
 日本人がいちばん好きな『忠臣蔵』でも、徳川の法を超えた復讐劇に庶民は万歳を唱え、四十七士は幕府が判決を下すまで尾頭つきで優遇された。そのとき、思想家で政治家でもあった荻生徂徠は、この世論に抗して、四十七士を切腹に処すべきだ、と言った。法律を定め施行している徳川幕府の政治を超えるべきではない、と考えたのである。
    --松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年。

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昨日無事に期日前をすませ、今日はあさから埼玉を少しあるいておりました。

さて、今回だけでない意味での雑感をひとつ。

たしかに、義理人情も大切です。

しかし、それを超えていく冷静な議論のなかで、なにかを形作っていく、なにかを立ち上げていく文化の重要性を痛感したことだけは否定できません。

義理人情も大切ですが、それだけで済ませてしまうと尻すぼみになってしまうし、その逆もしかりです。

ただ本朝では前者へひどく傾いて判断する精神的態度が非常に強いことを痛感した次第です。

義理人情で何かを判断することを否定はしませんが、そもそも、どうすべきかということを法定内でぎりぎりまで冷静に考えたうえでの判断という文化というのも必要であり、その冷静ななまなこでの判断するということが、ほんとうに定着していないという事実に何度か驚愕いたしました。

「日本人は十二歳の少年」というダグラス・マッカーサー元帥(Douglas MacArthur,1880-1964)の言葉をひきたくはないですけどね。

そして付け加えると、義理人情による判断であれ、そして冷静なそれであれ、なんらかの決断を下したあとのことも問題なんです。

決断後に、その決断が正しかった場合はそれにこしたことがないのですが、そうでない場合、そのことを認めて、さあ次はどうするべって段の問題です。

結局は、以前に選択した判断が誤りであった場合、往々にしてそのことを認めることのできない心根が強く……。

ここにも「はぁ」と脱力。

だから最終的には、丸山眞男センセ(1914-1996)ではありませんが、無責任の無限連鎖を自己言及的に続けてゆき、最終的に天皇へと帰着していくという寸法になるのでしょう。

宇治家参去は天皇主義者ではありませんし、その逆の職業革命家でもありませんから、そもそも、そうした無限連鎖の極地に天皇陛下を宛てること自体も失礼だろうと思うわけですし、何しろ大切なのは、自己の選択に対して「自分で引き受ける」って矜持が必要なんじゃないのかなア~などと思うわけですが。。。

ま、いずれにしても嘆いてもはじまりません。
そして、批判してもはじまりません。

嘆く、批判する、相手をバカだと思う。

これは簡単なことです。

しかしそこからは何も始まらない。

であるならば、どうするか。

私淑するポストコロニアル批評の旗手・スピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak,1942-)は、有機的知識人とは何かを論じる中で「つねにひとびとと関わりつねに説得をめざすひと」と指摘しておりますが、このへんを大切にしたいと思います。

ということで、昨日は、期日前が済んでからツレといっぺえいってきました。

宇治家参去御用達の「ささ花」@花小金井へ久しぶりへいきましたが、夕方に食べたミスタードーナッツがのこってい、あまり食することはできませんでしたが、飲みをメインに楽しんだ次第です。

「だだ茶豆」と「文月のレディーファースト(前菜五種盛り)」で始め次第ですが、、

前者は、定番の枝豆というわけですが、素朴な料理だけに素材はいいものつかっておりますね。久しぶりに枝前で感動。

後者は、「レディーファースト」という触れ込みですが、男性客も注文OKで試したわけですが、

茄子の生ハム巻き もろこし豆腐 じゅんさいと長芋 青唐とじゃこの有馬煮 鰺とトマトの手鞠寿司……

相変わらずいいものをだしてきます。

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生ビールを早々に切り上げて、黒龍の純米吟醸を数杯頂き、それから「メニューにないやつは?」って聞きますと、

「飛露喜でいいのはいってます」

……ってことで、「純米吟醸 飛露喜 愛山 本生」のご登場。

カンパチの焼霜造りにも、加茂茄子の中華風肉味噌がけにもまけない、辛口ながらも豊穣な味わいに完敗という次第です。

昨日は若者?と行ったのですが、若者たちと盃をかわすのもなかなか刺激的でよいものです。共に成長を期したわけですが、まあ、酒を飲むというのは、酒を飲み、食べることも大切ですが、やはり相対する人間がいるからこそいっそう旨いというものです。

〆は九州名物シロクマです。

さて、ささ花@花小金井、相変わらずいい仕事をしておりました。

ささ花の如く、それぞれの分野で小水石を穿つごとくいい仕事をしてきたいものです。

つうことで、仕事へ行きます。

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「慎みながら、楽しんでいる者は節制家である。慎みながら、慎んでいるのを嘆いている者は不節制な人である」

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節制(TEMPERANCE)
あらゆる種類の酩酊を克服した徳。したがって恐怖は節制ではない。なぜなら、それはつねに動物的部分に負けることであるから。慎重さは一種の節制であり、これは一種の酩酊である無謀さと対立する。官能的酩酊はもっとも恐ろしいものの仲間だ。賭け事の情念は一種の酩酊である。
アリストテレスから。「慎みながら、楽しんでいる者は節制家である。慎みながら、慎んでいるのを嘆いている者は不節制な人である」。
    --アラン(神谷幹夫訳)『アラン定義集』岩波文庫、2003年。

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いかん!

早く寝なければならないのですが、仕事が済んで帰宅して、少し仕事をしてから、少し本を読んでから、風呂に入ってサッパリして酒を飲み始めたのがよくないのかもしれません。

目が冴えてきました!

つうことで、ふたたび読書。呑みながらですが。

来週の授業で少し、アラン(Emile Auguste Chartier,1868-1951)の幸福論について言及しようかと思っておりますので、アランとヴェイユ(Simone Weil,1909-1943)と対話の最中です。

ただ、しかし、アランの『定義集』をひもときつつドキリ!

「慎みがない」のが宇治家参去の〝不徳〟なのか。

きびしく弾嘩されたようで……すこし凹む深夜です。

節制はどこにあるのか。

どうやら「あらゆる種類の酩酊を克服した」ところにあるようです。

しかし、「あらゆる種類の酩酊」、たとえば、対象が酒であろうが本であろうが、デジタル・ガジェットであろうが、そのたぐいに「酩酊」してしまうのが宇治家参去の宇治家参去たる所以です。

いやはや「慎みながら、楽しんでいる」ことが大切ですナ。

いや、しかし、「慎みながら、慎んでいるのを嘆いている」ことは全くありませんので、その意味では、「節制家」ということかしら……?

この辺の判断が実に難しいですね。

いやはや、今日もものすごくキツイ一日。

酒が五臓六腑に染み渡ります。

染み渡ると同時に、不思議なものでかえって冴えるんです。

今日は起きてから、最後の埼玉ツアー(ってなんぢゃらホイ)。

土曜の予定でしたが、前倒し。

すんだら学問の仕事して、夕方に期日前。

それがすんだらプチ飲み会。

節制した一日を送ろうかと思います。

つうことで、思索と酒の旅へ旅立ちます。

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アラン定義集 (岩波文庫) Book アラン定義集 (岩波文庫)

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「君自身の『人格』を固め高めるまでは休んではならぬ」

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    ある弟子に
改革が必要なのか、改革をするのは君なのか、
改革が必要であればあるだけ、それを成就するための「人格」が必要になる。
君、目や血液や顔色を、清らかに美しくすることがどんなに役立つか君には分らないか、
君が群衆の中にはいっていくとき、願望と指導力のかもし出す雰囲気も同時にはいりこんでいき、群衆のひとりびとりが君の「人格」に感銘を受けるように、清らかで美しいからだと魂をもつことが、どんなに役に立つか君には分らないか。

おお、磁力よ、肉体のすみずみまでみなぎる力よ、
行きたまえ、いとしい友よ、必要ならばすべてを捨てて、きょうすぐに始めたまえ、勇気、自尊、明確、高貴を目ざして君自身を鍛えることを、
君自身の「人格」を固め高めるまでは休んではならぬ。
    --ホイットマン(鍋島能弘・酒本雅之訳)「秋の小川」、『草の葉 下』岩波文庫、1971年。

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よーやく、一日が終わりました。
今朝は……ってもう昨日ですが……、隣町に住む親類のお宅を訪ね、要件を済ませる。
細君が一人では行きにくい?親類で、学歴崇拝者とのことなので、ワタシが行った方がよいって触れ込みで訪問すると、見事な歓待ぶりで、驚愕。

一緒に行って良かったナということで、それが終わるとそのまんま、千葉まで電車2時間かけて、一人の学生のために『倫理学』の講義。

最寄駅で降りると降雨。
例の如く傘不持参ですが、「雨ニモ負ケズ」という勢いで無事講義を完了!
たったひとりの生徒さんですが、懇談しながらやるように、なんとか理解してもらいたい部分……すなわち異なる差違の尊重、そしてすべての問題を「人間」の問題として捉える倫理学的視座……はキチンと理解してもらったようで何よりです。

それから駅まで走って、東京へトンボ返り。

講義が済んでから一服やりたいのはやまやまですが、非常勤講師をさせて戴いている、この千葉の短大は構内全面禁煙ですから、

「いやはや」

……と思いつつ、我慢して電車の人となった次第です。

それから、市井の職場へ向かった訳ですが、いつもなら、到着する10~30分まえに帰宅する店長がまだ在席!

珍しいなアと感慨にひたっておりますと、、、

「話があるから、待っていた」

……って話を聞くと、

「今月で退職する」

……ってどかーんな話。

着任してから2ヶ月なのですが、まえまえから考えていたいようにて、、、。

やっと意志疎通がツーカー……って表現がふるい?……になりはじめたところだったので残念なのですが、種々お話をいたしますと、すこし納得することも屡々あり、仕事のやり方(方法論)、人材育成の問題、この会社の目指すところと着地予定の問題なんかをふたりで徹底的に、まあ、マイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953)の「白熱教室」ばりに議論をしておりますと、、、

1時間経過!

仕事が終わらねえ……って、えんやこらやとやっておりましたが、お陰で帰宅すると26時過ぎ。

昨夜寝たのが午前6時。
起床が午前8時。

この3日で10時間程度して寝ておりません(仕事ゆえ)。

いやーぁ、きついわ。

……って思いつつ、例の如く晩酌しながらのなうです。

考える暇がないのも問題ですが、暇があっても考えないのも問題です。

まあ、そのせめぎ合いの最中に放り出されている……それが宇治家参去の毎日なのかもしれません。

ただ、いずれにしても、そーゆう薫陶?のなかで、尽きることの知らぬ財産が構築されているのではないか……そう思うようにはしておりますし、そのことはアメリカン・ルネッサンスの巨匠ホイットマン(1819-1892)大先生が「君自身の『人格』を固め高めるまでは休んではならぬ」と仰せの通りですからね、チト、今週はもう少しがんばります。

つうーことで、寝ます。

ぢゃあありません。

今日は電車の中でしか読書できなかったので、呑みながらですが、もう少し書物と格闘しようかと思います。

起きると今日も仕事です。

でもね、負けませんよ。

ただしかし「身近なものごとに注目する」倫理学者として驚いたことがひとつ。

昼過ぎに勤務先の千葉県の短大の最寄り駅に下車した際、大学で喫煙できませんので、駅の側道で、煙草を吸っていた……いちおー念のためですが、携帯灰皿は持参済み……のですが、足下の側溝をに目をやると、ザリガニがいた!

恐るべし! 物井!

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「頭のいい人」というのは「人より先にひとのまだ行かない所へ行き着くこともできる」わけですが、こちとら、「頭がいい人」ではありません。

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 いわゆる頭のいい人は、いわば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできるかわりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
    --寺田寅彦「科学者のあたま」、『寺田寅彦随筆集 四』岩波文庫、1963年。

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わたしが若い頃は、比較的、寺田寅彦(1878-1935)さんの著作はよく読まれたものですが、最近ではあまりよまれないのでしょうか?

それがひとつ残念だと思う宇治家参去です。

物理学者にして、漱石・夏目金之助(1867-1916)さんのお弟子さんということで、名高いのが寺田さんというわけですが、まさに文理の壁をぶっこわらし、文理と言った枠組みの囚われないその思索の数々を残したわけですが、文学とともに理学にうらうちされた随筆を読み直すたびに、ここにひとつの全体人間が存在する……なあんて思ったものですが、時代は変わってしまったのでしょうか。

「科学者のあたま」で指摘されているとおり「頭のいい人」というのは「人より先にひとのまだ行かない所へ行き着くこともできる」わけですが、こちとら、「頭がいい人」ではありません。

ですから、そこらじゅうにしゃがみこんでは、「わき道」にそれていくことが多いのですが、それはそれで大事ではなかろうかと思う次第です。

さて……。
本日は短大の講義で文豪・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe,1749-1832)のふたつの思考、すなわち、特殊個別性の尊重と、普遍性への参加というものが実はそれぞれ別個の問題ではなく、お互いがお互いを尊重することでかえって色めきたつ……そんな話をした次第です。

かのナポレオン(Napoléon Bonaparte,1769-1821)はヨーロッパ征服戦争の渦中でゲーテと会見しておりますが、彼は『若きウェルテルの悩み』の偏愛者だったとことで知られておりますが、会見した際、「結末がきにくわねえ」ってゲーテに書き直しを依頼したそうですが、まあ、これも「ありえねえ」って思いながら、ゲーテの話をしましたが、やはりゲーテは偉大ですね。

そのゲーテに比べると、所詮、ナポレオンは人殺しの筆頭与力にしかすぎませんから、「格がちがう」だよなア~などと思う次第ですが、英雄崇拝者の細君にそんなことをいってしまうと取り返しの付かないことになりますので、ここはだまって口を閉ざすというのが利口でしょうか。

ま、いずれにしましても、根源的な意味においては「ペンは剣よりも強し」(Calamvs Gladio Fortior)というところでしょうか。
※ちなみにですが、これがKOの校訓ともなっております。

さて……。
細君より厳しいお知らせがひとつ。

今日は昼過ぎから千葉の短大で授業なのですが、そのまえに、すこし東京をまわるぞ!ってことにて……少しというよりもかな~り、はやく起きなくてはなりません。

つうことで、沈没しようかと思う次第ですが、起きてからは、「途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道」に入ることができなさそうですね。

それがすこしがっかり。

しかし、今は大事な時期なので、それはそれでラッキーと受け止めるべき……なのでしょうねぇ。

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「好みというのは慣れの問題で、想像力が思っている以上に考えに影響するものだと分かりますな」

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 先日ご婦人たちと一緒にいたが、たまたま戦時下の節約生活の話になり、必然的にバターの代用にマーガリンを使うという話題になった。代用品はむしろ良かったというのが平均的な意見だったと思う。「実はね」ある婦人が言った、「先日バターを買ったのです。以前使い慣れた品を。そしてテーブルに、最近覚えたマーガリンと一緒に置いておきました。夫がそれをマーガリンだと思ってパンにつけて食べ、顔をしかめて、『これは駄目だ。マーガリンはいかん。戦争に負けてもいいからバターに戻ろう』と言うのです。で、今のは、いつものバターですよ、と言いますと、『驚いたな!』なんて言っていました。これはどういうことでしょうね?」
 好みというのは慣れの問題で、想像力が思っている以上に考えに影響するものだと分かりますな、と私は言った。あれこれの事について、よく「後天的に身についた趣味なのです」と、さも珍しいことのように言う。実際には人は慣れないうちは、ほとんどあらゆるものを嫌うのが普通である。例えば、私は若い頃はタバコの味を毛嫌いしていた。タバコの葉に苦労して自分を慣らすことで、ようやく嫌悪感を克服し、今ではタバコの忠実な召使いになっている。しかもタバコについても私の好みは不安定なのだ。ある銘柄のタバコでないと駄目だと思い込んでいた。でもこれはナンセンスだと分かった。戦争で税が上がり、支出を抑えようと思ったので、値段の安いタバコに変えてみた。最初は不味いと思ったけれど、今では以前の高いものより好みに合っている。婦人の夫が以前のバターより今のマーガリンを好むのと同じである。
 慣れが問題になるのは、食だけではない。昨年あんなに誰にも好まれていた帽子が今では、古代バビロニア人の流行でもあったかのごとく野暮ったくなっている。いつだってそうだ。モンテーニュは述べている。「アンリ二世の逝去のために一年間宮廷では誰もがシルクの喪服を着ていたが、その後あらゆるシルクが不快で下品なものとされるようになり、今では以前の喪服を着た者は田舎者か労働者だと見なされるようになった」 覚えている人もいるだろうが、同様に、トマス・モアのユートピアでは、金が鉄より低く見られている。家事用品はすべて金でできていたのだ。
 我々は融通のきく生き物で、好みを環境や風俗習慣に合致させるのは容易である。鼻にリングを通している蛮族がいる。ロンドン郊外のトゥーティングに住むブラウン夫人がその種族の写真を見ながら、この蛮族の奇妙な習慣について夫に話す。もしブラウン氏がユーモア感覚のある人なら、妻の耳にぶら下がっているイヤリングを指して「でも君、鼻のリングは野蛮で、耳のリングは文明的だなどと、どうして言えるのかな?」と言うだろう。このジレンマは、ギリシャ人が人肉食いを止めさせようとした蛮族のジレンマに似ているようだ。食人種が、以前は敬虔な態度で親を食していたのに、それを止めた。だが、ギリシャ人のように遺体を火葬にする慣習に従うように求められた時、彼らはぞっとした。遺体を食するのを止めるのには同意するが、火葬に付すだって? そんなことはできない。ブラウン夫人が問題視する蛮族も、鼻からリングを外すのには同意しても、耳に下げるのは当惑して断るだろうと想像する。
    --ガードナー(行方昭夫訳)「趣味について」、行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが -イギリス・コラム傑作選-』岩波文庫、2009年。

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「たいした問題じゃない」んですが、戦前イギリスを代表するエッセイスト・A.G.ガードナー(Alfred George Gardiner,1865-1946)氏が指摘するとおり、「好みというのは慣れの問題で、想像力が思っている以上に考えに影響するものだと分かりますな」というのは、まさにその通りでございまして、自分でそう「思っている」以上に、「慣れ」というものが勝ってしまうものなのかもしれません。

ただマーガリンとバターを取り違えた英国紳士のように、なかなかそのことに気が付きにくいというのが人間世界の実情なのかも知れませんが、対象に対して当初は嫌悪を抱きつつも、その状況に慣れてしまってきますと、「まあ、そんなものよ」って「慣れ」てしまうというところでしょうか。

消費税の税率の引き上げは、福祉国家・国民生存の細かい保証国家を任ずるのであるとすれば必要不可欠ということは承知しております。

しかし、タイミングとしては今どうなのか……というところもあったり。

しかし、「引き上げ」というのが、所与の前提として議論が進んでいるようなところもあったり。

そんなところに「まあ、そんなものよ」って「慣れ」てしまうことだけには極めて違和感があります。

ちなみに宇治家参去個人としては、なんどもいうとおりリバタリアンの夜警国家論者ですから、そもそも国家が国民生活の隅々にまで「関わってくる」こと自体に抵抗があり、そもそもの違和感がありますが、それをさしおいたとしても、この時期になんで?っていうところは不可避的に存在します。

選挙を目論んだ戦略的言説ですから「いたしかたありません」が「いたしかたありません」にはしませんですから、宇治家参去は宇治家参去としてできる白バラ的抵抗を遂行するのみだとは思います。

さていずれにしましても、このクソ蒸し暑い毎日ですから、なかなか思考が定まりません。そこにうまくつけこまれたくないようにはしたいものだとは思います。

ちなみに、上述したとおり、自分でそう「思っている」以上に、「慣れ」というものが勝ってしまうものが現実の生活世界でございます。

しかしながら、なかなか「慣れ」ることのできない地平というのも一方には存在するというものです。

すなわち、この東洋の果てのちっぽけな島国の、梅雨という季節です。

昨夕の東京は激しい〝スコール〟でございました。
なんで、東京で〝スコール〟よ!ってつっこみそうになりましたが、〝スコール〟です。

雨がふると少しさわやかになるかと思いきや、そう早計すること勿れ。君死に給うこと勿れ、というやつで、クソ蒸してきております。

これだけにはなかなか慣れることができません。

頭の回路が思考停止になるほど、いや~な季節ですが、それに〝慣れる〟ことができないほど、逆に言えば、思考回路が憤然と動き出すというやつです。

まあ、宇治家参去は、飲み込まれないように、そして職業革命家とは違う寸法にて、時代をスライドさせてやろうと、ひそかに……でもないか?……思う深夜です。

つうことで、早速呑んでおりますが、、、、

大事なことを忘れておりました。

今日は短大のでの講義日です。

しかし完全にはその準備が終わっておりませんでした。

すぱっと目が覚めたので、ちょいと準備の戦いをしましょう!

いや、ほんと、なかなか、世界と「慣れ」ることのできない宇治家参去です。

ちなみに誤読があると問題なので蛇足をひとつ。

ガードナーはうえのコラムのなかで、ようするに「趣味がいい」っていう部分の恣意的なところをきちんと指摘したいのがそのねらいでした。

「趣味がいい」

……そのことばの地平を超えた、自己自身の趣味を構築するところに、ストロングなダンディズムがあるのでは……そう思う宇治家参去です。

……って、けっこう、わるくない線はいっているのだとは思いますがネ。

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「民主主義を『議論による政治』として定義することは、意思決定のプロセスで個人の価値観が変わる可能性があり、実際に変わることを意味する」

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 確かに、選挙はとても重要な手段ですが、市民社会における議論に効力を持たせる方法の一つにすぎません。しかも、投票する機会とともに、脅かされることもなく発言し他の意見をきくことができる機会があれば、のことなのです。選挙のもつ効力も、その影響がおよぶ範囲も、公の場の開かれた議論の機会があるかどうかで決定的に変わります。選挙制度だけでは何としても充分ではありません。それは、スターリンのソ連からサダム・フセインのイラクにいたるまで、権威主義体制下の選挙で、独裁政権が驚くべき勝ち方をしてきたことで充分に証明されています。こうしたケースの問題点は、実際の投票行動で有権者が圧力をかけられることだけでなく、検閲制度、反体制派の弾圧、市民の基本的な権利および政治的自由の侵害などを通じて、公の場における議論ができなくなることにもあるのです。
 投票の自由をはるかに超えた、もっと広い見地から民主主義を見る必要性は、現代の政治哲学だけでなく、社会選択理論や公共選択理論などの新しい分野でもさかんに議論されています。こうした問題は政治思想と同じくらい、経済学の理論からも影響を受けます。議論を通じて意思決定をするプロセスによって、社会や個人の優先事項に関する情報は増えるでしょう。そうなれば、意思決定は社会的討議によって変化するかもしれません。公共選択理論の主唱者であるジェームズ・ブキャナン〔アメリカの経済学者〕が述べたように、「民主主義を『議論による政治』として定義することは、意思決定のプロセスで個人の価値観が変わる可能性があり、実際に変わることを意味する」のです。
    --アマルティア・セン(東郷えりか訳)『人間の安全保障』集英社新書、2006年。

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時流?に反するような引用で恐縮ですが、まあ、この問題は看過できない翠点を表しておりますので、この時期にこそ、引用されてしかるべきかと思い、アジア人としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン(Amartya Sen)先生の言葉に耳を傾ける宇治家参去です。

この議論には、民主主義のシステムを至上視するブッシュイズム的民主主義の強制輸出に対する違和感が背景に存在しますが、まあ、チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill,1874-1965)がいう通り民主主義とはまさに「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」というところなのでしょう。

システムを輸出してもはじまりません。

システムをどのように立ち上げるかが焦眉の課題なわけですが、その辺が議論としてすっぽりとして抜け落ちてしまうというのが人間世界の常なのでしょうか。

制度としての民主主義を支える根幹のひとつとして列挙できるのが「選挙」というシステムですが、セン氏の指摘を待つまでもなく、「スターリンのソ連からサダム・フセインのイラクにいたるまで」制度としての〝選挙〟は整備されておりますし、その投票結果によって「独裁政権」が維持されてきたのが歴史であります。

そのへんを丁寧にたぐっていきますと、結局の所、この段の後述でトクヴィル(Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville,1805-1859)の議論も出てきて、それを補完させるわけですけれども、おそらく、まあ、「これまでに試みれてきた、他のあらゆる政治形態を除けば」〝マシ〟とされる民主主義という制度というわけですが、大切なのは、それを支える意志決定のプロセスの保証ということにつきるのでしょう。

意志決定のプロセスは、私情に左右される本朝においてもタテマエとしては確かに保証されております。

しかし、その内実を尋ねてみますと、

「はぁ」

……というところが実情でしょう。

ただしかし、

「はぁ」

ってやってしまいますと、はじまりませんので、どのような意見、主張であれ、形式は整備されている環境ですから、そのすりあわせの中から、次の時代を立ち上げていく……そのことを丁寧にやっていくほかりません。
※その意味では、イライラする御仁は、公開討論を避け、「一対○○は卑怯だ」などと民主主義のシステムを放擲するような名言を残しておりますが、まあ、なにをかいわんや……というところでしょうか。

消費税がどうの、法人税がどうの、何を主張しても、まあ、いいわけですよ。いうまでもありませんが最低限の矜持としましては。ですけどそれがきちんとしたデータにも裏打ちされておりませんから「逃げざるを得ない」というお粗末な状況になってしまうわけナンですが、議論を避けて「なんとなくクリスタル」式にスルーしてしまうっていうのが一番、制度としての民主主義を損なう結果になってしまうという極めてわかりやすい図式なのですが、どうしてそんなことが理解できないのか、そのへんが理解できない宇治家参去というやつです。

呑んでいるのですいません。

ようするに、まあ、、。

疲れた。

結局のところ、メディアは、「政治に愛想をつかした愚民が民主主義を崩壊させる」というありきたりの議論で安全地帯を保持しますが、結局のところ「政治に愛想をつかせてしまう」のは制度と内実を理解していない政治家そのもの起因する問題であるし、そのことのを嘲笑的に三行広告として報道するメディアに問題があるわけですが、まあ、いろんなひとと話しあうなかで、ひとつ実感するのは、

「民衆達よ、おまえらはバカだよな」ア~

……って利用しせせらわらう政治家たちよりも、そしてそれを補完するメディアよりも、

なかなかどっこい、

「(民衆、市民、ひとびと、……其の対象とされる代名詞はなんでもいいですが)現実と格闘しながら生きてる人間というものは、そうした人々が思っている以上に聡明である」」

そのことです。

話がかなりすっとびましたが、いつものとおりですいません。

話がすっ飛ぶとおりひとつおどろいたのは、日曜は埼玉の狭山市を徘徊?していたのですが、驚いたことに、駐車場のよくあるフェンスにかぶと虫(雄)がいたところ。

野生児です。

さっそく息子殿がゲットしました。

いやー、埼玉県おそるべし。

……ってもどります。

いずれにしましても、形式を形式たらしめるのは、その形式に支配されているひとびとなんだって原初をわすれてしまいますと、不毛な結果しか残しません。

つうことで、ぼちぼち沈没なうです。

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「相互に訂正しあいながら伝達すること」

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 カントが友情について語りうることがらは、アリストテレスにおける古代の古典的分析とくらべて、まったく見劣りしない。カントの哲学は人間的であり厳密なものであるが、そのようなカントの哲学にとって友情は、「考えること」とは、相互に訂正しあいながら伝達することであるととらえる。その把握にいたるまで、基礎を与えるものであったからである。それは、友情が、西洋哲学の起源にあって、ソクラテスの思考ほうほうすべての原型にとってそうであったのと同様である*。
* ディルタイのようなひとの孤独な思想的労作も、ヨルク・フォン・ヴァルテンブルクとの友情に負っている。ヨルクは、その「個人的良心」の傾向にもかかわらず、学問の道もふたりで歩いたほうがよく、多くのことばは答えをつうじてはじめてうまれることをみとめている。ディルタイも、「自己省察」へのおなじような傾向にもかからわらず、「哲学以外では、古代人の意味での友情が、この問題に充ちた生における最上のもの」であると認めている(『往復書簡』二一六頁)。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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週末に何度か、所用があり埼玉へ出かけることが多かったのですが、ちと本日で最後になりそうです。

要するに、KOで埼玉を元気にするぞ……って訳なのですが、仕事とその他要件もありますので、この日曜日で最後になりそうです。

まあ、KOの先輩ががんばろうとしているところをスルーすることもできない、……これがKO社中のよいところですが、最後の晩餐を起きてからしてこようかと思います。

いずれにしても、レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)の語るが如く、次の部分、、、

「カントの哲学は人間的であり厳密なものであるが、そのようなカントの哲学にとって友情は、『考えること』とは、相互に訂正しあいながら伝達することであるととらえる」は、至極大切なのではないかと思う次第です。

相手がどう判断するのではないのでしょう。

一方的な自己主張……これ大嫌い!……でもなく、相づちをうつだけでもない双方向な関係、これを大切にしたいと思います。

伝統的に日本の精神的エートスにおいては、なにもかにも胡散霧散していまい、

「いや、まあ、まあ」

……って丸め込んでしまう精神文化なのですが、それでは生きている現場をレコンキスタすることは不可能です。
※ちなみにレコンキスタって言葉を使う時点で西洋伝統文化の王道であるキリスト教主義的ですがそれはさておきます。

いずれにしまして、結果ではなく、相対(あいたい)するなかで、

「相互に訂正しあいながら伝達すること」

すこし勇気をだしつつ、この地上に、忖度ではない、なにがしかのリアルなものの立ち上げに与したい……と思う宇治家参去です。

いずれにしまして話してみないと分かりませんからネ。

イヤ、ホント、「いや、まあ、まあ」ぢゃアねえんですヨ。

つうことで、寝る!

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【覚え書】「統帥権干犯問題と政党政治の自滅」、松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年。

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 しかし、『統帥権干犯』の問題で民政党の浜口内閣を攻撃すべく口火を切ったのは、軍部ではなく政治家だった。犬養毅と鳩山一郎が政友会の側に立って、浜口雄幸内閣を次のように弾劾したのである。「政府がロンドン海軍軍縮条約を結ぶのは統帥権干犯だ。天皇の名において軍事を決めるのは軍部がやることで、それを政党あるいは政府がやることは許されない」と、統帥権干犯という言葉を使って民政党内閣を批判したのである。そうして民政党を政権の座から逐い落としていく。
 鳩山は野党として倒閣のためには手段を選ばず、このような責任内閣制、政党政治を自己否定する議論で、浜口内閣を攻撃した。これも、大衆迎合のポピュリズム政治をやると外交、ひいては国際政治の上での国策を誤るという例である。この統帥権干犯の議論はポピュリスティックな言論であり、これがある種の大衆ナショナリズムを刺激し、軍部主導の戦線拡大路線へと日本を突き進ませる大きな原因となった。
 戦線拡大の軍部のみならず、軍部にすり寄っていた当時の政権の側にも問題があった。政党はなぜ自壊していったのだろうか。昭和三年頃の民政党と政友会は、お互いに政権をとったり維持したりすることだけが目的になっていた。このために賄賂合戦、暴露合戦、スキャンダル合戦がものすごく、政権交代時に前政権の機密費はどこに使われていたのか、などいまと同じような話が出てきていた。政権をとることが自己目的化する二大政党政治の最大の矛盾点であり、欠陥であるが、どちらが権力をとるかによってお金の流れ方、人の集まり方が大きく違うので、過激なスキャンダル合戦となる。すると、それを見ている国民のほうには、政党は汚い、そういう汚い政治に携わっていない「清新」な軍人に任せようという考え方が出てくる。軍人とすれば政党政治をやられるよりも、政党政治自体を超えるような国民人気をもった近衛文麿を担ぎ出したほうが、軍主導の国家運営には都合がいい、というので、最終的には政党政治が解体してしまう。
    --松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年。

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時間がないので【覚え書】をひとつ。
きちんと昭和史をひもとけば引用した内容は詳細且つ煩瑣なまでに指摘されている部分ですが、コンパクトにまとまったものがあまりありません。

そんななかで松本健一(1946-)氏の指摘は、その消息を比較的簡潔にまとめた一文だと思い、紹介する次第です。

歴史の教科書などをひもときますと、大正時代に確立された政党政治への道が確立と同時に腐敗し始め、「気がついたら」軍部主導の政権運営になっていったと叙述されるきらいがありますが、その叙述を一皮むいて、尋ねてみますと、結局の所、政党政治は軍人によって引導が渡されたのではなく、政党そのものによって自己解体してしまったというのが真相です。

与党にしても野党にしても、たしかに「政権」運営というのが焦眉の課題となることは否定できません。しかしながら、〝「政権」運営=政権をとること〟によって、何を目指していくのか。

吉野作造の言葉に従えば、民衆の「利福」の促進にあるはずなんです。

期待させるような言葉や絵に描いたような餅は必要ありません。

何がどこかまでできるのか、何ができないのか、はっきりと示しながら、積み上げていくスタイルが本来は必要なのですが、〝「政権」運営=政権をとること〟自体が目的となってしまうと、そうした議論はすっとんで、○○合戦になってしまうのでしょう。

○○合戦がつづくと、結局の所、政党政治は自壊してしまう。

もちろん、「歴史は繰り返す」とは思いませんから、軍部独裁が再来するとは思えません。しかしより新しい洗練されたカタチでのスライドは想定可能でしょう。

議院内閣性を根幹とする民主主義の政治システムを維持するのであれば、やはり問題は多かろうと政党政治で運営していかざるを得ません。

であるならば、〝「政権」運営=政権をとること〟を焦眉の目的としつつも、どこに目を向け、何かを具体的にかたっていくのか。

そこが大切なはずなのですが……。

選挙カーから流れる言葉のひとつ、TVで利益誘導されるかたちで報道される言説の数々に耳を傾けますと、クラクラしてしまうのは自分一人ではありませんが、、、

政治をやろうとする人間は、うすっぺらい言葉を連呼するようなあり方、無責任な大風呂敷を広げるようなあり方ではないものを見せて欲しいものだと思います。

……つうことで、出勤します。

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「思惟と詩作」の道具を廻る冒険?

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 シュピーゲル なぜわれわれは技術によってそんなに強く抑圧されるのですか……?
 ハイデッガー 私は、抑圧されるとは言っていません。私は、われわれはまだ技術の本質に対応するいかなる道をも持ってはいないと言っているのです。
 シュピーゲル とはいえ、人はあなたに向かって全く素朴に次のように反問できるように思われます。ここで何が制されているというのか? すべては機能しているというのに。発電所は次々と建てられている。生産はどんどんはかどっている。人々は地球の高度に技術化された部分で手厚く扱われている。われわれは裕福に生活している。一体ここに何の不足があるのか? と。
 ハイデッガー すべてが機能しています。すべてが機能しているということ、そしてその機能がさらに広範な機能へとどんどん駆り立てるということ、そして技術が人間を大地からもぎ離して根無にしてしまうということ、これこそまさに無気味なことなのです。あなたがびっくりなさったかどうか知りませんが、私は月から地球を撮影した写真を見たときびっくりしてしまいました。人間を根無にするためにべつの原子爆弾などはいりません。人間の根無化はすでに存在しているのですから。われわれはかろうじてただ全く技術的な諸関係だけを持っています。今日人間が生きているところ、それはもはや大地ではありません。私は最近プロヴァンスでルネ・シャールと長い対話をしました。この人はご存じのとおり詩人であり、また抵抗運動の闘士でした。プロヴァンスでは今ロケット基地が建設されており、土地が荒らされているのは想像を絶します。詩人ルネ・シャールは決して決してセンチメンタルな人ではなく、また牧歌的なものを賛美するような人ではありませんが、その彼が私に向かって言いました。ここで進行している人間の根無化は、もし思惟と詩作とがもう一度暴力なき威力に達するということがないならば、もうおしまいですと。
    --M.ハイデッガー(川原栄峰訳)「シュピーゲル対談」、『形而上学入門』平凡社、1994年。

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もともとは手書きといいますか、手帳、ノート、覚え書etc……、すべて選りすぐった……といいましても使い慣れとか使いやすさに影響を受けておりますが……道具を使って、そしてその道具そのものを使う手や頭を駆使しして生きてきたのですが、ここ数年、デジタル・デバイスへ環境が移行するなかで、なかなかノートに思索をするということがめっきり減ってしまった宇治家参去です。

手帳は紆余曲折の末、フランクリン・プランナーからwindowsケータイでのアウトルック管理、nokiaのスマートフォンへ機種変更してから搭載されていたスケジューラになれず、モレスキンへ移行、iPhoneに機種変更してから、日程管理はもっぱらそれにまかせるという始末です。

ただ、手書きの方がはやかったり、自由に殴り書きできるという紙媒体の持つ本来の良さがありますので、リーガルパッドとRODIAのメモ帳だけは欠かせませんが、それでも日程管理系のものはほとんどメモっても、最終的には入力して管理するそういうスタイルがなじんできました。

手を使う道具に関してはこれまでも何度か紹介したようにこだわりもありますし、頭への刺激もありますから、もちろんすべてをデジタル環境へ移行しようとは思いません。アナログにはアナログの良さ・アドバンテージがあり、デジタルにも同じようなそれがある。ただそれだけというところでしょうか。

しかしながらその割合は、ここ2-3年でずいぶんとデジタル化されてしまったなアとふと感慨する始末です。

そんななかでもやはりアナログでなければならない部分は、書簡や走り書き云々とありますので、その際には基本的には万年筆を利用することが比較的多いかなと思います。

神保町に金ペン堂という専門店があるのですが、そこで万年筆は基本的に買い求めるのですが、量販店よりも基本的に少し(以上か?)高い価格なんです。

ですけど、店主がきちんとメンテナンス・カスタマイズしており、ふつうの流通ロットよりも書き味がよい……そうした逸品と出逢うことができるんです。

そこで最初に買ったのはペリカン(Pelikan)のスーベレーンM1000という王道万年筆だったかと思います。フツーに買ったM800も手もとにあったのですが、なんのなんの、もの自体のもつ卓越性もあるものの、日本人になじむように少し手の入ったカスタム品の書き味は、購入後15年以上経た今なお落ちることなく鮮やかで、そのクラフツマンシップには驚いた次第です。

が、当時の店主がいうには、万年筆で一番大切なのは何か……という部分で、次の点を指摘されていたことを印象的ですね。

すなわち、ひとつめは、キャップなどをきちんと定位置に設置し、きちんと持って書く、そしてふたつめは、毎日使う、というのがそれです。

基本と言えば基本なのです。
しかし、これを心がけることが万年筆利用においては最も大切だと教えてくれたのが一番の財産からもしれません。

これはどの万年筆、そして万年筆にかかわらず人間の手が接する道具においては同じなのだろうと思います。

万年筆で書くというのはある意味では慣れが必要ですが、慣れるためにはキチンと持って毎日利用するしかない。

そういう消息でしょうか。

ですから一向に字はきれいではありませんが、なるべく毎日万年筆は利用するようにしております。

メモをとるにせよ、日記をつけるにせよ、ですからできるだけにじまない紙質を選ぶように心がけるにようになったのもそのお陰かもしれません。

自分が大学生の頃はまだまだワープロ時代ですから、iPadを持ち込んでノートを取るという時代でもありませんので、様々な紙に書き込むのが王道(まあ、今でもそうなんでしょうが)でしたから、早速万年筆でノートを取るようにしましたが、その癖からでしょうか。結局大学院時代も、一部語学の科目を除き、万年筆でノートを取る習慣が身に付いてしまいました。

これもひとつの財産ではなかろうかと思います。

ちなみに試行錯誤の末、ノートではありませんが、一番、講義を取るノートとして使いやすかった媒介は、やはり京大式カードであったと思います。研究者なんかがメモや論文執筆の情報整理に用いていたがB6版のカード……表現を変えればリーフですが……なのですが、これが一番よかったかと思います。内容ごとに1枚でまとめ、項目をかわると別のカードに、そう利用しておりました。リーフですから、後から再構成するにも便利で、なによりもインクの走りがよい……重宝したものです。

現在はなかなか使う機会は減ってしまいましたが、ただ万年筆だけは相変わらず常用しております。ま、最近はオモシロ半分で、ペリカーノとかLamy abcといった各社の入門用万年筆を使うことが多いのですが、それでも正しく使えば結構書き味もさわやかで、万年筆道奥深し!というところでしょうか。

話が脱線しました。

あー、デジタルとアナログ機器の話でした。

で、、万年筆ですが、今でも生活の中で種々利用しておりますが、通信教育部のレポート添削をしておりますが、ここでの添削とコメント(評価や問題の指摘)に関しても基本的には万年筆での筆記です。
※ただし上述したとおり、字はヒジョーに汚いので、受け取られた方はごめんなさい。

このレポートにおける万年筆利用というのは、メモとか覚え書とはまったくことなる利用になるのですが、それがすなわち書き殴るというのではなく、思索しながら利用するという瞬間です。

もちろん、パソコンやiPadなどのデジタル・デバイスでもテキスト・エディタやマインドノート系のソフトウェアで入力して同じように「作業」をすることは可能ですし、消去やコピペは断然に、万年筆よりも「楽」なのは承知ですから、そうしたことももちろんやります。

しかし、同じ「作業」なのですが、万年筆……この場合別に万年筆でなくてもいいんです、使い捨てのボールペンでも子供が使わなくなった短くなったえんぴつでも……を手で握り、考えながら、キーを打つのではなく、手で文字を書く・・・、この作業をやっているときの感覚がまったく違うんですね。

ひょっとすると、デジタルであろうがアナログであろうが出てくる結果は同じなのかも知れません。

ですけど、何かが違うんですね。

その差違を言語化するには、まだまだ宇治家参去の語彙とセンスが貧弱ですので、その感覚に言葉を与えるのは不可能なのですが、たしかに何かが違う。

そんな感覚があります。

ですから、ときどき、意識的にどちらのデバイスを使ってもできるものであったとしても、あえて、万年筆を使ってみるとか……逆にいえばiPadでやってみたりとか……するように心がけております。

たしかにどちらかで全てを済ませてしまうと、一元化できて楽といえば楽なのですが、あえてそうしない……といいますか一元化は基本的には不可能でしょう……ということで、人間の感覚というものが柔らかくされるとでもいえばいいのでしょうか、そうなるように心がけております。

ですから、ある意味では、レポート添削の作業というものは、読んで種々指摘したり評価したりする際に、あえて万年筆で頭と手を使いながら記入する、そうするようにしております。
※その対極が自分の場合は予定管理をすべてデジタル化してしまったというところでしょうか。

別にどちらが偉大であるとか、どちらが低いのかってことではありません。
くりかえしになりますが、それぞれにアドバンテージがあり、同じようにディスアドバンテージが存在する。全てをどちらかでまかなうことも可能であるが、そうすると、長所短所の問題から現状ではどこかでひずみが出てしまう。

であるならば、利点は利点で利用し、欠点は欠点で補いながらも、その間のズレをしりながらも、あえて楽しんでいく……その辺が大切なのかなあと思うんですね。

宇治家参去の場合、万年筆の話をながながとしたように、iPadを即買するようにデジタルデバイスが大好きにも「かかわらず」それ以上に、アナログスタイルも大好きです。万年筆に限らず、電池を必要としないデバイスは特に大好きです(ですからアナログ・カメラはライカです)。

ですから、その意味では、デジタル以上にアナログを旗印を掲げて、例えば、「〝書〟の文化 復権」などとやったほうが、キャラ的には似合っているのかも知れませんが、そのことがナショナリズムの背比べと同じように不毛なことでもあることを承知しておりますから、そういう恥ずかしいまねはいたしません。

ですけど、まあ、旗印は挙げないまでも、少し軸足をアナログに重点を置きながら吐露するならば、やっぱり、キーではなく、実際に道具を手にとって、頭を使いながら、それを使いこなす感覚・作業の試行錯誤とは、なにか職人が鑿で木や石と向かい合うような真摯さがあるような気がします。

まあ、まさに簡単にコピペ、削除できませんしネ。

なんといいますか、実際にpenをとって、紙に向かう作業というのは、そうした神々しさのような〝開け〟があるような気がするんです。

本なんかも同じかもしれません。

まあ、そういいつつ、キーボードを叩いてこの文章を入力していますがね。

そのへんが実は現代の陥穽というところでしょうか。

まあマクルーハン(Marshall McLuhan,1911-1981)が「枠組みがコンテンツを規定する」とのテーゼが分からなくもありませんが、それだけでもないんだろうと思います。

同様に、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の技術への危惧もわからなくもないんですが、それだけでもないんだろうと思います。

まあ、正直にはドイツ製品は大好きですし、その意味ではややハイデッガー寄りでしょうが、それでも、新しいものも大好きです。

ただ、どちらかに〝溺れない〟……福澤諭吉センセ(1835-1901)が好んだ言葉を使えば〝惑溺〟……ようにするために、どこかで戦略的に〝遊ぶ〟しかないですね。

ということで、ぼちぼちいっぺえはじめようかと思います。

ただしかし、酒には毎日惑溺しているなア~。

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旨いもの・酒巡礼記:香川県・高松市編「とり料理 かど弦(かどげん)」

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 子供のころ、祖父がよく浅草の〔中清〕の天麩羅を食べに連れて行ってくれたが、さしてうまいとはおもわなかった。
 〔金田〕の鳥なべも同様で、どうせ浅草で御馳走をしてくれるのなら、レストラン〔中西〕のカツライスか、チキンライスのほうがいいとおもった。
 私の母方の祖父は飾り職人だったが、趣味のひろい人で、暇さえあれば芝居見物や、または上野の美術館へ絵を観に行くとか、相撲がはじまれば出かけて行くし、小遣さえあれば、家に凝としてはいない人だった。
 母が小学校を卒業したとき、そのお祝いだというので、
 「さあ、今日からは芝居を観てもいいよ」
 こういって、二長町の市村座へ、先代・吉右衛門と六代目菊五郎の〔伊賀越道中双六〕の通し狂言を観に連れて行ったそうな。
 祖父が「うまいか。うまいだろう」というから仕方もなく「うん。うまい」と、こたえはしたが、子供のころは天麩羅や鰻よりも洋食のほうがよかった。
    --池波正太郎「天麩羅」、『日曜日の万年筆』新潮文庫、昭和五十九年。

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池波正太郎(1923-1990)先生の述懐をひもとく宇治家参去です。

たしかに「子供のころは天麩羅や鰻よりも洋食のほうがよかった」し、同じ肉を食べるにしても、鶏肉や豚肉よりも、牛肉がやっぱり一番うまかった。

子供の時分、大人からは「牛肉が一番旨いのだろうが、ものによっては、やっぱり、鶏や豚が牛に勝ることもある」

……などと聴かされたこともありますが、その意味がその当時はまったくわかりませんでした。

ですから、「うまいか。うまいだろう」などとふられますと、仕方もなく「うん。うまい」とこたえはしましたが、「だけど……」などと口にのぼせようとして、ふとその言葉をしまい込んだこともありました。

ただ、しかし、大人たちが鶏肉や豚肉について「うまいか。うまいだろう」ということに関して小さな時分には理解できなかったわけですけども、最近になってようやく、その意味がおぼろげながら理解できるようになった節がありますので、その意味では、遅くなりましたが、宇治家参去も味覚に関してはようやく大人の仲間入りができたということでしょうか。

前置きがながくなりました。

先週、香川県へ出張した折、弟へ「うどんのほかに何をやっておくべきか」と誰何したところ、

「骨付き鶏だろう」

と言われておりました。

骨付き鶏とは、鶏のもも肉をまるごと一本、スパイスをふりかけて焼いただけの料理なのですが、すこしピンとこず、たしかに香川県で住んでいた頃……遙か昔ですが、たまに「一鶴(丸亀市)」なんかで食べていた記憶がありますが、上述したとおり、肉=牛肉⇒最高という図式しか持ち合わせておりませんでしたので、

「ほんとうに、食べて帰らなければならないのか?」

少し悩みましたが、まあ、言われるままに行ってみようということで、いくつかのお店は弟からリサーチしていたのですが、高松駅に到着しますと、あいにくの雨模様。

スーツケースも引っ張っておりますし、「行くべき」といわれた銘店は駅から遠い!
しかも途中で買い物したり所用があって、へろへろになっておりましたので、

ここはひとつ、飲兵衛の〝勘ばたらき〟に頼っていくか!

……ってことで訪問したのが、「とり料理 かど弦」

高松駅を降りて、三越のほうまであるき、アーケード街が数本あるわけですが、その街と街をむすぶショートカットの通りに佇む居酒屋です。

すでに雨が激しく降り出し、真っ暗になっておりましたが、

「ここなら、たぶん、まちがいないだろう」

……ってのれんをくぐると、

「まちがいない」

……お店でございました。

さて、駅を降りてから荷物をひっぱりながら二、三用事をすませるために歩きくたびれていたこと、雨に祟られたこともあり、モーレツにくたびれておりましたので、

まずは生(サントリー・プレミアムモルツ)をお願いして、クィックのスライス・トマトで涼を得たわけですが、人生におけるこのちょっとした行為によって、それまでのくたびれ感が散逸してしまうので不思議なものです。

中ジョッキというものはなぜか数十秒の命しかありませんので、もう一杯お願いしてから、瀬戸内海は天ぷら(=この地域では魚のすり身の練り物を揚げたものをそう呼びます)が有名ですし、伊予の「じゃこ天」はうまいしなア~ということで、「とり料理や」ですが、宇和島産の「じゃこカツ」をお願いしてから、

お姉さんに、骨付き鶏についてすこしお話を伺う次第です。

骨付き鶏といった場合、きほんてきに「おやどり」「ひなどり」と肉が分かれますが、前者は「大人のにわとり」で、肉質がカタメということで食べ応えがあるそうで、後者は「子供のにわとり」ということになりますので、こちらは柔らかく食べやすいそうな。

ということで、軟弱モノですから「ひなどり」でオーダー!

次々と生ビールと格闘しつつ、先にお出ましいたしましたのが、「じゃこカツ」です。
これは「じゃこ天」に衣をつけ、トンカツのようにサクッと揚げたもので、カツのようにトンカツソースで頂くわけですが、あつあつをふうふう口に運びますと、

「肉じゃねえか、これ」

目を剥いた次第です。

すでに揚げた「天ぷら」なるものを再びトンカツのように揚げたにもかかわらずさっぱりとしてい、やわらかかつジューシー。

素材がいいのでしょうねえ。

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カント(Immanuel Kant,1724-1804)が「いやます畏敬の念と……」って『実践理性批判』で述べておりますがそのくだりを思い起こしつつ、「食べて帰った方がよい」といわれていた「讃岐の骨付鶏 ひなどり」がお出ましいたしました。

殺風景な金属のトレーのうえに、素朴なもも肉がどーん!

湯気で目がねがくもります。

やすものですから。

しかし曇ると同時に鼻から脳髄へと、香ばしい肉のにおいが駆けめぐるという始末ですから、

頼んで間違いなかった!

……というわけですが、安堵する暇はありません。

鉄は熱いうちに鍛えなければならない。そして焼き物は熱いうちにやらなければならない、ということで、骨をつかんでガブリ!

こんなはずはなかったんです。
子供時代に何度も頂いているんです。
旨くなかったんです・・・記憶のなかでは……。

記憶が足下から崩壊する。
先入見がこなごなに砕け散る。

人間という生き物は、基本的には、これまでのできあがったものの見方のなかで、それがこわれないように、そしてそこからしかものごとを判断しないように人生と向かい合う局面の方が多々あり、たしかにそれで生きていく方が楽チンで、それが壊れてしまうと、かなり頭を抱えてしまう……そういうことが多くあるのですが、後者の衝撃を嬉しく頂いたというところでしょうか。

表面は揚げたようにカラッと。
中は大トロがとろけるように。
熱い肉汁は、甘露の味。
秘伝のスパイスは食を誘う。
パリッパリッの表面の皮は最高の珍味です!

スパイス振って焼いただけなんですがね。
シンプルだからこそ旨い!

いやー。
ちっぽけな先入見や憶測の崩壊とはアリガタイものでございます。

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生ビールはすでに三杯が終了しておりますので、ぼちぼち、日本酒へ移行ということで、、、

「石鎚本醸造極み辛口」(+10)
「さぬきよいまい純米酒」

あたりで、骨付き鶏の興奮をおさえつつ、一休み。
もう1本おやどりで行くか!

……というほど、若くもありませんので、ここは串カツならぬ鶏串をお願いしました。
揚げ物ですからすぐ登場しましたが、串が五本!

しかもそれぞれに部位が違うというわけで、串で食べ比べるように、その味わいを堪能させていただきましたが、当然鶏ですので、豚にくらべると諄くなくクセがなく、さっぱりとしているのですが、肉そのもののレゾンデートルはそれとなく律儀に自己主張されているという次第で、ほんとうに、「鶏に完敗」という一時間です。

ホテルへ戻り、明日の準備もありますので、このへんが潮時がということで、最後に生ビールをもう一杯頂戴してから、店を辞した次第ですが・・・。

牛もたしかによい。
豚も豚なりにたしかによい。

しかしながら、鶏もよい。
しかも鶏は大人の味わいである。

そのことを確認し、面目をあらたにしたひとときでした。

祖父が『うまいか。うまいだろう』といわれれば、今のわたしは「仕方もなく」〝うん。うまい〟と答えることは不可能です。

「まじ、うまいっす」

こう答えるでしょう。

お近くにお立ち寄りの際はどうぞ。

ああ、忘れるところでした。

大人になってから逝きましょう!

■ とり料理 かど弦(かどげん)
営業時間 【月~土】16:00~0:00
     【日・祝】16:00~23:00
定休日   無休
住所 香川県高松市百間町9-1

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