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「そんなわけで我々は、プランBというものが必要になってくる」

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 しかし現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない。我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である。「いつも」とまでは言わないけれど、経験的に言って、それが薄暗い報告である場合の方が、そうではない場合よりもはるかに多い。配達人は帽子にちょっと手をやり、なんだか申しわけなさそうな顔をしているが、彼が手渡してくれる報告の内容が、それで少しでも改善されることはない。しかしそれは配達人のせいではないのだ。配達人を責めるわけにはいかない。彼の襟首をつかんで揺さぶるわけにはいかない。気の毒な配達人は、ただ上から与えられた仕事を律儀にこなしているだけなのだ。彼にその仕事を与えているのは、そう、おなじみのリアリティーである。
 そんなわけで我々は、プランBというものが必要になってくる。
    --村上春樹「死ぬまで18歳」、『走ることについて語るときに 僕の語ること』文春文庫、2010年。

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火曜は短大での14回目の哲学の講義。
残すところ後1回。

本日は、「人間主義」の問題に関して概要のみですが、学生さんたちと闊達に言葉を交わすことができたのではないかと思います。

人間主義とはこれまで何度も言及している通り、人間を壊すものでもあれば、人間を活かすものでもあり、環境をぶちこわすものでもあれば、環境と共生させる視座を内包した発想でもあります。

その微妙なバランスを固定化させない一瞬に、人間主義が光り輝くわけですが、まあ、このへんが実際の生活の中ではむずかしいところ。

結局のところ、われわれはどこかに重点をおいて生活をおくってしまいますので、自分が掘った落とし穴に、知らず知らず落ち込んでしまうということでしょうか。

ただしここでいうバランスとは、いずこにも重点を置かないという意味での作業仮説としての客観主義というものではなく、どちらかといえば、泥水のみながらも、そして清水のみながらも、偏らないという意味でのリアリズムというところでしょうか。どこにも重点を置かないということは、基本的には「アリエナイ」事態です。ですから状況としては重点移動しながら、平均台から落ちないように配慮するという中庸というところでしょう。中庸とは確かに極端を避けるということですが、右でもない・左でもない、単純な真ん中というわけではなく、現実の中で、現実を引き裂いてしまう極端に傾かないそのあたりだと思います。

弥次郎兵衛がひっくり返らないのある意味で偉大でしょう。

さて……、
戻ります。

ですから、そこからの組み立て直しが不可避的に要求されてしまう。

それが日常というものだと思います。

これまで短大の哲学(15回講義)では、基本的に9章からなる私家版の教材をつかって講義を形成していたのですが、今回は、なんと……ある意味でよくない知らせ……、4章分ほど、まるまる授業で扱えなくなってしまいました!

まあ、こりゃあ、学生さんの関心やニーズを大切にしながら、ナイーヴなところに孫の手を忍ばせてしまい、シラバスで「やる内容一覧」として当初掲げていた部分が、結構なところすっとんでしまいました。

まず、受講生の皆様すんません。

ですが、同時に、なかなか、授業では手の入りにくい微妙な問題に関して突っ込んで議論できたということでお許し下さい。

しかぁーし!

それでも、絶対に触れておかなければならない翠点というやつも、れっきとして存在します。

それをあと1回の授業でやりきらなければなりません。

そんなわけで、、、

「そんなわけで我々は、プランBというものが必要になってくる」

……というところです。

しかぁーし!

こうした事態は想定外ですので、プランBなどというものは想定されておりませんでしたので、アンチョコなんて存在するわけでもなく、最終講義に望まなければなりません。

まさに、そうした事態の通知というやつは、、、村上春樹(1949-)さんが粛々と筆致を進めるとおり、

「配達人は帽子にちょっと手をやり、なんだか申しわけなさそうな顔をしているが、彼が手渡してくれる報告の内容が、それで少しでも改善されることはない。しかしそれは配達人のせいではないのだ。配達人を責めるわけにはいかない。彼の襟首をつかんで揺さぶるわけにはいかない。気の毒な配達人は、ただ上から与えられた仕事を律儀にこなしているだけなのだ」

という状況との出会いというヤツです。

そして一言付け加えるならば、、、

「彼にその仕事を与えているのは、そう、おなじみのリアリティーである」。

……という始末です。

これが1週間後の授業であればヨユーをもって望めそうなのですが、千葉の短大の補講の都合で、最終講義を金曜日にフッっておりました。

いやー、寝れないけれども、呑んで栄養を補給しながらしのいでいくほかりません。

「できなかった」

……つうのいやですからネ。

がんばります。

さて……、

「我々が人生のあるポイントで、必要に迫られて明快な結論のようなものを求めるとき、我々の家のドアをとんとんとノックするのはおおかたの場合、悪い知らせを手にした配達人である」

……というわけではありませんが、先週初めに、クレジットカードのポイントがまたしても貯まっていたので、ギフトカードへポイントを振って送ってもらうようにしていたのですが、

知らない間に届いていたといいますか、宇治家参去が不在時に配達されていたようにて……。

「これみよがし」

……に、自室のデスクの上にで~ん!と置かれておりました。

前回も同じパターンでした。

本来的には細君に黙っていて、自分で消費するというのが筋書きでした。

そして、このポイントは家族カードではなく、家計とは収支を別にしたワタクシ個人の消費に対するポイントを転換した訳ですので、家人に振る舞う必要もないわけですが、前回はなんとなくクリスタルではありませんが、細君に強奪された訳ですけども、、、

同じパターンにて、デスクの上にで~ん!

これは忸怩しながら、渡すよりも、

「これで何か使いな!」

……ってやるほうがハンフリー・ボガード(Humphrey DeForest "Bogie" Bogart,1899-1957)だよな!

……って考え直し、

「ささやかな、プレゼント」

……などと付箋をつけて、今のテーブルにおいてきた次第です。

いやー。

「しかし現実の人生にあっては、ものごとはそう都合よくは運ばない」。

村上春樹さんの言葉には脱帽です。

いやぁ~、しかし、なんでおいらだけ「貧乏くじ」ひくんだよぉぉぉぉ。

……って冷蔵庫を開けると、大好きな黒龍(黒龍酒造株式会社・福井県)の普通酒ですが、「黒龍 逸品」が1本冷やされておりました。

「予定調和」というのは、反吐がでるほど大嫌いな概念ですが、ひとまず、これを呑んで寝ればすっきりしそうです。

……ツーカ、単純。

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コメント

初めまして。
なんか迷いこんでしまったところがここでしたので、敷居が高そうなので少し考えたんですがやはりコメントします。
まだ全体を勿論把握してないんですが、ただ私のたまに書いてる幼稚なブログとは月とスッポンだし比較するのも失礼だということが解った程度です。

すいません余談はさておき、
私は全てにつきど素人な者ですが、実は、進化論を否定する熱心なキリスト信仰の様々な分野の人達のニュースを耳にしてから少々経ちますが、究極的にキリスト信仰、つまり聖書に基づいて生きるのがいいんでしょうか。
単楽な質問で申し訳有りません。
そうです、私はクリスチャンではありませんが、カミさんがそうでして、そんな訳で時々暇なときは福音に行っているんです。もう三年経ちます。(そうなんです。中途半端な状態です 笑)
元々信仰心の薄い典型的な日本人ですので、罰当たりな言い方をすれば、このまま曹洞宗のお寺に葬られてもいいし、またここでクリスチャンに変化し、その前に神を信じる誓いが必要でしょうがイエスキリストの信仰者として生きていくのも平気なんですね。
それは困ったもんだねぇ‥と言われそうですが_。

そこで進化論の云々ですが、私はこういう短絡な人間ですから、人間は人間、動物は動物として神が創った…これがいいなぁと思っています。更には、
「どっちでもいいことじゃん、人間は他の生物同様必ず死ぬ生き物なんだから_。死ぬものが科学を信じようが神を信じようがどっちでも同じでしょ。それなら、聖書を信じて死んだほうが気分がよく死ねるじゃないでしょうか‥。」(笑って許して下さい)
というような考えなんですが問題でしょうか。
素人はこんな考えになってしまいます。問題のようですね。

長くなりすみません。何十年ぶりに学校の先生に質問してるような気持ちで少々高揚気味です。そこでもう一つ知りたいんですが、このエントリーの中に出てくる「人間主義」という言葉ですが、私の知人に創価学会に夢中になっている者が何人かいるんです。その一人が数年前あたりから人間主義人間主義と連呼するようになったんです。
私としては元々創価学会をカルトと認定しているので、彼らにも時々批判めいたことは言ってきています。最初は批判することに対し豹変しそうでしたが、私もしつこく辛抱強く説得するつもりで、覚醒させるつもりで付き合いはしてきてます。逸れましたが、その人間主義がどうしても違和感を感じ、また気色悪くて、最近は怒りさえ感じるんですが(笑)、何なんでしょうか。人間が中心になって、なんでもやっていいということになりはしないでしょうか。思いましたね、これは創価学会らしいと。ご都合主義がやりやすいわけですね。

すいません。駄文が長くなりました。出入り禁止にならぬよう頑張ります(笑)。
またお邪魔したいと思います。
失礼します。
(エンタメ見る感じで宜しかったら覗いてください。ブログ初心者で素人の幼稚なブログですがhttp://ameblo.jp/ojirogawa/

投稿: shima | 2010年7月15日 (木) 18時20分

shima様

書き込みありがとうございます。

まあ、要するに飲んだくれブログですので格調のたかいアレではありませんので、フォロー・リムーブ自由でよろしくお願いします。

さて、いくつかポイントがあるかと思うのですが、ひとつがキリスト教信仰の問題でしょうか。

これはキリスト教に限らず、信仰とは、2番、3番があっての1番という相対的な順列での選択ではなく、2番もなく、3番もない「1番」という問題ですので、ワタクシが容喙できる問題ではないと思いますので、どのようなとらえ方をするにせよ、「そこに決断しよう」と決めた時がパウロのいう「眼からウロコ」(使徒言行録)になるのではないかと思います。

ですから、一神学徒として……クリスチャンではありませんが……おすすめもできなければ、否定もできないというのが矜持かと思います。

すんません。決断に影響を与えなくて。

しかし、やはり、これは還元主義的アプローチかもしれませんが、どこまでいってもその問題は、その当事者の問題になりますので、そう表現せざるを得ないのが難点です。

さて……。

もうひとつの人間主義ですね。

どのような立場をとるにせよ、基本的には20世紀の思想・哲学の世界では「人間主義」という考え方は評判が悪いのが事実です。

なぜなら「人間のために」といいながら「人間のために」ならなかった状況が存在するからです。

凡庸な事例になりますが、「人間のために」という「開発」が「公害」という事例を引き起こしたことを踏まえてみれば証左です。

しかし、そうだとはいっても赤ん坊を産湯をすてるのと一緒に捨て去ることも不可能です。だからその再検討が必要なのではないか……それが現況だと思います。

その翠点に関しては、様々な脱構築が可能ではあると思いますが、自分自身としてはひとつ想定できるのが、人間は素晴らしいと同時にウンコである……この自覚ではないかと思います。

前者に傾いたのが人間「中心」主義の陥穽です。
後者に傾いたのが人間「否定」主義の陥穽です。

しかし、人間はこの両方のチャンネルを内在しているんです。

ですからその両極を固定化させずに、人間をとらえながら、考えていかなければならないのではないか……そう思われて他なりません。


この辺の消息に関しては過去ログになりますが、以下のエントリーにて議論しておりますので、参考にしていただければと思います。

人間主義再考<1> 評判の悪いヒューマニズム
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_6f86.html

人間主義再考<2> 被造物の自覚、凡夫の自覚
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_af37.html

人類と言ったとき、君は誰かの顔が浮かぶか?
http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_0fcd.html


すこしこの問題に関しては再々考が必要なのですが、基本的には、村上春樹さんではありませんが、「これはこーよ」って氷山の一角を氷山そのものと捉えないものの見方は必要不可欠なのだとは思います。


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たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。私たちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。それが(ここだけの話だけれど)わたしのささやかな世界認識の方法である。
    --村上春樹『スプートニクの恋人』講談社文庫、2001年。

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投稿: 宇治家参去 from iPad | 2010年7月16日 (金) 03時49分

有難う御座います。
何点か難しいところもありましたが、
何となく解ったような気持ちになりました。
というより、こうしてその道の専門家に答えて頂くと、
まだまだ勉強しよう…という気持ちになります。
まだいろいろお聞きしたいことがあるんですが、
ちょっと気を静めてからコメントします。
今日はただ答えていただいたことに嬉しくてコメントした次第です。

ことろで相当ワインなどお酒がお好きなようですね。‥子供の頃に酒の好きな素晴らしい先生を思い出しました。
小学校の時に、いつも酒臭い息をまき散らしていた先生がいました。
卒業生のほとんどがこの先生のファンでしたね。
豪放磊落っていうんですか、質実剛健て感じです。
教え子たちが卒業して五年ほどしたら教員を辞めていました。
家が農家で、ある夏の日の桃畑で、
脚立に登って桃の剪定をしている姿を見ました。
その姿を見たとき、いろいろな感慨が私の頭の中を巡ったものです。
今この先生は70歳位ですが、日教組を叩き潰す!と、
気力を振り絞って活動しているようです。
久々にそんな先生の近況を耳にした時、
また更に感慨が深く巡りました。

すいません。また余計な話になりました。
ではまたお願いします。
失礼しました。

投稿: shima | 2010年7月16日 (金) 16時21分

shima様

ありがとうございます。

いずれ少し近況が落ち着けばこの辺の消息に関してひとつまとめたいとは思っているのですが、なかなか進まず恐縮です。

いずれにしても、大切なのは、国民的作家と呼ばれる吉川英治氏のモットー「我以外皆我師」という心根かと思います。

自分以外からすべてを学んでいく。そうした謙虚な姿勢があれば、敵と思うようなところからも学ぶことができるというものです。

おうおうにして、生活しているなかでは、「我以外皆我師」というよりも「我以外皆我弟子」というスタンツに傾きがちになるものです。

そのあたりを意識的に自覚する中で、何を考えていかなければいかないのか。現実のなかにおける全体のなかでの有機的な関係のなかで考察を進めていかなければなあと思う次第です。

正直ツマラナイ雑文が多くて恐縮ですが、今後ともどうぞ。

投稿: 宇治家 参去@iPhone | 2010年7月16日 (金) 23時21分

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