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けれども、国家は、それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家との対立において形成される。

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 国家とは、あるいは「幻想的共同体」「共同性の幻想的形態」(マルクス/エンゲルス)であり、あるいは端的に「共同幻想」(吉本隆明)であるかもしれない。けれども、国家は、それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家との対立において形成される。国家という共同性の単位がみずからに幻想を要求するにいたるのは、そのあとのことにすぎない。--国家は、可能性において戦争への準備を内在させている。国家とは可能性における戦争への投企である。
    --熊野純彦『和辻哲郎--文人哲学者の軌跡』岩波新書、2009年。

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詳細は措きますが(※)、市井の職場で仕事をしていて、クレームではありませんが、見識を伺うような意見に遭遇し、頭をかかえつつ、たしかに「人間」という存在は、その存在に即して存在しているという意味では代換え不可能な「唯我独尊」として表象することは可能なのでしょうが、現実にはそれだけでもない……そんなことをつらつらと考えさせられた宇治家参去です。
※詳細はおきますが……というわけですが詳細?は、家人のクレジットカードで決済しようとしたお客様へ「できません」ってキチンと説明責任はしたのですが、「他の店ではできたじょー」って謂われ、「いや、だから、ここは他の店ではなく、ここの店ですから~」って寸法。

たしかに、その人の存在はその人に即しているという意味では「唯我独尊」なのでしょうが、大多数のひとのなかで生きているという意味では「『あいだ』になりたち」しているということを失念してしまうとどえらいことになってしまう。

その辺をきちんと踏まえないと、失礼な表現かもしれませんが、恥ずかしい「裸の王様」になってしまうということを忘れてはならないのだろうと思います。

これはナショナリズムの問題に関しても同じかもしれません。代換え不可能な当の国家にその存在が即しているという意味では確かに代換え不可能な「唯我独尊」であることは否定できませんが、その「唯我独尊」というものは、まさに「それ以前に、国家と国家との「あいだ」になりたち、他の国家との対立において形成される」という意味で相対的な価値しかもっていない……。

その辺をはき違えてしまうと、「他の店ではできたじょー」式なジレンマ……たとえば、他の国も植民地主義やってきたのに、オレだけ文句いわれる筋合いはない。ましてや他の国よりもキチンとやりましたよっ……って言い方になっちまうというわけではないかと思います。

正直議論が目くそ鼻くそなんです。

よりその存在に即した美しさを演出するのであれば、「あいつよりマシ」っていうような議論は忌諱すべきなんです。

その辺がマア、誤解の総体というところでしょうか。

さて……。

市井の職場で久しぶりに夕刻、息抜きに屋上へ出てみると、これまた見事な富士山です。

10月~3月は東京からも澄んだ空気のお陰で富士山がよく遠望できます。

7月に、その勇姿を拝見させて戴いたのは初めてです。

いやー。

なかなかいいもんです。

まさに「富士の高嶺を知らざるか」ってところですが、富士山の美しさも、確かに、その代換え不可能なその富士山という存在に即した美しさではあるわけですが、それは同時に他の山々との対比のうえでの美しさでもあるという、この二重契機をすっとばしてしまうと不幸になってしまう。

つまり、美が醜へと転換してしまう。

このへんのことをキチンと踏まえないと、不毛な議論ばかりとなってしまいます。

つうことで、呑んで寝る。

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