28時の刺身でいっぺえ
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戸坂は『日本イデオロギー論』の「日本倫理学と人間学」と題された一章で、和辻の方法を問題とし、次のように書いた。「「倫理」も「人間」も「存在」も皆日本語としての夫であって、従って之によって解釈される倫理そのもの・人間そのもの・存在そのもの・は、単に日本語に於ける夫等であるだけでなく、正に日本のを基準にした夫等のものでなければならなくなる」。だから、「「倫理」という国語によってしか表せないものを更に又「倫理」という国語の文義的解釈によって解釈するなら、倫理という日本語ばかりでなく、倫理そのものの日本性を、同義反復的に結論するのが、ノルマルなロジックになるだろう」。
ここには一見したところひどく素朴にみえて、そうとうに本質的な批判が含まれている。日本語によって思考された倫理それ自体が、日本の倫理性へと回帰するという問題がそれである。柳田國男にあっては「一国民俗学」(子安宣邦)の成立が問われるように、和辻をめぐっては一国倫理学の形成が問題とされることにもなろう。
この国の日常語には、さまざまに有意味な直観が折りかさなっているはずである。それは、すべての他の言語の場合と同様である。哲学することが、ギリシア以来の普遍的な思考に参与することなら、日本語で哲学することは日本語の固有性をむしろ抹殺する。日本語による哲学のこころみ自体に過剰な重量をかけることは、かえってドイツ語によるギリシア的思考の『反復』という、ヘーゲル的/ハイデガー的な志向を「模倣」することになるだろう。港道隆が周到に腑分けしてみせたそうしたことの消息に対して、和辻はどのていど自覚的であっただろうか。
--熊野純彦『和辻哲郎 ーー文人哲学者の軌跡』岩波新書、2009年。
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哲学なんかは基本的にはマルチランゲージでやらないと話にならないのは承知なんですけど、変様としてマルチであったとしてもどこまでも出自はつきまとってしまうというのが人情です。
しかしその出自を忘れてしまうと大変になってしまいますし、出自をはなれた客観性とか公共性も存在できませんから脱却も不可能というところ。
要するに、ヴェーバー(Max Weber,1864-1920)の価値自由ではありませんが、どこまで自覚できるか、そこが大切です。
つうことで、さきほど、本日の授業の仕込みが終了。
これから、少し、刺身を食べながら飲んで沈没です。
いやー、日本広しといえども、この時間に酒を飲んで、刺身を食う哲学研究者はいねえだろうと思いつつ、そう思うこと自体が思い上がりだよな……と思いつつ無限の自己言及をしている宇治家参去でした。
つうことで、お休みなさい。
和辻哲郎―文人哲学者の軌跡 (岩波新書) 著者:熊野 純彦 |
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