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「相互に訂正しあいながら伝達すること」

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 カントが友情について語りうることがらは、アリストテレスにおける古代の古典的分析とくらべて、まったく見劣りしない。カントの哲学は人間的であり厳密なものであるが、そのようなカントの哲学にとって友情は、「考えること」とは、相互に訂正しあいながら伝達することであるととらえる。その把握にいたるまで、基礎を与えるものであったからである。それは、友情が、西洋哲学の起源にあって、ソクラテスの思考ほうほうすべての原型にとってそうであったのと同様である*。
* ディルタイのようなひとの孤独な思想的労作も、ヨルク・フォン・ヴァルテンブルクとの友情に負っている。ヨルクは、その「個人的良心」の傾向にもかかわらず、学問の道もふたりで歩いたほうがよく、多くのことばは答えをつうじてはじめてうまれることをみとめている。ディルタイも、「自己省察」へのおなじような傾向にもかからわらず、「哲学以外では、古代人の意味での友情が、この問題に充ちた生における最上のもの」であると認めている(『往復書簡』二一六頁)。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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週末に何度か、所用があり埼玉へ出かけることが多かったのですが、ちと本日で最後になりそうです。

要するに、KOで埼玉を元気にするぞ……って訳なのですが、仕事とその他要件もありますので、この日曜日で最後になりそうです。

まあ、KOの先輩ががんばろうとしているところをスルーすることもできない、……これがKO社中のよいところですが、最後の晩餐を起きてからしてこようかと思います。

いずれにしても、レーヴィット(Karl Löwith,1897-1973)の語るが如く、次の部分、、、

「カントの哲学は人間的であり厳密なものであるが、そのようなカントの哲学にとって友情は、『考えること』とは、相互に訂正しあいながら伝達することであるととらえる」は、至極大切なのではないかと思う次第です。

相手がどう判断するのではないのでしょう。

一方的な自己主張……これ大嫌い!……でもなく、相づちをうつだけでもない双方向な関係、これを大切にしたいと思います。

伝統的に日本の精神的エートスにおいては、なにもかにも胡散霧散していまい、

「いや、まあ、まあ」

……って丸め込んでしまう精神文化なのですが、それでは生きている現場をレコンキスタすることは不可能です。
※ちなみにレコンキスタって言葉を使う時点で西洋伝統文化の王道であるキリスト教主義的ですがそれはさておきます。

いずれにしまして、結果ではなく、相対(あいたい)するなかで、

「相互に訂正しあいながら伝達すること」

すこし勇気をだしつつ、この地上に、忖度ではない、なにがしかのリアルなものの立ち上げに与したい……と思う宇治家参去です。

いずれにしまして話してみないと分かりませんからネ。

イヤ、ホント、「いや、まあ、まあ」ぢゃアねえんですヨ。

つうことで、寝る!

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