« 旨いもの・酒巡礼記:香川県・高松市編「とり料理 かど弦(かどげん)」 | トップページ | 【覚え書】「統帥権干犯問題と政党政治の自滅」、松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年。 »

「思惟と詩作」の道具を廻る冒険?

01 02
-----

 シュピーゲル なぜわれわれは技術によってそんなに強く抑圧されるのですか……?
 ハイデッガー 私は、抑圧されるとは言っていません。私は、われわれはまだ技術の本質に対応するいかなる道をも持ってはいないと言っているのです。
 シュピーゲル とはいえ、人はあなたに向かって全く素朴に次のように反問できるように思われます。ここで何が制されているというのか? すべては機能しているというのに。発電所は次々と建てられている。生産はどんどんはかどっている。人々は地球の高度に技術化された部分で手厚く扱われている。われわれは裕福に生活している。一体ここに何の不足があるのか? と。
 ハイデッガー すべてが機能しています。すべてが機能しているということ、そしてその機能がさらに広範な機能へとどんどん駆り立てるということ、そして技術が人間を大地からもぎ離して根無にしてしまうということ、これこそまさに無気味なことなのです。あなたがびっくりなさったかどうか知りませんが、私は月から地球を撮影した写真を見たときびっくりしてしまいました。人間を根無にするためにべつの原子爆弾などはいりません。人間の根無化はすでに存在しているのですから。われわれはかろうじてただ全く技術的な諸関係だけを持っています。今日人間が生きているところ、それはもはや大地ではありません。私は最近プロヴァンスでルネ・シャールと長い対話をしました。この人はご存じのとおり詩人であり、また抵抗運動の闘士でした。プロヴァンスでは今ロケット基地が建設されており、土地が荒らされているのは想像を絶します。詩人ルネ・シャールは決して決してセンチメンタルな人ではなく、また牧歌的なものを賛美するような人ではありませんが、その彼が私に向かって言いました。ここで進行している人間の根無化は、もし思惟と詩作とがもう一度暴力なき威力に達するということがないならば、もうおしまいですと。
    --M.ハイデッガー(川原栄峰訳)「シュピーゲル対談」、『形而上学入門』平凡社、1994年。

-----

もともとは手書きといいますか、手帳、ノート、覚え書etc……、すべて選りすぐった……といいましても使い慣れとか使いやすさに影響を受けておりますが……道具を使って、そしてその道具そのものを使う手や頭を駆使しして生きてきたのですが、ここ数年、デジタル・デバイスへ環境が移行するなかで、なかなかノートに思索をするということがめっきり減ってしまった宇治家参去です。

手帳は紆余曲折の末、フランクリン・プランナーからwindowsケータイでのアウトルック管理、nokiaのスマートフォンへ機種変更してから搭載されていたスケジューラになれず、モレスキンへ移行、iPhoneに機種変更してから、日程管理はもっぱらそれにまかせるという始末です。

ただ、手書きの方がはやかったり、自由に殴り書きできるという紙媒体の持つ本来の良さがありますので、リーガルパッドとRODIAのメモ帳だけは欠かせませんが、それでも日程管理系のものはほとんどメモっても、最終的には入力して管理するそういうスタイルがなじんできました。

手を使う道具に関してはこれまでも何度か紹介したようにこだわりもありますし、頭への刺激もありますから、もちろんすべてをデジタル環境へ移行しようとは思いません。アナログにはアナログの良さ・アドバンテージがあり、デジタルにも同じようなそれがある。ただそれだけというところでしょうか。

しかしながらその割合は、ここ2-3年でずいぶんとデジタル化されてしまったなアとふと感慨する始末です。

そんななかでもやはりアナログでなければならない部分は、書簡や走り書き云々とありますので、その際には基本的には万年筆を利用することが比較的多いかなと思います。

神保町に金ペン堂という専門店があるのですが、そこで万年筆は基本的に買い求めるのですが、量販店よりも基本的に少し(以上か?)高い価格なんです。

ですけど、店主がきちんとメンテナンス・カスタマイズしており、ふつうの流通ロットよりも書き味がよい……そうした逸品と出逢うことができるんです。

そこで最初に買ったのはペリカン(Pelikan)のスーベレーンM1000という王道万年筆だったかと思います。フツーに買ったM800も手もとにあったのですが、なんのなんの、もの自体のもつ卓越性もあるものの、日本人になじむように少し手の入ったカスタム品の書き味は、購入後15年以上経た今なお落ちることなく鮮やかで、そのクラフツマンシップには驚いた次第です。

が、当時の店主がいうには、万年筆で一番大切なのは何か……という部分で、次の点を指摘されていたことを印象的ですね。

すなわち、ひとつめは、キャップなどをきちんと定位置に設置し、きちんと持って書く、そしてふたつめは、毎日使う、というのがそれです。

基本と言えば基本なのです。
しかし、これを心がけることが万年筆利用においては最も大切だと教えてくれたのが一番の財産からもしれません。

これはどの万年筆、そして万年筆にかかわらず人間の手が接する道具においては同じなのだろうと思います。

万年筆で書くというのはある意味では慣れが必要ですが、慣れるためにはキチンと持って毎日利用するしかない。

そういう消息でしょうか。

ですから一向に字はきれいではありませんが、なるべく毎日万年筆は利用するようにしております。

メモをとるにせよ、日記をつけるにせよ、ですからできるだけにじまない紙質を選ぶように心がけるにようになったのもそのお陰かもしれません。

自分が大学生の頃はまだまだワープロ時代ですから、iPadを持ち込んでノートを取るという時代でもありませんので、様々な紙に書き込むのが王道(まあ、今でもそうなんでしょうが)でしたから、早速万年筆でノートを取るようにしましたが、その癖からでしょうか。結局大学院時代も、一部語学の科目を除き、万年筆でノートを取る習慣が身に付いてしまいました。

これもひとつの財産ではなかろうかと思います。

ちなみに試行錯誤の末、ノートではありませんが、一番、講義を取るノートとして使いやすかった媒介は、やはり京大式カードであったと思います。研究者なんかがメモや論文執筆の情報整理に用いていたがB6版のカード……表現を変えればリーフですが……なのですが、これが一番よかったかと思います。内容ごとに1枚でまとめ、項目をかわると別のカードに、そう利用しておりました。リーフですから、後から再構成するにも便利で、なによりもインクの走りがよい……重宝したものです。

現在はなかなか使う機会は減ってしまいましたが、ただ万年筆だけは相変わらず常用しております。ま、最近はオモシロ半分で、ペリカーノとかLamy abcといった各社の入門用万年筆を使うことが多いのですが、それでも正しく使えば結構書き味もさわやかで、万年筆道奥深し!というところでしょうか。

話が脱線しました。

あー、デジタルとアナログ機器の話でした。

で、、万年筆ですが、今でも生活の中で種々利用しておりますが、通信教育部のレポート添削をしておりますが、ここでの添削とコメント(評価や問題の指摘)に関しても基本的には万年筆での筆記です。
※ただし上述したとおり、字はヒジョーに汚いので、受け取られた方はごめんなさい。

このレポートにおける万年筆利用というのは、メモとか覚え書とはまったくことなる利用になるのですが、それがすなわち書き殴るというのではなく、思索しながら利用するという瞬間です。

もちろん、パソコンやiPadなどのデジタル・デバイスでもテキスト・エディタやマインドノート系のソフトウェアで入力して同じように「作業」をすることは可能ですし、消去やコピペは断然に、万年筆よりも「楽」なのは承知ですから、そうしたことももちろんやります。

しかし、同じ「作業」なのですが、万年筆……この場合別に万年筆でなくてもいいんです、使い捨てのボールペンでも子供が使わなくなった短くなったえんぴつでも……を手で握り、考えながら、キーを打つのではなく、手で文字を書く・・・、この作業をやっているときの感覚がまったく違うんですね。

ひょっとすると、デジタルであろうがアナログであろうが出てくる結果は同じなのかも知れません。

ですけど、何かが違うんですね。

その差違を言語化するには、まだまだ宇治家参去の語彙とセンスが貧弱ですので、その感覚に言葉を与えるのは不可能なのですが、たしかに何かが違う。

そんな感覚があります。

ですから、ときどき、意識的にどちらのデバイスを使ってもできるものであったとしても、あえて、万年筆を使ってみるとか……逆にいえばiPadでやってみたりとか……するように心がけております。

たしかにどちらかで全てを済ませてしまうと、一元化できて楽といえば楽なのですが、あえてそうしない……といいますか一元化は基本的には不可能でしょう……ということで、人間の感覚というものが柔らかくされるとでもいえばいいのでしょうか、そうなるように心がけております。

ですから、ある意味では、レポート添削の作業というものは、読んで種々指摘したり評価したりする際に、あえて万年筆で頭と手を使いながら記入する、そうするようにしております。
※その対極が自分の場合は予定管理をすべてデジタル化してしまったというところでしょうか。

別にどちらが偉大であるとか、どちらが低いのかってことではありません。
くりかえしになりますが、それぞれにアドバンテージがあり、同じようにディスアドバンテージが存在する。全てをどちらかでまかなうことも可能であるが、そうすると、長所短所の問題から現状ではどこかでひずみが出てしまう。

であるならば、利点は利点で利用し、欠点は欠点で補いながらも、その間のズレをしりながらも、あえて楽しんでいく……その辺が大切なのかなあと思うんですね。

宇治家参去の場合、万年筆の話をながながとしたように、iPadを即買するようにデジタルデバイスが大好きにも「かかわらず」それ以上に、アナログスタイルも大好きです。万年筆に限らず、電池を必要としないデバイスは特に大好きです(ですからアナログ・カメラはライカです)。

ですから、その意味では、デジタル以上にアナログを旗印を掲げて、例えば、「〝書〟の文化 復権」などとやったほうが、キャラ的には似合っているのかも知れませんが、そのことがナショナリズムの背比べと同じように不毛なことでもあることを承知しておりますから、そういう恥ずかしいまねはいたしません。

ですけど、まあ、旗印は挙げないまでも、少し軸足をアナログに重点を置きながら吐露するならば、やっぱり、キーではなく、実際に道具を手にとって、頭を使いながら、それを使いこなす感覚・作業の試行錯誤とは、なにか職人が鑿で木や石と向かい合うような真摯さがあるような気がします。

まあ、まさに簡単にコピペ、削除できませんしネ。

なんといいますか、実際にpenをとって、紙に向かう作業というのは、そうした神々しさのような〝開け〟があるような気がするんです。

本なんかも同じかもしれません。

まあ、そういいつつ、キーボードを叩いてこの文章を入力していますがね。

そのへんが実は現代の陥穽というところでしょうか。

まあマクルーハン(Marshall McLuhan,1911-1981)が「枠組みがコンテンツを規定する」とのテーゼが分からなくもありませんが、それだけでもないんだろうと思います。

同様に、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)の技術への危惧もわからなくもないんですが、それだけでもないんだろうと思います。

まあ、正直にはドイツ製品は大好きですし、その意味ではややハイデッガー寄りでしょうが、それでも、新しいものも大好きです。

ただ、どちらかに〝溺れない〟……福澤諭吉センセ(1835-1901)が好んだ言葉を使えば〝惑溺〟……ようにするために、どこかで戦略的に〝遊ぶ〟しかないですね。

ということで、ぼちぼちいっぺえはじめようかと思います。

ただしかし、酒には毎日惑溺しているなア~。

03_2

マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー) Book マクルーハン理論―電子メディアの可能性 (平凡社ライブラリー)

著者:マーシャル マクルーハン,エドマンド カーペンター
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

メディア論―人間の拡張の諸相 Book メディア論―人間の拡張の諸相

著者:マーシャル マクルーハン
販売元:みすず書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

形而上学入門 (平凡社ライブラリー) Book 形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

著者:マルティン ハイデッガー
販売元:平凡社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

|

« 旨いもの・酒巡礼記:香川県・高松市編「とり料理 かど弦(かどげん)」 | トップページ | 【覚え書】「統帥権干犯問題と政党政治の自滅」、松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年。 »

現代批評」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/451663/35614918

この記事へのトラックバック一覧です: 「思惟と詩作」の道具を廻る冒険?:

« 旨いもの・酒巡礼記:香川県・高松市編「とり料理 かど弦(かどげん)」 | トップページ | 【覚え書】「統帥権干犯問題と政党政治の自滅」、松本健一『日本のナショナリズム』ちくま新書、2010年。 »