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2010年8月

家庭のない中産階級など笑止で、現代の大都会はまさに小金のある流民で満ちている

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 「個独」など、いわゆる「団塊の世代」の無責任さの表現ではないか。彼らは(わたしも含めて)自分さえよければいい、あとにつづく世代などどうでもいいと思っている。だからこそ、バーだ不倫だ演劇だ放浪だと騒ぐのである。親の身勝手で放浪に連れ出される子どもの迷惑はどれほどのものかと思う。後続する世代などどうでもいいということは、結局、社会の連続性を信じず、世界の存続そのものをも疑っているのだ。日本に中産階級はむかしたしかにあった。少なくともあろうとした。しかしいまはない。家はあっても家族はなく、家族はあっても家庭はないからである。家庭のない中産階級など笑止で、現代の大都会はまさに小金のある流民で満ちている。
 というようなことを大声でいうととても無事で済みそうもないから、わたしは黙っている。黙って、また好きこのんで、いやいや独身生活をつづけながら、日本も長くはない、長くはないに決まっているから嘘とは知りつつ、せいいっぱい「個独」を楽しんでやるぞと虚勢を張って日々を過ごしている。
    --関川夏央「家はあれども帰るを得ず」、『家はあれども帰るを得ず』文春文庫、1998年。

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家族というのもマア、他人同士の集まりからスタートするわけですから、理屈からいえば、ひとつのフィクションに過ぎないわけなんですが、それを「フィクションだからぶっこわせ」という革命家式の弾劾口調にも違和感があると同時に、「それはフィクションでもへったくれもねえ、実体なんだ」と家元・封建家のようにくどくどと説教をたれるのもいやでございますから、

「まあ、そんなもんなんだよな」

……ってことで、家族という制度が歴史的なフィクションであることも理解しつつ、それをぶっ壊してしまおうと思わず、そしてそれを鞏固にしようとも思わず、

「まあ、テキトーにw」

……という感覚でやるのがテキトー=適当なのではなかろうか、そう思われて他なりません。

というわけで、、、
8月31日をもって、池袋のサンシャイン国際水族館が改装のため、1年にわたる休館になりますので、昨日、家族と同道した次第です。
ま、息子殿の絵日記で、家族での思い出がないというのはマズイだろうという細君の金鉄の一言にて強引にきまったわけでございますが、一昨日もヘロヘロになるまで働いて、深夜もヘロヘロになるまで酒呑んでいたので、3時間でおこされて、炎天下のなか、水族館目指して「突入せよ!」というのは正直キツイものがあったのですが、それなりに自分も楽しませて戴きました。

毎年サンシャイン国際水族館には行っているのですが、ホント、ここは都会のオアシス的なスポット。

本格的な水族館に行きたいのであれば、首都圏でもたくさんありますし、逆に簡易なもので済まそうとすれば品川のエプソンアクアリウムというのもひとつの手です。

その意味ではサンシャイン国際水族館はその中間をいくところです。
小さい水族館といえば小さい水族館ですが、やはり小さい分、対象との距離感が近いというのはひとつのアドヴァンテージなんだよなと思いつつ、今回は1回で「はい、おわり」ではなく、2回ほどじっくりと観賞させて戴いた次第です。

しかし、フルスタイル(ネクタイにブラック・スーツ、上着常用)はきつうござんした。

途中、喫煙所にて、缶ビールをプシュとして涼を得たりしていると・・・

「ノンデル先生、缶ビール片手に築地を歩いているわけではないのですね」というメッセージが入ってきたり・・・して、、

確かに、築地を歩いているわけではないのですが、缶ビール片手にしていることは否定できず、しかも、魚を見ながら、、、

「刺身か、鮨でいっぺえやりてえ」

……などと思っておりましたものですから、、、

ん……否定できないw

哀しい晩夏の蒸し暑さ。

まあ、「人生も色々、会社も色々」と言ったのは小泉純一郎氏(1942-)ですが、色々と見て回っているとひとつ発見。

TVで巷間に流布された「ガラ・ルファ」〔ドクターフィッシュ(Doctor fish, 学名 Garra rufa)〕!
メダカのような魚が手とか腕の古い角質を餌にして、手を水にいれると、むらがってくるというお掃除屋さん。

これが実は、コイ科の魚ということで驚き!

群がってくる魚の「図」はまさにメダカなのですが、マックスで15センチぐらいまでになるとのこと。

う~む。

地球は豊穣だ!

……ということで、駅まで戻ってから、最初は西武百貨店の「ホテルオークラ ブッフェ&ダイニング サファイア」にてがっつりと思っていたのですが、長蛇で断念orz

東武百貨店に向かってから、すぐに入れた……この時点でかなり腹ヘリ……11Fトンカツや「梅八」にてランチ。

ランチ・メニューをオーダーして、小海老の唐揚げ、冷や奴にてすうぱあどらい☆

いやー、昼ビール、うまいっす。

冷酒まで手をだすか悩みつつ、瓶ビール2本で我慢して、満腹☆。

いやー、これだから、「フィクションだからぶっこわせ」という革命家式の弾劾口調にも違和感があると同時に、「それはフィクションでもへったくれもねえ、実体なんだ」と家元・封建家にようにくどくどと説教をたれるのもいやでございますから、「家族ゲーム」を楽しんだ一日……だとサ☆

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夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

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夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ  清原深養父
    --佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫、1981年。

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月もだいぶんに形を○から減らしましたし、暦の上では、すでに秋なのですが、

まったく、暑い東京です。

げふげふ。

それでも夕刻になる時間は明らかに早まっておりますし、木陰に入ればなんとなくしのぎやすい状況に、秋の到来を感じざるを得ませんが、、、

それでも、まったく、暑い東京です。

げふげふ。

今日もげふげふな一日でしたので、サクッと呑んで寝ます。

起きると水族館へ行かなければならないからだ☆

でわ。

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そうした語りは、他方ではただ、科学に疎い人間が使う比喩的な語りかたや、詩人にのみゆるされるべきものであることになるだろう。

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 自然的な外的世界と人間的な内的世界は、理論的な考察にとってふたつのことなった世界であり、このふたつの世界を特徴づける意義は手もちのことばによって与えられると考えられている。その語彙はさしあたり内的なもののためのことばと、外的なもののためのことばに分かれるようにみえる。だがひとは同時に、つぎにことに目を閉ざしつづけるわけにはいかなかったのである。つまり、内的世界が事実いかにして、「それ自体としては」「外的なもの」を意味することばによって特徴づけられ、外的世界が「それ自体としては」「内的なもの」を意味するそれによって特徴づけられるのか、ということである。意義に応じた特徴づけからすれば、その結果ふたつのケースは、ともに非本来的で、たんに「転移された」、いわば語り口(façon de parler)であるかにみえる。「厳密に考えれば」、そこでは一方で内的な(「心的な」あるいは人間的な)意義が外的なものへ移され、他方で外的な(自然的な)意義が内的なものへと移されてることになる。だが本来ひとは、動物について「高慢」であるとか、植物にかんして「控え目」であると語ることはできず、地域をめぐって「メランコリック」であるとも語りえないであろう--おなじように他方でひとはやはり本来は、人間について「柔らかい」とか「固い」とか、「犬のようである」とか「ウナギのようだ」とか、あるいはまたその歳では「花」も「しぼむ」にちがいないなどとは言えないだろう。そのように語れば、自然を擬人的に、人間を自然主義的に特徴づけることになるからだ。そうした語りは、他方ではただ、科学に疎い人間が使う比喩的な語りかたや、詩人にのみゆるされるべきものであることになるだろう。
    --レーヴィット(熊野純彦訳)『共同存在の現象学』岩波文庫、2008年。

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ぎゃふん☆

今日も疲れたぞなもし、宇治家参去です。

ほんと、とっとと辞めたいのですが、タツキがたたれると喰っていけなくなってしまいますので、今日も市井の職場でがっつり働いてきた訳ですが、ようやくスタッフの補充の許可が地区SD、運営部部長からおりましたので、8月中旬よりなんとか仕事が回るようになってきたので、少し、本来やるべき仕事に専念できるようになったのはアリガタイなあと思いつつ、どうしようもないのはこの暑さで毎度毎度へろへろ状態です。
※ちなみにGMS店舗のうちの会社は、売り場面積での人員貼り付けではなく、売上げに対する人員配置が基本ですので、売上げを上げないことには、スタッフの充足は不可能で、それどこから削減をモットーとする「怖ろしい」会社ですので、まあ、売上げがあがっているという意味では、健闘しているということでしょう。

さて……。
ピークタイムを終えてから、屋上でひとりで一服。

荘厳な夕焼けと対面する中で、言葉を失うといいますか、自然の雄大さに身を清められるというのはこのことなのでしょう。

紫煙をくゆらせながら、ぼんやりと西方をながめていると、

はい、おひさしぶりですが、、、

富士山とご対面。

この季節は大気の状態が不安定ですので、なかなかお見受けすることができないのですが、その勇姿に圧倒されてしまう次第です。

どう、表現すればいいのでしょうか。

自然の造形に「祈ろう」とはまったく思いません。

しかし、人間のもっている有限性をきちんと自覚させてくれるのは自然なんだろうなあと思いつつ、2本ほど吸ってから売り場へ復帰w。

この荘厳な感覚を表現したいところなのですが、あいにく当方詩人でもなければ散文家でもありませんのでなかなか難しゅうはございますが、いやー、感動した。

以上。

呑んでねる。

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……これまでの倫理則はすべて、ただひとつの前提条件の上に成り立っていた。つまり、個人とは、相互に依存しあう諸部分から成る共同体の一員であるということである。

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……これまでの倫理則はすべて、ただひとつの前提条件の上に成り立っていた。つまり、個人とは、相互に依存しあう諸部分から成る共同体の一員であるということである。個人は、本能の働きにより、その共同体のなかで自分の場を確保しようとして他人と競争をする。だが同時に、倫理感も働いて、他人との協同にも努めるのである(それとて、競争の場を見つけるためなのかもしれない)。
 土地倫理(ランド・エシック)とは、要するに、この共同体という概念の枠を、土壌、水、植物、動物、つまりはこれらを総称した「土地」にまで拡大した場合の倫理をさす。
    --アルド・レオポルド(新島義昭訳)『野生のうたが聞こえる』講談社学術文庫、1997年。

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どうも宇治家参去です。

いっぱしの酒飲みを自認する自分としては飲む酒以外にも口にする飲料に関しては様々な掟を作っております。

なにしろ、それが対象と向き合う「人間のあり方」としての「倫理」に他なりませんから。

さて基本的なルールとして大切にしているのは、インスタントはやらないこと。

ですから、お茶・珈琲・紅茶にせよ、基本的にはアナログ飲用です。

ペットボトル飲用だとか缶飲料は除外かもしれませんが、市販のペットボトルでやる場合も、ミネラル・ウォーター、お茶、珈琲のみというストロングスタイル!

決して、ジュースだとかスポーツドリンクなんかはなにがあろうとも手をつけません。
※ただし薬用品などは除外です。

それが「漢」と書いて「おとこ」と読む、本格派の酒呑み(つとめにん)の流儀だと自負しております。そしてそれが対象と向き合う「人間のあり方」としての私の倫理の「ひとつ」でございます。

さて……。
今年は猛暑……現在も継続中……ですので、不幸にも「熱中対策水」というのは飲用しておりましたが、まあこれは除外中の除外というやつで、どんなに暑かろうとも、アクエリアスだとかポカリスエットなどには手をだしません。

よく風邪でポカリスエットを呑むといのはありますが、自分の場合は、卵抜き卵酒にて退治するのをモットーとしておりましたので、雨が降ろうが矢が降ろうが、手をつけなかったのですが……、、、

本日、およそ20年ぶりに、アクエリアスなんぞを呑んでしまいましたw

不覚です。

どうもふらふらで、呑んだところ、微妙に回復。

物に負けてしまった。

非常に悔しいです。

……ということで、仕事の休憩中に読んでいた環境倫理の嚆矢となるアルド・レオポルド(Aldo Leopold,1887-1948)の話をしようと思っていたのですが、そのショックで論じることが出来ません。

もったいないので引用文のみ掲しますが、、、、スンマセン。

いやー、負けた。

悔しー!

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哲学の目的は、思想を論理的に明澄化することである

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哲学の目的は、思想を論理的に明澄化することである。
哲学は教説ではない。活動である。
哲学上の著作は、本質的に、解明ということに成り立つ。
哲学の成果とは、「哲学的諸命題」のことではない。諸命題が明澄になる、ということである。
哲学は、哲学なしにいわば暗濁混迷の思想を、明澄なものとし、鋭く境界づけられたものにしなくてはならない。
    --ウィトゲンシュタイン(山元一郎訳)『論理哲学論』中央公論新社、2001年。

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昨日は市井の仕事がお休みでしたので、ガッツリ仕事をやる予定でした。
ただ出来たのはレポート添削のみ(あと4通で終了)。

通信教育部のレポートですが、8月-9月はレポートの提出率がぐぅ~んとあがります。
しかし添削締切は多かろうが少なかろうが、既定の期日で締切です。

ですので、この時期はうまくやらないと、学問の仕事との調整がうまくできないので、意識的にレポートを先に添削するようにはしているのですが、やはり時間はかかりますネ。

提出してくださる学生さんひとりひとりの魂ですから、時間はかかってしまうのはイタシカタありませんが、様々なタスクに支障はでないように、時間をきちんと決めて、まわしていくほかありません。

さて……。
教員によって違うとは思うのですが、だいたい9月って忙しいんです。
学会の発表が集中するのもこの秋口。
論文(紀要や雑誌)の締切もこの時期。
そんでもって、新しい秋学期も始まる……。
おまけに市井の仕事もスルーできないというか棚卸しもあるので、仕事を「論理的に明澄化」する必要があることだけは確かです。

哲学に限らず、人間の行為とは、ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889-1951)の指摘するとおり「教説ではない。活動である」からです。

日常における問題を「諸命題」と片づけてしまうことなく、その「諸命題が明澄になる」ように意識的にし向けていかなければ、暗濁混迷なものが暗濁混迷なままになってしまうのですが、そのへんが自分は苦手なものでして……。

まあ、それもイタシカタがありません。

なぜなら「哲学は、哲学なしにいわば暗濁混迷の思想を、明澄なものとし、鋭く境界づけられたものにしなくてはならない」のが哲学者というものですが、宇治家参去は哲学者ではなく神学者ですから……ねぇ。。。

……って理由になっておりません!

さて、結局昨日は仕事の合間に息子殿と遊んだりして疲れ果てましたので、夕刻より焼き肉なんぞをやっちまい、がぶがぶとビール、日本酒、ウィスキーとやっちゃいましたので、そうそうに沈没!

今朝は早くからおきております。
で……。
「論理的に明澄化」する自然の代表が太陽だとすれば、今日も太陽は燦々と輝き、その輝きは生命を焼き殺すかのように、灼熱地獄を呈しておりますが、「論理的に明澄化」というやつも一歩間違えれば、そうした力をもっているのかもしれません。

ワタクシ、夜行性ですから太陽が苦手なんですワ。

ですから、夜半に酒のみながら、ぐだぐだと書く方が宇治家参去には似合っているのでしょうが、まあ、たまには、明澄なそして明晰な言述というのも大事なんだよなあと思いつつ、もうお昼ですね。

今日は昼過ぎから市井の仕事です。

少し仕事を片づけてからがんばろうかと思います。

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【覚え書】「米人気教授 東大で「白熱教室」、イチロー年収 再分配すべきか」、『毎日新聞』2010年8月26日(木)付。

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米人気教授 東大で「白熱教室」
イチロー年収 再分配すべきか

 NHK番組「ハーバード白熱教室」で人気のマイケル・サンデル米ハーバード大学教授(57)が来日し、25日、東京・本郷の東大安田講堂で公開講義を開いた。日本人に身近な難問を題材に「正義(Justice)」を論じ、予定を約1時間半オーバーする4時間超の熱い対話型講義となった。
 「ハーバード白熱教室 in Japan」と銘打った講義には、東大生350人と公募の社会人や学生約1100人が参加。壇上から具体的な問題を投げかけて、参加者の答えを臨機応変に取り込みながら政治哲学を説くサンデル教授の巧みな講義に、会場はたちまち熱気に包まれた。
 日米で問題になっている格差をめぐる討論では、「イチロー選手の年収はオバマ大統領の約40倍、日本の教師の約400倍にのぼる。私はイチローのファンだが、彼の所得は公正か。国家が税をかけて所得の再分配をするのは正しいだろうか」と問いかけた。
 この日の講義は10月31日、11月7日の2回にわけてNHK教育テレビで放送予定。
   【岸俊光、佐藤由紀】
    --「米人気教授 東大で「白熱教室」、イチロー年収 再分配すべきか」、『毎日新聞』2010年8月26日(木)付。

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ちょいと忙しく……というか本日中に履歴書2通しあげないとまずいので、すいませんが覚え書をひとつ。

米ハーバード大学教授・マイケル・サンデル氏(Michael J. Sandel,1953)が来日、昨日東大にて白熱教室をやったのですが、その報道記事を紹介しておきます。

正直なところ、正義論には違和感もあるのですが、正義に関してはtweetでぼちぼちささやいておりますので、まとまったところで構成しなおしてupしようとは思っておりますので、すこしお待ち下さいませ。

ということで白熱ならぬ灼熱晩夏が続きます。
皆様ご自愛専一心よりお祈り申し上げます。

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ぼくが日本社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正さは意味のない正しさだということです

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村上  ぼくは昔から、あらゆる風俗は善であると思っているんです。いや、善というのではなく、ナチュラルというのかな、すべて起こるべくして起こるのであって、いい悪いの問題ではないと思っているのです。たとえばいまの若い人がぜんぜん根性がないといって怒る人がいるけれども、もしそうだとしても、それはいい悪いの問題ではなく、そうならざるをえなかったからなっているんだと思うんです。彼らが自分で選んでそうなったわけじゃなくて、そうなるべく選ばれたんだから、良い悪いという基準では考えられない。
  だから、そういう意味では、社会がどうこうというふうにぼくは批評家的に批評したくないのだけれども、一人の小説家としては、自分が感ずるものをどのように処理するかということについて、責任を感ずるところはあるのです。
  たとえば、いまぼくはこの現実の空気のなかに暴力性を感じますよね。でも、その感じた暴力性を、良い悪いを超えた地点でどのように処理していけばいいのか、ぼくに何ができるのかと考えだすと、非常にむずかしいですね。
河合  ほんとうは、そういうのを組織化する力のある人を政治家というのですけれどね。ちゃんとした社会の力になるように、かたちをつくる。それのものすごく悪いほうの例でむちゃくちゃ上手にやったのがヒトラーですね。
村上  ぼくが日本社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正さは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、誰も痛みをひきうけていないですね。文学者の反核宣言というのがありましたね。あれはたしかにムーヴメントとしては文句のつけようもなく正しいのですが、だれも世界のしくみに対して最終的な痛みを負っていないという面に関しては、正しくないと思うのです。
  そういう意味では、僕は村上龍というには非常鋭い感覚を持った作家だと思っているのです。彼は最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている。ただ、ぼくの場合はあそこへ行くまでに時間がかかるというか、彼とぼくとは社会に対するアプローチが違うということはありますが。
  河合先生は、そういう、現代における暴力性というものに関しては、やはり意識的になっておられるのですか。
河合  はい。だから、ぼくもときどき小さい暴力を使っていますよ。
村上  ウソをつくとか……(笑)。
河合  いま必死になって“蟷螂の斧”というか、それで大きい相手と闘っているとも言えます。どこで「暴力」を使ったろうかと、ずっと思っていますけれど。実際の暴力ではなく、暴力性というものを、やっぱりどこかで上手に使っていかないと、おもしろくないんじゃないですかね。
    --河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫、平成十一年。

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どうも宇治家参去です。
ほぼほぼ一週間ぶりに市井の仕事に復帰したのですが、まさに

「娑婆世界にようこそ」

……という感じで、リハビリなしでいきなりどっぷり仕事をしてきたような気がしますが、躰を動かし、頭と心で、その感を取り戻しながら業務をやりますと、まあ、それが、、

「心地悪くない」

……といいますか(はっきり言えばとっとと辞めたいのですが)、

「まあ、負けないよ」

……って不敵な笑みがこぼれてくるのが不思議なものです。

さて休憩中に村上春樹センセ(1949-)と河合隼雄センセ(1928-2007)の対談をぱらぱらと紐解いていた次第ですが、うえに引用したような感覚をどこかで忘れてしまってはならない……などと思った次第ですので、チト入力したわけです。

要するに戦争を無くすことは可能だとは思うのですが、人間生命に内在する暴力性そのものはいかなる手段を使おうとも払拭することはできない……というやつです。

外面的規範や環境の整備としての「暴力」を否定したあり方というのは論理的には可能なはずです。しかし同時に暴力を発動させてしまう生命そのものに内在する「暴力性」を払拭することは論理的に不可能です。

だからこそ、リスクを引き受けていく必要があるんだよなア~と思いつつ、市井の職場に復帰初日は何もクレームなどなかったことは幸いです。

まさに「無事これ名馬」というやつです。

痛みをひきうけつつ、人間の匂いを払拭した形ではないところからしか、本当の意味での非暴力は立ち上がらない……そんなことを思案した次第です。

ちなみに今日は19時過ぎの出勤でしたので、出勤前に天体望遠鏡にて息子殿とお月様を観察w

なんとか見ることが出来ましたが、蚊に喰われつつ、出勤したわけですが、7月に発注していた麒麟の「秋味」がいよいよ展開……といいますか、学問の仕事をしている間に発売されていたようで、早速ゲット!

一年のうちで一番大好きな「季節モノ」のビールです。

早速、スモークしたチキンハムとスライスさせた胡瓜に、桃屋のラー油でやり始めたのですが、これが・・・

「旨い」

チキンハムの桜チップが鼻孔をくすぐりつつ、麦芽高めの秋味とベストマッチというやつです。

人間は何かに影響を与えながら生きていかざるをえない生き物です。

ですから、痛みやらリスクやら、罪責性を自覚しながら生きていかなければならないわけですが、その辺の文脈をすっとばしてしまうと、チープな文言のみの思想になってしまうわけよネ……などと思いつつ、舌鼓。

さて明日もがんばるかっ!

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著者:河合 隼雄,村上 春樹
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「主体性という非場所が定位される場所」から、まあ、挑戦していこうではないか!

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 時間系列にそって遙かな過去に向かう直線的退行行動ないし逆照は、記憶によっても歴史によっても回収することのできない起源以前のもの、絶対的に隔時的な起源以前のものには決して達しえないだろう。とはいえ、諸現在の単なる継起とは異なる時間の筋立てを解いて解明するという責務が可能になる場合もないわけではない。だからこそ、人間たちは自分が感謝しうる状態にあることそれ自体に対してあらかじめ感謝しえるのだ。現在の感謝は、あたかもそれに先だつ感謝と結びつくかのように自分自身と結びつく。祈りつつ、信者たちは祈りが聞き届けられることを強く望む。つまり、祈りはそれ自身に先だつもの、あるいはそれ自身に後続するものなのだ。
 ただ、現在の秩序に属さないがゆえに、一切の現在、一切の再現可能なものに先だつような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常的な出来事のうちに内包されている。他者の自由に対して責任を負うた私の責任のうちに、人間同士の驚くべき兄弟関係(フラテルニテ)のうちに内包されている。兄弟関係は、分離された存在同士の責任を声高に訴える。なぜこのような兄弟関係に「驚くべき」という語を付したかというと、カインのあの淡々とした冷酷さをもとに考えられている限り、兄弟関係といえどもこの責任を自力で解き明かすことはできないからだ。他者の自由が私の自由のうちで始まることは決してないであろう。言い換えるなら、他者の自由と私の自由が同じ一つの現在のうちにとどまり、同じ時間を共有するなどということは決してありえないであろう。他者の自由は私が再現し表象しうるものではありえないのだ。他者に対する責任が、私の約束のうちで、私の決意のうちで始まったということもありえない。そうではなく、私の自由の手前から、「一切の-思い出-以前」から、「一切の-完成-のあと」から、非現在たる最たるものから、起源ならざるものから、起源を欠いたものから、存在することの手前ないし彼方から、私に課せられる果てなき責任は到来するのだ。他者に対する責任とは、主体性という非場所が定位される場所であり、「どこ」という問いの特権が失われる場所である。そこでは、語られたことならびに存在することの時間は起源以前の語ることを仄めかし、超越に、隔時性に、閉じざる隔たりに応答する。ここに口を開けた隔たり、それは非現在と再現可能な一切の隔たりとのあいだの隔たりである。ただし、再現可能な隔たりも、それなりの仕方--この仕方を明らかにせねばならないのだが--で、有責者に対して合図を送ってはいる。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。

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4日間、夏期スクーリング(集中講義)での『倫理学』講義のために、家人を放置プレイにしておりましたので、さすがにマズイだろう……ということで、昨夜はスパッと鮨やへいってきました。

まあ、今回に限らず、夏期、秋期の集中講義の場合も、出張を伴う地方でやる場合も、家人を放置してしまいますので、おわるとだいたいその「埋め合わせ」というのをやるのですが、「埋め合わせ」で終わらせてしまうとすれば、それほど不幸なことはありません。

ですから形式としてそのような所作を遂行するのだとしても、お互いに楽しまなければソンですし、義務としての「家族サービス」を遂行するのも、本末転倒な気がしますので、自分も楽しんだ次第ですが、久しぶり喰らった「米」はたいへん、おいしゅうございました。

なにしろ、講義の4日間の間、「米」は呑んでいるのですが、リアルな「米」を食べた思い出といえば、コンビニおにぎり2個だけでしたので、お鮨の「魚」もさることながら、「米」のうまさを実感したという次第です。

かるく板長おすすめの三貫にぎり(目鯛・かんぱち・すずき)ではじめ、まずはプレミアムモルツw

行きつけの「魚屋路」ですが、なにしろ24日まではプレミアムモルツが平日半額ですので、がっつりやりつつ、

うなぎ、生しらす、ひらめ、等々……と格闘。

米は食べても米が呑みたいということで、澤乃井の大辛口、八海山なんかをまわしつつ、やはり今回一番のヒットは、生マグロの中トロと季節には少し早いのですがすずきというところでしょうか。

マグロはきらいぎゃないのですが、大トロになると、旨いのは旨いのですが少々脂がくどくなる。解凍マグロでやると匂いが気になる。

久しぶりに生マグロで頂きましたが、適度な脂ののり具合で、さっぱりとしていつつも口蓋でとろける旨みに舌鼓。

すずきは秋の「落ちすずき」が一番旨いとは思いますので、この季節にやるには少々フライング気味でしたが、それでもものがいいのでしょうか?(大阪産)、引き締まりつつその締まり具合から横溢する滋養に驚いた次第です。

細君も息子殿も喜んでくれましたので、まあよかったのではないかと。

さて……。
私淑するレヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が指摘するとおり、人間の存在様態における様々な言説・所作というものは「諸現在の単なる継起とは異なる時間の筋立てを解いて解明するという責務が可能になる場合もないわけではない」し、どちらかといえば不可能になる場合が殆どです。

しかし、「だからこそ、人間たちは自分が感謝しうる状態にあることそれ自体に対してあらかじめ感謝しえるのだ。現在の感謝は、あたかもそれに先だつ感謝と結びつくかのように自分自身と結びつく。祈りつつ、信者たちは祈りが聞き届けられることを強く望む。つまり、祈りはそれ自身に先だつもの、あるいはそれ自身に後続するものなのだ」とすれば、そこへ抗う挑戦、すなわち「現在の感謝」と「それに先だつ感謝」とをつなぐ「祈り」としての挑戦は無益でもない。

むしろ「先立つ」ものと「後続」するものを繋ぐ翠点なのだと深く理解しつつ……。

チト食べ過ぎたようでございます。

さて、今日からいよいよ市井の仕事も再開です。

さきほど、夏期スクの採点は終了しましたが、夏期スク期間に送られてきたレポートの山が未着手!

ただし、何がどうというわけではありませんが、これが嬉しいのよね!

他者に対する責任とは、「私の自由の手前から、『一切の-思い出-以前』から、『一切の-完成-のあと』から、非現在たる最たるものから、起源ならざるものから、起源を欠いたものから、存在することの手前ないし彼方から、私に課せられる果てなき責任は到来する」わけですから、その「主体性という非場所が定位される場所」から、まあ、挑戦していこうではないか!

つまり「夢の教室」ではなく「現実の教室」からやっていこう!

と思うわけですが・・・、外は灼熱地獄でございまして・・・、夕刻からとはいえ、仕事へ出かけるのがチトツライ宇治家参去です。

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存在の彼方ヘ (講談社学術文庫) Book 存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

著者:エマニュエル・レヴィナス
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人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも、幸福な人と呼ぶことは控えなければなりません

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 「王よ、人間の生涯はすべて偶然なのです。あなたが莫大な富をもち、多数の人民を統治する幸運な王であることはよくわかっております。しかしながら、今お尋ねの件(引用者注……今をときめくクロイソス王が「この私こそが幸福」ではないかと、賢者ソロンに尋ねた)については、あなたがご生涯を終えられるまで、なにも申し上げられません。人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも、幸福な人と呼ぶことは控えなければなりません」。
    --ヘロドトス(松平千秋訳)「歴史」、村川堅太郎編『世界の名著5 ヘロドトス・トゥキュディデス』中央公論社、1980年。

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8月19日から昨日の22日まで夏期スクーリング3期の倫理学を担当させて戴きましたが、「暑い夏が終わった」との感慨深い昼下がりです。

毎日朝から昼過ぎまで講義。
済んでから少し仕事。
夕刻から終電まで「夜の倫理学」の講義。
3時間寝て6時には出発。

……のくりかえしという怒濤のような4日間でしたが、ホントなんとか無事に終了いたしました。

これも受講してくださった学生の皆さん、そして通信教育部で教鞭を執らせて戴くチャンスを与えてくださった先輩、関係諸氏、そして創立者のお陰だと思います。

くどいようですが、本当にありがとうございました。

ときどき議論が脱線……というか脱線の連続だったような気がしますが、皆さん真剣に考え、学び、討議をするなかで、おたがいにひとかわむけたといいますか、もっている発想の構造をそれぞれに脱構築することができたのではないかと思います。

倫理学とは、対象を捉え直す学問といってもよいかと思いますが、「捉え直す」作業というのは「破壊」ではありません。どちらかといえば、気が付いたときには、構造がズラされ、そして創造的に戻らされる作業なのでは……と教壇にたつたびに思う次第です。

通信教育部での授業の場合、幅広い年代層の学生さんがいらっしゃるのですが、やはり婦人の方が一番熱心に聞いてくださるという事実は否定できないのですが、毎度毎度実感するのは、倫理学に関しては、若い姉ちゃん、ニイチャンもキチンと聞いてくださり、種々議論したり、検討したりとすることができるので、皆さんの学問へのモチベーションの高さに驚かされることばかりです。

チャイムが鳴って、「さあ、一服にいくべ」かと思ったら、ざわざわと質問の長蛇の列。
10分の休憩ではすべてを扱いきれないので、昼休みとか終了後にその続き。

「すまん。1本煙草吸ってきてからでもいい?」

……って区切ってから、深呼吸するように1本を1分で吸って戻ってから再会。
授業時間内でやりとりするよりも、このあたりが一番学問になっているんだよなあ、お互いに!というところです。

また夜は夜で、そのまま、酒を酌み交わしながら再び「倫理学」。

一昨日、昨日と共に鯨飲した大阪の学生さん。
4年で卒業の見込みがつき、今回のスクーリングで終了。
授業後、一緒に煙草をすいながら、思想談義、生活談義をしていると、帰宅タイム。
「じゃあ、いっしょに飲みに行くか?」
……ってなるわけですが、

「いや~ア、先生という人間と呑むことなんて想像したこともありませんでしたから、嬉しいっす」

……ってことで、れっつらごー、という寸法w

そのなかで自分自身も再発見したり、はあこういう考え方もあるんだよな、と頷くことが多々ありましたし、また名札や名詞で形容されて「ハイ、おしまい」という形式的人間理解に還元されない、そのひと自身のひろいよくやをお互いに話し合いながら、活発にお互いを検討・健闘し会えたことは貴重な経験であり、ひとつの財産になったかと思います。

くどいようですが、本当にありがとうございました。

さて……。
22日。昼で授業が済んでから、少々教務関係の雑事を済ませてから帰ろうとすると、スクーリングと入れ替わりにオープンキャンパスが開始!

ああ、もう夏も終わるなあと空を見上げると、かんかん照りの真夏日でしたが、もう秋のトンボが群れている模様。

季節自体もゆっくりと「脱構築」されている気配を感じたわけですが、大学での履修を終え、それぞれの現場へ向けて、ゆっくりと大学の山を下っていく学生さんの姿を拝見すると、

「学びきった」

……というオーラが立ちこめている様子に圧倒された次第です。

悪い授業はしてない自負はありますが、そこに安住することなく、自分もキチンと叮寧に手をいれていかければと最敬礼した次第です。

さて……。
バス乗り場で、倫理学を履修した学生さんと遭遇。

「帰る前にいっぺえいくか?」

……って声をかけ、八王子駅の飲み屋に入ったのが13:30。
大生で乾杯して「お疲れさま」

サクッと帰る予定でしたが、、、、

店を出たのが20:30

重いのを呑みにいきたいということで、そのままアイリッシュパブw

007を尊敬しますので、Vodka Martini. Shaken, not stirred

八王子駅北口の「Sherlock Holmes」。
いい値段してますが、まあ間違いのないお店☆

一軒目で大生×3、冷酒×4合呑んでいたにもかかわらず、
マティーニではじめ、アプサンをロックで2杯、キルケニー(1.5p)、ボウモウをロックで3杯。

予定では16:00におひらきにしようと思っていたのですが、かなりな時間呑んでいたようで……。

語らいが終わらないんです。

しかし、また自分自身の学問、言葉、概念にリアルな実・身が付いたような気がします。

ともあれ、本当にありがとうございました。

ヘロドトス(Herodotus,B.C.485-B.C.420)は「人間死ぬまでは、幸運な人とは呼んでも、幸福な人と呼ぶことは控えなければなりません」と釘をさしておりますが、いずれにしましてこの感覚を忘れないようにこころがけようと思います。

ホント、皆様ありがとうございました。

02 03

The History: Herodotus Book The History: Herodotus

著者:Herodotus,David Grene
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thanks☆

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みなさん

すんません、sns、twitterコメントを多数いただきつつ、ご返信が出来ず。

スク済んだらupするのでよろしくね。

で……。

スク済まねえとはなせない話もあるので、明日以降まとめます。

楽しみにして寝て待て!

……なんて命令はしませんが、チト、実に躰がもたねえ。

ねる。

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躯躰がいうことをききまへん

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こんにちわ。

今日でスクーリング3日目が終了。

しかし、激しくつかれました。

飯食わず酒しか呑んでいないorz

さて……。
今日はかつて履修してくださったみなさまとの再会が多々あり。

愛知のご婦人、長崎の青年、ドイツのお母さん等々。

覚えていてくださってありがたいものです。

たしかドイツのお母さんには「ワタシもたいがい変人ですがセンセも変人」ですというお褒めをちょうだいしましたが、懐かしい思い出です。

さてあと1日。

がんばりますわ。

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「理論が純粋になるだろうと「考えないこと」、純粋に応用できるような現場が見つかるとは思わないこと」

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 人は理論の使い方を学ばなければなりません。われわれのポストコロニアル理論の方法は、じゅうぶんに使うことが可能です。ただし、自分の状況にぴったり来る理論を持っていてはダメです。それでは使えないでしょう。アルチュセールは「矛盾と重層的決定」という論考で、あれほど早期にかつあれほど明確に、このことを述べています。彼はフランスの共産党のただ中から語っていましたが、勇気ある発言でした。曰く、理論が純粋になるだろうと「考えないこと」、純粋に応用できるような現場が見つかるとは思わないこと。
    --ガヤトリ・スピヴァク(大池真知子訳)「抵抗として認識され得ない抵抗」、『スピヴァク みずからを語る 家・サバルタン・知識人』岩波書店、2008年。

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ようやく二日目が終了。

とりあえずウルトラセブンのところまで。

なんで「倫理学」でウルトラセブンなのかというツッコミは抜きにして、オリジナル教材ですから「イタシカタアリマセン」。

さて……。
明日はガヤトリ・スピヴァク女史(Gayatri Chakravorty Spivak, 1942-)のポストコロニアル理論の紹介から授業をスタートさせます。

いやー、スピヴァク女史、読めば読むほどやばいんです。

「理論が純粋になるだろうと「考えないこと」、純粋に応用できるような現場が見つかるとは思わないこと」。

ここを錯覚したばかりに現実が翻弄されてしまったわけですが、明日も白熱教室!

のこり二日間がんばります。

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著者:ガヤトリ スピヴァク
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これからの「倫理」の話をしよう、八王子灼熱教室w

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夏スク、初日。

いやー。

あつかった。

空調のよくないA棟というのもあるのですが、学生とガチで勝負できたというであつかった。

こちらは例の如くスリーピース。

いやー。

暑かった。

終了後、きんぎょご婦人とオリバーさんと昼食。

終了後、講堂脇で煙草を吸っていたら教員バスが出発。

ああ、いっちゃったあ~っておもっていて、路線バスで駅へ向かうために定座するとどこかに傘を置き忘れてきたーっておもったら、バスに履修されているボリビアからの学生さんご夫婦が同道。

3時間ばかり会食>?しながら呑んでました。

こういうのもあり。

やけど、きわめて疲れているので今日は寝ます。

写真あるけどupなしですいません。

※翌日にupしますたw

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隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のこと

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 レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかしそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります。この領域において他者は、はじめて、たとえ彼が異邦人であろうと、私がその人を愛し、意志を通じ合わせるべき隣人となります。使徒パウロによって明らかにされ、S・キェルケゴールの鋭い神学的精神によって解釈されましたように、キリスト教の第二の戒めとしてのこの愛こそが、社会内部に根源的な共同体精神を創造し、カントやロールズの無味乾燥で貧弱な主体を内容で満たし、他者を、異邦人ではなく、親しい人格と化すのです。この考えによりますと、愛は絶対的な善ですが、それだけではなく、具体的に要求されるものでもあります。そして、これの無前提の選好だけが、個人の倫理的統合を保証しうるのです。ところでしかし(他のひとが私に対して正義として押しつけてくるそれをも含めて)、この要求を認めるということは、同時に、この条件が、他のなにをさしおいても、談話の世界にほかならないところの、共同体の領域における個人相互の出会いと意志疎通を通じて課せられるのでなければならない、ということを明らかにいたします。
 正義と愛のあいだの関係が、このようなものとして考えられるならば、いかなる点で正義のリベラルな考え方が不足しており、個人についての共同体第一主義的見方がいかなる点でゆきすぎているかを、洞察することができます。
 さて、正義と倫理の関係をめぐる問題は、ひとつの新たな次元を獲得いたします。現代人は、テクノロジーや非人間的で抑圧的な国家権力に対する反動として、自分の優越性または優先性を確証したがる(同一性論理の勝利を讃え、それに基礎づけを与える)傾向があるようですが、それと同時に、みずからの解体と疎外を、間接的で技術的なコミュニケーションを通じて乗り越えようともしております。こうした場面におきましては、わたしたちが実存的・社会的にコミュニケートすべき他者なるものは、本来的人格ではなく、同一性論理に支配された仮面であるにすぎません。テクノロジーによって急速に変貌し、ホロコーストによる真の脅威にさらされることによって、正義が第一の戒めとならざるをえないこの世界にありましては、「私が愛さねばならぬ隣人、それは、いったい誰のことか?」という問いは、いささか逆説的な響きをもちます。けれども、その問いは、思想的にも現実的にも、その重大性において低く見積もられるべきものではないのです。
 何故ならば、隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります。彼は、ホメーロスの世界の貧者、漂泊の乞食であり、福音書にいう富める者です。彼は、「正義のおこなわれる」「法治」国家で盗賊に出会うひとびと、支えてやるのが私の義務であるひとびとです。彼は、「豊かな社会」における貧しき者・富める者であり、アフリカやインドで飢餓に苦しむ人々です。こうして、私の隣人で現にあり・あるであろう、多くの人々が存在するのです。ですから、社会科学や政治科学その他の諸科学は、これまで未解決であった社会問題を解決できる方法や方策やテクニックを発見・応用することによって生活の万端においてあらわれてくる正義への要求に応え、これがひろく普及するよう努力を積み重ねなければなりませんが、それらの努力は、共同体、社会、国家のなかでわたしたちすべてが使える目標が見失われないようにと援助する、哲学的・理論的考察と別個のものとされてはならないのです。
    --K・I・ブドゥリス(山川偉也訳)「正義と倫理」、『正義・愛・政治』勁草書房、1991年。

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どうも宇治家参去です。

金曜から細君も帰省してひとりぐらしを満喫しておりましたがいよいよ本日・水曜日夕刻に、東京へもどるということで、すこしため息をはいている最中です。

別に還ってきてもらうことが悪いわけではなく、歓迎してしかるべきなのですが、歓迎するためには、その「仕込み」という奴が必要です。

はい、掃除というやつです。

ひとりで結局の所、手近なところに何でもおく。

PCもそのへんへ、本も書類もそのへんへ……。

これが積み重なっていきますと、短い時間であったとしても結構、散らかっているわけでして……、このまま歓迎することが不可能です。

ですので、夕方までには何とかしたいとは思うのですが、何しろ木曜日からは夏期スクーリングの開始で授業の仕込みもある。

そして、失念していたのですが、某大学の教員公募の締切が8/20ということなのですが、書類をまったく準備していなかった……というのもあり頭を抱える次第です。

市井の仕事は水曜から休みを入れているので大丈夫なのですが、

「はあぁ」

……というところ。

ただ現代ギリシアの哲学者ブドゥリス(Konstantinos Ioannis Boudouris,1935-)によれば、「隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります」から、私が「なにものか負うている」者=細君、息子殿が帰還されるわけですので、なんとかしないといけません。

ただ幸いなのはまだ時間があるし、目下「私からはるかに離れたところにいる者」でもありますから、なんとかなるべ……と思うと同時に、もうひとつ。

「レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかしそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります」という指摘もありますので、万が一、掃除ができず、東京へ戻ってきたとしても「談話(discourse)」によってなんとかなるのでは……?

などと思うのですが、どうでしょうか。

さて、書類作成は2/3が終わったので起きてからしあげます。

授業の準備は最終手入れだけなので、目処が立ちそう。

しかし掃除はまったく目処がたっていない!

しかし……なあ。

「負うている」こともわかるのですが、「談話(discourse)」によってなんとかならないかしら???

……と思いつつ、既に飲酒中。

久しぶりに肉豆腐を作ってみました☆

深夜にそんなものをこしらえる時間があれば掃除をしろ!

……ってつっこまれそうですが、これはこれで大事なんです。

02 03

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密偵たちの宴

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ほれ、ごらんなさい。お前さんだって、青くなった。粂八さんも伊三さんも宗平おじさんも彦十おじさんも、みな青くなった。そりゃあねえ、一味を捕まえたときは、長谷川様もお気がつかなかれなかったろうよ。でも、今度のいたずらをごらんなすって、先のことがいちいち腑に落ちなすったに違いない。ねえ、お前さん方、長谷川平蔵さまをあまり甘く見てはいけないってことが、今度はよくわかりなすったろう。よござんすか、私は知りませんよ。お前さん方、これから先、どんな顔をして長谷川さまの前へ出られますかえ。その顔が見たい。ああ、見たいねえ。何をみんな押し黙っているんだ、バカ野郎め。女の私にこんなことを言われても口惜しくないのか、ええ
    --池波正太郎「密偵たちの宴」、『鬼平犯科帳 12』文春文庫、2000年。

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昨夜は久しぶりに昔の職場の上司、後輩と新宿で一献しておりました。

学生時代、某業界紙の編集補助のアルバイトを都合10年やっていたのですが、そのときの編○長、上司、バイトの後輩と三名で、夕刻より新宿の鮨やでいっぺえという寸法です。

補助とはいえ、記事も書くし、取材もする。
時代も時代で怒濤の10年だったかと思いますが、そこで人生の基本はしっかりつくられたなあと思います。

たった数名のスタッフで、よくもまあ二週にいっぺん刊行の紙面を切り盛りしていたなと思いますが、そこはまさにあ・うんの呼吸で、言い過ぎかもしれませんが雰囲気は一種、池波正太郎先生(1923-1990)の描く『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方の組屋敷w

さながらトップは長官の長谷川平蔵であり、自分は、まあ密偵のようなもので、「小房の粂八」ではなかろうかと。

まあなんでもやったし、どこからでも学んだからくどいようですが、人生の基本、学問の基礎がそこで作られたことには感謝するほかありませんし、また何が起ころうともたいていしのいでいける精神も鍛えられたと思います。

まあ、一種の梁山泊だったかなと。

いい子いい子仲良しグループではありません。
議論が白熱したこともしばしばw

おもえばキリスト教学への志も当時の編○長とのやりとりのなかで、哲学の文献学をやるよりも、キリスト教そのものをやったほうがいいのではないかということで、大きく舵をきったのも忘れがたい思い出です。

キリスト教学ではいまのところ飯のタネにはなりませんが、やったことに後悔はないし、あとはなんとかするだけ。

なんか印象批判ですいません。ただ、またがんばろうと決意することのできたひとときでした。

Kさん、Kさん、Yくん、皆さん、愛をありがとう☆

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鬼平犯科帳〈12〉 (文春文庫) Book 鬼平犯科帳〈12〉 (文春文庫)

著者:池波 正太郎
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【覚え書】「今週の本棚:松原隆一郎・評 『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル著(早川書房・2415円)」、『毎日新聞』2010年8月15日(日)付。

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「今週の本棚:松原隆一郎・評 『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル著(早川書房・2415円)」、『毎日新聞』2010年8月15日(日)付。

 ◇平易かつ事例に溢れる白熱の教科書
 ハーバード大学で「正義 Justice」と題し、学部生を相手に三十年近く行っている政治哲学の講義をもとに書き下ろした書である。NHKが「ハーバード白熱教室」と銘打ち全十二回放映したことで火が付き、この分野の教科書としては破格の売れ行きとなった。今月末には来日して東大で八百名を前に特別講義を行う予定となっている。

 ハーバードの講義は、毎回千名近くが受講しているという。日本の大学でそうした大人数を集める講義といえば、おおよそ単位が取りやすく出席を取らないものと相場が決まっている。教授会ではむしろ大人数講義そのものが「悪」であり、同じ内容で複数行ったりして少人数に分散させるべきだと言われている。けれどもサンデルの講義は、実際に「白熱」ものである。テレビに映し出されたように、大学受験や妊娠中絶、徴兵制等、学生にとって身近かつ刺激的な問題を事例に挙げるからだ。

 たとえば所得格差は、どのような条件で認められるか。学生たちは、カースト制のような「生まれ」は拒否するだろう。ではバスケットのマイケル・ジョーダンのような、天賦の「才能」はどうか。これには賛否が分かれるが、ジョーダンにしてもダンク・シュートの技術を磨くためには気の遠くなるほどの「努力」をしているではないか、と答える者がいる。才能は遺伝にもとづくが努力は当人の意志によるから、高給を得るに値(あた)いする、というわけだ。

 ここでサンデルは、「ではこの教室で長子は手を挙げてみて」と畳みかける。例年、受講者の七~八割の手が挙がる。学生は多くがみずからの努力でハーバードに受かったと自負しているが、それだけに「生まれ順が努力する性格に影響する」傾向があると知り衝撃を受けるのである。

 身近でありながらいかにも最高学府という知的な話題、しかも容易には結論が出ない質問を一回五十分の授業で、矢継ぎ早に突きつけることが人気のゆえんらしいのだ。だがいったい、千人の大教室でそんなことが可能なのか。実は仕掛けがあり、講義前に十数人のグループに分かれ、小教室で優秀な大学院生を講師に予備討論が行われている。そうした工夫により、大教室で白熱の授業を実現しているのだ(こんな授業をやられては、同じ教員としては困ったものだが)。

 しかし本書が売れている理由は、NHKの放送や豊富な事例だけには止(とど)まらないと思う。消費税増税はダメなのか。徴兵制は絶対悪か。腎臓を貧しい国の国民から買ってはいけないのか等、各人にとっての「善(よ)きこと」を超える政治的な「正義」をいかに論じるかは、日本人にとってもながらく関心の的だった。そしてギリシアの昔から政治哲学上の思索にはパターンがあるというのに、正義の諸問題にかんする一般人のための手引き書が欠けていたのである。

 これには、J・ロールズを巡る出版事情も関(かか)わっている。というのも「正義」が学界でテーマになったのは一九七一年にロールズが『A Theory of Justice』を刊行して以来のことで、それ以前は個人の自由を至高の価値とする自由主義(西側)諸国において、個人にとっての「善」に優先する正義は論じ方の分からぬ事柄とされていた。しかし七九年に邦訳された同書・『正義論』は誤訳・悪訳の見本とされるものであった。しかもロールズのもう一冊の主著『政治的リベラリズム』は翻訳されず、それでいてロールズに近いR・ドゥオーキンや批判的な「コミュニタリアン」たちの書、そして日本人学者による硬いロールズ研究が無数に出版されるという奇妙な事態となっていたのである。

 サンデルの『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房)も、正義を導出するためにロールズが個人間の合意を仮説するというとき、その「個人」は共同体や国家、歴史や連帯という「負荷」を刻印されぬ抽象に止まっていると批判する専門書で、コミュニタリアンの代表作とされている。

 しかしロールズの『正義論』もようやくこの秋に改訳が出版される運びとなった。サンデルのこの平易かつ事例に溢(あふ)れる教科書とともに、いよいよ正義が学界を超えて論じられる時期が到来したのであろう。

 本書の構成は、論理的にはオーソドックスかつシンプルである。正義にかんする議論は、詰まるところ(1)ベンサムの功利主義、(2)J・ロックからR・ノージックに至る私的所有権重視のリバタリアニズム(自由至上主義)、自由の意味を問うて自律と義務に煮詰めたI・カント、個人の自由と正義の両立を図るロールズ、以上からなるリベラリズム、(3)古代ギリシアのアリストテレスに立ち戻り、共同体にとっての共同善や正義を優先的に追求するコミュニタリアニズム、これら三つに還元されるというのである。

 先般、菅直人首相が韓国に対して植民地支配にかんする謝罪を表明したが、なぜ戦後生まれであり支配の当事者ではない菅首相が責任を表明するのだろうか。夏休みの宿題めいた質問になるが、本書には、この問題を考えるカギもしっかり収められている。訳文も明快。(鬼澤忍訳)
    --「今週の本棚:松原隆一郎・評 『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル著(早川書房・2415円)」、『毎日新聞』2010年8月15日(日)付。

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どうも宇治家参去です。
すっかり夏バテのようでございまして、、、これはマズイということで仕事が済んでからバーミヤンで意識的に食をとり、気持ちよく帰宅して、ウトウト。

サア、寝るべと思ったのですが、1時間たっても眠れず……。

ということで再度飲みなおしております。

ついでに思索もまとまりませんが、終戦記念日のアテコスリかと思いつつ、サンデル(Michael J. Sandel,1953-)の著作の書評が『毎日新聞』に掲載されておりましたので、ひとつ『覚え書』として残しておきます。

さて……。

いつ眠ることができるのかッ。

これは正義以上に重大な問題だ。

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これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 Book これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

著者:マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
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二人の道徳的な真剣さと怜悧さと熱意は、手強く、奥深く、見ていて喜ばしかった

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 息子のアダムとアーロンはスプーンを持てるようになって以来、わが家の食卓で正義をめぐる議論にどっぷりと浸かってきた。二人の道徳的な真剣さと怜悧さと熱意は、手強く、奥深く、見ていて喜ばしかった。考えに迷うと、われわれはみなキクに頼る。彼女はわれわれの道徳的・精神的試金石であり、私の魂の伴侶だ。愛を込めて、本書を彼女に捧げる。
    --マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)「謝辞」、『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』早川書房、2010年。

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マイケル・サンデル(Michael J. Sandel,1953-)の近著の再読(2回目)を終えつつ、思った以上の「拾い物」にニヤリとする宇治家参去です。

その部分とは本論もさることながら、出版に対する「謝辞」の末尾の部分なのですが、いやー、思想家というのはだいたい皆似たことをやっているんだろうなアとはうすうす思っていたのですが、やはりその想念が的中した次第で、ニヤリです。

息子の名前はアダムとアーロンではありませんが、わが家でもときどき「正義をめぐる議論」に息子、細君ともどもに参加して頂いております。

そのたびに、

「ウザイ」

とか

「はぁ~」

……ってやられるわけですが、そこでこちらとしてもはじめてフツーの感覚を甘受したり、怜悧な議論を踏み倒してしまう生活臭に圧倒させられたり、はたまた逆に合理的な議論を破壊してしまう怜悧な視点に出会ったりと、まあ、学ぶところが多いんです。

さて……。
息子殿は一足早く細君の実家へと帰省。
そしてその細君も金曜日に帰省してしまいましたので、同曜日から数日、独身貴族というやつです。

すこし暴れてやろうかなあとは思いますが、何しろ軍資金が底をついておりますので、暴れることも難しく、青色吐息の毎日となりそうですが、数日は、のんびりとした気分を味あわせて頂こうかと思います。

ただ細君からは、育てているニガウリと、金魚・熱帯魚・その他諸々一族郎党の世話を仰せつかっておりますので、これだけはキチンとやっていかないと、「これからの「正義」の話をしよう」などといっても、どのような「正義論」をもってしても勝利を得ることは不可能ですから、これだけはキチンとやっておきます。

いやー、しかし、

プランターでの栽培ですが、この夏はよく育ちました。

マイニチ・ノンデルは宇治家参去ですが、いまから収穫が楽しみです。

でわ☆

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世界内の社会性とは、意思疎通(communication)ないし合一(communion)である。

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 世界内の社会性とは、意思疎通(communication)ないし合一(communion)である。諍いをすることは、互いの間に何も共通項がないことを証立てることである。触れ合いは、何か共通のもの、ある考えや利害、営みや休息、あるいは「第三者」への関与によって成立する。人びとはただたんに他者の前で一個人なのではなく、何ものかをめぐって他者たちとともに個々人なのである。個人とは共犯者なのだ。
    --レヴィナス(西谷修訳)『実存から実存者へ』講談社学術文庫、1996年。

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希少な夏休みの最終日……つうかなんで2日しか夏休みがないの?……。

一昨日も鯨飲してへろへろになって帰宅。
起きたら、細君が帰省。

昼前にいち早く細君の実家に帰省している息子殿から電話。

「ママン、まだ帰ってこないよ」

……とのこと。

「知るかよ、ボケっ!」

……ってスルーできませんので、細かく説明したところ、

「要するに、あと数時間ね」

……っていわれて、細かく説明したアレは何ヨってひとりバックドロップしながら、

気が付くといい時間。

はい。

今日も例の如く、通信教育部の学生さんから、、、

「センセ、呑みましょう」

……ってことで、出発。

22時まで大阪のオッチャンの逗留先でずんやり呑んでいたのですが、、、。

「呑み足りねえ」

……ってことで、お仲間(ハバ兄さんとかわちゃん、のりママセンセと)、、、

静岡の準教授センセ御用達の「月の雫」にて二次会。

いやー。

ハイボールが旨かった。

逗留してしばらくするとラスト・オーダー。

再会を期しつつ……。

今日は別件用事にて不参加の準教授センセに電話をすると、、、

「もう、フリーよ」

……ってことでバトンタッチ。

終電の幾本か前の電車にて帰宅です。

いや……。

三次会はどうなったことやら?>??

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人間が一緒に仲よく暮らすためには、人間という共通の呼び名だけで、その上何がなくとも充分でありましょうに

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 人間が一緒に仲よく暮らすためには、人間という共通の呼び名だけで、その上何がなくとも充分でありましょうに。けれどもかりに、動物に対してはずいぶん睨みのきく自然も、人間界では手も足もでないといたしましょう。しかしそれならば、キリストはキリスト教徒に対してもなんの力もないというのでしょうか? 理解力をもたない動物たちに、いとも強い力を及ぼしている自然の教えが、人間にはまるで効目がないといたしましょう。でもそれならば、自然の教えよりはるかに優れたキリストの教えが何よりも力をこめて説いていること、つまり平和と相互の献身を、その信者にしっかりと納得させることが、なぜできないのでしょうかしら? せめて、互いに戦争しあうというような神を恐れぬ猛りたった狂気だけでも、どうして人間の心から取り除けないのでしょうか?
 私は人間という言葉を耳にすると、まるで生まれる時から自分と親密だった仲間の所へ行くみたいにすぐそちらの方にかけつけるのですよ。
    --エラスムス(箕輪三郎訳)『平和の訴え』岩波文庫、1961年。

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宗教改革前夜のヨーロッパ。
その戦禍を否定し、平和への具体的提言を良心の叫びとしてまとめ上げたのが、ネーデルランドの人文主義者、司祭エラスムス(Desiderius Erasmus,1467-1536)の『平和の訴え』なのですが、再読しつつ、為政者の無責任と欺瞞の告発、そして民衆の自覚と協力を呼びかけるその姿は、まさに勇気ある挑戦ではなかろうか……そんなふうに思ってしまう宇治家参去です。

動物や植物というものは平和に暮らすようにと、ある意味では「設計」されている。
しかし人間は、それを人為的に作っていくしかありません。

ですから、大切なのは「話してみないとわからない」。
この一点に集約されてしまうよなあ……ということで、昨日は、通信教育部の学生さん諸氏と酒を囲んで話をして来た次第です。

東京、埼玉、静岡、愛知、大阪、兵庫。
そしてバンコックの友たちと怪飲。

皆様遅くまでありがとうございました。

これに懲りずにまた呼んでくだされば幸いです。

なにしろ、ワタクシも「私は人間という言葉を耳にすると、まるで生まれる時から自分と親密だった仲間の所へ行くみたいにすぐそちらの方にかけつけるのですよ」というわけですから、、、。

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相対的に人間関係を把握して、人間の調和を求めながら追求することは、極めて困難である

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 相対的に人間関係を把握して、人間の調和を求めながら追求することは、極めて困難である。また日本のように、目に見えない所で、無の意識がひろがって人間の思考を支えている国で、人間関係を相対的に設定して見ても、元来は有の形でしか安定し得ない人間と人間の関係に、強い調和を望むことはできないかも知れない。また日本のように人格が容易に孤立して神秘性を帯びて絶対化することで安定している国土で、相対的な調和を求めることは、それ自体、雇傭関係、夫婦関係、社会階級関係等において危機意識を深め、不安定な気持ちに人間を陥れるものである。漱石の『明暗』の呼び出す恐怖、横光の『機械』に描かれた人間関係の恐れ等を考えれば足りる。
    --伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」、『近代日本人の発想の諸形式 他四篇』岩波文庫、1981年。

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久しぶりに今日明日と2連休です。

いやー、半年ぶりぐらいでしょうか。

しかし、今日明日ともに夜半から飲み会。

またかい!

……ってつっこまれそうですが、イタシカタありません。

文芸評論家・伊藤整(1905-1969)氏が「相対的に人間関係を把握して、人間の調和を求めながら追求することは、極めて困難である」指摘するとおりです。

ですから、どっぷりと酒を酌み交わしながら人間理解を深めるほかありません。

……ということで、ぼちぼち出陣の準備。

細君の視線がイタイ。

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「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめたと、自惚れるだろう」

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詳しくは書きませんが、ひさしぶりに壁パンチならぬ、段ボール箱パンチ!

市井の職場での出来事ですよ、念のため。
大学ではありません(苦笑)。

要するに、ホントに辟易とするのは、「役職」と「部門」に身を鎧い、責任逃れしようとする日本の職業倫理というところ。

ということでくどいけどマックス・ヴェバー(Max Weber,1864-1920)の噺をしておきます。

マックス・ウェバーといえば、名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』や宗教社会学関連の草分けとして名高い学者です。

細かいところでは、現実にその論のすすめ方や、出典やソースの扱い方で見直しが迫られている部分もありますが、再度、手にとって読み直すとやはり「大物」ですね。

うちの先生(指導教官)も次のようにいいますが、すなわち、「小者を読むな、大物を読め(大物を研究しろ)」ですが、功罪含め、真摯に検討できる対象はやはり「大物」の“思想家”なんだろうな、と実感します。

営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく関与したという逆説の論考であるヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というわけですが、同著の末尾からひとつ。

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 営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの傾向をおびることさえ稀でない。将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも--そのどちらでもなくて--一種の異常な寛大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。それはそれとして、こうした文化的発展の最後に現れる「末人たち」>>letzte Menschen<<にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの(ニヒツ)は、人間性のかつて達したことのない段階まですでに登りつめたと、自惚れるだろう」と。
    --マックス・ウェバー(大塚久雄訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年。

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有名なくだりです。
特に「精神のない専門人、心情のない享楽人」との言葉は、現代の人間性批判としての典拠として常に用いられてきた部分ですが、たしかに現実にはそういう連中はたくさんいるんですわ。

しかし、生きている人間として、現実の世俗的経済活動を全否定することはもちろんできません。

私のような“流しの学者”なんかはひやがってしまうのが現実です。

「しかしなお・・・」。

経済的活動に限られた話題ではないのですが、現実の泥水を飲みながらも、「しかしなお・・・」--こういった部分は、折に触れてもっておかないと、

簡単に、

責任を放擲してしまうことになっちゃうんだよなア~。

そこが怖いんです。

ですから、「ちゃんと生きていく」しかないなアと思います。

ということで、ヒジョーに疲れたので、これにて終話☆。

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作業用【覚え書】あなたは善人の側に立つて、私は悪人の側に立つて一つ物を看てゐるのぢやないかと思ひます

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5 人間の改善可能性についての楽観主義
 吉野は帝大在学中に、海老名を知り、三つの契機から海老名の自由寛容な人格とキリスト教の神を合理的・人格的に捉える自由主義的・歴史主義的神学思想を学びとった。そこから吉野は、学問の科学的・歴史的解釈の方法を身につけ、宗教と科学が調和することを会得し、キリスト教的人格主義を基盤とする確固たる宗教信念を培い、その人生観・社会観の骨格が形成されたのである。核となるのは、海老名独自のキリスト教信仰である「神子の意識の宗教」の感化であり、なかでも「人はすべて神の子」であると四海同胞のキリスト教精神と「人格主義」、さらに「人格の無限向上」が主要な要素である。
 まず吉野も海老名と同様にすべての人間のうちに神性を認め、それゆえに人間に対する信頼があつい。吉野が谷崎潤一郎の小説「或る調書の一節」に寄せた読後感はその消息を物語っている。谷崎の短編小説は、前科八犯でさらに二件の殺人および強姦殺人を重ね法廷に立つ犯罪者を主人公として、平素は主人公に虐待されている妻が主人公から犯罪の事実をうち明けられ、主人公の魂に挑戦し、これを動かしていく過程を描写した作品である。

 小説の表面には女房は痛々しく弱々しく描かれている。併し彼女の魂の前には凶暴な主人公も結局頭は上がらなかつた。外面でこそいじめさいなんでは居るが、内部では無限の信頼を寄せ又無限の同情を求めたのであつた。あんな凶悪なる男から頼まれ縋られる魂は、一体神の外にあり得るものだらうか。而も女房は平凡な無知の一匹婦である「神様や仏様なんてものは本当にあるのかしら」などゝふだんは云つてゐる。普通平凡な人間の裡にも相手に依ては斯んな神々しい聖熱が起こるといふ所に人生のおもしろさを観るべきではないか。……私は斯くの如き魂を我々人間の裡に与へ給ふた神に感謝する共に、又谷崎氏にも満腔の敬意を表するものである(29)。

 吉野はこの読後感を谷崎に送ったが、谷崎は次のような返書を吉野に送っている。

 私は決して貴方の尊敬に値するほど爾く徹底した人生観を得ても居なければ、又あの女房の人格を徹して輝くところの神の愛に対して、まだ心から信仰を捧げることが出来ずに居るのです。私はあの作品の主人公Bと同じやうな悪い人間です。……あなたはあの作品の中に人生の明るい方面を認めて下さいました。しかし私は中々明るい気持にはなれません。遠くの方にほんの少しの光明が見えながら、それが決して自分には掴めるものではないのを知るだけに、却つて尚更くらい重苦しい気分になるばかりなのです。これは私の書き方が足りないからでもありませうが、寧ろそれよりあなたと私との態度の相違から来るのだと思ひます。あなたは善人の側に立つて、私は悪人の側に立つて一つ物を看てゐるのぢやないかと思ひます(30)。

谷崎の返信は谷崎自身の立場を語ると共に、吉野の立場も語っている。民本主義理論の確立もこうした吉野の人間観、すなわち「人はすべて神の子である。生れ乍らにして神の心を体得して居るものである」(31)という確信が前提となっている。
 人格に関しても、「人格中心主義」(32)では、世界的精神であるキリスト教精神が社会の人間関係においては、「人格」として発現するとして、「人格は一切万事の根本である。中心生命である」と吉野は説く。「人格」とは修養を積み、教養と品格をもち、他者に寛容な態度で接し、正義の心をもった人間性だと定義する。さらに海老名は「予が人格観」(33)において、政治活動をする人間は、理性的道徳的に優れたものでなければならないと説いたが、吉野も同様に、政治に関わる人間には「人格相互の信認」(34)が必要であり、政治の指導者は「人格者」であるべきだと主張した。
 更に人格は静的状態で留まることなく無限に発展向上する。

 人間は一面に於て自然的生物であると共に他面に於て実に特殊の霊的生物である。彼は自然的生物としては進化の法則に支配され……種々の外的環境の影響を受くるは勿論だが、こは人間の人間たる本来の稟質ではない。而して霊的生物としての本来の稟質は、之に適当な機会さへ与ふれば、無限に発展向上して熄まざるものである。此点に於て彼は殆ど自然的科学的進化法則の支配を受けない(35)。

 人間の改善可能性に関するこうした楽観主義は、人はすべて「神子」であるという海老名‐吉野の信念に基づいている。吉野の人間観は従来より「キリスト教思想による楽天的・肯定的人生観」とのみ評されることが多いが、正確には、人間の人格・神子意識の善性を強調する海老名のキリスト教理解に基づく楽天的・肯定的人生観、「人間の改善可能性についての楽観主義」と表現した方が適切であろう。
 ついでながら、人間の無限向上を信じたがゆえに、海老名、吉野は社会改良に関わる積極的な発言を繰り返したが、海老名と神学的対立関係にあった植村正久は福音主義論争後、社会問題・思想状況に関する発言をほとんどしなくなる。前者が教会の枠を超え積極的に社会に関わろうとしたのに対し、後者が教会形成に専念し「後退」していった経緯は対照的である。キリスト教と社会的活動との関係は単純ではないが、植村の立場は、各信徒の救いの問題や教会形成こそ宗教の使命、第一義として活動に専念にしたのに対し、海老名・吉野は、宗教は必然的に社会的活動をともなうものであり、キリスト教の真理が教会という枠に閉じこめられることなく、広く社会に「雄飛」することこそ望ましいと考えたが故に、教会形成に限られない幅広い活動が展開されたように思われる。

(29)吉野作造「魂の共感‐‐谷崎潤一郎氏作の〈或る調書の一節〉読後感」、『文化生活』一九二二年一月、三月。
(30)右に同じ。
(31)吉野作造「社会主義と基督教」、『新人』一九〇五年九月。
(32)吉野作造「人格中心主義」、『基督教世界』一九一三年一二月一一日。
(33)海老名弾正「予が人格観」、『新人』一九〇三年一一月。
(34)吉野作造「政党進化論」、『新人』一九〇四年四月。
(35)吉野作造「偶感」、『新人』一九二三年五月。
    --拙論、「吉野作造の人間観--海老名弾正の神子観の受容をめぐって--」、『東洋哲学研究所紀要』第20号、2004年12月、東洋哲学研究所。

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【ご案内】08/19-22:夏期スクーリング,3期E群 東京 『倫理学』

01 02 【ご案内】08/19-22:夏期スクーリング,3期E群 東京 『倫理学』

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けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるが、あの最初の場合にもあのように、智恵を愛求し(哲学し)始めたのである。ただしその始めには、ごく身近な不思議な事柄に驚異の念をいだき、それから次第に少しづつ進んではるかに大きな事象についても疑念をいだくようになったのである。
    --アリストテレス(出隆訳)『形而上学 上』岩波文庫、1961年。

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賞罰告知といいますか、定型文といいますか、毎度同じ呼びかけで恐縮ですが、例の如く、アカデミズム底辺の荒涼たる裾野をさまよう宇治家参去で御座います。

開催まで十日前になりましたので、告知ということで、、、。

表題のとおり、来週末より、東京で開催される大学・通信教育部の夏期スクーリングにて「倫理学」を講じてきます。

受講される学生さん方がいらっしゃいましたら、どうぞ宜しくお願いします。

で……。
例の如く引き続き定型文のような内容ですが……

できれば……といいますか、学生さん方へのお願いです。

できれば……教材の序論だけでも結構です。必ず読んできて欲しいと思います。

忙しいとは思いますが、目を通さずに、授業に望まれてしまうと、これはきわめて“モッタイナイ”状態です。

是非、宜しくどうぞお願いします。

1期、2期と連続受講されるなかで履修される方は最後の一番キツイ時期ですが、当方もちょいと力をいれて参りますので、是非よろしくおねがいします。

お互いに気の抜けない過酷な(?)ロードレースをやりましょう!

こちらも万端の準備と仕込みで乗り込んでいきますのでどうぞ、よろしくお願いします。

授業中には寝ることもできない……の贅沢を提供いたします、はい。
眠ることもできないほど最高のフルコースですよ。

でわでわ。

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自己への配慮のこの原則こそが、生活術の必要性に根拠をあたえて、その展開を支配し、その実践を組み立てるのである

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 この<<自己の陶冶>>について手短に特色をあげるならば、生活術--さまざまな形式をもった生活技術(techne tou biou)--がそこでは「自分自身に気をくばる」べしとの原則によって圧倒的につらぬかれている点であろう。自己への配慮のこの原則こそが、生活術の必要性に根拠をあたえて、その展開を支配し、その実践を組み立てるのである。が、詳しく述べなければならない。人が自分自身に専念し自分自身に配慮し(heautou epimeleisthai)なければならないという観念は、実際、ギリシャ文化のなかではきわめて古い主題である。この主題は広く普及した要請として非常に早く現れた。クセノフォンによって理想的肖像が記されているキュロスは、征服を完了するが、だからといって自分の生活が完全なものになっているとは考えない。彼は自分自身に配慮しなければならない--しかもこのことが最も貴重なのである。「神々がわれわれの願いをすべて実現してくれなかったからといって神々をわれわれは非難することはできない」と彼はかの数々の戦勝に思いをはせながら、述べている、「ところが、大事業をなしとげたために、人はもはや自分自身のことに配慮したり友人と歓楽をともにしたりすることができないとすれば、それは進んで幸福をあきらめることである」。プルタルコスの伝えているスパルタ人の警句の主張によれば、所有地の世話が奴隷たちにまかされてきた理由は、スパルタの市民たちが「自分自身のことに専念し」たいためであった。
    --ミシェル・フーコー(田村俶訳)『性の歴史III 自己への配慮』新潮社、1986年。

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自己への配慮は必要なのですが、自己への配慮が過度に傾斜されると、だいたいろくなことはありません。スパルタの市民たちが「自分自身のことに専念し」たいためであったように。

フーコー(Michel Foucault,1926-1984)の権力批判論は、それまでの職業革命家たちの権力理論を脱構築することには成功したと思いますが、実践論がなかなか出てこなかった、そこがひとつの陥穽かもしれません。しかしながら、主体を自ら作り上げていこうとする人間の二律背反をしてきしたその業績は立派であり、簡単に否定することはできないなあ、などと思う宇治家参去です。

さて……。
反省は猿でも出来る!ということで、今日は飲むまい……と思い、風呂上がりにasahiのビールテイスト飲料「ASAHI W-ZERO」をプシュッとやったのですが、

まあ、これが例の如く激マズ!

それで……。

「もういいや」

……ってことで、SAPPORO ICE LAGERをプシュッとしてしまいました。

「もう本当に鯨飲しないと誓うなう」。

と宣言して6時間は禁酒できたというわけですが、まあ過度に「自分自身のことに専念し」てしまうのもあまりよくありませんからネ。

鯨飲ならぬ鮫飲ていどでゆっくり少しだけやろうかと思います。

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革命家たちの宴

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 アナキズムは、〝運動論〟を欠いた言えば無何有の幻想である。と、一般に考えられているが、それはロマンチックな誤解である。いちめん文芸の思想であると等しく、無政府主義は具体的な運動をともなう、政治の思想なのである。大正・その時代、むしろ革命のリアリズムはボルシェヴィキよりもアナキストの側にあった。
    --竹中労『断影 大杉栄』ちくま文庫、2000年。

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昨日は19時に青春の町?高円寺の集合して、人生の先輩と参人でがっつり飲んでおりました。

一軒目はチェーン店の居酒屋。
二件目はちょいあやしい店。
三件目はJAZZBAR。
四件目はオープンテラスの飲み屋。

気が付くと朝。

夏の怪飲!

人生の先輩と飲むことは大切ですね。

同世代でやるのもいいのですが、それだけでは枠がせばまってしまいます。

種々ご無礼あったかと思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

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「聖典の成立そのものが、すでに一つの神話である」。聖典を破壊するアレクサンダーは大嫌い

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 聖典というものは、マニの経典を除けば、どれも宗祖によって書かれたものではない。宗祖が語った言葉が、長い時を経て口承によって伝えられ、やがてそれらの言葉が集められ、つながれて文字に書きとめられるのである。仏教経典の成立の歴史をみても同じことがいえる。アヴェスターも、したがってゾロアスターの生きた時代からアケメネス朝ペルシア、アルサケス朝(パルティア)ペルシアに至る数世紀の時を経てできあがったものと考えられる。仏教でいう結集(けつじゅう)、つまり教説の集録が最初いつ行われたかはさだかではない。
 仏教では仏陀が涅槃に入ると数ヶ月後、弟子のマハーカーシャパが座長となって、口伝の仏説を聖典として編集する会議を行ったと伝えられている。これを第一回の結集として、クシャーナ朝のカニシカ王のもとカシミールで行われた後二世紀の第四回の結集まで、やはり数世紀(仏滅の年は前四八六年、前三八三年などとする説がある)を要している。
 聖典の成立そのものが、すでに一つの神話である。ゾロアスター教の場合には、伝承によれば、アヴェスター玄典はアフラ・マズダーによってつくられ、ゾロアスターによってウィーシュタースパ王のもとにもたらされたという。王は金文字で書かれた最初の写本を、ペルセポリスのイスタフルの「記録保管所」に贈ったというのである。ペルセポリスの「シャサピーカーンの宝蔵」には、豪華な写本が保存されていたという別伝があるが、同じものなのだろう。「シャサピーカーン」とはサトラプの宝蔵、つまり王家の宝蔵のことである。そして、もう一つの写本は金箔の板に刻印され、マラカンダ(サマルカンド)の拝火神殿の宝蔵の中に保存されていたという。この二つの原写本はその後も厳重に守られ、保管されてきたが、ペルセポリス所蔵の写本は、前三三〇年、「呪われしアレクサンドロス」が王都に火をかけたとき灰燼に帰し、サマルカンドの写本は落城の折に奪い去られたという。
 アレクサンドロスによるペルシアの席捲はゾロアスター教の信仰の力を弱め、つづくセレウコス朝とアルサケス朝による五百年間の支配は、ゾロアスター教にとっては沈黙と暗黒の時代であった。原聖典の大きな部分が失われたのもこの時代であったという。にもかかわらず、聖典のいくつかの部分が散り散りになった経典の中に生き残り、ある部分は祭司たちの記憶の中に口承のものとして保持されつづけたという。
    --前田耕作『宗祖ゾロアスター』ちくま学芸文庫、2003年。

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宗教学の仕込みのために、冒頭引用文献をひもとく宇治家参去ですが、読みつつ、本題とはずれる部分ですが、まあたしかにそうなんだよな、とひとり納得。

ひとつが、だいたいの高等宗教の聖典においては、宗祖による直筆文献とか、講演速記とかによって聖典そのものが成立したのではないという点です。

引用文献でもさらりと紹介されているとおり、釈尊の語りが最初に言語化されるは入滅の直後。有名な第一回目の仏典結集というやつです。しかしこれも伝承にすぎない。

キリスト教においても同じです。
史的イエスの肉声が録音され、テープ起こしされたものがそのまま聖典になったのでないことは、古典文献学の成果を待つまででもありません。

近代の洗練された旧約学・新約学の知らせるところでは、文書化されるのは、イエスの死の直後ではなく、数十年を経ないと文書化されていないのが事実。

そして様々な文書が作成される中で、どれを聖典にするのか、どれを偽典にするのかには数世紀の時間を要しております。これは仏教でも同じ。

だから「聖典というものは、マニの経典を除けば、どれも宗祖によって書かれたものではない。宗祖が語った言葉が、長い時を経て口承によって伝えられ、やがてそれらの言葉が集められ、つながれて文字に書きとめられるのである」というのは「アタリマエ」なんです。

そしてその消息を積み上げてくれる諸文献学の成果も「アタリマエ」なんです。

肉声中心主義・著者中心主義ではないところに、聖典が成立するという事情です。
※その意味ではすで伝統宗教・制度宗教となっている鎌倉系新仏教はイレギュラーでしょうけど。

その意味では……

The author should be the last man to talk about his work.

……っていう定型文はひとつの真理かもしれません。

肉声中心主義・著者中心主義のもつ「オッカムの剃刀」式な還元主義を全否定するわけでもありませんし、その大切さも承知です。しかしそれがすべてではないというのも事実なんでしょうねえ。

またそれを形式的批判に終始する「逸脱の美学」のポストモダニズムも、(あるとすればあるのでしょうか)そうした真理のまわりを空騒ぎして「しらけてみよーぜ」ってぼやきだけですから、「批判」というので意味はあるのでしょうが、人間の生き方の問題としては「糞の訳」にも立ちません。

さて……ずれました。

「アタリマエ」の話ばかり列挙してすいません。

さて……。
そこでひっかかるのがひとつ。

要するに文献学は、肉声を伝えていないことを証明する。
しかしそれに左右されないところに信仰が成立する。

それがだいたいにおける事実なんです。

これを信仰における人間の無知蒙昧に「還元」してしまうことは簡単です。
しかし、それですべてが説明できないからこそ、信仰が成立するのでしょう。

しかし、それがひっかかる問題ではありません。

学説受容における問題にすこしひっかかるところがあるんです。

諄いようですが、文献学の証左するところによれば、極端な意味では、すべての「素説が非説」というやつなんです。

そのタームとして有名なのがまあ、「大乗非仏説」という議論です。

たしかに「大乗非仏説」なんですよ。
はっきり言えば字義即して言えば、ハイ、そのまんまなんですよね。
だからどーしたっていうのが神学者のスタンス。
そして、おなじようにだからどーしたっていうのが聖書学者のスタンス。
※もちろんそーじゃないひともいるけどね。

先にもいったとおり、聖書の言説もイエスの肉声そのものを録音したのをそのままテープ起こししたわけではありません。口伝が後年文字化されていくというのがその筋道です。ですから極端な原理主義の立場をとらない限り、「まったく関係ねえ」っていうのは大人なんですわ。

さて……。

またずれてきたので戻ります。

まあ、この「大乗非仏説」というのは仏教文献における本文批評が進展されるなかであきらかにされた問題ですが、日本で紹介されたのが明治時代。

そしてその当時一時期センセーショナルな問題となったところ。

そこにひっかかるのがあるのです。

同じような問題の指摘は、富永仲基(1715-1746)が江戸時代に既に「加上説」として批判しているのですが、センセーショナルになってしまうことはなかったんです。

それが外来の文物として新しく来てしまうと、

「うぁーっ」

……ってなってしまう。
信仰まで揺らいでしまう。

そのへんの浅はかさというのでしょうか。
ありがたさ感覚というのでしょうか。
霊性に冷静に考えれば、「だから……?」ってところなんですけど。

結局、宗教がそのひとの生き方の問題となっていない精神風土だからそうなってしまうのでしょうか……orz

仏教の場合、数回の結集を経て言語化=文書化されていくのですけど、もともとインドでは文書コトバよりも口伝こそ秘儀とされる文化ですし、大部のマハーバーラタなんかもすべて口伝でつたわり文書化されたもの、その文化でやるわけですから……。

また、旧約聖書なんかは最初期のものから最後期のものにいたるまで成立には、数百年を要しているし、様々な文書が聖典化される経緯には数世紀を要しておりますし……。

いやだからまさに「なによ」ってところ。

ついでに蛇足でいえば、だからワタシは、そうした文化財を「灰燼に帰してしまう」連中が大嫌い。

あとで困るんだよ、コレ。

だからアレクサンドロス(Alexander the Great,Αλέξανδρος ο Μέγας B.C.356-B.C323)も大嫌い。

疲れた。

寝る。

今日は楽しい飲み会なんでねえ~。

いししし。

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気の抜けた炭酸飲料、ヤスモンのインスタントコーヒーのようなバッタモン

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すいません。

実際のところ何気に調子が悪くorzで、細君曰く夏風邪だろうに……ということですが、そのままスルーもできず、アルコール消毒をと思い立ち、冷蔵庫を開けるとビールを冷やすことを忘れておりました。

十分ほど冷凍庫で冷やしましたが、ほんのり暖かいのよね。

だからオン・ザ・ロックではじめました。

気の抜けた炭酸飲料、ヤスモンのインスタントコーヒーのようなバッタモン臭全開ですが、アルコール消毒をやりますと、躰が万全にもどるのが不思議です。

今日はわすれずに冷やしておかないと……。

暑い日がつづきますからねぇ。

ホント、疲れます。

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公正か公正でないかは、組織がこうした事実をどのように扱うかによって決まる

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 社会制度の秩序につねに欠陥があるのは、生まれつきの才能も違えば周囲の環境も違うという事態が不公正だからであり、この不公正さが人びとの境遇に必然的に引き継がれてしまうからである、という主張がある。だが、こうした主張を受け入れるべきではない。このような考え方は、折に触れて不正を見逃す口実となっている。まるで不正を是認するのを拒むのは、死を受け入れられないのと同じことだとでもいうように。自然による分配は公正でも不公正でもない。人が社会の特定の場所に生まれることも同じだ。どちらも自然の事実にすぎない。公正か公正でないかは、組織がこうした事実をどのように扱うかによって決まる。
    --ジョン・ロールズ(矢島鈞次監訳)『正義論』紀伊國屋書店、1979年。

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ロールズ(John Rawls,1921-2002)の『正義論』(A Theory of Justice,1971)が新訳で再刊されるということで、手元の旧訳をひもとく宇治家参去です。

原本と照らし合わせながら、むかーし、いっぺん読んでおります。
たしかにいい訳とは言い難い旧訳だったことは否定できません。

ならば要するに原典だけですませればいいじゃん、というのがスジですが、それでも新しい翻訳に少し期待☆。

ただし8000円程度の価格の予定……にてorz。

自分ひとりで読む分には、英文で問題ないのですが、授業で紹介したりする際には、翻訳文献の引用・コピーが必要になりますので・・・、買うべきか買わざるべきか。

甚だしく悩むというところ。

まさに。公正か不公正か!という議論ではありませんが、買うことが公正になるのか、それとも不公正になるのかといった場合、長いスパンで見るならば買っておくべきなのでしょうが……、研究費一切合切が基本、自腹というのが非常勤講師の乙なところ。

ん~。

飲む酒の量を減らして買うか。

……いや、それはできない。

ま、いずれにしても「公正か公正でないかは、ワタシがこうした事実をどのように扱うかによって決まる」というところか!

02 03

ロールズ―『正義論』とその批判者たち Book ロールズ―『正義論』とその批判者たち

著者:チャンドラン クカサス,フィリップ ペティット
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ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしていることもあった。

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 宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるにはしごく便利な地位を占めていた。
 私は毎日海へはいりに出かけた。古いくすぶり返った藁葺の間を通り抜けて磯へおりると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしていることもあった。そのなかに知った人を一人ももたない私は、こういうにぎやかな景色の中につつまれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たして、そこいらをはね回るのは愉快であった。
    --夏目漱石『こころ』岩波文庫、1989年。

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夏と言えば海!

……というわけですが、夏と言えば漱石・夏目金之助(1867-1916)の『こころ』の冒頭部分が、まっさきにあたまに浮かんでくる宇治家参去です。

ちょうど先生と私が鎌倉の海水浴場で出会うというくだりです。

平成の現在ならともかく、明治大正の治世においても「ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしていることもあった」のかと思うと、海水浴に出かけるとは、たしかに生ぬるい銭湯へ大枚はたいて出かけるようなものかもしれません。

幸い、息子殿は、先月末から細君の実家……といっても宇治家参去と同郷ですけれども……に帰省しておりますので、「銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている」海へ同道することはないのですが、そういえば、自分自身もだいぶんに海には=海水浴に、行っていないなあと思う八月です。

伊東に別荘を持っている知人と、夏になれば出かけたものですが、結婚してから疎遠になったなあと感慨するわけですが、まあ、海に行かなくても、漱石の『こころ』をひもとけばその「臭い」は脳内インスピレーションによって獲得すればすみますので、ひとつここは再読!ということで、飲みながらゆっくりと『こころ』を読んでいる深夜です。

さて……。
なかなか現在の仕事環境(非常勤講師+GMS.Mgr)では、フツー人のような休みが取れませんので、息子殿のためのフツーな環境が準備できず、息子殿および関係各位に対しては非常に恐縮なのですが、ちかいうちに、この環境を脱して、フツー人の「ニッポンの夏」を演出できるような親になる必要があるんだよな~と思いつつ、そうなってしまうと、それはそれで「大変なんだよなア」というジレンマです。

まあ。
いずれにしても八月は始まったばかり。

おおいに夏を楽しみましょうゼ。

……ということで、、「大吟醸 夢おぼろ」(橋本酒造株式会社、石川県)。
学生さまから頂戴したおちゃけですが、、、

いやー、これはばやい。

感覚が「夢おぼろ」になってしまう大吟醸。

味わいがフルーティー。

一万円未満のワインでは敵いません!

02 03

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果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん

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 博学之、審問之、慎思之、明弁之、篤行之、有弗学、学之弗能弗措也、問之弗知弗措也、有弗思、思之弗得弗措也、有弗弁、弁之弗明弗措也、有弗行、行之弗篤弗措也、人一能之己百之、人十能之己千之、果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強、    (以上、朱子章句第二十章)

 博くこれを学び、審らかにこれを問い、慎みてこれを思い、明らかにしてこれを弁じ、篤くこれを行う。学ばざることあれば、これを学びて能くせざれば措かざるなり。問わざることあれば、これを問いて知らざれば措かざるなり。思わざることあれば、これを思いて得ざれば措かざるなり。弁ぜざることあれば、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行わざることあれば、これを行ないて篤からざれば措かざるなり。人一たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。人十たびしてこれを能くすれば、己れはこれを干たびす。果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。

 何事でもひろく学んで知識をひろめ、くわしく綿密に質問し、慎重にわが身について考え、明確に分析にして判断し、ていねいにゆきとどいた実行をする。〔それが誠を実現しようとつとめる人のすることだ。〕まだ学んでいないことがあれば、それを学んでじゅうぶんになるまで決してやめない。まだ質問していないことがあれば、それを思索してなっとくするまで決してやめない。まだ分析していないことがあれば、それを分析して明確になるまで決してやめない。まだ実行していないことがあれば、それを実行してじゅうぶんにゆきとどくまで決してやめない。他人が一の力でできるとしたら、自分はそれに百倍の力をそそぎ、他人が十の力でできるとしたら、自分は千の力を出す。もしほんとうにそうしたやり方ができたなら、たとい愚かな者でも必ず賢明になり、たとい軟弱な者でも必ずしっかりした強者になるであろう。
    --「中庸」第11章二、金谷治訳注『大学・中庸』岩波文庫、2001年。

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今日は休みなのですが、まったく勉強をしておりません。

まあ、たまにはこんな一日が必要です。

しかし、また学問と生活と格闘する一日が明日から始まりますので、『中庸』なんぞを紐解くわけですが、まあ、学問というものは、「ていねいにゆきとどいた実行をする」ことによって自分自身を育てていくことなんだよなアとひとり納得。

夕方少し散歩をしつつ、帰宅しますと、7月から育てているゴーヤがいい感じで大きくなってきております。

そういえば、ものの大きさを比べる際に、そのもののよこにサイズ比較で煙草の箱がおかれていた図式をむかしはよく見かけたものですが、最近ではとんとお目にかかることがめっきりへりました。これも健康増進云々かんぬんの所為でしょうか。

ま、さておき、このゴーヤが育っていくように、我が身も育てていきたいものです。

日中は何も学問をやらなかったのですが、さてぼちぼち、開始しましょうか!

「果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん」ですから。

さて……。昨夜はひさしぶりに宅飲ですが鯨飲。

こりない人間ですので、今晩も鯨飲。

その御馳走目指してがんばるか。

02 03

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自分の計画をみずから選ぶ者は、あらゆる能力を駆使する。

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 人間の能力は、知覚、判断力、識別感覚、知的活動、さらには道徳的な評価さえも、何かを選ぶことによってのみ発揮される。何事もそれが習慣だからという理由で行う人は、何も選ばない。最善のものを識別することにも、希求することにも習熟しない。知性や特性は、筋力と同じで、使うことによってしか鍛えられない……世間や身近な人びとに自分の人生の計画を選んでもらう者は、猿のような物真似の能力があれば、それ以上の能力は必要ない。自分の計画をみずから選ぶ者は、あらゆる能力を駆使する。
    --ジョン・スチュアート・ミル(山岡洋一訳)『自由論』光文社古典新訳文庫、2006年。

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1人を殺すか、それとも5人を殺すかを選ぶしかない状況におかれたとき、1人を殺すのを選ぶことを正当化するのが功利主義の立場です。計算可能性によって条件を整理していけば判断は正しさに近づいていく……。

しかしそんな選択なんて許されない……どこかで何かがひっかかる。

そこが功利主義の限界なのでしょう。

このところ、ベンサム(Jeremy Bentham,1748-1832)とミル(John Stuart Mill,1806-1873)を交互に読み比べているのですが、前者は功利主義を樹立し、後者が展開させたというのが思想史における教科書的評価です。

しかし、丁寧に読んでみるとそれだけで済まされる問題でもないってことが、「どこかで何かがひっかかる」ようにしこりとしてのこってしまいます。

確かに前者は「計算可能性」によって、人間の正しい判断とその全体化への道を拓いたことは否定できませんが、丹念に読み直すと後者はそれを展開するというよりも最終的にはご破算にしてしまった……そんな読後感がどうしてものこってしまいます。

功利主義はあらゆる価値を単一の尺度に還元してしまうという効用原理をその主軸と起きます。効用原理を否定することはできません。

計算化された効用によって人間は判断するわけですから。

まあ、卑俗な日常語でいえば、「損か得か」って行動原理です。

しかし、それで全てを説明することも不可能なんです。

それが「どこかで何かがひっかる」しこりというやつなのでしょう。

ですから、ミルは、最終的には、行動と結果がだけを問題する「効用原理」を乗り越えて……全否定するわけではありませんが……、人格とか徳を持ち出してしまう。効用を超えた道徳的理想といってよいでしょう。

効用を否定することはできないんですが、「それだけではない」人格とか徳というものもやはり必要不可欠であることを、明記しているんですね。

その意味では、ミルはベンサムの完成者というよりも、最終的には否定といったほうがよいのかもしれません。

さて……。

暑い一日が終わり、ぼちぼち日報をしあげて、市井の職場を「けえるか」……って思った矢先、

「正面入り口でお客様同士が口論しているんですが……」

……って通報あり。

正直「やっかいな」……って思いつつ現場へ急行すると、

若い兄ちゃんが壮健な老人に罵詈雑言を一方的にたれているわけですが、

話を聞くと、

「肩があたった」とかなんとやら。

たしかに「計算可能性」によって導かれる「効用原理」に従うならば「不毛な論争」という好事例。

面倒なので、かみついているニイチャンに、

「では、出るところに一緒にでましょうか」

……って声をかけると、

「あんだテメー」

……ってすごんでから、カートを蹴飛ばしてそそくさと退場してくださいました。
まあ、これは「計算可能性」によって導かれる「効用原理」に従って都合が悪いとさとって自ら退場していったというところでしょう。

結局の所、すべてをひとつの原理によって証明することはできないということを痛感しつつ、人間は都合の良いところだけ「計算可能性」によって導かれる「効用原理」に従って行動しているんだなあ……と痛感した深夜です。

まあ、だからこそ、対他的に依存する自称ではない、「人格」とかそのへんを叮寧につくっていくしかないんだよなあ~ひとり自覚した次第です。

……ということで今日は久しぶり……一週間以上ぶり?……に日本酒をやっております。

「越の影虎 龍」(諸橋酒造株式会社、新潟県)。

晩酌用の普通酒ですが、やはり新潟の酒。

決して高いものではありませんが、それなりに旨い。

細君が毎月1本買ってくれるのですが、今月は四合瓶ではなく、一升瓶でした。

ありがたい。

ここにはまさに「計算可能性」によって導かれる「効用原理」は働いていないのだろう。

いや、実は深く働いていたりして……???

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