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作業用【覚え書】あなたは善人の側に立つて、私は悪人の側に立つて一つ物を看てゐるのぢやないかと思ひます

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5 人間の改善可能性についての楽観主義
 吉野は帝大在学中に、海老名を知り、三つの契機から海老名の自由寛容な人格とキリスト教の神を合理的・人格的に捉える自由主義的・歴史主義的神学思想を学びとった。そこから吉野は、学問の科学的・歴史的解釈の方法を身につけ、宗教と科学が調和することを会得し、キリスト教的人格主義を基盤とする確固たる宗教信念を培い、その人生観・社会観の骨格が形成されたのである。核となるのは、海老名独自のキリスト教信仰である「神子の意識の宗教」の感化であり、なかでも「人はすべて神の子」であると四海同胞のキリスト教精神と「人格主義」、さらに「人格の無限向上」が主要な要素である。
 まず吉野も海老名と同様にすべての人間のうちに神性を認め、それゆえに人間に対する信頼があつい。吉野が谷崎潤一郎の小説「或る調書の一節」に寄せた読後感はその消息を物語っている。谷崎の短編小説は、前科八犯でさらに二件の殺人および強姦殺人を重ね法廷に立つ犯罪者を主人公として、平素は主人公に虐待されている妻が主人公から犯罪の事実をうち明けられ、主人公の魂に挑戦し、これを動かしていく過程を描写した作品である。

 小説の表面には女房は痛々しく弱々しく描かれている。併し彼女の魂の前には凶暴な主人公も結局頭は上がらなかつた。外面でこそいじめさいなんでは居るが、内部では無限の信頼を寄せ又無限の同情を求めたのであつた。あんな凶悪なる男から頼まれ縋られる魂は、一体神の外にあり得るものだらうか。而も女房は平凡な無知の一匹婦である「神様や仏様なんてものは本当にあるのかしら」などゝふだんは云つてゐる。普通平凡な人間の裡にも相手に依ては斯んな神々しい聖熱が起こるといふ所に人生のおもしろさを観るべきではないか。……私は斯くの如き魂を我々人間の裡に与へ給ふた神に感謝する共に、又谷崎氏にも満腔の敬意を表するものである(29)。

 吉野はこの読後感を谷崎に送ったが、谷崎は次のような返書を吉野に送っている。

 私は決して貴方の尊敬に値するほど爾く徹底した人生観を得ても居なければ、又あの女房の人格を徹して輝くところの神の愛に対して、まだ心から信仰を捧げることが出来ずに居るのです。私はあの作品の主人公Bと同じやうな悪い人間です。……あなたはあの作品の中に人生の明るい方面を認めて下さいました。しかし私は中々明るい気持にはなれません。遠くの方にほんの少しの光明が見えながら、それが決して自分には掴めるものではないのを知るだけに、却つて尚更くらい重苦しい気分になるばかりなのです。これは私の書き方が足りないからでもありませうが、寧ろそれよりあなたと私との態度の相違から来るのだと思ひます。あなたは善人の側に立つて、私は悪人の側に立つて一つ物を看てゐるのぢやないかと思ひます(30)。

谷崎の返信は谷崎自身の立場を語ると共に、吉野の立場も語っている。民本主義理論の確立もこうした吉野の人間観、すなわち「人はすべて神の子である。生れ乍らにして神の心を体得して居るものである」(31)という確信が前提となっている。
 人格に関しても、「人格中心主義」(32)では、世界的精神であるキリスト教精神が社会の人間関係においては、「人格」として発現するとして、「人格は一切万事の根本である。中心生命である」と吉野は説く。「人格」とは修養を積み、教養と品格をもち、他者に寛容な態度で接し、正義の心をもった人間性だと定義する。さらに海老名は「予が人格観」(33)において、政治活動をする人間は、理性的道徳的に優れたものでなければならないと説いたが、吉野も同様に、政治に関わる人間には「人格相互の信認」(34)が必要であり、政治の指導者は「人格者」であるべきだと主張した。
 更に人格は静的状態で留まることなく無限に発展向上する。

 人間は一面に於て自然的生物であると共に他面に於て実に特殊の霊的生物である。彼は自然的生物としては進化の法則に支配され……種々の外的環境の影響を受くるは勿論だが、こは人間の人間たる本来の稟質ではない。而して霊的生物としての本来の稟質は、之に適当な機会さへ与ふれば、無限に発展向上して熄まざるものである。此点に於て彼は殆ど自然的科学的進化法則の支配を受けない(35)。

 人間の改善可能性に関するこうした楽観主義は、人はすべて「神子」であるという海老名‐吉野の信念に基づいている。吉野の人間観は従来より「キリスト教思想による楽天的・肯定的人生観」とのみ評されることが多いが、正確には、人間の人格・神子意識の善性を強調する海老名のキリスト教理解に基づく楽天的・肯定的人生観、「人間の改善可能性についての楽観主義」と表現した方が適切であろう。
 ついでながら、人間の無限向上を信じたがゆえに、海老名、吉野は社会改良に関わる積極的な発言を繰り返したが、海老名と神学的対立関係にあった植村正久は福音主義論争後、社会問題・思想状況に関する発言をほとんどしなくなる。前者が教会の枠を超え積極的に社会に関わろうとしたのに対し、後者が教会形成に専念し「後退」していった経緯は対照的である。キリスト教と社会的活動との関係は単純ではないが、植村の立場は、各信徒の救いの問題や教会形成こそ宗教の使命、第一義として活動に専念にしたのに対し、海老名・吉野は、宗教は必然的に社会的活動をともなうものであり、キリスト教の真理が教会という枠に閉じこめられることなく、広く社会に「雄飛」することこそ望ましいと考えたが故に、教会形成に限られない幅広い活動が展開されたように思われる。

(29)吉野作造「魂の共感‐‐谷崎潤一郎氏作の〈或る調書の一節〉読後感」、『文化生活』一九二二年一月、三月。
(30)右に同じ。
(31)吉野作造「社会主義と基督教」、『新人』一九〇五年九月。
(32)吉野作造「人格中心主義」、『基督教世界』一九一三年一二月一一日。
(33)海老名弾正「予が人格観」、『新人』一九〇三年一一月。
(34)吉野作造「政党進化論」、『新人』一九〇四年四月。
(35)吉野作造「偶感」、『新人』一九二三年五月。
    --拙論、「吉野作造の人間観--海老名弾正の神子観の受容をめぐって--」、『東洋哲学研究所紀要』第20号、2004年12月、東洋哲学研究所。

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