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「主体性という非場所が定位される場所」から、まあ、挑戦していこうではないか!

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 時間系列にそって遙かな過去に向かう直線的退行行動ないし逆照は、記憶によっても歴史によっても回収することのできない起源以前のもの、絶対的に隔時的な起源以前のものには決して達しえないだろう。とはいえ、諸現在の単なる継起とは異なる時間の筋立てを解いて解明するという責務が可能になる場合もないわけではない。だからこそ、人間たちは自分が感謝しうる状態にあることそれ自体に対してあらかじめ感謝しえるのだ。現在の感謝は、あたかもそれに先だつ感謝と結びつくかのように自分自身と結びつく。祈りつつ、信者たちは祈りが聞き届けられることを強く望む。つまり、祈りはそれ自身に先だつもの、あるいはそれ自身に後続するものなのだ。
 ただ、現在の秩序に属さないがゆえに、一切の現在、一切の再現可能なものに先だつような過去との関係は、他人たちの過ちないし不幸に対する私の責任という異常で、かつ日常的な出来事のうちに内包されている。他者の自由に対して責任を負うた私の責任のうちに、人間同士の驚くべき兄弟関係(フラテルニテ)のうちに内包されている。兄弟関係は、分離された存在同士の責任を声高に訴える。なぜこのような兄弟関係に「驚くべき」という語を付したかというと、カインのあの淡々とした冷酷さをもとに考えられている限り、兄弟関係といえどもこの責任を自力で解き明かすことはできないからだ。他者の自由が私の自由のうちで始まることは決してないであろう。言い換えるなら、他者の自由と私の自由が同じ一つの現在のうちにとどまり、同じ時間を共有するなどということは決してありえないであろう。他者の自由は私が再現し表象しうるものではありえないのだ。他者に対する責任が、私の約束のうちで、私の決意のうちで始まったということもありえない。そうではなく、私の自由の手前から、「一切の-思い出-以前」から、「一切の-完成-のあと」から、非現在たる最たるものから、起源ならざるものから、起源を欠いたものから、存在することの手前ないし彼方から、私に課せられる果てなき責任は到来するのだ。他者に対する責任とは、主体性という非場所が定位される場所であり、「どこ」という問いの特権が失われる場所である。そこでは、語られたことならびに存在することの時間は起源以前の語ることを仄めかし、超越に、隔時性に、閉じざる隔たりに応答する。ここに口を開けた隔たり、それは非現在と再現可能な一切の隔たりとのあいだの隔たりである。ただし、再現可能な隔たりも、それなりの仕方--この仕方を明らかにせねばならないのだが--で、有責者に対して合図を送ってはいる。
    --E.レヴィナス(合田正人訳)『存在の彼方へ』講談社学術文庫、1999年。

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4日間、夏期スクーリング(集中講義)での『倫理学』講義のために、家人を放置プレイにしておりましたので、さすがにマズイだろう……ということで、昨夜はスパッと鮨やへいってきました。

まあ、今回に限らず、夏期、秋期の集中講義の場合も、出張を伴う地方でやる場合も、家人を放置してしまいますので、おわるとだいたいその「埋め合わせ」というのをやるのですが、「埋め合わせ」で終わらせてしまうとすれば、それほど不幸なことはありません。

ですから形式としてそのような所作を遂行するのだとしても、お互いに楽しまなければソンですし、義務としての「家族サービス」を遂行するのも、本末転倒な気がしますので、自分も楽しんだ次第ですが、久しぶり喰らった「米」はたいへん、おいしゅうございました。

なにしろ、講義の4日間の間、「米」は呑んでいるのですが、リアルな「米」を食べた思い出といえば、コンビニおにぎり2個だけでしたので、お鮨の「魚」もさることながら、「米」のうまさを実感したという次第です。

かるく板長おすすめの三貫にぎり(目鯛・かんぱち・すずき)ではじめ、まずはプレミアムモルツw

行きつけの「魚屋路」ですが、なにしろ24日まではプレミアムモルツが平日半額ですので、がっつりやりつつ、

うなぎ、生しらす、ひらめ、等々……と格闘。

米は食べても米が呑みたいということで、澤乃井の大辛口、八海山なんかをまわしつつ、やはり今回一番のヒットは、生マグロの中トロと季節には少し早いのですがすずきというところでしょうか。

マグロはきらいぎゃないのですが、大トロになると、旨いのは旨いのですが少々脂がくどくなる。解凍マグロでやると匂いが気になる。

久しぶりに生マグロで頂きましたが、適度な脂ののり具合で、さっぱりとしていつつも口蓋でとろける旨みに舌鼓。

すずきは秋の「落ちすずき」が一番旨いとは思いますので、この季節にやるには少々フライング気味でしたが、それでもものがいいのでしょうか?(大阪産)、引き締まりつつその締まり具合から横溢する滋養に驚いた次第です。

細君も息子殿も喜んでくれましたので、まあよかったのではないかと。

さて……。
私淑するレヴィナス老師(Emmanuel Lévinas,1906-1995)が指摘するとおり、人間の存在様態における様々な言説・所作というものは「諸現在の単なる継起とは異なる時間の筋立てを解いて解明するという責務が可能になる場合もないわけではない」し、どちらかといえば不可能になる場合が殆どです。

しかし、「だからこそ、人間たちは自分が感謝しうる状態にあることそれ自体に対してあらかじめ感謝しえるのだ。現在の感謝は、あたかもそれに先だつ感謝と結びつくかのように自分自身と結びつく。祈りつつ、信者たちは祈りが聞き届けられることを強く望む。つまり、祈りはそれ自身に先だつもの、あるいはそれ自身に後続するものなのだ」とすれば、そこへ抗う挑戦、すなわち「現在の感謝」と「それに先だつ感謝」とをつなぐ「祈り」としての挑戦は無益でもない。

むしろ「先立つ」ものと「後続」するものを繋ぐ翠点なのだと深く理解しつつ……。

チト食べ過ぎたようでございます。

さて、今日からいよいよ市井の仕事も再開です。

さきほど、夏期スクの採点は終了しましたが、夏期スク期間に送られてきたレポートの山が未着手!

ただし、何がどうというわけではありませんが、これが嬉しいのよね!

他者に対する責任とは、「私の自由の手前から、『一切の-思い出-以前』から、『一切の-完成-のあと』から、非現在たる最たるものから、起源ならざるものから、起源を欠いたものから、存在することの手前ないし彼方から、私に課せられる果てなき責任は到来する」わけですから、その「主体性という非場所が定位される場所」から、まあ、挑戦していこうではないか!

つまり「夢の教室」ではなく「現実の教室」からやっていこう!

と思うわけですが・・・、外は灼熱地獄でございまして・・・、夕刻からとはいえ、仕事へ出かけるのがチトツライ宇治家参去です。

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著者:エマニュエル・レヴィナス
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