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隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のこと

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 レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかしそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります。この領域において他者は、はじめて、たとえ彼が異邦人であろうと、私がその人を愛し、意志を通じ合わせるべき隣人となります。使徒パウロによって明らかにされ、S・キェルケゴールの鋭い神学的精神によって解釈されましたように、キリスト教の第二の戒めとしてのこの愛こそが、社会内部に根源的な共同体精神を創造し、カントやロールズの無味乾燥で貧弱な主体を内容で満たし、他者を、異邦人ではなく、親しい人格と化すのです。この考えによりますと、愛は絶対的な善ですが、それだけではなく、具体的に要求されるものでもあります。そして、これの無前提の選好だけが、個人の倫理的統合を保証しうるのです。ところでしかし(他のひとが私に対して正義として押しつけてくるそれをも含めて)、この要求を認めるということは、同時に、この条件が、他のなにをさしおいても、談話の世界にほかならないところの、共同体の領域における個人相互の出会いと意志疎通を通じて課せられるのでなければならない、ということを明らかにいたします。
 正義と愛のあいだの関係が、このようなものとして考えられるならば、いかなる点で正義のリベラルな考え方が不足しており、個人についての共同体第一主義的見方がいかなる点でゆきすぎているかを、洞察することができます。
 さて、正義と倫理の関係をめぐる問題は、ひとつの新たな次元を獲得いたします。現代人は、テクノロジーや非人間的で抑圧的な国家権力に対する反動として、自分の優越性または優先性を確証したがる(同一性論理の勝利を讃え、それに基礎づけを与える)傾向があるようですが、それと同時に、みずからの解体と疎外を、間接的で技術的なコミュニケーションを通じて乗り越えようともしております。こうした場面におきましては、わたしたちが実存的・社会的にコミュニケートすべき他者なるものは、本来的人格ではなく、同一性論理に支配された仮面であるにすぎません。テクノロジーによって急速に変貌し、ホロコーストによる真の脅威にさらされることによって、正義が第一の戒めとならざるをえないこの世界にありましては、「私が愛さねばならぬ隣人、それは、いったい誰のことか?」という問いは、いささか逆説的な響きをもちます。けれども、その問いは、思想的にも現実的にも、その重大性において低く見積もられるべきものではないのです。
 何故ならば、隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります。彼は、ホメーロスの世界の貧者、漂泊の乞食であり、福音書にいう富める者です。彼は、「正義のおこなわれる」「法治」国家で盗賊に出会うひとびと、支えてやるのが私の義務であるひとびとです。彼は、「豊かな社会」における貧しき者・富める者であり、アフリカやインドで飢餓に苦しむ人々です。こうして、私の隣人で現にあり・あるであろう、多くの人々が存在するのです。ですから、社会科学や政治科学その他の諸科学は、これまで未解決であった社会問題を解決できる方法や方策やテクニックを発見・応用することによって生活の万端においてあらわれてくる正義への要求に応え、これがひろく普及するよう努力を積み重ねなければなりませんが、それらの努力は、共同体、社会、国家のなかでわたしたちすべてが使える目標が見失われないようにと援助する、哲学的・理論的考察と別個のものとされてはならないのです。
    --K・I・ブドゥリス(山川偉也訳)「正義と倫理」、『正義・愛・政治』勁草書房、1991年。

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どうも宇治家参去です。

金曜から細君も帰省してひとりぐらしを満喫しておりましたがいよいよ本日・水曜日夕刻に、東京へもどるということで、すこしため息をはいている最中です。

別に還ってきてもらうことが悪いわけではなく、歓迎してしかるべきなのですが、歓迎するためには、その「仕込み」という奴が必要です。

はい、掃除というやつです。

ひとりで結局の所、手近なところに何でもおく。

PCもそのへんへ、本も書類もそのへんへ……。

これが積み重なっていきますと、短い時間であったとしても結構、散らかっているわけでして……、このまま歓迎することが不可能です。

ですので、夕方までには何とかしたいとは思うのですが、何しろ木曜日からは夏期スクーリングの開始で授業の仕込みもある。

そして、失念していたのですが、某大学の教員公募の締切が8/20ということなのですが、書類をまったく準備していなかった……というのもあり頭を抱える次第です。

市井の仕事は水曜から休みを入れているので大丈夫なのですが、

「はあぁ」

……というところ。

ただ現代ギリシアの哲学者ブドゥリス(Konstantinos Ioannis Boudouris,1935-)によれば、「隣人とは、端的に、ただそのひとが、ひとりの人間として存在するというだけの理由によって、私がなにものかを負うている者のことだからです。彼は、私の傍らにいます。が、しかし、私からはるかに離れたところにいる者でもあります」から、私が「なにものか負うている」者=細君、息子殿が帰還されるわけですので、なんとかしないといけません。

ただ幸いなのはまだ時間があるし、目下「私からはるかに離れたところにいる者」でもありますから、なんとかなるべ……と思うと同時に、もうひとつ。

「レヴィナスによれば、個人は談話(discourse)の領域において互いに出会うわけですが、しかしそれと同時に、彼らの人格の基底をなすものは、還元しがたいままにとどまります」という指摘もありますので、万が一、掃除ができず、東京へ戻ってきたとしても「談話(discourse)」によってなんとかなるのでは……?

などと思うのですが、どうでしょうか。

さて、書類作成は2/3が終わったので起きてからしあげます。

授業の準備は最終手入れだけなので、目処が立ちそう。

しかし掃除はまったく目処がたっていない!

しかし……なあ。

「負うている」こともわかるのですが、「談話(discourse)」によってなんとかならないかしら???

……と思いつつ、既に飲酒中。

久しぶりに肉豆腐を作ってみました☆

深夜にそんなものをこしらえる時間があれば掃除をしろ!

……ってつっこまれそうですが、これはこれで大事なんです。

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