【覚え書】R.タゴール(森本達雄訳)「第十三章 精神の自由」、『人間の宗教』第三文明社レグルス文庫、1996年。
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世界は知識や知性との関係をとおして自分と一つになるのだということに気づかずに、この世界の歩みを誤解したまま育てられている人たちは、意地悪く不意打ちをくらわせる運命の定めにたいする絶望的な信仰に飼いならされて、すっかり臆病者になっている。そして彼らは、人間としての権利が拒否されるときにも、なんらの抵抗もこころみることなく、諾々として従うのである--なぜなら、彼らは人知のおよばぬ驚異的な事件をたえず人間におしつけてくるこの世にあって、自分はどうせ生まれながらに権利を奪われた村八分(アウトロー)だと考えることになれっこになっているからである。
社会や政治の分野においてもまた、自由の欠如は、ほかならぬ疎外感に、すなわち一つなるものを完全に実感していないことに由来する。そこでは、われわれは団結という歪められた鎖でつながれているのである。関係者の絆はすべて他人への義務をともなうものであるから、仲間から首尾よく自分を切り離した個人が真の自由に到達できると、人は考えるかもしれない。しかし、このような言い方は逆説的に聞こえるかもしれないが、ほんとうは、人間の世界にあっては相互依存を完全に実施して、はじめて自由がもたらされることをわれわれは知っている。責任をもたない人間の身勝手さの最たるものは、それぞれに完全に自己を表現できないでいる野蛮人である。彼らは、ちょうど煙に包まれてくすぶっている火つきの悪い薪のように、薄暗い不明のなかにどっぷりつかっているのだ。相互理解と協調を身につける能力(ちから)をもつ者だけが、薄暗い生の隔離状態から我が身を解き放って自由になれるのである。自由への発展の歴史は、すなわち、人間関係の完成の歴史である。
存在することは悪である、このように言うことができるとすれば、それはひとえに、われわれが己の無明ゆえに、どこかわれわれの存在の真実のありどころを見失ったからである。もし鳥が片方の翼だけで空高く舞いあがろうとするなら、鳥は風にさえぎられて、地面に叩きつけられるだろう。破壊された真実はすべて悪である。そればかりかそれらは、自分が与えられもしないものを、なにかありそうにほのめかすゆえに、有害でさえある。死はわれわれを害することはないが、病気は害する。なぜなら、病気はいつもわれわれに健康のことを思い出させるが、それでいて健康を阻止するからである。こうして未熟な世界での生は、それが明らかに不完全であるのに完成物を装うがゆえに有害である--それはわれわれにコップは与えるが、生命(いのち)の甘露は与えてくれない。すべての悲劇は、未完の部分をそのまま残している真実から生じて、完成までの周期(サイクル)が完了していないことにある。個人(ひと)が普遍的なものを実感して、自由に到達するとき、その周期は終わるのである。
しかしながら、この自由は、見かけの真実のなかにではなく、真実そのもののなかにあるのだから、結果が欲しいばかりにむやみに切り拓いた成功への近道は、どれもみなほんとうの道とはなりえない。
--R.タゴール(森本達雄訳)「第十三章 精神の自由」、『人間の宗教』第三文明社レグルス文庫、1996年。
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ちょいと疲れ果てまして……。
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